青函連絡船7便
青函連絡船の風呂?
某丸の甲板部の風呂に入れてもらったことがある。 確かシャワーはあったよな
乗船時は疲れて食事と寝るだけで精一杯だったね 海峡ラーメンがあったのって、最後の頃だけだったよね? >>6
どのくらいから最後と言うのがわからないけど、
家にある時刻表では1978-8にはあった
1976-7にはなかった1977は持ってないからわかりません 洞爺丸の汽笛
現状では貧弱なテープレコーダーで録音したものしか残っていないが、
乗ったことがある人の証言によると、「ボォーーー」という力強く太い音の汽笛だったらしい。
タイタニック号の汽笛も「ボゥオー」と勇ましい音。 そいえば天賞堂の模型は汽笛が鳴るらしいが試していない 船会社により様々だろうけど、ここの「レッコーショアライン!」ってやはりカッコいいねぇ。 同じ会社でも、宇高ではほとんど「レッコー・ショアライン」は使わないんだね。 津軽海峡が大時化の時や、荒れているときは青函連絡船の船内食堂は営業中止だった >>17
はい、深夜便で何度か使いました。
2段ベッドが2台の四人定員の部屋で、航行時間は短かったのですが、
客層がよくて船室に静粛性があり、よく眠れました。 宮脇さん『学生なのに寝台を使うなんぞ生意気だぞ、と言った気がしないでもない』 比羅夫丸のエンジンは蒸気タービンだったが、当時の技術的限界故に、直結タービンであり、
タービンにとっては回転数が低すぎ、スクリューにとっては回転数が高すぎて、エネルギー効率は良くなかった。
蒸気タービン船は、タービンの隣に大きな減速機が付いているのは、スクリュープロペラは低回転の方が効率がいいからだ。
後進時は、後進用のタービンを用いるか、低圧タービンを逆回転させるかのどちらかを使う。
20ノットで航行中に全速で後進させたらどうなるかと言うと、スクリュープロペラの推進軸が猛烈なねじりに耐えきれずに破損してしまう。
これを避けるために、ある程度船足が落ちてからでないと、プロペラの逆回転のブレーキは使えない。
可変ピッチプロペラの場合は、中立状態にして、ある程度船足が落ちてから、ゆっくりとプロペラの羽根の向きを逆にしていく。 >>22
RJ誌のレポ(青函に続きこちらも種村さん)では、後退→転回→前進の際、号令無しで船長自身がボタンを押したとなってたぞ。 鉄道雑誌の記事は、船のことわからない人が書いてるから間違ったことが多いね。
スレチだが、宇高の場合、汽笛は号令で押させることはなかったが、船長が立つところのは
ボタンについたレバーを引くようになっていたから、いずれにせよ「押す」ことはなかった。 >>18
その通りですね。
深夜便で何度か乗りましたが、定員の少ない個室感覚の部屋で独特の高級感があり、
客層がよくて皆眠ることに徹していたので、静粛性があり快適でした。 >>26
着岸前後には、客が起きたかどうか、船員が見に来てくれたんだよ。 >>25
宇高では、出航の汽笛などは通常は鳴らさんかったよ。 >>17
船に乗ってから船内の案内所で寝台券を買うと
○○丸発行の硬券が出て来たんだよ。 だいぶ前のRFかRJ誌に青函切符コレクション記事があったな。
アンコール最終日の臨3便船内で切符を購入して「函館到着間近だったからこれが羊蹄丸最後の発行だろう」とあった。
反対に十和田丸最後の切符を買ったのは誰だろうな。 浦賀で造った青函連絡船もあるんだっけ?
今、それがわかる石碑とか案内板戸かあるのかな? >>32
松前丸ジャマイカ
機器の動作訓練で浦賀に通ったっての読んだ希ガス 浦賀
1946年以後
北見丸型全2隻
洞爺丸型摩周丸
檜山丸型空知丸
津軽丸型津軽丸・十和田丸 浦賀っていっても、浦賀と川間の2カ所があるぞ。
連絡船は両方で建造されている 【鉄道】青函トンネルの貨物列車全面撤退を断念 北海道新幹線の高速化に課題を残す…国交省
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566271850/994
994 名無しさん@1周年 2019/08/21 23:23:40.30 ID:r1SrQGim0
>> 981
どちらとも正しい
定期最終日までは車両を積んで航行した
3.13 青森1岸0730発 23便(八甲田丸)
控車20両(最後は桟橋から手押し)
3.13 函館1岸0240発 170便(八甲田丸)
コキ50000×17両
3.13 青森1岸0005発 101便(桧山丸)
コキ50000×16両
コキ60000×1両
ただし、それ以降は車両を搭載していない
また、博覧会用として9月まで臨時運航した2隻も同様 もう見られないスレだが、ナンセンスというか本末転倒というか。
路面が傷むからって高速道路からトラックを追い出すかっての。 >>42
同意。
沈没原因は、運悪く漂砂にキールが引っかかって、横風にあおられて
横転したためということを伝えてほしかった。 >>45
知っている。
以前、図書館の本で読んで知った。
やはり、戦争に関する話は図書館の本を読んで知るのが一番。 片肺航行
エンジンが2つ以上ある船舶にて、片方のエンジンだけで航行すること。
そのままだと、船が曲がって進むため、舵を上手く使ってコントロールする。
当然ながら、航海性能は大幅に低下し、洞爺丸では片肺になると、10ノットを出すのが精一杯になる。
舵が利かなくなり、上から見ると、大きく円を描くようにして走る第四青函丸。 小学生のころお爺ちゃんの船員さんと仲良くなったらその船員さんが
「俺の孫だから」とうそをついて操舵室に入れてくれたのが忘れられない 小学生のとき、神田の交通博物館で青函連絡船の船内で迷子になって船内を探検する映画を観た記憶がある
今の大宮の鉄道博物館は映画設備ないんだよね? じゃ自分も小学生の時の話
青森の叔母さんが函館に帰る自分に「船で読む本」として
学研ジュニアチャンピオンコース「あの事件を追え」を買ってくれた
その中の「洞爺丸沈没」のあまりの迫力と怖さに
八甲田丸の中で震えて泣いたっけ… >>50
一応北館の一番奥にあるが普段は子供向けのビコムDVDみたいなのばかり流してる
ただ時々記録映画を流したりもしてるらしく、今度の週末からは特別展に合わせて
「あさかぜの食堂車で働くスタッフ」のドキュメンタリー映像を流すそうだ
(PDF注意、6頁目)
http://www.railway-museum.jp/press/pdf/20190828_1.pdf 海峡ラーメンは食べてみたけど美味しくなかった。
ちょっとワカメを入れすぎのような。
風呂にも入ったが威張れるほどの風呂じゃなかったよ。 旧船だったらいざ知らず、津軽丸以降は風呂だったら、士官浴室1カ所と部員浴室2カ所の計3カ所しかないよね。 >>58
そんなことはない。
青函連絡船のシャワーには何度もお世話になった。
タイル張りの殺風景な区画だったが、当時は列車にはシャワーはなく、
青函連絡船のシャワーは乗り鉄にはありがたい設備だった。 シャワーのお湯の水は、元をたどるとギャレーなどと同じ清水タンクから来ているから、臭いということはないと思う。
函館で積むので、函館の水道水。 >>61
俺が使ったときは、木製のすのこがあったから、そのにおいかも? まあ、青函連絡船に高級な風呂を求めたことはなかったよ 台風来てるけど青函連絡船は普段どおりに運航するのかな? 他の交通機関が止まるのに動くかもという発想は
なぜでしょうか。 海峡ラーメンは、当時の東京の巷のラーメンに比べれば旨かったかも知れんが、これから北海道帰る人間にとっては、特筆すべきはない味だった。
故に函館も桑園も程なく閉店しちゃった。 先週BSで放映された「居酒屋兆治」の録画を見たが、
背景の函館港や津軽海峡にキチンと連絡船が出ていて感動。
造船所のシーンでは背景を通過したのが「檜山丸」と確認できたが、
その他のシーンは船の特定にまでは至らなかった。 平成という時代を通り過ぎても、「津軽海峡・冬景色」という歌で青函連絡船は語り継がれ続けている。
令和が終わる時、北斗星やらトワイライトエクスプレスの存在を覚えている鉄ヲタ以外の人はいるだろうか?
そんなことを、紅白歌合戦合石川さゆりの歌声を聞きながら感じてしまった。
連絡船ファンの皆さん、良いお年を! >>71
第三補機室にし尿処理装置があって、それで処理していたはず。 陸上は垂れ流しで海上は処理か。
そこは逆じゃね?と思う。 >>74
外航船なら洋上投棄じゃないかなあ。
横浜大桟橋に何台ものバキュームカーなんて見たことないし。 青函連絡船のあった昭和は実にいい時代だった・・・・・・・ 携帯電話はないし
給料は手渡しだし
便所は和洋以前にくみ取り式だし 今じゃ考えられないような、怖い事件多かった気がする オレはガラガラのグリーン席でシャワー浴びたあと爆睡してたな
うまく行くと二席占領できたからな 爆睡する人もいて起きたらまた戻っていたこともあるんだろうね 青函連絡船の寝台は列車の寝台と違ってよく寝れたし、料金も安めの
設定(1978年10月2000円・1988年2400円)だったので深夜便で2回ほど
利用した事があったけど約4時間の利用時間が短すぎてちょっと残念。 ゆうづるの若番は早朝に連着だったから、二度寝に使った人も多そうだな。 青函連絡船の通常は出港のどれくらい前から客扱いしていたんだろう?
列車からの接続以外の乗客もいただろう だいたい出航20分前
夜行便となる1・2便(と追加の11・112便)は特急乗継客優先
繁忙期の急行・快速・普通乗継客はほぼ2時台に出る151・158便へ回された >>88
揚げ足取るつもりはないが、✕112→○12便ね。
晩年は深夜便の甲便の便名は11→101便、12→102便になっていた。 >>88
S53.8、急行「しらゆき」から青函連絡船に乗り継いだが、
何とか1便?に乗ることが出来た。
乗り損ねたら札幌の集合時間に間に合わなかった。
(函館で気動車「ニセコ」に乗り継ぐため)
以前書いた話ですまん。 >>90
S53だと、まだ連絡船のお客がいっぱいいて、深夜便は混雑していた頃でしょうね? >>91
そりゃすごかったです。
はつかり、白鳥、みちのく、3本からの客を受けることもあり、
特急からの優先客がぞろぞろとロープ柵の向こう側を行く姿を見て、
「しらゆき」は北海道連絡の列車じゃなかったんだ、と認識しました。
まあざっとの計算で、3列車×650で約2,000人になりますか。 船での宿泊は移動しながら目的地に行けるし、自分にとっては快適で安いし、
欠点は見当たらなかった。 スタビなければ、うねり1なくてもそこそこ揺れるよ。