深名線の思い出
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
レイクハウスまどかに泊まりたいが、道外からは受けいれてくれるだろうか? 日本屈指の人口希薄地帯に平成の世まで生き残った鉄道 イトウは宇津内辺りでは釣れないな
厳冬期の宇津内は行くことも無理だか、釣り事態自殺行為かもしれない 1988年復刻時刻表が出たので見てみました。
朱鞠内をまたぐ運転が出てきてます。 JTBからでてる『時刻表完全復刻版 1988年3月号』のことだろうね
同じシリーズで64年の9月号と10月号もある 25年前の今日、旭川の駅前ターミナルに宿をとった。 深名線廃止から今日で25年。
屈指の過疎化地帯にマニアが殺到。
幌加内では大雨に。 幌加内では大雨だったが朱鞠内湖では天候が回復していたあの日。 25年前の深名線最後の日は今日の首都圏の天候に酷似 涙雨降ってたなあ。
25年前の夜。
プライベートを含めて、思い出すだけで、辛い。 大往生だろう
美幸線と赤字日本一を争っていた路線が平成の世まで生き残ったのだから あの日、深川駅に到着して、車掌の感謝のアナウンス。最後に「蛍の光」が
流れたのは悲しい記憶として現在に残っている。 深名線最後の日とバス転換最初の日に立ち会った人はかなりいることだろう。 二股から朱鞠内湖まで歩いて15分、やはり遠い。。。
朱鞠内湖から朱鞠内駅までは歩いて40分。
駅周辺でビールを販売する店はなかった。 確かに見方によっては道路は二股に分かれているが、違う見方をすると三股でもある、と、遠回しに言ってみてやる。 湖畔駅の前に一軒家があったが、今はないのかな?それとも廃屋か? >>725
>>564の事かな?
でも>>724の回答にはなってないと思う >>726
最初からと書いてあるだろ?
それ以前に出ていた話題だ。答えも出ている。 >>727
先輩! 726サンへの教育が厳しいッス そのまま自然に還るだろう
だから、マウンテンバイクで走破した方が良い ∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマ──!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_) いよいよ雪の季節に入るな
名羽線含めて深名線跡地はもうすぐ雪に埋もれてしまう >>738
特雪443レと特雪440
DD14の背後合わせ重連な 雪に埋もれる冬こそ深名線☃️🎄❄️ 列車が通ってない時間帯に除雪車が出ていたようだけど、キハはよく雪を掻き分けていたよな
車窓からでも天塩弥生-朱鞠内は凄かった記憶がある >>737
西名寄駅跡はライスセンターの倉庫になって、黄色の接近標識が残っていたはずだけど? 朱鞠内からの国鉄名羽線の建設跡地を見に行って欲しいですな 誰も探さないので、雪がなくなる頃までのんびりしてください。 幌加内マイナス32.6℃を記録。
朱鞠内も氷点下30度越え。 >>749
積雪が凄すぎて車窓から見えるのは
連続した雪壁だけ 冬の深名線といえば特雪433列車と特雪430列車だろ
DD14の背合わせ重連を何回も撮影しに行ったのが懐かしい 北母子里から朱鞠内までが、これぞ厳冬期の北海道の光景だと思った
キハ53は雪を掻き分け、唸るエンジンで無人地帯を駆け抜けていく
何度かキツネを見たよ >>752
キハ22でなくキハ53の時代ですか・・ >>752
この期間はワイド周遊券の旅行者でも緊張するよ 冬期間は朱鞠内近辺の国道を車を走るのだけでも難儀な時が多いのに、
鉄道を運行していたのだから、国鉄には恐れ入りますわ。 深名線の特雪は自分も何回か撮影した事があるけど移動は空港で借りたレンタカーだしカメラ手持ち1丁
なので外で待ってる時間はせいぜい10分くらい前でそれまでは暖房の効いた車内で待機してるから厳寒用
防寒儀を着ていればなんとかなったけど外に20分以上居たらヤバイかも知れない。まずい昼休み終ってる もう乗れない、いや、夢でしか乗れないかも。
極寒期の深名線に俺が乗ったとき、垢抜けないひとり旅の女の子が、通しで乗ってたけど、
男子周遊券客は誰も声をかけてなかったみたいだった。
今だったら歳は50を越えて顔も変化して、子供の一人や二人、また孫がいるだろう。 雪女は顔をベールで隠して色白でスタイルは抜群に良い
深名線の乗客には残念ながらいなかったな >>769
ググったら、ずいぶん前に閉館したとのこと。
スレ違いだけど、サロベツのあしたの城はまだあるみたい。 北海道道688号線も雪解けしただろうから、チャリで探索してみるかな >>774
残っているところもあるけどな。
宇摩の手前あたりはわかりやすいかな。 冬の幌加内を車で旅したことある。
人々の生きる強さ感じた。
除雪は24時間行われているから大丈夫。 キハの車内はジャンパー脱いでトレーナー一枚で快適だった Youtubeに深名線最終日の動画がアップされていたが
朱鞠内駅で最終列車を見送る大西食料品店のおじさんが出ていた。
深名線に乗ると大体は朱鞠内で乗り換え又は小休止、
ここか農協支所で食料や飲み物を入手するのがパターンだった。
平成3年暮れに朱鞠内は89戸で1戸平均2人暮らしていなかったが
今は50戸を下回り、人口も100人を割っている。 >>782
それでも、駐在所や郵便局、役場支所があるし、老人ホーム等もあるので、
一応の体裁は付いているが、老人ホームの住人も事実上は
よそ者の気もするし、農協支所も閉店、大西さんも廃業したらしい。
昔は栄えた町だったけど、昭和39年の大火後は地勢も振るわないが、
その朱鞠内以上に寂れたのは隣の添牛内だね。
昔は添牛内が幌加内町の北の中心として、農協や役場支所、駐在所、病院、
日通営業所、学校、郵便局や旅館等が集まっていたが、みんな消えてしまった。
朱鞠内駅前にあった農協事業所も昔は「添牛内農協朱鞠内支所」だったが、
添牛内農協が倒産してしまい(地内の馬鈴薯澱粉工場は設備も旧式で
澱粉垂れ流し状態で非効率的、これらを集約するべく農協主導で1966年に
合理化澱粉工場を新市街に建てたが、馬鈴薯不況で経営は振るわずに数年で閉鎖、
この合理化澱粉工場の件が大きく響いて添牛内農協は破綻した)、幌加内農協との
合併、吸収というかたちで政和、朱鞠内、母子里の各支所は幌加内農協の事業所となり、、
添牛内農協本部も幌加内農協添牛内事業所となったが、実態は店番が1人いるだけだったし、
ついには添牛内事業所さえもが閉店してしまった。
深名線廃止前は郵便局や農協事業所、杉浦商店等、現金消費場所があったが
今の添牛内で現金を消費できるのは郵便局跡の霧立亭くらいでは? 「球聖」と異名をとる私もこの深名線には3回乗った。
廃止当日の1995年9月3日の当日の最終列車にも乗車した。
懐かしい思い出である(゜-゜) 丁度いま幌加内そば(茹で乾麺)を食べているよ。
深名線の沿線、多度志から幌加内、そして、幌加内から
峠を越えた江丹別付近は蕎麦の三角地帯というところかと、
今でこそ日本一のそばの町として有名な幌加内だけど、
昔は全く栽培されていなかった。
国道沿いに広がる見事なそば畑もかつてはじゃがいも畑(主に幌加内以北)、
又は水田だったが、昭和30年代後半からは相次ぐ離農によって過疎化が急速に進み
更に昭和44年からの減反政策のあおりで仕方なく栽培を始めたもの。
稲作には不適当だった幌加内の地理気象が蕎麦にはどんぴしゃりというところで
昭和55年には作付日本一となり、今は土地の集約化が進み大規模な農家も増え
今の時期、幌加内のそば畑の眺めに感嘆する者も多いが、そば農家としては
「最も手間のかからないものを仕方なく作っているんだけど・・・」が本音では。
また、平成の初め頃はじゃがいもやカボチャ、米などもかなり栽培されていて
雨竜郡各町と米出荷量を競っていたし、倒産した添牛内農協を吸収合併した
幌加内農協も事実上倒産していて、この時期、政府の管理下にあった事は
意外と知られていない事実でもある。
平成3年末時点で幌加内農協朱鞠内事業所管内の農家戸数2戸、
添牛内管内が確かゼロで政和も僅か、この組合員数では行き詰まる。
旧添牛内農協管内では母子里事業所が平成初期に真っ先に閉鎖され、
政和、添牛内が続き、最後まで残った朱鞠内事業所も閉店したので、
今の幌加内町政和以北に食料品等の小売店は事実上存在しない。 では、5行くらいでまとめるか
今日の昼食も幌加内そば(藤原製麺)だよ(笑)
多度志は駅が町外れに設置されたので市街地は少し離れていた。石狩沼田発多度志行の北空知バスも一応は深名線に接続していたが、
つい寝過ごしてしまい、着いたのが駅から離れた多度志市街地。歩いても下り深名線には間に合いそうにないので、
バス停前にあった駐在所に駆け込んで事情を説明したら、所長の奥さんが自家用車で駅まで運んでくれて、
辛うじて間に合った経験がある。駅員のいる時代だったら、駐在所から駅に電話・・・
「これからお客さんを連れて行くので汽車を待たせておいて」こんな芸当もできたと思うけどね。 そして、駅がなくなると町は寂れるね。
多度志からはハイヤー営業所や北空知信用金庫多度志支店も撤退したし、
Aコープや駅前の桶谷商店、鎌倉旅館も閉店廃業して、駅裏の多度志中学校も閉校に。
今では旧多度志町エリアの人口も1000人を割ったのでは? 鷹泊は深川だけではなく、幌加内との往来も意外と多く、
上下列車ともに乗降客はまあまあいたし、幌加内から鷹泊行の常備券もあった。
駐在所やホクレンスタンド、郵便局はあるものの、寂れた感は否めないし、
鷹泊駅舎もいつまで持ち堪えられるか・・・そんな状態だよ。
尚、旧鷹泊小学校跡を活用したリフレッシュプラザ鷹泊内に深名線資料室がある。 路線バスなら乗ったぞ
幌加内〜深川はまだ機能してた セコマがない幌加内は、やる気のないAcopeが生命線。 お盆で家にいるので、今日の昼食も幌加内そば(笑)
さて、廃止当時は下り5時10分深川発が始発で、朱鞠内発上り始発は7時55分頃だったと記憶しているが
3台で深川を早朝に発ち、途中の幌加内と朱鞠内で1台ずつ切り離してそれぞれ始発として折り返すし、
車掌からも名寄まで直通する先頭の車に乗る様に促されたので、実質的に始発兼送り込み回送というところだけど、
このダイヤに改められたのは1990年だったかと。その前は深川発下り始発は5時25分頃の発車で、
朱鞠内発深川行の始発は5時55分頃だった。深川から2台の気動車が朱鞠内へと朝早くに回送されていた訳だけど
早朝に走る回送列車が空走りで勿体ないと思っていたよ。朱鞠内や幌加内に車庫がないので仕方なかったけど、
昔は朱鞠内に車庫もあって蒸気機関車も常駐していたし、朱鞠内から深川への始発が5時頃で、深川からの朱鞠内着
最終も23時近くで昭和30〜40年代は上下6往復の定期列車の他に貨物列車も走るし、その入れ替えなどで朱鞠内駅は
かなりせわしなかったよ。 また、名寄発朱鞠内行最終(20時頃着)と深川発朱鞠内行最終(19時頃着)をつなげて
幌加内まで回送した上で、幌加内駅で深川からの最終列車と繋いで幌加内発の
最終列車として運転していたけど、朱鞠内〜幌加内間は乗客も見込めなかったし、
回送も仕方なかったかと。と言うか、幌加内発深川行最終も実質的には回送だった。
また、平成6年1月22日20時過ぎ、添牛内の浄念寺二世住職(75歳)が寺院近くの踏切で
車ごと立ち往生していたところに朱鞠内発深川行の回送列車と衝突して亡くなり、
浄念寺も檀家数の減少に伴い、数年前に廃寺となった。 >>796
始発の深川発名寄行には運転士と車掌が3人ずつ乗務していたのでしょうか? >>798
便乗扱いで乗っていた。
14時過ぎに深川を発つ朱鞠内行の車掌と運転手が翌日の始発に乗務。
前日は14時7分頃に深川を発つ列車で朱鞠内へ、車両は名寄へと直通するが、
車掌と運転手は名寄から来た深川行で戻り、更に深川と幌加内の間を最終列車で
往復後に旭川へと戻り、ここで一泊、翌朝は旭川から回送列車で深川へ、
始発に乗務する車掌は深川から名寄へ直行、更に朱鞠内〜名寄間を一往復して
10時40分頃に名寄へ戻り、急行に便乗して旭川へと戻っていた。
尚、早朝に深川を発ち、更に名寄と朱鞠内の間を一往復した車両は間合いで
運転する事無く名寄で車庫へ入り一休み、16時発の深川行となっていたが、
深川を11時過ぎに発つ列車の車両は留萌本線から直行する事もあった。 深川始発の朝の5時10分の列車に乗るために網走発札幌行きの特急オホーツクの
夜行を宿代わりにしたのを思い出しました( ´〜`) >>800
そして、深川駅前のコンビニで食料等を調達していたのでは?
5時10分発名寄行の3号車は幌加内で切り離して、折返し深川への通学生を乗せるため、
名寄へ直通する1号車は朱鞠内から名寄への通学生を運ぶための回送列車みたいなもの。
朱鞠内に残された2号車は深川行となって8時少し前に朱鞠内を発ち、
8時40分頃に幌加内に着けるが、幌加内中学校※への通学生は間に合わないので
(※朱鞠内中学校は1986年に幌加内中学校に統合、政和と添牛内も昔は小中併置だった)
列車より早い時刻に朱鞠内を出る町民バスで通学していた。 始発と最終を除くと深川を発つ時にはまあまあ混雑していても
(それでも1ボックスに2〜3人だったが)多度志と鷹泊でかなり下車して、
残りも幌加内でほとんど下車してしまい、朱鞠内まではほぼ空気輸送状態。
幌加内から沼牛まで乗る人はいたけど、沼牛から下りに乗る人を見た事はほぼない。
あまりにもダイヤが不便だし、行きは自動車等で幌加内まで送ってもらい、
帰りのみ深名線を使っていたんだと思うよ。
また、3往復しか走らないにもかかわらず半分の列車が通過していた
西名寄はというと、住宅や商店もあったし、近所には市営住宅もあったが
市街にも近く、曙橋を渡るとほぼ名寄市街。少し歩けばバスに乗れるので
さほど不便もなかった様で昭和30年代には早々と無人化されたし、
昭和45年には曙小学校も隣の弥生小学校(昭和53年閉校)ではなく
名寄小学校に統合されているよ。 >>805
>>806
804だけど何か聞きたい事ある? >>807
在りし日の白樺駅、蕗ノ台駅の様子などを知りたいですね。
いつごろから人家がなくなったんでしょうか? >>808
白樺、蕗の台共にかつては交換駅でかなりの木材を積み出していたし
戦後集団開拓団が入地した蕗の台には小中学校もあった。
しかし、気候条件も激しく、営農は振るわずに離農が相次ぎ
昭和37年には蕗の台小中学校が廃校となり、同年開拓団も解散、
昭和39年には蕗ノ台駅が無人化され、昭和47年頃には無人地帯となった。
白樺はホームや線路より高い位置に比較的珍しい左側出入り口の駅舎が建ち、
(蕗の台駅舎もほぼ同じ形の左側出入り口)、同時に開業した宇津内駅が後に
北一已駅の駅舎に転用されたとの資料もあるし、北一已駅が左側出入り口である
事を考えると宇津内、蕗ノ台、白樺各駅は同一設計とみて間違いないと思う。
農業には不適当な土地であったが、一時期は木材の輸送で栄えたものの
昭和30年代に入ると急速に寂れ、昭和36年には無人駅となり、昭和38年頃には
無住地に、そして、昭和52年からは冬季閉鎖となった事は皆さん承知かと。
朱鞠内湖が近いのでたまに釣り人が下車したり、天文ファンや鉄道ファンが
下車するくらいだったが、平成2年の廃止後もプレハブづくりの保線小屋が残り、
(同様の小屋は蕗ノ台にも存在)ストーブや調度品も置かれていた。
また、蕗ノ台駅は深名線撮影の隠れた名所とされていた >>810
最盛期は1.7万の人口を数え、戦後もほぼ1.2万人程度で固定化されていた
幌加内の人口も今では1350人ほどで更に減少を続けているが、
この1350人は最盛期の朱鞠内や添牛内の人口さえも下回っている。
特に幌加内以北は昭和40年代以降、森林資源の枯渇や減反政策による離農が相次ぎ、
急激に過疎化が進んだ。大規模な蕎麦畑もかつては水田やじゃがいも畑、
あるいは牧草地で、幌加内名産の蕎麦も減反と離農の副産物とさえ言える。
また、幌加内からは鉄道や畑、水田、農協だけではなく郵便局もかなり消えた。
現在町内にある郵便局(簡易局を除く)は幌加内と朱鞠内のみだが、かつては沼牛、
政和、添牛内にも郵便局があり、それぞれ昭和末期までは配達も行っていたが、
平成3年に沼牛が廃止され、次いで深名線の後を追う様に平成8年には
政和が続き(簡易局設置)、平成11年には添牛内が廃止されたし、
後に朱鞠内も集配を廃止した事で町内全域が幌加内郵便局の集配区内となった。
ただ、南北に細長い幌加内町だし、いくら利用者、住人が少ないからとは言え、
朱鞠内の無集配化は些か無謀だった気もする。尚、幌加内町内には民間の
宝くじ売り場がない事から幌加内、朱鞠内の両郵便局では全国自治宝くじ
(スクラッチ、数字選択式を除く)の販売と払い戻しも行っている。 幌加内も蕎麦などでなんとかもっているが
人口減少が続き
郵便局など公共設備も縮小気味
宝くじなど買うのが大変
これぐらいでまとめろよ >>812
ガイジは大変だね
読んだ先から直ぐに忘れていくんだろう?
ガイジというより認知症だなw 旅人&田舎食堂・天塩弥生のホーム側は旧駅舎の雰囲気を幾分再現しているが
正面側はあまり似ていない気がする。正面風除室が余計か?
新築時の面影を最も残していた駅舎は幌加内だな。窓を小型化したり、
増築してベニアで補修していたが、骨格は新築時のまま。最後まで駅員がいて
煮炊きをしたり、窓を開けて風を通していたので状態も良好、
戦前に撮られた写真と比べても、それほど変わっていなかった。 長文と短文、どっちがいいの?
ただ、言えるのは私の書き込む内容は全て事実だという事である。
詳しい解説の方が良いのでは? 長文が理解できないキチガイ痴呆は1人しかいないから無視して下さい 深名線が廃止された年、湖畔駅の待合室内に深名線の歴史を詳しく書いた冊子が有ったのを覚えています
もしかして>>817さんが書かれたモノですか?
当時、オートバイで訪れました
道道528号線(蕗の台朱鞠内停車場線)も走って白樺駅跡や蕗の台駅跡も訪ねました
750ccのオンロードバイクに野宿用品を満載していたので
未舗装の悪路に手こずりながら走ったのが思い出されます
今は通年、通行止めのようです >>821
いや違う。白樺や蕗の台は駅廃止後も保線関係者用のプレハブ小屋が建っていて、
夏は自動車での見回りだったので道路を閉鎖する訳にもいかなかったかと。
湖畔駅付近の三股一帯が朱鞠内旧市街で昔は栄えたが、ここから離れた場所に
朱鞠内駅がつくられ、駅開業と共に自然と人煙が立つ様になり新市街が形成されたが、
隣の添牛内も駅開業によって新市街がつくられた。開拓期の政和や添牛内は
士別方面からの入地がほとんどで、元の添牛内小学校や杉浦商店のあった付近が
添牛内旧市街、現地を訪れると気が付くと思うが、添牛内駅から旧市街にかけては
緩い上り坂が続いている。当時はここが終着駅だったし、勾配を避けて市街から
離れた平坦地に駅をつくったものと思われるが、開業とともに自然発生的に
市街地が形成され、ここを添牛内新市街と呼称する様になったが、昔は駅前に
旅館や雑貨店が建ち、国道沿いから旧市街にかけて住宅や商店が立ち並ぶ大きな街だった >>821
深名線の運行最終日、3分40秒頃から朱鞠内駅ホームで最終臨時列車を
(毎日運転されていた幌加内行回送列車を臨時列車に仕立てた)
見送る禿頭のおじさんが駅前商店(大西食料品店)の大西博春さん
朱鞠内で買い物をした際に会ったり、話をした事のある人も多いだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=4qfBqlsJd-w
朱鞠内駅に降り立ち、駅前左手にあったのが幌加内農協朱鞠内事業所とスタンドで
食料品等も販売していたが後に閉鎖、個人商店となったものの、こちらも閉店している。
そして、この農協事業所は度重なる火災に見舞われた事で地元では少し有名。
1964年5月16日に発生した朱鞠内大火に加え、近所の子供の火遊びでも消失している。
※その後再建されたこの建物は平成初期に曳家して位置も若干動いている。
農協の向かいが大西さん。室蘭に生まれ、戦後朱鞠内へと来たとの事だったが、
蕗の台へ室蘭からの日鋼開拓団が入植した経緯もあるし、そちらとも何らかの関係が
あったのかも知れないが(詳しくは聞かなかった)、朱鞠内の生き字引の様な方だった。
尚、深名線末期に朱鞠内から名寄へと列車通学していた高校生は大西さんの孫である。 >>821
昔の朱鞠内は木工場が立ち並び、国道沿いには住宅や公共施設が密集して賑やかな街だったよ。
しかし、1964年の朱鞠内大火で116戸を焼失、焼失物件には朱鞠内駅も含まれている。
人的被害はなかったが当時の金で5億円以上の損害を出し、急速に過疎化が進んだ。
それでも、昭和末期から平成初期頃はまあまあ町の体を為していたが
(廃屋や空き家も多く、廃業した床屋の腐った建物も目障りだったが・・・)
今は更に人口も減り、施設の統合や集約化が進んだので空き地も目立つね。
昔は駅前の農協支所や商店等で朱鞠内湖名産の淡水魚佃煮や筏焼きが買えたが
今は湖畔の淡水湖漁協やレークハウスで入手するか、通販のみだし、
平成初期に幌加内市街へと移転した武藤組鉄工所も倒産してしまった。 >>823で朱鞠内駅ホームで大西さんと一緒に最終列車を見送る
制帽着用の駅員は平成2年から廃止時まで在勤していたAと思われる。
Aはこの後、札幌駅に移動して改札を担当していた。
また、平成4年に朱鞠内駅助役から駅長に昇格したNは
遠軽駅副駅長などを経て、銀河線置戸駅最後の駅長となった。 添牛内も朱鞠内と同様、市街地から離れた場所に駅がつくられ、
後に周囲に新たな市街地が形成された。今では数える程しか人家もないが、
かつて添牛内新市街には日通営業所、病院、巡査駐在所、役場支所などがあり、
駅前には旅館や雑貨店、鉄道官舎等が立ち並んでいたが全て消えた。
深名線の末期、添牛内駅に降り立ち、左に折れるとまず目につくのが郵便局
(現霧立亭)だった筈、旧市街へと向かって延々と国道を歩くと右手に大きな
2階建ての建物が見えるが、これが添牛内農協で今は個人住宅となっている。
更に旧市街へと向かう途中に行信寺跡の記念碑が立つが、行信寺開基住職の
泰円澄順教は真宗出雲路派の僧侶で得度後に志を立てて福井で医業を学び、
内外科医の免許を取得、多寄で開業していたが招請に応じて明治44年に入地。
説教所を開設して布教と診療に従事、急患あれば風雪の夜道を駄鞍に身を託し、
不幸にして死んだ場合はお坊さんに早変わり、死亡診断書を書いて読経をして、
葬儀万端滞りなく済ませてくれる重宝な方だったので、生き菩薩様とも
尊敬の意味を込めてトラバサミ(嵌ったら出られない)と呼ばれたとの事。
その後、二世住職泰円澄教聴が1969年に遷化、一周忌を経て廃寺となり、
本堂は幌加内市街に移築されて西暁寺(真宗大谷派)となっているが、
例年、お盆の時期になると行信寺跡は有志たちによって丁寧に草刈りが行われている。
、 やっぱり書いてるうちに意味不明な供述を始めやがったじゃねえか 沿線の歴史、興味深く読ませていただきました
ありがとうございます
いずれ消えてしまう5ちゃんねるのスレッドで書かれるよりは、
他の媒体で、貴重な資料てして後世に残る形になさった方が良いかもしれませんね 郷土史家のようだね
このまま5ちゃんに埋もれるのは惜しい 添牛内駅は保存の方向ですが、鷹ノ巣駅は保存活動もなく朽ちていくのでしょうか? 鉄道関係のネタが少ないか?
では、1931年9月に開業した添牛内は1982年3月に無人駅となり、
同時に交換設備を廃止して運転扱いも終了したとの記述が散見される。
かつてはホーム2本を有する交換駅で1982年に無人駅となった事は確かだが、
1977年頃に撮られたとされるこの写真・・・
https://www.facebook.com/soeusinaieki/
塗装の状態からも昭和50年代前半の添牛内駅である事は間違いない。
そして、駅事務室には通票閉塞機が置かれている。が・・・・・・・
駅舎右の信号扱い所にはあるべき筈の信号梃子が存在しない(@_@)
深名線各駅は腕木信号機だったし、ここのみが色灯式に変えたとは考えにくい。
おそらく、とりあえず交換設備等は残すが、昭和50年代前半時点で
添牛内は既に運転扱いを事実上廃止していたものと思われる。 >>828
いや、基本、消えないと思う。
今のところ、富士ぶさ廃止前後(2009年)のスレも、記憶に残る語句でググれば出てくる >>831
鷹泊駅でしたね、最近ボケがすすんでねぇ、ゴホゴホ。 降臨中の郷土史家?の方、宇津内駅についてはどうですか? >>834
運賃が高くても多度志〜深川間は通学、用務はバスが圧倒的に優勢だった。
なぜなら、多度志駅が市街から離れた弥栄地区にあった事に加え、深川の高校も駅からは
遠いのに対し、バスはこまめに停まりながらほぼ学校前まで直通していたからである。
多度志以北は仕方なく通学に深名線を利用していたというところ。
さて、鷹泊は1984年11月に旅客関係の駅員を配置しない無人駅扱いの停留所となったが、
運転関係の駅員配置は1986年3月末まで続けられ、その時点でも1日に3回ほど定期列車の
交換も行われていたし、それ以前はここを始発、終着とする旅客列車も運転されていた。
ある程度の乗降客がいて、遅い時期まで運転交換駅として機能して駅員の配置が
行われていたので出入口や窓枠はアルミサッシに交換されるなど、手入れもそれなりで
残すにも適した駅舎であったと思うが、最近はホーム側庇の崩壊が少し気になる。
また、wikipediaによると「有人駅時代には待合室に水仙とバラの造花が飾られていた」
とあるが、他にも駅本屋の柱には「小鳥さん無料だよ、泊まりなさい」と書かれた
駅員手作りと思われる鳥小屋が飾られ、無人化後も存置していた。 >>835
宇津内駅はダム工事で発生する木材を運ぶために設置された様なもので、
戦中戦後の僅かな時期に駅として機能したのみで、戦後まもなく廃駅となり、
写真は1枚も発見されていない、幌加内町でも幻の駅であるが、
「一已史」によると、留萌本線北一己(当時の表記)駅の開設陳情が実り、
この時点で既に廃駅となっていた宇津内駅の駅舎を解体して現地へと運び
受益たちによって今の北一已駅を建て直したと言うが、宇津内と同時に開業した
白樺、蕗ノ台は共に北一已駅と同じ左側出入り口である事を考えると、
この話は信憑性も高く、旧宇津内駅舎=現北一已駅の可能性は非常に高い。
尚、wikipediaによると北一己駅は昭和30年に開業、昭和35年に業務委託化、
昭和44年に再度直営化とされているが、「一已史」によると北一己駅は
昭和30年に全国初の民間委託駅として開業したが、不便なので陳情により
翌年には直営化されたとあり、多方面において異なる記述がみられる。
1955年に北一己駅が全国初の民間委託駅として開業したとなっているが、 あらら、
先人お二方のブログと比べたら大したことないなあ。。
上のほうのレスで地元民しか知らないようなものすごく掘り下げた記述してたから
少し期待したのに 宇津内駅跡と思しき場所は今では入地さえ困難だし、
ほとんど自然に還っているんだよ(~_~) >>839
道道使って行ってみたいけど、
ずうっと通行止だもんなぁ あそこ 政和も正面側を解体して鉄骨補強の上で車庫兼倉庫に変わったが、
廃用材は沼牛や添牛内の補修に転用する(された)のかな?
新しい用材を使って元の姿に戻す事はできるだろうけど
廃駅舎の用材を使うのが手っ取り早く雰囲気も出るのでは? 天塩弥生と北母子里の間でレールが風連町(当時)を5キロほどかすめていたが、
町内に駅はないので事実上は受益者ゼロ。昔は西風連の連中が天塩弥生を利用していたが、
モータリゼーションと過疎化が進み、しかも、1日3往復では使い道はなかったな。
北部幌加内の住人も自家用車で士別や名寄へ買い出しに出かける事が多かった。 政和や添牛内の開拓者も士別〜温根別方面からの入地だった 幌加内町も空知支庁から上川支庁に移管され、深川署から士別署の管轄に変わったが
JA北空知管内だし、北空知信金支店もそのままで深川地区消防組合にも加入しているし
旭川や士別へのバスはないが深川発着便はあるし、深川との関係はまだまだ続くと思う 旧天塩弥生駅ホームにかなりの大木(種類不明)が立っていたが
駅廃止、ホーム撤去で切り倒したんだろうね
あの大きさだと開業前からあって、残す様にホームを作ったか
開業と同時くらいに植えたのではと思うよ >>846
消防支署も去年から士別地区に移動していた 南北に細長い幌加内町も南と北では生活圏が異なっているが
同様に南北に細長い幌延町も南の問寒別は名寄や天塩中川寄りだし、
幌延本町は天塩や豊富、稚内寄りで元の鞘の留萌は蚊帳の外という感じ。
しかし、幌延が留萌支庁から宗谷支庁へと移った事で留萌本線が廃止されたら、
檜山支庁、日高支庁に次いで留萌支庁も鉄道駅もゼロになってしまう。 国鉄時代の収支係数は1975年頃から全国ワースト2位が定位置で
(大体2000円台後半)昭和56年には赤字日本一になったが
除雪費も毎年10〜20億円くらいかかる、人口は希薄で運賃収入そのものも
少ないし、当時は深川駅と名寄駅で深名線の切符を買ってもそれぞれ、
函館本線と宗谷本線の売上に計上されていたのだから係数は大きくなる。
JR時代の係数は一体、いくら位だったんだろうか? 1981年が2901だったし、100円儲けるのに30倍や50倍はかかっていたと思う。
幌加内駅、朱鞠内駅共に普通は一人勤務だし、
朱鞠内駅事務室には「出務の厳正」と大書きしていたが、
幌加内が上下5往復、朱鞠内が名寄方3往復、深川方が回送含めて4往復、
臨時やラッセルも走るだろうけど正直言って暇なダイヤだったな。 もし、朱鞠内−羽幌の名羽線が開通していたら目も当てられないだろうな。笘竜トンネルは最初から作るつもりはなかったんだろ? 当初は羽幌口の石炭を運ぶつもりだったらしいけど、
昭和40年代半ばには羽幌鉱も閉山したし、
朱鞠内ー羽幌、朱鞠内ー北母子里、北母子里ー天塩弥生の間はほぼ無人地帯
開通しても、おそらく途方も無い数字が出ていたと思うよ 9月3日に運転された朱鞠内発下り臨時最終列車は
毎日運転されていた回送列車を臨時列車として運転したもので
朱鞠内〜幌加内間ノンストップ運転だったが、
添牛内はかつて通過不能の終着駅だったし、政和も開業時からの駅だ。
乗客がいようがいまいが、この2駅くらいは「お疲れ様」という事で
ドアカットが必要だったかも知れないが、最終列車を止めても良かったと思うな。 朱鞠内からの臨時列車を幌加内で連結したので幌加内発深川行最終が10両だったが、
定期列車だったのでダイヤ通りに沼牛や幌成、上多度志を通過して鷹泊と多度志のみに停車した 雨竜線
1924年(大正13年)10月25日に開業
3往復 8.7kmを35分 時速15km 23銭
翌年にはダイヤ改正も入って(夏時間?)
終電が20〜25分遅くなった
地図は1925年7月
https://i.imgur.com/ID5UW8c.jpg
https://i.imgur.com/q5jzpjp.jpg
https://i.imgur.com/7rvq3G2.jpg >>859
多度志や鷹泊には当然、転車台があったと思うが痕跡は見つからなかったな。
それとも、距離が短いので往路か復路どちらかは後進運転だったか?
朱鞠内には転車台があったが。
また、地図では宗谷本線(当時の天塩南線)が問寒別止まりだけど、
昔の問寒別駅は2面3線のホームと広い構内を持ち、木材等の貨物輸送も盛んで
問寒別地区の最盛期の人口は今の幌延町の人口より多いくらいだよ。
今は300人程に減り、寂しい街になったが、それでも、ストアや郵便局、
駐在所、学校などは残り、まあまあの体裁を保っているのが救いか。 1965年朱鞠内駅
転車台がはっきり見える
鷹泊は1965年の航空写真がなかった
https://i.imgur.com/axo9BFz.jpg 朱鞠内駅は大火で一度燃え、
幌加内駅も廃止後に燃えてしまったが
最後まで有人だった駅が共に火災に見舞われて
建築時の姿を失ったのも因縁みたいだね
朱鞠内の転車台は平成になっても残っていたよ
既に使っていなかったし、動くかも不明だったけど >>860
問寒別は1986年秋に宗谷本線の自動信号化に伴い無人駅となり
(正確には1984年に旅客無人化)、程なく赤屋根の駅舎が解体されたよ。
30年くらいしか使わなかったし、窓や扉はアルミサッシに交換されていて、
駅舎は解体しなくても使えたと思うけど貨車駅になった。
昔はここや雄信内から中川商高へ通う高校生がかなり乗り込んだけど
中川商高が廃校になり、スクールバスで天塩へと通う様になって利用者も激減、
それでも、まあまあの市街地があって利用者もいるし、駅が残るだけマシか。
南北に細長い幌延町の南端に位置し、幌延町が留萌支庁から宗谷支庁へ移る前から
生活圏は留萌は全くの圏外で幌延や稚内よりも名寄や音威子府、天塩中川寄り
北母子里や朱鞠内の生活圏が深川よりも、名寄や士別寄りだったのと似ているね。
しかし、音威子府以北の宗谷本線ダイヤも特急・普通各3往復では使えない...
末期の深名線か大正時代レベルの不便さだよ。 まあ旭川以北、以東は道路整備で注力して鉄道は諦めたほうがいいと思うよ
道路輸送だけだと無理な区間以外は鉄道は廃止の方向で行かないと北海道は無理だよ 大沢秀了元剣淵町長が深川市多度志町幌成の国道でバイク事故死した事がある。
大型バイク愛好家としても知られ、町長を36年続けた僧侶町長だったが。 幌加内そば祭りは2年連続中止だったよ
例年、丁度深名線が廃止された頃に実施されていた。
深名線が走っていた頃は幌加内蕎麦もそれほど有名ではなかったし、
駅前松家食堂の太い蕎麦が鉄道マニアの間で少し有名だったくらいだけどね。 そばで有名になった幌加内にはそば屋も新しく増えたけど
深名線が廃止された頃でも町内のそば屋といえば
駅前の松家食堂と国道沿いのあじよし食堂くらいだったし、
更にその昔、幌加内では蕎麦は全く栽培されていなかった。
皮肉にも蕎麦は米作には不向きだった土地の減反と離農の副産物だけどね。
松家食堂は閉店したが、あじよし食堂の息子が添牛内で霧立亭を経営している。 >>871
大体、政和〜雨煙別以南のそば畑は元は水田、政和以北はいも畑か牧草地だったよ
朝もやがかかり、寒暖差の大きな幌加内の気候は水稲栽培には不向き、
更には自然条件の悪さも相まって昭和30年代から離農が相次ぎ、北部幌加内は
特に過疎化が進み、添牛内農協の組合員数も著しい減少をきたした。
その様な中で昭和41年に農協主導で添牛内に建てた合理化澱粉工場が
再生の切り札どころか大赤字続きで逆に経営を圧迫する様になって
昭和47年には閉鎖され、翌年には添牛内農協も倒産!
この頃からそばの作付けを始める様になり、
離農地を集約するかたちで大規模なそば畑が生まれる様になった 昔、添牛内には役場支所や駐在所があって
旅館や雑貨店、病院等が軒を連ねていたとは思えない程に寂れた >>876
それで何で町になったのが昭和34年なんだろうな?
人口のピークも昭和15年辺りなのに >>879
戦前、北海道の二級町村の財政負担を北海道庁が負う代わりに保護監督的規制を行っていたため
北海道の町村には自治権が大幅に制限されていた。 >>880
でもそれ戦前の話でしょ?
昭和34年って遅すぎね? >>879
1940年頃にピークだったのは雨竜ダム工事や
砂白金採掘で一時的に増えていたせいもある >>877
数日前に食ったが
深名線の走っていた頃はネットもなかったし隔世の感があるね そんなことないぞ
音響カプラでパソコン通信繋いでたころに深名線は走ってた >>881
申請するかは自治体が決定する
町に移行するかどうか、現在なら住民投票など
人口だけでなく官公庁施設もないと駄目 >>876
サンクス
地図でなんとなく往時の想像はできた
これまでは幌加内北部の当時の中心は朱鞠内でも政和でもなく添牛内だったと聞いたときは信じられなかったけどね
現在でもなんとか集落を維持している政和や朱鞠内と違って、添牛内はもう集落とも言えなくなっていたからね 7月16日 Amazonサービス開始(米)
8月25日 マイクロソフトWindows95発売(米)
9月4日 深名線廃止(日) >>884
平成7年頃我が家にネット環境は無かった(笑)
>>886
北部幌加内の開拓は深川方面からではなく士別方面から添牛内経由での入地者が
ほとんどで朱鞠内・政和方向への分岐点だし次第と人が集まったというところか。
早い時期に電話や電気も通ったし、大正時代には郵便局や駐在所も建った。
この地図上の建物で残っているのは農協(今は個人宅)と共販(杉浦商店)に駅くらい。
その農協も倒産したし、杉浦商店も閉店、そして、駅も・・・ 素晴らしい景色の深名線だったが、唯一、禁煙区間でなかったところだけがマイナス心証だった。後は文句のつけようがない。 >>878
添牛内駅の引込線に止まっているのは木材輸送用のトラ型貨車か?
近くの天塩川木材工場からの専用線も敷設され、
ここを始発とする木材満載の貨物列車も運転されていたというし、
昔はここや朱鞠内も木材の駅だったんだろうね 名羽線も石炭よりも木材輸送線だったら良かったよね? 路盤も50%くらいは完成していたし、
沿線に資源はわんさかだけど、乗客は熊くらいだろうね。
開通していたら、羽幌〜名寄は朱鞠内でスイッチバックした筈。
留萌炭田の石炭も表面を削いだくらいで、実際にはまだまだ埋まっているし
森林資源も豊富だが、共に輸入品に押されて国内産では採算が合わないのが実情。 おいしいかどうかよりも店があるかどうかという以下略 昔、倶知安駅ホーム上にあった立ち食いそばはマジ旨かったよ。 寒くなると温かい蕎麦が恋しくなりますな(∩´∀`)∩ >>899
そば折詰駅弁のニセコそばもあったな
SL時代は倶知安や長万部のそば屋も繁盛だったと思うよ 最近は駅のホーム蕎麦屋も減ったな
今は札幌駅くらいじゃないの?
高架ホームとかではなく、上屋はあるが吹き抜け、吹きさらしホームで食べるのが良く、
18時21分に名寄着に着いたら、すぐには待合室に入らずに
1番ホームで蕎麦を食べてから駅舎に入り、弁当や飲み物を入手、
18時51分発の急行礼文の車中で弁当と燻製卵を食べるのがパターンだった。
平成3年頃に名寄駅0番線が廃止になり、深名線も3番線発着に変わったが
当時の名寄駅2、3番ホームは蒸気機関車でも出てきそうな雰囲気だったが
今はホームの上屋も無くなり、寒々としている。 名寄駅も今は上下ともにほぼ1番ホーム発車で間に合うくらいの本数だし
上屋撤去もそれだけ乗車客も減ったというところか ホームで旅情に浸りつつ蕎麦を食べたくなる駅というのはあるね。
都市の駅よりも程々の規模の乗り換え駅が良い。
北海道では音威子府や名寄、岩見沢、遠軽あたりが代表だと思うし、
昔は駅員や車掌も一緒になってそばを食っていた。 あの時、音威子府のホームにあった常盤軒で食べておいて良かった〜 深川駅で高橋商事のお楽しみ幕の内弁当を買い求めてから
11時過ぎ発の朱鞠内行に乗るのがパターンだった >>909
駅蕎麦、弁当、ウロコダンゴ全て深川市5条通りの高橋商事が製造販売 >>909
蒲鉾と添え物の梅干し以外は全て自家製手作りで
化学調味料は一切使用していない幕の内弁当だった かつては基幹産業だった稲作、畑作が潰れて
今は蕎麦ばかり栽培しているな・・・・・ 半分以下なら、旧産炭地や林業メインの町村から見たら全然マシに見える かつては人口5000人を超える独立した町だった多度志も
中学校が消え、小学校の統合話も持ち上がる程。
最盛期の5分の1もいないのでは? >>911
昼に藤原製麺の幌加内そば(乾麺)をざるそばにして食べたよ
藤原製麺には江丹別そばもあるが、幌加内の方が味ものどごしも良い 12月、土曜昼過ぎ
宗谷本線から名寄線へ乗り換えで名寄駅で待っていたところ、
「大雪のため、深名線は運休となりました。復旧の目処は立っていません」とアナウンス。
土曜昼なので待合室も人が多かった。女子高生たちを見ていたけど、驚く様子もなく。
日常の風景っぽかった。 >>878
国道沿いは添牛内商店街みたいな感じだね
今は何も残っていない 幌加内バスターミナル内の雪月花は食べたことがないけど、どうよ? >>925
食った事がないのでわからないが
添牛内の霧立亭はまあまあ上等な方だ 最後に幌加内を訪れたのは深名線が走っていた頃で、
当時は幌加内蕎麦もそれほど有名でもなかったし、幌加内での食事は大体、
駅前の松家食堂だったというか、町内で食事可能な店も数える程しか無かった。 乾麺を幾つか食べ比べてみたが、やはり、幌加内そばの味が良い IT化が進んだおかけで情報が拡散して政和や添牛内、天塩弥生で
そば屋や食堂を経営しても、それなりに成り立つんだろうけど
深名線が走っていた当時だと、沿線で食堂経営等が成り立つのは
多度志、幌加内、朱鞠内(湖畔のまねき食堂は谷川旅館と兼業)くらいだろうね >>930
朱鞠内も80年代以降は難しかっただろうね
多度志と幌加内中心部くらいだろうね >>931
深名線が走っていたら、朱鞠内は乗り換え時間もあるし、
鉄道マニアの利用が見込め・・・・・ないか(-_-)
朱鞠内の一日平均乗客数は昭和55年頃で50人くらい、
平成初め頃だと10人くらいだったからね >>933
朱鞠内は幌加内町の地名
以下Wikipediaより
基幹産業は農業(稲作、畑作)、酪農。ソバの産地として知られ、作付面積・収穫量ともに日本一。
なお、2005年度の「都道府県地価調査」によると、調査対象住宅地で日本一地価が安い地点が、字朱鞠内6400-14にある >>933
ダム工事が始まった事でにわかに活気づき
その後は後背地に控える森林資源を生かした林業、製材木工業へ
そして、林業が衰退すると観光だな。
平成3年末時点で農家は2戸だったし、昭和末期〜平成初め頃は
ワカサギや川エビの筏焼き、佃煮の製造販売と朱鞠内湖観光が
朱鞠内の数少ない産業みたいな感じだった >>936
町内の郵便局は幌加内と朱鞠内のみ
政和は簡易郵便局に格下げ、母子里は開設当初から簡易局
沼牛と添牛内は廃局になり、沼牛にいたっては跡形もない >>940列車時代と大きな変化はあったんだな。
郵便物や荷物が多かったな
深名線は荷物輸送が便利で多かったんじゃない? しかし、昭和末期までは町内に5つの集配郵便局があった幌加内町だが、
沼牛が集配廃止後数年で廃局(1991年)になると政和と添牛内も続き、
ついには朱鞠内も配達を取りやめて、町内全域の郵便配達を幌加内が
受け持つ様になった。
それだけ、人口も減り、需要も低下したとんだろうけど、幌加内から母子里への配達なんて一日仕事だと思うし、冬なんて寒いし危険では?
民営化に先立ち幌延町、天塩町、豊富町の外務集配を全て幌延局に
集約した時期があったが、冬は道路が凍る、地吹雪は食らう、
夏でも配達は遅れるわで苦情ビシバシ、無謀な企てだった事が判明して
結局、豊富と天塩がそれぞれ、配達を再開する様になったが
過度な集約化はむしろ逆効果というところか。 函館〜札幌〜[深名線経由]〜稚内
短絡させるとかどうだっただろうか >>943
樺太を控えていた戦前でさえ
深名線は宗谷本線有事の際の迂回路程度の位置づけだったし
路盤の強化も必要、除雪費もかさむわで経費倒れになったと思うよ >>946
無かったよ。
フリー切符で幌加内駅、朱鞠内駅で指定券を発行してもらおうとしたら、
出務していた幌加内駅U及び朱鞠内駅Aが面倒だからと屁理屈をこねて押し問答になった事があるが、ごり押しで0円券を発券させたよ。 深川と名寄ならば今でもみどりの窓口は健在です。
朱鞠内と幌加内、それに湖畔駅は乗下車した記憶があります(∩´∀`)∩ 朱鞠内行で、西名寄駅で高校生が1人降りた記憶があります。 政和温泉なんて駅も有ったね。
自分が乗ったときには既に廃墟になった温泉施設があったけど、その後政和温泉ルオンド
として、道の駅に復活したね。真冬の雪降る極寒地の露天風呂は趣があった。 場所も離れてるし、廃業した温泉は廃業前に温泉枯れてたみたいだし、完全に別温泉だよねあれ。
風呂上がりに裸でジンギスカン食べるのが名物だった宿のようだね >>955
泉源が涸れたのではなく
確か火事で燃えて廃業した筈 >>955
仮乗降所で降り、裸ジンギスカン屋へ行ってみたかったデス。 >>959
代わりに政和温泉ルオントで食事ができるが
メニューは丼ものと蕎麦、うどんばかり
もっとも深名線が走っていた当時は
幌加内の蕎麦も然程、有名ではなかったけどね
温泉に隣接するバンガローを借りて
自炊でジンギスカンを食べる事は可能かも知れないな 温泉ではないけど、朱鞠内レークハウスで泊まった方が良さそう >>962
夏の夜、朱鞠内辺りを車で走ると
車体に虫が大量に貼り付くわな キハ53-500の運転台のガラス部分に虫がこびりついていたよ
あれデッキブラシで落ちるのかな? 深名線の様に細々と走り続けているこのスレも
そろそろ次スレが必要になりそう
記憶の中で永遠に走り続けてほしいよ 深川5時10分発下り名寄行は事実上は幌加内から深川、朱鞠内から名寄へと通う
高校生を乗せるための送り込み回送みたいなもので、誰も乗っていない事も多く
幽霊列車とも呼ばれていたが一応は時刻表に載っている営業列車だったが、
便乗の車掌や運転手どころか、本務車掌さえ暇そうな感じ(笑)
乗客が私1人の貸切状態の時は、私から「放送を省略していいよ」などと
伝える事も多く、実際にその通りにしてくれて、ボックスでタバコを吸いながら
世間話に興ずる事もあったが、今だったらバッシングを受けるし、ありえない話だろうね。
同様に朱鞠内17時20分頃発車の名寄行最終も貸切になる事が多かった ちなみに平成2年くらいまでは深川発下り始発が5時25分頃、
朱鞠内発深川行の上り始発が5時55分頃の発車で
4時台に深川から朱鞠内への送り込み回送が運転されていたが、
朱鞠内を5時台に出たところで、通勤や通学には使えない、
丁度良い時間帯に朱鞠内から幌加内への町民バスが運行されるで
あまりにも乗客が少ないので朱鞠内からの始発も7時50分頃に繰り下げられた 一つだけ深名線に苦言を呈しておくと、喫煙可能な車両は大の嫌煙家の私には抵抗があった。そんなに密な状態でないので、まだ気管支炎の弱い私には辛い状態とまでは
行かなかったが。釧網本線も90年代半ばくらいの地点では斜里(知床斜里)〜標茶間
は喫煙可能な区間だったと記憶している。今はもう釧網本線も全線禁煙だが。 というか当時は大都市近郊以外はどこも禁煙可で一緒だろ >>969
> 乗客が私1人の貸切状態の時は、私から「放送を省略していいよ」などと
> 伝える事も多く、実際にその通りにしてくれて、ボックスでタバコを吸いながら
> 世間話に興ずる事もあったが、今だったらバッシングを受けるし、ありえない話だろうね
誰がバッシングするんだ? JR貨物の運転士がくわえタバコで運転している、なんざ写真記事をうPして騒いだ輩もいたが、貨物は運転中の飲食や喫煙もOKなんだよ。
運転席には灰皿も用意されている。 >>973
鉄道どころか観光バス、夜行バスはもちろん
郊外へ向かう路線バスでも喫煙可能だった タバコ売れないと他から税金取るしかないし、
医療費も逆にかさむ様になる 宗谷線の運転士交代後にキハのトイレでタバコ吸っていたな。臭いでバレてた。 朱鞠内の積雪75cm
幌加内の街は晴れていても
政和や添牛内、朱鞠内は雪の日も多い >>984
ニュース見りゃ誰でも知ってるよ雪降ったことなんて
チー牛駒大苫小牧オタ 1両で車掌乗務ってのも前時代的
平成七年あたりを山にして、鉄道に限らず
世の中全体のいろいろなことが
昭和感から平成感へ移行した印象がある。
この話を過去にどこかの板で書き込んだら
賛同してくれた人がいた。
鉄道関係で1つだけ例に出すと
国鉄→JR各社で硬券(乗車券&料金券系を主に)
が終了したのも、ちょうど平成七年あたり。 余談
だから、平成の名残りみたいな雰囲気も
あと数年すれば完全に令和感になると思う。 深名線を知る人も徐々に土に還りだしていることだろう。 なんだかんだでまだ深名線の小駅の駅員だった人で存命の人も多そう。
蕗ノ台、白樺、西名寄の駅員だった人で存命は居ないと思われるが。 このスレッドは1000を超えました。
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