懐かしの天北線
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
東京都の御岳にある音威子府そばを検索した。
近いうちに一度行く計画。 >>468
住所は御岳本町だが駅名は御嶽駅だからな
間違えずにちゃんと降りろよ 音威子府TOKYO
東京都新宿区舟町3-6 今塚ビル 1F >>469
大丈夫でやんす。御嶽は先祖の墓がある場所でやんすから
しょっちゅう行っているだす。
単純にド素人だから誤変換でやんす。 88年3月の復刻時刻表を購入。
天北線健在確認。胸熱。 14系化前の天北にも乗ったが、薄暗くて混雑してて苦痛だった。北海道は都市間距離が長く特急化すると料金跳ね上がるから、急行のままにして夜行も残すとか言われてたな。可処分所得が低いという理由もある。 14系急行天北が走ってた頃って、猿払村のホタテ御殿はまだ無かったんじゃないか? 天北線・名寄本線・標津線は同時期廃止だったんですなぁ。
平成元年。 池北線含めてどれか1つ第三セクターで残すとなったとき、営業的には名寄本線を残したかった関係者も多かっただろう
でもムネヲの力で池北線が。
池北線の成績なら早かれ遅かれ第三セクターが持たなくなるのはわかっていたはず 天北線が名寄本線や羽幌線よりも長いのは直感に反する 今日の宗谷本線、急行天北が走っていたことを思い出させる風景が。
リバイバル始めたからには、キハ40もいよいよ終了のカウントダウンだな。
新車の試運転も繰り返されてるし。 そのうち日高本線の鵡川〜様似間116キロのスレが立つかも >>484
鵡川から先が廃止だと。鵡川は胆振支庁だし、
このままだと日高支庁へ行かない日高本線になるか...
石狩沼田と繋がっていない札沼線の例もあるけどね。
(JRバスで走っていた時期もあるが) もう何年も乗っていないけど日高本線の大部分がカットされてしまうのは淋しい。
牧草地帯を行き、太平洋が間近で見られる素晴らしい路線。
個人的には好きな路線の10位くらいに入る路線。 >>485
あれは路線としては札沼線ではなくて石狩本線じゃねえの?
まあスレチだけど。 >>485
名松線や小湊鐵道でしょみたいなもんでしょ
網走本線も網走まで行ってなかったからなあ 網走本線は網走に行っていたよ
池田〜北見〜網走〜札鶴だから >>492
網走までの開通が大正元年10月5日で
線名を網走本線に改称したのが同じ年の11月18日
短い期間だが網走線は網走まで行ってた そりゃあ建設途上なら線名になった駅まで達していないことは普通にあるだろ >>498
網走線の線名で網走まで開通したのは事実だよな
大正元年と言ってるのに明治43年、44年の資料貼って何がしたいんだよ 天北線スレだけに
北見に行かない北見線だろうな
北見駅は関係ないんだけどね 昭和の末でも音威子府を4時台に発つ始発は
夜行からの乗り換え客で意外と混んでいたよ。
あの一番列車の車両は名寄から回送していたのか?、
それとも、音威子府で泊まっていたのか? つうか咲来駅まで廃止の話があるんか。そっちがビックリ。 >>506
>>507
下頓別駅跡の整備を続けている元郵便局員の大山武さんは
地元の下頓別郵便局で使用中の風景印デザインも手がけているよ 問寒別から中頓別に抜ける道から見える敏音知岳、美しい・・・ 宗谷本線と天北線の上下列車が行き来した音威子府や南稚内なんて
昔は構内を蒸気機関車が暇なしに走り回っていたんだろうね >>513
両線あわせて30往復弱しか無かったから
暇なしってのはないなw >>515
音威子府っていう響きが好きです
赤い青春18きっぷも通販も毎回ここで買っていました >>513
南稚内は市街地で街の中心みたいなもん
稚内は連絡船のためにつくられたからね >>517
南稚内駅は旧稚内駅だけど場所が違うよ
今の南稚内駅周辺の市街地と呼べる地域は駅と機関区の移転で出来たもの
最近は郊外型の大型店舗も集積してるね >>514
貨物も頻繁に走っていたし、車庫もあったり、入換などで
蒸気機関車の時代はいつもガシガシ、モクモクだったよ。 >>517
>>518
地元利用者は南稚内の方が多いかも知れないな 天北線廃止前に南稚内と稚内の間を走る定期列車は
宗谷本線直通が9往復くらいで、天北線回りもほぼ同等、
天北線廃止で一気に半減して、その後の減便で
今は特急が3往復、普通が3〜4往復くらいか・・・
稚内市内は圧倒的にバスが便利だし、本数も多いが、寂しいね・・・・・ >>524
南稚内と稚内の間にある高架橋も
旅客以外に貨物や入換、回送がガンガン走っていて
踏切の混雑緩和を目的に建設されたとの事だけど、
今の本数では宝の持ち腐れだね。 宗谷本線も旭川運転所のある北旭川貨物駅までは複線だけど、
そこから先は単線で、名寄から先はますます単線だね...
天北線があった当時の音威子府〜南稚内間は実質
複線区間だった様な気がするよ。 >>524
稚内駅から先も1982年位までは北防波堤まで引き込み線が伸びていて、
途中には踏切もあったし、貨車がとまっている事も多かったよ。
その後、展示された蒸気機関車C5549も腐食が進み解体撤去され
今は動輪が展示されているだけだ... >>528
先週のテレビの旅サラダで福澤朗がちょうどそこを訪ねていたね シーズンに急行で稚内に着くと
駅前の「天北旅館」をはじめ
旅館やホテルの呼び込みがわんさかだったな。 まあ自分で一軒一軒訪ねたり電話したりで周るよりは泊まる方も楽だったのかも 終着駅で全員下車、しかも、シーズン中の、
特に夜行で降り立つのは観光客がほとんど。
客引きには都合の良い条件が揃っていた。
実際に稚内に着くと観光客でごった返していたし
朝早くから客引きが駅で待機して、蕎麦屋も店を開けていた。 >>536は俺はこんな搾取には騙されない!とかなんとか言って駅前で新聞紙巻いて不貞寝してそう 詳しくは忘れたけど、電車の動画広告に出てくる猿払村が「猿仏村」になってた 猿払村のホタテも昔は大きくて食べごたえがあったが
ここ数年ほどは小型化しているな。
昔はキロ3個が普通で最低でもキロ4個だったが
最近はキロ5個サイズが主流だと。 猿払産じゃないが(オホーツク沿岸は冬季休漁)
先ほど他の海域産ホタテをもらった
養殖だけど結構大きい。1個250〜300グラムくらい >>544
サロマ湖産との事。
湖内では耳吊り養殖、湖に面するオホーツク海では地蒔き養殖が行われている。
オホーツク海は流氷が押し寄せるのでホタテ漁は冬から春までは休みだけど
サロマ湖内での養殖貝は冬でも出荷できる。という事で、ホタテは通年あるよ。
どちらかと言うと地蒔きの方が筋肉質で大きく育つけど
養殖も手間ひまかけて育てると大きく育つし
砂が入っていないので食べやすいとも言えるね。 >>544
今の時期に時蒔き養殖のホタテを食べたいなら根室海峡産が良い。
流氷の影響も然程受けず、サケ漁の時期を除いてほぼ通年水揚げしている。 タコに追い回されながら海の中を泳いでいるし、筋肉質で大きく育つよ >>552
冬のキハ22は2台、夏は1台が多かったな >>553
1両の馬力が180しかないので、
冬場は2両・360馬力で降雪に対応していた。 ユーチューブに【廃線跡】天北線の廃線跡、駅跡巡り(音威子府〜南稚内)ってのが
上がっていた
https://www.youtube.com/watch?v=Nuv27cXxTJg >>554
それだけではなく、天北線は150キロもの長丁場。エンジン1つのキハ22が冬に小石と曲淵の間だとか、天北峠で故障したりすると暖房も止まるし、安全確保のために2台で運転していた模様。 小頓別も昔は随分栄えたけど
すっかり寂しい街になったね そりゃまぁ、昔は言わば歌登&枝幸の玄関口だったわけですから。 あ、道路だけでいえばまだ言わば玄関口か。小頓別で乗り換える必要が無くなっただけだな。 歌登、枝幸行のバスが小頓別駅前から出ていたし、木材会社が軒を連ねていたよ。
中頓別の人口が今は1700人ちょっと。
昔は小頓別だけでもこの位居たのでは? 天北線の計画当初は音威子府〜枝幸〜浜頓別だったが
音威子府と浜頓別とを短絡させたので小頓別から歌登、枝幸への軌道が作られた 小頓別小中学校も廃校になったね
今は郵便局や駐在所があるが
人口も70人くらいに減ったんじゃないの? >>568
平成2年春に通った時はまだ2、3番ホームで母親が店を切り盛りしていたが、
駅舎建て替えに伴い移転。母親によると、駅舎内に引っ越した事で
売れ行きも伸びたとの事だったが、数年後に死去。西野守さんが継いだが.....
長時間停車の普通列車では車掌や運転手もホームで蕎麦を食べている事が良くあった。 音威子府駅ホームの常盤軒そば屋台は格別の風情があった。 >>572
あらゆる条件的に「ハイ継ぎます」とはいかないよね
もういっぺんいただきたかったなぁ(´TωT`) あー書き忘れた。
ピンネシリ駅跡の道の駅で売っている「中頓別牛乳」
すごくおいしい♪ >>576
松屋菓子舗(浜頓別)の牛乳最中と松の実最中もすごくおいしいらしい♪ 廃線後の街に残る和菓子屋さんの店訪問は面白いかも! と思もた。 1986年11月改正で急行天北が廃止になって全部宗谷に統一されてもおかしくなかったはず
途中駅で乗降する人が殆どいなくて99%が全区間通しだったとか
廃止直前まで急行を残してた理由が謎
周遊きっぷ全盛期の頃且つ興浜北線が残ってた頃ならば浜頓別で乗り換える鉄道マニアも結構いたようだが 常盤軒では音威子府銘菓としてバター饅頭も販売していたな >>579
周遊きっぷに全盛期なんて存在しないよなあ
周遊券の頃なら急行天北に違和感はなかったよ >>38
原則として男女別室なので、新婚旅行の夫婦が同室で寝られない。 >途中駅で乗降する人が殆どいなくて99%が全区間通しだった
これが廃止されなかった理由でもあるのでしょうね
幌延や豊富は既存の宗谷1本で充分なら「わざわざ面倒を増やしたくない・今日と同じ明日がいい」 >>582
そもそも新婚旅行でユースに泊まるかよwww 荒天や不通時に備えて急行宗谷はあらかじめ天北線周り、
同様に急行天北も宗谷本線回りの迂回ダイヤを組んでいたらしい。 天北線、松前線、伊勢線、鍛冶屋原線は客のいない本線の巻き添え 加古川線に付随する支線は1日で乗りつぶすのが大変だった思ひで >>592
1955年12月1日 気動車の運行開始
1956年2月26日 客貨混合列車廃止、全列車気動車化
1961年4月1日 北見線から天北線に改称 音威子府駅で販売していたバター饅頭は
美深の花月堂が製造して常盤軒が販売していた >>595
中川郡や名寄地方では評判のお菓子屋さんだよ 起点の音威子府、終点の南稚内共にキヨスクさえ消えてしまったな・・・
音威子府駅キヨスクにいたHさんは
確か駅前のお菓子屋さんや電気屋さんと兄弟の筈 天北線があった頃の沿線の人口と今とを比べると orz だもんなぁ 天北線沿いを車で駆け抜けたが、そもそも人がいない。 猿払村が唯一、微減または微増を繰り返しながら
人口約2700〜3000人の間を維持し続けているが
これもホタテのおかげかと。
総人口の何%かは中国人だろうけど。 ホタテ御殿すごかったねコリャ舐められませんわ@月曜から夜ふかし >>610
「思い出お〜い天北線」と列車の側面に書き込んで運行していたし、
主要駅に配置された記念スタンプも
「思い出お〜い天北線」だったんだよ。
ちなみに図案は音威子府がオトイネップタワーで鬼志別はサイロだった 思い出お〜いに掛けてるらしい
違和感しかないネーミングセンスなんだが 客車急行の天北があっただけで印象が全く変わる
天北線と急行天北のイメージが重なってしまうのは自分だけ? >>620
ここと名寄本線、標津線の3線が思い出お〜いシリーズ そのネーミングセンスに当時ツッコミは入らなかったのかね 読み返してみると味わい深いですね。
ホタテフライを食べたくなりました(^^ 窓を開けてボックスシートに足を伸ばし
空いた車内で弁当を食べて飲み物を飲み
タバコ吸い放題、昔は良かったな・・・ >>629
だからキハ22の車内があんなに黄ばんでたのかw タバコ吸い放題、窓からの排気入り放題に加え
壁に使用した濃い目のベージュ系内装材と暗めの照明灯
床も木板ばり、これに加えて当時は特急でも標準だった
垂れ流しトイレの効果も加わるのでキハ22に限らず、
車内は薄汚れだ様な感じだった >>632
キハ183系だって増備途中で循環式汚物処理装置搭載になったくらいだからなあ >>635
では答えましょう。
落成当時は垂れ流しだったよ。 >>632
衛生面での施策はだいたい時期で横並びやろがい
単発で聞くなんぞ無意味じゃい >>637
地上側の設備の問題もあったから意外と横並びでもないよ 猿払村のホタテ漁もそろそろ本格期だけど
昔と比べると小さくなったね
昔はキロ3個くらいが普通で食べごたえもあったが、
最近はキロ4個サイズでも上物だと。 キロが天北線を走ったことはない
↓ぽまいらの知識で反例 >>642
1970年10月1日〜1985年3月13日の間急行天北はキロ26の連結があったよ 中 頓 別 駅
微妙にダサいロゴとあのハリボテ感が萌えるのに
綺麗な建物にしなくても 急行待っててきたのがノロマなDE15牽引、昼間なのに寝台車
そこそこ客乗っていて椅子に座るのバツ悪るんだよねあの席 本土人からみると大平原に利尻富士がぽっかり浮かんで見える
サロベツ原野なんて夢のような風景
途中下車してしまったら次来るのが5時間後くらいだったけど
この風景を歩いて見たいと降りて見たら
大平原の草が人より高くて広大な景色はなにも見えなかったw 宗谷本線の利尻は近いからリアルな美しさという感じだけど
稚内ー音威子府でみる利尻富士は空に浮いてるかのような幻想世界 >>650-651
四ッ谷に音威子府そばを出す店がある >>651
畠山製麺で乾麺、生そばを販売しているし
北海道の一部スーパーでも入手可能 国鉄とJRは昭和で特定地方交通線をほぼ廃止し。青函トンネルと瀬戸大橋線を開通させた。 >>656
水道水で味が左右されるから難しいと思ふ 音威子府村の人口約700、そのうち120名ほどいる高校生は他所者だし、
実質的な人口は550人くらい。 音威子府駅1番ホームは短く
停車できるのはせいぜい2両編成の気動車だな >>662
本来のアイヌ語は「オ=トイネ=プ」、
開業時は中川郡中川村の音威子府駅だったが大正5年に分村して常盤村、
そして、駅が有名になったので、それに合わせて村名も音威子府に変えた。
元々常盤村の本村は咲来で音威子府駅周辺はほぼ無人地帯だったが、
大正元年に恩根内からここまでレールが延びて駅がつくられ、
やがて、稚内への分岐駅として機能する様になった。 >>662
もっとも稚内への鉄道は今の宗谷本線ではなく、天北線が宗谷線、宗谷本線として
大正3年に小頓別まで開業、その後、中頓別−浜頓別−浅茅野−鬼志別−南稚内と
徐々に延伸されて大正11年に先に開業、当時は南稚内が稚内を名乗り、ここが終点。
その頃の宗谷本線はまだ天塩中川止まりで音威子府と南稚内の南北から
天塩南線、天塩北線として工事が進められ、大正12年秋に天塩中川−問寒別、
翌13年に南稚内−兜沼、更に翌年には問寒別−幌延間が、そして、大正15年に
兜沼−幌延間が繋がり、音威子府は鉄道の町として栄える様になった。
中頓別町や猿払村、幌延町は南から、豊富町は北から鉄道が敷かれ、
小頓別や浅茅野、問寒別、兜沼などがそれぞれ、かつては終着駅で
町内、村内で最も長い歴史を持つ駅である事を知る人も今では少なくなった。 1986.11.1ダイヤ改正で名寄本線や日高本線、羽幌線等で急行が全廃され、
無人駅も一気に増えたが、このダイヤ改正でも急行天北が残ったし、
この時は天北線が廃止になるとは思わなかったよ。
当時は稚内や南稚内から天北線の切符を買ったり、
音威子府又は音威子府以南の各駅から天北線経由の切符を買っても
宗谷本線の売上に計上されていたので収支係数自体も怪しいものだったが
音威子府から稚内へは幌延回りと天北線回り、どちらも同等レベルだったでは? 西村京太郎氏の短編「最果てのブルートレイン」は昭和61年あたりの天北線を舞台に
繰り広げられた作品。
「行きたいなあ。乗りたいなあ」と思いながら、まだ当時10代の自分は思いながらも
その願いは叶わず。
20代になって浜頓別や猿払には宿泊。 今の鉄道地図を見て南稚内〜兜沼間が先に開通したと言われると
首を傾げる様な人も多いかも知れないな。
天北線が残っていれば合点もいくだろうけど。 以前音威子府に到着する下り最終特急から鬼志別に行くバスがあり、役人風の人たちが数人
乗り込んでいたが、いつの間にかそのバスもなくなってしまったようだ。 >>665
「幌延回り」とみて一瞬羽幌線経由?と勘違いしてしまったw >>668
正確には鬼志別の先、小石行だったと思う。
今は鬼志別発旭川行、稚内発鬼志別〜浜頓別回り札幌行や
枝幸発札幌行の都市間特急バスが一日数本走っているけど
音威子府と中頓別の往来はほとんどないみたいだね。 今は3時30分過ぎか。
昭和39年時刻表では3時44分音威子府発稚内行がある。
その頃の音威子府駅では今頃の時間、夜行で着いた新聞や荷物を
天北線始発に積み込んだりで大忙しだったんだろうね。 >>673
冬は除雪も必要、信号も手動だったし
車両整備に機関車の交換や給水、貨車の入れ替えなどで
音威子府駅はほぼ24時間稼働していたんだろうね。 昭和末か平成初めかは覚えていないが30年以上も昔、
HBCほっとないとHOKKAIDOで天北線特集が組まれた事がある。
雪が降る深夜の音威子府駅、駅員が正面ドアを開け、明かりを点けたりして
開店準備(笑)、やがて、天北線始発が名寄方向から回送で到着、
次いで朝6時10分台発の稚内行1両編成には豊富温泉に行く地元のおじさんが
乗り込んで先に発車、天北線の2番列車は少し遅れて数分後に発車、こんな内容だった。
天北線は通票閉塞だったので早朝深夜も運転関係の駅員派出が当然必要だが、
当時は律儀に旅客窓口も始発から最終まで開いていたよ。
また、音威子府の次の交換駅は小頓別、次が敏音知だが、
早朝深夜は音威子府と中頓別の間を1閉塞として運転していた。 些かスレ違いかも知れないが、
天北線が大正11年11月1日に全線開通した頃、今の宗谷本線は天塩中川止まり(※)
(※正確には天北線が開通した年の11月8日に音威子府〜天塩中川間が開通)
翌年秋に問寒別まで延伸されたが、途中の歌内駅が来年3月のダイヤ改正で廃止だと。
宗谷本線では開業時には交換駅だった多くの駅が棒線駅、貨車駅に変わり、
最近は駅の廃止も相次いでいるが寂しいね。 >>676
ちなみに天塩中川
誉平(ぽんぴら)駅として開業した >>680
当て字だけじゃなく意訳、開拓者の名前や出身地とか色々あるだろ ポンは小さい、ピラは崖
ちなみに赤平のアイヌ語地名はフレ=ピラ、
フレは赤いでピラは崖だから、上半分がアイヌ語の意訳で下半分が当て字の合成地名
また、中川町佐久は長野県からの入植があった訳ではなく、アイヌ語の地名との事 中川町にぽんぴら温泉があるな
宗谷本線沿線には温泉が多いが、天北線沿線も中頓別(ピンネシリ)、
浜頓別、猿払、そして、稚内と各市町村に一応、温泉が一つはある それと、中頓別には見事な鍾乳洞があるが、近くの軍艦岩は貝の化石
こんな山の中が昔は海の底だったとは思えないよ
また、明治時代にゴールドラッシュが起きた枝幸郡一体、
山奥に歓楽街や料理屋、巡査駐在所もつくられたというし、
下頓別は砂金掘り師たちが住み着いて街ができたとの事
もちろん今でも多少の砂金は出るらしい
https://hokkaidofan.com/nakatonbetsu-golddust/ ポンピラアクアリズイング。だれがおぼえられるねん。 >>689
せっせと掘り続けて集めた砂金で指輪を作った人もいるよ
明治30年代には2.7トンほど(推定)掘り出されたとの事
金75グラムが100円で当時の100円は今だと100万円以上に相当する。
一緒に産出する砂白金は利用価値がないとして当時は廃棄していたが
明治40年代に入り、白金需要が急増すると共に雨竜川流域の
深川市鷹泊や幌加内町で砂白金が見つかり、こちらも採掘ラッシュが起きた。 明治期の最初の何年かでほとんど掘り尽くされたみたいだけど
今でも地道に掘り続けるとまあまあ手に入るのだから大したものかと 一攫千金狙いはやめて地道に働いたほうがケガしなくていいよ 旭川と稚内の間のみどりの窓口は1980年の時刻表見ると名寄だけ つまらない荒らしに付き合うことないよ
というか自演かよ マジレスすると音威子府と南稚内にみどりの窓口が設置されたのは天北線廃止後。
天北線が宗谷本線として残されていたら、浜頓別や鬼志別あたりに設置された可能性はあるだろうね。
また、JR北海道がみどりの窓口設置駅を大幅に減らすみたいだけど、幌延駅の窓口は天塩町や豊富町、遠別町民の需要もあるので残ると思うよ。 もし天北線残すなら、宗谷本線と同じタイミングでCTC化されていただろうね。
んでもってそのタイミングで中頓別、浜頓別、鬼志別以外は無人化(もしかしたら小頓別も残したかも)。
90年代以降みどりの窓口設置。
2016年辺りに中頓別、鬼志別無人化(両自治体が簡易委託請負)。
こんな感じになったと予想 つまり史実とは違い小頓別、敏音知、曲渕、声問は無人駅となったってことね
他には
90年代前半にワンマン化
宗谷北線運輸営業所に含まれる
上音威子府が2001年に廃駅
周磨、上駒、山軽、安別が2016から2018あたりに廃駅
現在廃線に向けて沿線自治体と調整中
ここまでの妄想は立てれる つか、天北線残すなら宗谷本線音威子府以北は廃線だよ チー牛駒大苫小牧オタの好きな学校
駒大苫小牧
小樽潮陵
札幌南
函館ラサール
大麻
東海大札幌
滝川西
稚内大谷
健大高崎
作新学院
東海大相模
興南
チー牛駒大苫小牧オタの嫌いな学校
北海
北照
札幌第一
札幌日大
札幌大谷
立命館慶祥
札幌創成
旭川の学校
クラーク
白樺学園
八戸学院光星
仙台育英
早稲田実業
横浜
松商学園
星稜
県立岐阜商業
龍谷大平安
秀岳館 音威子府そば(製麺所)が絶滅の危機だと。
廃業したらレシピとか永久に失われてしまうぞ ♪襟裳の 春は〜〜〜 あああ
と書いといてなんだけど、襟裳岬から宗谷岬まで
直線距離でも400km以上あるよな。 >>726
斜里を朝8時に出発して稚内には17時に着くから
襟裳〜宗谷は・・考えたくもない 音威子府産でもないのに
音威子府そばと名乗ってたんだよな駅ソバ屋 長野で山菜そばを食べたところ、そばは長野産だったが、山菜は中国産だった。 静岡西伊豆の旅館に泊まった時、夕食に駿河ずわいが出て美味しく食した。
ところが翌朝、旅館の周辺を散歩していたら、ずわい蟹の絵が描かれた段ボール箱発見。
なんとスウェーデン語。昨夜の駿河ズワイは偽装だったのだ。 そもそも駿河ずわいって何?
駿河湾で取れたずわい蟹ってこと? >>733
今でもその言葉を使っているかは定かではないが昔はそう呼んでいた。 >>735
1989年の今日がラストランだったが
最終日まで札幌直通の急行天北が運転されていたのは
元宗谷本線の貫禄衰えずというところか(-_-;) 後背地の豊富な森林資源、オホーツク海の海産資源、更には炭鉱も抱え
農林水産鉱業の各部門で栄えた猿払村だが、森林資源の枯渇や炭鉱の閉山が重なり
更には乱獲のせいでホタテも全く揚がらなくなり、昭和30年代には
「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」とさえ言われる程に・・・
昭和40年代半ばから「採る漁業から育てる漁業」への転換を目指して
地蒔きホタテ養殖(稚貝の放流)を開始、ホタテ産地としてよみがえり
貧乏村から日本一の金持ち村と呼ばれる様になったのはお見事というところか 1回だけ猿払には行きましたが、また行きたいなあ(*´ω`*) >>738
天北線が廃止された33年前はホタテ養殖が軌道に乗り、
ようやく安定しはじめた頃かと。
当時と今とでは猿払村の雰囲気もだいぶ変わったかな? 温泉が湧き、ホタテ御殿が建ち、道の駅やバスターミナルがつくられ、建物の多くが新しく綺麗になり、中国人労働者が増え、ホタテ満載のトラックがガンガン走りetc 猿払のホタテ漁も連休明けからが
本格期だが近年は貝の小型化が著しい 上音威子府駅で三時間待っても汽車が来ないんだけどストライキなのか? 清水港線の三保駅でうっかり乗り遅れた後、20時間列車を待ってるけど一向に来ないんだが、
これもストライキか? 誰か音威子府蕎麦を継承しないのかな?
ついでに駅蕎麦も復活継承してくれないかと >>749
継承しないという村の掟でも
あるかのような感じがするんだよなあ
謎だ 昔の時刻表ではそろそろ稚内行始発が音威子府を発車する時間だよ 音威子府闘争団の羊羹と
こくろうラーメンは
まだあるのかな 昔は咲来が常盤村の本村だったが
今はすっかり寂れた 咲来には学校、郵便局、農協、駐在所等が一通り揃っていたし、
電気屋や自転車屋もあったはず 音威子府村外でも咲来産蕎麦の看板ポスターやのぼりを時々目にする事がある 音威子府〜稚内直通便5往復でスタートした天北線代替バスも
今は稚内〜音威子府を直通するのは1便だけだと
稚内口はまあまあ乗っていても、音威子府口はほとんど空車状態 >>765
入浴状態なのだったら「干し」ではなく湯戻し状態ではと 天北線沿線で気になる事、中頓別に一軒家一ヶ月家賃1万円で広告が出ていること。 干し葡萄しか出会いなさそうだけど、いいの?
彼女らからしたら、じゅうぶん貴方でも若い部類だと思うけどw 宗谷本線のみどりの窓口といえば、赤い青春18きっぷ 名寄で赤い18きっぷを買った記憶。90年代やったな(ー_ー)!! 中頓別の借家は確か築60年以上の物件だったはず
冬場はすきま風だらけで凍死しそう >>782
既に凍死した人がいて事故物件かもしれない 「奈良そごうの閉店とそごう本体の経営破綻は邸宅跡を潰された長屋王の祟りではないかとふと思う」 >>784
横浜そごうは今も順調なのか?
最近、横浜駅は西口ばかり元気で東口はどうなんだろう? 生まれも育ちも横浜市内で高校の時は必ず横浜駅を通って通学していたボクだが
そんなボクでも年がら年中どこかしらで工事をしている横浜駅周辺を見ていると
呆然としてしまう(-ω-)/
迷子になるな、というほうが無理な話ではないか(-ω-)/ >>786
わかる
よく利用していた西口の地下街ですら最近変わりすぎてわけわからなくなった コロナ前に音威子府で降りて天北線跡に沿って歩いた記憶
草が生い茂って見つけるの極めて困難だった >>789
ある日森の中、熊さんに出会った。
何てことになりそう。 Nゲージで
国鉄 北海道貨物列車(黄帯車)セット(8両)
国鉄 C55形蒸気機関車(3次形・北海道仕様)
国鉄 旧型客車(宗谷本線普通列車)セット(5両)
が発売されるから、購入して昔を懐かしむ 久しぶりに猿払村のほたてを食べたが
貝柱やヒモが矢鱈と歯に挟まった
それだけ歳を食い
天北線の思い出も遠い昔の事になったという事か(-_-) 小型化と価格高騰が続いていたオホーツク海の
ホタテだが、昨日はキロ4個くらいとまあまあの
大きさだった(昔はキロ3個くらいが普通だった)
但し、まだ値は張る 晩ごはんは猿払沖に揚がった
ほたての炊き込みご飯だよ(^^)
エラとヒモ、貝柱で出汁をとった醤油味の
ご飯を炊いて仕上げに刻み海苔と紅生姜を散らす 復刻版 浜頓別駅弁は新宿京王百貨店の全国駅弁大会で販売していた様な 浜頓別駅1番線は興浜北線専用で天北線は
跨線橋を通った2番、3番線からの発着だったが、
階段の上り下りが些か面倒だった
構内改良工事もポイント工事やら電気工事、信号工事で何億円もかかるし、メリットもなかったんだろうけど 音威子府駅の本屋寄りホームは短い
2両編成の気動車が精々というところだが
気動車化に合わせて短縮されたのかな? >>797
興浜北線廃止後は跨線橋を撤去して構内踏切で良かったかもね。
支線が廃止された美幌駅や少し前の倶知安駅も同様の構造で
本屋寄り1番線はレールがなく、乗降には跨線橋を渡る必要がある(あった)。 >>800
急行いぶり は2番線到着後1番線に
入れ替えしてたのだよ 浜頓別でもう一度宿泊したいとボクは思う(-ω-)/
白鳥の湖・クッチャロ湖をのんびり眺めて過ごしたい(-ω-)/ 明日と明後日の音威子府駅舎で何かが起こる
ヒント(´・∀・`)っ 常盤軒 クマと格闘して激闘の末、勝利。そのまま食べてしまうというのはどうだろう・・・・・ 大阪市の身体障害者の皆さん、
大阪地下鉄回数カードを交通費代わりに支給されたヘルパーが、
あなた方のもとにやってきます!
石津さんのご両親のように、身内の失火で焼け死にます。 >>803
2日間限りで駅そばが復活したが
畠山製麺の蕎麦も廃業で食い納めか..... >>810
天北龍の店主は協力せず商工会が企画したそうです。
畠山製麺所は一子相伝を貫いて廃業した。(舶来製の製麺機が老朽化も理由) >>812
昭和40年代にNHKテレビで特集されたと言うし
50年以上は経つだろうね
濃縮つゆは芦別のソラチが作って畠山製麺が
販売しているが、つゆも残さないのか? 道の駅おといねっぷ天北龍の蕎麦も消滅か?
村内には咲来蕎麦もあるが 後背地に豊富な森林資源を控え、林業で栄え
木工場が建ち並んだ小頓別には密林寺もあったな
人口も大幅に減って学校も消え木材会社も減ったが
小頓別木材株式会社が健在なのは救いか >>819
純国産の木材を好む人は一定数いるから今ある会社はとりあえず大丈夫かと思う。 SCRÅMBLE化まだ? 09/10 10時14壺 上野駅でやったAR車両フォトスポット、小頓別前でもやってくれないかな 時刻表1969/5月から
小頓別発下り
407:721D、稚内/北見枝幸行
625:723D、稚内行
1026:725D、稚内行
1315:741D、浜頓別行
1506:303D、急行天北・稚内行
1538:727D、稚内行
1827:729D、稚内行
2115:745D、浜頓別行
小頓別発上り
645:742D、旭川行き
747:722D、音威子府行
1105:746D、音威子府行
1243:724D、音威子府行
1349:304D、急行天北・札幌行
1613:726D、音威子府行
1956:728D、音威子府行
2311:730D、音威子府行
歌登町営軌道下り
1025:歌登行
1350:歌登行
1507:歌登行
1828:歌登行
2116:歌登行
(到着)
735、1335、1440、1805、2105(歌登発) 昭和50年代後期の音威子府駅、天北線もあったし、停車時間も長いので
車掌も2、3番ホームのベンチに腰掛けて乗客と一緒に常盤軒の蕎麦をザバザバ、
タバコを吸いながら缶ジュースをグビグビ飲んで一休み、いい時代だったな。
天北線廃止翌年の1990年春はまだ常磐軒売店は2、3番ホームにあって
ホームは客でごったがえしとまではいかないまでも、
狭い売店内は食い物や蕎麦、飲み物を求める乗客で満員だった。
外は寒いが、車内は暑いので、私も冷たいものを飲みたくなり
ホームで一気飲みした冷たいオレンジジュースは格別の味だった。
続いてプラ容器の蕎麦を入手して美深到着までに食べ、
その後、名寄駅でも急行礼文に乗る前に角館商会の蕎麦を食べたが
冬の寒い日に食べる立ち食い蕎麦は格別の味わいがあるね。
北海道の駅で立ち食い蕎麦屋があるのも今では札幌駅くらいだよ >>832
標茶はもう立ち蕎麦屋さんはないのかな
標津線の待ち時間にそばを食べてたらお店の方に白鳥見てきたら?と言われて川まで見に行ったな JR代替バス 天北宗谷岬線 浜頓別以南予約制と通学便
>地元紙より。2023年10月をめどに、
1)稚内市〜猿払村〜浜頓別町(宗谷バスが引き続き運行)
2)浜頓別町〜中頓別町〜音威子府村
( 民間事業者によるデマンド型交通、一般混乗の高校通学便)に分割。 >>833
なし、だと思う。
稚内や留萌、新得駅には蕎麦屋がある筈けどホームには直結していない。
昔は乗換駅には大体、弁当屋や立ち食いそば屋、売店があったよ >>835
標茶に行ったのはもう35年も前だもんな
寂しくなったな >>836
ぽけっと
今年の8月でオープンから40年 >>837
喫茶店があったんだ
橋まで行って戻ってしまった
ここは天北線スレでしたね
失礼いたしました >>831
もう一度見てみましたが、
3/5現在、歌登町営軌道、汽車、との記載がありました
ただし全国版のため、バス代行等になっていても、
情報が遅くなっている可能性はあるかと思います
記載が「汽車」でも、何かあったら代行バス、という可能性もあるかと思います
ちなみに、同じ場所に以下記載がありました
羽幌炭鉱鉄道(築別/築別炭鉱)、DCマーク
留萌鉄道(恵比島/昭和)、DCマーク
歌登町営軌道(小頓別/歌登/(志美宇丹=歌登からは時刻無し、休止?))、汽車の記載
士別軌道(士別駅/上士別)バスマーク
になっていました 音威子府駅ホームにあった常磐軒屋台兼待合室は
蒸気機関車の煤が染み込んだ様な味のある代物だった
まさに年代物という感じで、ホームの洗面台やベンチも良い
アクセントになっていたし跨線橋やホーム上屋ともマッチしていたが、
今は列車本数も激減して、構内踏切で間に合うくらいだね。 >>802
浜頓ホテルか?
たこしゃぶやホタテシュウマイが有名でゆうパックでも販売していた
他に浜頓別町では牛乳モナカが有名 新得駅の蕎麦屋はホームに直結していた
が、店内飲食が圧倒的に多い 天北線下り始発がそろそろ音威子府を発つ頃だよ
冬場は2台、夏は1台での運転だった 真冬に1エンジン車のキハ22を単行運転して
山中でエンジン故障、立ち往生なんてしたら
暖房も止まるし、昨日今日みたいな日だったらピンチに陥るだろうね
今のJRだったら端から運休を決めているかも知れないが
交換設備のない小石駅で1986年秋までタブレットを交換して
発車していたのも、小石止まりが設定されていた事に加え
ここを無人化すると鬼志別から曲渕まで30分近くも列車が
消息不明になってしまうので、中継点としていたらしいよ 映画あったよな
9600が天北峠で立往生してその辺を歩いてた伝説の野良機関士が圧縮引き出しするやつ
まぁ名寄線の話なんだけど >>847
上音威子府ー小頓別間も天北峠だが
一ノ橋ー上興部間も天北峠だね
名寄本線は天北峠を隔てた下川ー上興部間が
中湧別ー興部間や興部ー上興部間よりも先に開業している 「思い出お〜い」というフレーズ
(想ではなく思、ーではなく〜、がそれぞれ正しいみたい)は、
天北線のイメージが強烈だけど、
ググったら他線区のものも幾つもヒットする。
JR北海道?の共通フレーズなのかね?
最新では、札沼線の部分廃止時にも用いられているみたい。 上り普通DCに乗っていたら、
下り天北と、敏音知で交換
みんなホームに降りて、構える
先頭は、DE10_1708でした
37年前になります 迂闊にも、天北線(沼川)と宗谷本線を結ぶ夢のような簡易軌道があることを今更ながら知った 日曹専用線と並んで幌沼線の立地がえぐ過ぎてしびれる >>854
スレ違いですが、礼文島から本土へは常に2日がかりとは、何という鬼畜ダイヤ…
と思うのは、現代人だからですかねぇ。 >>855
良くみたらわかると思うけど
発着が稚内になっているから
本土から礼文島までは1日
船が1隻しかないから往復で2日
隔日運航となります
昭和40年代でも同じ
https://i.imgur.com/pwPHZ3v.jpg >>854
旧客使った混合列車があるのは知っていたが、まさか時刻表に出て来るとは!
地元民限定と思っていたら、一般に開放されていたとはね
そして最初に停まる温泉駅までというのが‥列車は鉱山まで行くが一般客も終点まで乗れたのかな?
しかも「不定期」の断りが不気味w
鉱山まで20キロ足らずを1時間もかかっていたようだし、なにかと面白そう
あと先の幌沼線とは位置的に途中で交差するが、平面クロスだったらしい
現存してたら、もう行かずにはいられない両線w 日曹線の上に旭川電気軌道があるしw
旭川四条、士別、名寄、美深、音威子府、問寒別、幌延、豊富
小頓別、浜頓別、沼川…
宗谷天北は今じゃ考えられないくらい活気があったろうね >>856
854の時代と違って礼文発稚内は日着可能だよ
隔日で稚内-利尻-礼文-稚内、稚内-礼文-利尻-稚内で、毎日運航なら今の冬ダイヤと速度は違うが同じパターン
下に就航船が書いてあるとおり利尻丸と礼文丸の2隻あり、夏のピークは毎日運航だった 小樽から島を渡り継いで
稚内まで翌日
小樽から稚内経由で斜里まで2日
https://i.imgur.com/l8vtUls.jpg 天北線は出てくるが、勇猛戦もコンポ苦戦もかの通り。 宗谷本線音威子府から南稚内間を廃止して、天北線を残す、という案は、
全くあり得なかったでしょうか、ね それがあり得るなら江差線の木古内~江差間を廃止して松前線を残したかも
今となっては江差側も廃線となったけど 江差は一応振興局のある場所なんで
基本、国鉄再建法が線区単位の扱いなんだからどうしようもない
そこをいじると収拾がつかなくなるので
あと幌延はどうしても優遇されるだろうし それと沿線の廃れっぷりみるとやはり天塩側が優位かなと思う
もちろん鉄道がなくなると衰退が加速はする点もあるけど
猿払みたいなのを例に影響ないという人もいるが、実際に影響しないわけはない
ただそれを差し引いても天北側の衰退が強くて不利 猿払村も流氷が去り、そろそろ漁場整理をして、ほたての水揚げが始まる頃か
本格操業は連休が明けて、海水温が上がり、貝が泳ぎ回る様になってからだけどね
オホーツク海のほたては春や秋よりも夏が旬、夏のほたては美味しいよ 猿払村、今年は流氷が来たのやろか・・・・・気になるところです。
知床のウトロで1か月ちょっとで流氷が去ってしまう暖冬だったもので・・・・・ 猿払村のホタテも昔は大きくて安かったが、最近は小さくて高い
1`3個くらいが普通だったが、最近は`4個でも上物だよ 売りやすい大きさがある デカけりゃいいってもんでもない
猿払村はホタテ御殿が立つってんだから大したもの >>874
概して大きい方が内容積も増えるので食べごたえもあるし、貝柱も大きくて割安だよ
ただ、まだ今の時期は寒さで貝が萎縮していて貝柱が小さいかも知れないな
だから、殻を開けてみたら貝柱が小さくて「なんだ・・」と思うかも知れない 天北線廃止から30年以上、昔はなんともなかったが
煮付けや炊き込み御飯、カレーに入っている
帆立の貝柱が最近は矢鱈と歯に挟まる様になった
それだけ年を食って歯も悪くなったというところか(笑)
猿払のほたてが筋肉質で美味な事は確かだけどね 歯間ブラシお勧めだけど
ゴム製の見た感じやわい感じのが良い 顎の骨が痩せて歯茎が下がるというべきか。
歯もすり減るし、緩んで食い物が詰まったり挟まるな(笑)
廃止当時20歳くらいの鉄道マニアも今では50代半ばくらい、
歯は傷み、身体にもガタが及び、凸レンズが必要な年齢だけど
平成、そして、昭和は遠くになりにけりだよ(笑) 30年も経つと髪は減り、頭も目も歯も悪くなるし、身体機能も衰える
足腰の筋肉だけではなく、胃や腸も筋肉だけど、天北線が走っていた当時は
若くてピチピチしているのに便秘に悩み、下剤を飲んだり、浣腸をして、
トイレに閉じこもる妹を冷やかしたりもしていたが、いつの間にか
私もかなりの便秘体質になってしまい、今は兄妹揃って浣腸仲間(笑)
浣腸している事は妹には内緒だけどね^^; 歳を取るのは仕方ない
「年寄り嗤うな行く路だもの」 昔は跨線橋の上り下りも楽々スタスタで短時間停車での売店や駅前商店、蕎麦屋へのダッシュも余裕だったが、
今は跨線橋の上り下りは手すりを使い、息を切らしながらだし、エレベーターやエスカレーターがあればそっちに乗ってしまうが、それでも、乗り込んでしばらくの間は心臓もバクバクで、際どい乗り継ぎはしんどい 881だけど足腰や胃腸の衰えは加齢に加え、
自動車を運転する様になったせいかも知れないね。
当時は車の運転をしなかったので自転車や自分の足で歩き回るしかなく
必然的に足腰も鍛えられて、早めし早グソ芸のうちなんて言っていたけど
今はどっちも無茶。運動不足のせいか、30代くらいから便秘しがちになり、
ついには妹と同じ便秘仲間になり、今は妻とも便秘仲間、浣腸仲間だよ(笑)
恥ずかしいので便秘の事は妹には内緒の筈だけど、
何だか妻からバレてるっぽい気もするけどね(笑) 夫婦、兄妹揃って便秘仲間、浣腸仲間...(笑)
廃止から34年も経つし当時20歳としても今は54歳
中高年夫婦や中高年兄弟姉妹あるあるかもね
そういう私も長時間の外出や旅行には
ライフリー紙パンツが必要になった(笑) >>864
悪天候や事故で宗谷本線が走れなくなった時に備えて、
急行宗谷等に天北線廻り、同様に急行天北にも宗谷本線廻りの臨時ダイヤを予め用意していたし、
音威子府ー幌延ー稚内の宗谷本線と天北線がどっちも
砂原線みたいな感じで「宗谷本線」を名乗っていたら
とりあえず残った可能性はあったかも知れないな >>887
イトウが棲息するカムイト沼も神秘的な雰囲気でなかなかです 天北線跡を車で走ると、まだまだ残骸が残ってますねえ 浜頓別の駅弁、若僧は知らないだろうな
昭和45年頃まで売ってた
最果ての旅情を感じたものさ >>893
昭和45年には営業中止
渚滑、興部、陸別にも駅弁があったが
紋別には蕎麦しかなかった 子ども叱るな来た道だもの、年寄り嗤うな行く路だもの 陸別に駅弁があったのか
それレア体験の部類かも
浜頓別、興部、渚滑は海産物の弁当か? 陸別 すし100円
浜頓別 すし60円
興部 すし80円 やまべずし・弁当各100円
渚滑 すし80円 帆立弁当・弁当各100円
引用元:日本交通公社/旅行者のためのうまいもの案内
昭和39年8月15日初版 特徴のある駅弁しか残れなくなっちゃった
名もない小駅では無理なのか… 今月号の鉄道ジャーナルは宗谷本線の特集やってるね。天北線も少しだけ記事で出てくる。宗谷本線もいまや最長の盲腸線になってしまってるのが郷愁を誘うわ。 稚内への鉄道ってのはいわば長大な宇野線なんだよ
稚泊航路なくなった時点で終わってんのさ >>912
一時復活したので是非乗りたいと思ったけど、長く持たずに廃止になったね 道の駅「森と湖の里ほろかない」の冬の露天風呂は最高 一旦全て運休になったが、七尾からウラジオストックに行く定期船が運航を始めたとの情報がある。 >>923
既に廃止されてるから買えないんでないかい >>923
セイコーマートでお弁当を買ってください >>925
セイコーマートは未だにレジ袋代を取らない。
初めて買い物に来た人は嬉しくて腰を抜かすのではないか。 >>926
あっ、それでセイコマの店頭に時々腰を抜かしている人がいるのか・・ >>927
確かに他のコンビニだと3円位かかるからね。
只だと聞いてたまげるのは無理もないね。 レジ袋が無料と聞いて車で10分ほどのセコマに行ったがよくよく考えると
ガソリン代の方が高かった。 飛鳥ナンバーの車を初めて見た時のこと。
絵入りだった。
道内で見ること自体がレアだったけど、その絵がなんとセコマのマークと同じだったのだ。
セコマのマークをパクったのかなって思った。 もし北海道で奄美ナンバー見たら驚いて腰抜かす人続出だろうな ちなみに沖縄ナンバーはたまに見る
大学の駐車場や自衛隊基地 セコマは北海道のみと思ってる人もいるかと思うが、茨城県と埼玉県東部にも店舗はある。
レジ袋代を取らないのとHOTCHEFがあるのも同じ >>935
北海道民が埼玉や茨城でセコマを見て、感激して腰を抜かす人も多いのではないか。 >>937
買った物をそのまま持って出てきたらドロボーみたいだと思う。 >>938
たくさん買うからと言って唐草模様の大袋を持ち込み、それを担いで店から出てきても
泥棒と間違われて通報される可能性があるね。 >>935
>>935
さいたま市内とか上尾にもあるだろ >>940>>942
使用する時はドロボーと間違われないように注意して下さいね 宮古島で帯広ナンバーの車を見た。
ここまで何日掛けてきたかと聞くと、本人は飛行機で半日だとか。
車は苫小牧で業者に渡すと宮古島で受け取ることが出来るんだとか。 >>944
今は沖縄本島から宮古島・石垣島に船では行けなくなってしまった。
貨物船はあるが人を乗せてくれない。
昔は石垣島から台湾に行くフェリーもあったんだけどね。 >>944
ご本人は帯広駅→新千歳空港駅・新千歳空港→羽田乗り継ぎ→宮古島かな
車は苫小牧港→東京港→那覇港→宮古島かな??
ご本人は半日でも車は最低でも1週間はかかりそう >>935
プライベートブランドの酎ハイが安くていまい。
たくさん買い込んでしまう。 >>950
ちょっと駅から遠いけどね
冬は結構きつい その先となるとユジノサハリンスクになるけど、あるか分からん >>972
以前は24時間営業だったけど今は7〜23時になってしまった マックよりマクドの呼称の方が良い
マックだと「お先マックら(真っ暗)な感じがする。 >>976
日本最西端のマクドでもある。
ちなみに日本最東端のマクドは中標津東武店。 猿払村ホタテ御殿が立つほどの地域を走っていた天北線が無くなるとは・・ 簡易線規格で最高65キロしか出ず異様に時間がかかってたはず
10mレールだったとか >>939>>943
唐草紋様=泥棒ではない
それこそ戦前戦後のかつては
中サイズ以上の風呂敷は何処の家庭でも
唐草しかなかった
つまり大寸で一般的すぎた
で、泥棒のステレオタイプが「風呂敷を背負った姿」
→風呂敷の柄はごく順当に一般的な唐草になる
→風呂敷が使われない時代に移行する
→泥棒のステレオタイプはそのまま
→「泥棒の風呂敷=唐草紋様」が印象に残りやすい >>974>>977
腐臭トンキンちゃん元気?相変わらずだねww
>>975
そもそも世界的にはマック呼びのほうがガラパゴス
マクド呼びはフランスなど海外他国にある >>988
ビックマックは海外ではどう呼んでるのかな?? 浜頓別に帆掛けスキーのイベント見に行ったのが思い出
参加者が折り畳みの道具を持って列車に乗っていた このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1648日 2時間 22分 22秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。
▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/
▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。