昭和の鉄ヲタ
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昭和に鉄ヲタはどんな感じだったのだろう?
今みたいにSNSもネットもない時代。
今よりはコミュニケーションは必要だったので根暗はいなかった? >>22
場馴れすると、現場長に貢ぎ物と称して手土産持参するとさらに美味しい特典あったけどな
けど、交渉力と人脈とコネが無いと無理な話だったけどな つまり相当高度なコミュ力が必要だった
むかしの鉄道研究会とかクラブの部員はどの大学もちゃんと就職していたわけで明らかに今のコミュ障鉄ヲタとは違うw 今みたいにスマホもパソコンもない時代だし、
SNSや掲示板もないから必然的にコミュ力が付く。 コミュニケーション能力もなにも一人で行動する鉄オタは少なかったからな。
周遊券もって夜行やユース連泊だから
グループの方が行動しやすいのもある。
また臨時の情報は頼めば駅でも教えてくれたし、信号所でも乗り降りさせてくれたよ。 駅から数キロ離れた撮影ポイントまで重い機材担いで普通に歩いて行ってた
今みたいに各地にレンタカー屋も無く、歩く以外選択肢無かったからな >>34
鉄オタが全て撮り鉄とは限らないだろ
自分は写真は余り撮らない 全く撮らない訳では無いし、鉄オタなら皆、多かれ少なかれ撮り鉄だよね。 撮り鉄と言っても
駅のホームでの駅撮り、近場のポイントでさっと済ますマルイ(関東限定の駅そばらしい)、遠隔地まで行く
と分類されて、真の撮り鉄は遠隔地まで歩くんだよ!と力説されたが、いいポイントなら近場でもいいんじゃねーか?と思えてならんわ SLブームの頃、「こすり」というものを集めるやつもいた。要するにボロ布でSLを擦って来て、そのSLの車番を入れた上大事に菓子箱などに整頓して悦に入ることだ。
自分は学校のだるまストーブを擦って、そいつに「D51***の擦り」と騙してプレゼントして、とても喜ばれて困った。未だに持ってたらどうしよう、いや、間違いなくカミさんあたりに捨てられたに違いない 八高線、拝島駅ホームの高崎方にあったボットン便所を知っている。又は、使ったことがある。 鉄道雑誌には文通相手募集やや鉄道グッズ売買のコーナーがあったね 雑誌の掲載に投稿者の住所が番地まで載ってる
今では考えられない個人情報
おおらかな時代 先輩が住所晒したら不幸の手紙がたくさん来たと言っていた 臨時列車の情報なんかは自宅近くの保線詰所で茶飲みながら見させてもらったな〜
予備で置いてあったダイヤグラムや運転時刻冊子も内緒で貰ったことも多々あったし
局報号外A・B報の合わせや見方が本職より早えwと言われていたこともあったw
鉄道電報も見せてもらったりとあの頃は本当に良かった。
情報共有も信用できる知人以外には教えないという暗黙の了解があり
現地であいさつもできない、情報だけ欲しがる奴はこっちも相手に
しなかったしね。 今はコンプライアス云々もあるからなぁ
撮影禁止とか大工場内みたいに厳しくなった 50才のおじさんだけど、昭和53年から同57頃まで良く大阪駅まで
ブルートレインやL特急の写真を撮りに行ってた。
お年玉をもらえば米原(加越)や名古屋(飛騨・南紀・しらさぎ)まで遠征してたな。
あの頃、一般の電車は興味がなかった。辛うじて153系新快速の写真があるくらい。 >>49
伊豆方面の別荘(ふだんは無人)の郵便ポストが詐欺に悪用されたこともあった。 線路に降りて撮影しても自己責任と放置されてた
駅員や車掌は客と思っていない態度だからお互い様って感じだった かぶりつきをしていると 運転室に 招いてくれたもんだ 。昭和40年代 かぶりつきをしていると、カーテン閉められた。昭和50年代の京浜東北線。
しかもウテシガチギレ。
アッタマきたので、持ってたカメラで顔撮ってやった。
後年、ウテシになった知り合いにみせたら「あ〜この人ねェ…」と、有名人だったみたい。 >>59
東武東上線てそんな感じだった 。今でもそう? 運転士うしろのカーテンは小さい穴があいていた、(客室覗き用) >>62
歌舞伎役者(名前忘れた)もいたぞ。
後は作家の阿川弘之もな。 鷹司平通は五摂家の当主にして、昭和天皇の三女つまり上皇陛下の姉君の夫。
交通博物館の学芸員にして、鉄道友の会事務局長を務めた人物。
しかも大学を出て即交通公社に入るほどの筋金入り。
これ以上ハイスペックな鉄ヲタはそうそう居ないだろうな。 沿線で撮影していれば、
走行中の垂れ流しトイレ流し管から盛大に
屎尿浴びなかったの? >>66
南座の公演の時は必ず京阪電車で行ってた人か せっかく4Kカメラやフルサイズ4000万画素カメラを手に入れたのに、撮る列車が居なくなった・・・ 加山雄三
高橋元太郎
石坂浩二
原田芳雄
以上、模型鉄。
石川さゆり
蒸機コレクター。 上野駅の19時発の最終特急ひばりに乗るのに、
田町駅(会社が終わるのが17時30分)から上野駅へ急いで移動して、電車ホームから更に混雑が酷い
上野駅構内を走って長距離列車ホームへと若かりし時だったがキツカッタ。
で、仙台駅に着くと薄暗い仙石線のホームへ(あの時代は半地下の通路)移動して
最終の電車で下馬駅へ
そこからは、もう路線バスもない時間なので金のあまり入ってない財布から
千円札を出してタクシーで実家まで帰ったわ。
あの頃のタクシー料金は覚えていない。
で、逆に夜行急行で帰省して仙石線始発で乗っても始発路線バスまで少々時間が
あったのでバス停で待ってるしかなかったわ!!。 >>34
鉄道写真ではマニュアル一眼レフのほうが簡単に取れる
オートフォーカスだと一世一代のチャンスの時に限って
非情にもピント中抜けしてしまう
同じことは自動露出にも言える
スタデラなど電池の要らない露出計を使うとすごい楽 高貴な方々がお好きになるくらいだから
昭和の鉄道には単なる運輸の道具というには惜しい
文化を生む工芸品のような芸術的価値が
まだあったんだろうな 超満員の通勤電車やラッシュ時の駅、それにストライキ中の様子を撮影、記録するような鉄オタはほとんどいなかったけどな。
新型車登場や旧型の引退のときは別として。新幹線や103系のような通勤電車を追い回すのは少なかった。 マナーの悪さでは昔の方が酷かったかも。
上野駅なんて線路上で撮影する少年たちがいた。
まあ行き止まり式の線路だからスピードも出ないし線路に降りたところで大した事故にはならないだろうが >>80 悪質なことするのが大量に発生するようになってきたのが問題なんでは?
往来妨害、業務妨害を平気でやるようなのが。先日の札沼線のように 確かに、ありえない位置での写真とかある。
いや、自分が撮ったのでなく本や記録映像での話。 >>80
ブルトレブームの頃が一番酷く感じた。それもあって自分は撮りテツから引いた。 >>50
年賀状の余ったのでやるから1月が多いんだよね 汽車の写真なんか撮って何するんだね?
おめさんとこに汽車走ってねーが? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています