原因は根深い「英語コンプレクス」

 なぜこのような事態が生じたのだろう。
原因として思い浮かぶのは、私たちが長らく抱えてきた「英語コンプレクス」の根深さだ。
それは西洋文明に対する過度の「憧れ」と、その反動としての「反発」に由来する。
今回も政治家や国立大学協会の幹部など、責任ある地位にある人が
「制度にはいろいろ問題があるが理念はまちがっていない」
との発言を繰り返した。
果たしてそうだろうか。
彼らはその理念をほんとうに精査したのか。
 民間試験の推進派が拠り所にしていたのは
「これまでは2技能、これからは4技能」
との看板だけだ。
予想されるデメリットには一切触れていない。
耳に心地の良いところだけ聞かせる、いわゆる「バラ色商法」である。
運用面の数え切れない課題もはじめからわかっていたのに、
それらを隠蔽し、その挙げ句のこの混乱である。
はじめから「民間試験ありき」で進められた利権誘導の政策だと言われても仕方ないだろう。
 そもそも学校の授業時間や教員や生徒の能力が同じなのに、
なぜテストを4技能型にするだけで、「2技能」→「4技能」と能力の数が純増になるのか。
中等教育の英語では2とか4などには区分できない共通の部分こそが大事。
このような「みせかけ4技能主義」にこだわったら、
これまで何とか身についていたコアとなる英語の能力がわりを喰うだけである。
 また「4技能型」は斬新なシステムのように謳われているが、
実際には今までなかった「話すこと」のテストを入れるくらいしか目新しさはない。
しかし、まさにこのスピーキングテストにさまざまな問題があることも
早くから指摘されてきた。
このテストをやれば「英語ぺらぺら」になるというのはまったくの幻想だ。
しかし、入試民営化はこの誤った幻想を支えにして進められてきた。
政治家や国大協の幹部の「理念はまちがっていないのだから……」発言の背後には、
この根深い「しゃべれないコンプレクス」があった。