【静岡愛知】東海を走った特急・急行【岐阜三重】
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名古屋〜大阪難波3時間半の高速バス1500円か、近鉄名古屋〜近鉄大阪難波2時間の近鉄ひのとり5000円で乗るか。
名阪の移動は新幹線の利用者が一番多いって調査結果があった
近鉄ひのとり乗ってきたけどカメラも持たずに近鉄沿線から眺めてる人があちこちでいた
奈良で近鉄快速急行待ってたら近鉄ひのとり入ってきた。プレミアの車内殆どヲタ、降りてくるなり皆撮影会に早変わりw
近鉄ひのとり、今日の報道で一時的にも近鉄需要が高まるかも。
近鉄名阪急行乗り継ぎガラガラで余裕でした
換気回数多いし近鉄ひのとりより空いてるのでコロナ対策も万全
ひのとり導入をきっかけに、近鉄にも自由席導入すればよかったのに。
昔は全席指定が基本だった名鉄特急。
名鉄本線はJRとの競合関係にあるから自由席を導入しただけの話だったが、今の名鉄特急は自由席付きが基本になった。
新幹線のぞみにも自由席が付くようになったし、今どき全席指定しかない特急は時代遅れような気がする。
名阪なら近鉄甲特急が全席指定特急、近鉄乙特急が6両中2両が自由席でもいいと思う。
近鉄ひのとりは車内販売も廃止したし、人件費を削減している。
京阪プレミアムカーなんか、40席しかないのにアテンダントが乗務している。スマホなどの充電器や、ブランケットの無料貸し出しなどを行っている。
それで追加料金は、通常の運賃に加えて、最大でも500円。 始発から終点まで乗車しても、1000円でおつりがくる。
本来なら近鉄のプレミアムシートにこそ、アテンダントが乗務すべき。
近鉄のプレミアムひのとりは、座席や車内空間といった、ハード面の水準は高いのだが、ソフト面の充実に欠けている。
近鉄特急「ひのとり」で大阪難波から近鉄名古屋駅まで2時間かけて乗って来た。
大阪難波の近鉄難波駅で式典の後に乗り込んだけれど、鉄道ファンでごった返していた。
でも、鉄道ファンの服装とか見ていると汚らしくて不潔そうでコロナウイルスを移されそうな雰囲気だった。
時々、経路不明の「細菌性赤痢」がありますね。
赤痢菌の方が元祖「ベロ毒素」なので、子供さんがかかるとややこしいのですが、遺伝子型でどこから来たのか、だいたいわかるでしょう。
いつも心配しているのは、「東南アジアで作られた冷凍食品による汚染」です。
冷凍されても細菌は死にませんから、解凍の際に周囲を汚染すれば、感染する可能性はありますね。
アルコール消毒液不足で、コロナ以外の感染症の件数増えてしまうかも…
コロナなければ、普通に買えて消毒出来ていた環境の人たちも、
確保が難しくなると、回数減らしたり更に薄めたりするしかなくなる。
梅雨の時期までにアルコール液の供給回復してくれないと困る。
現代に赤痢って、なんだか逆行してる。日本では過去のものだったのに。
海外から持ち込まれてるんだろうけど、小さな子供がなるなんてどういうことなんだろう。 >>10
誰も読まない長文キチガイ
だから世間から鉄キチって言われるんだよ (´,_ゝ`) 昭和40年代、名古屋発名古屋行のディーゼル急行が有った。先に高山線に入るのが「しろがね」、米原から北陸線に入るのが「こがね」。
自分は金沢の幼稚園の卒園式から金沢駅に直行して「しろがね」に乗って名古屋に転居したので、何とも言えない無念の想いが有る。 70年代前半の頃ですが・・・。
◎急行のりくら9号(だったと思います)
高山本線経由金沢行き夜行急行(キハ58系)名古屋⇔金沢
今では信じ難いですが、高山線に夜行とは・・・。新聞輸送でもしてたのかな?
◎急行比叡1号
東海道在来線昼行急行(モハ153系)名古屋⇔大阪
急行料金(自由席)¥300円?はビンボー学生には有難かった・・・。
◎急行兼六
米原経由北陸線昼行急行(モハ455系)名古屋⇔金沢
特急しらさぎはビンボー学生にはとても乗車は無理でした。それでも奮発して
兼六のサハシで飲んだ一杯のコーヒーの味は懐かしい思い出です。
また、D50はいなくなってたけど、坂田⇔田村間の交直デッドセクション通過
はワクワクしてました。
◎急行阿蘇
熊本行き夜行急行(10系寝台+43系座席主体)名古屋⇔熊本
こちらもビンボー学生には金星やブルトレ乗車はとても無理な話。
直角ボックスシートで一晩明かすなんて、若いから体力ありましたね。
どれも懐かしい思い出です。 >>15
70年代前半の頃だと夜行の下りのりくらは6号か7号だよ
9号になったのは53.10の時 >>16
御指摘、ありがとうございました。
還暦過ぎたロートルはやっぱり記憶がダメですね〜♬
追加
◎急行大社(キハ58系)
今では考えられないような、すごいルートで走ってました。
米原から北陸線に入り→敦賀→(小浜線)→(舞鶴線)→(宮津線)→豊岡→(山陰線)→大社
名古屋を9:30に出て終着大社には20:23
さすがに通しで乗ったことはありませんでした。(名古屋⇔小浜間のみ乗車)
終点まで乗った方いらっしゃいますか? >>15
>急行料金(自由席)¥300円
昭和49年9月30日までですと200qまで200円ですね。
他に大阪方面からの名古屋止は熊本からの特急「つばめ」と博多からの急行「玄海」
が有りました。
子供の頃、万博の帰り、京都から「玄海」に乗りました。
京都を18時前に出て20時前に名古屋着、新幹線のほぼ2倍かかるんだなと思った記憶
が有ります。 >>16
御指摘、ありがとうございます。
やっぱり大阪まで急行料金は¥200でしたか・・・。
曖昧な記憶でいい加減な記述、失礼いたしました。
確か100km¥100円きざみでしたよね。
300km以上は青天井でしたっけ?
名古屋熊本間在来線特急とか、博多間昼行急行とか、まさに隔世の感ですねェ〜。
米原からですが、湖西線開通前に大阪⇔青森間の急行きたぐにのハザ(もちろん、
直角ボックスシート)で青森まで通し乗車なんて、バカ(当時は普通でしたけどね)
やってました。
ビンボー学生で利用もできないのに前々年??の北陸トンネル火災事故からオシ17
が連結されなくなったのが残念だなんて思ってましたね。 もう1つ追加
急行赤倉(キハ58系時代)名古屋⇔新潟 中央線、篠ノ井線、信越線経由
これも通し乗車ではなく文字通り列車名の赤倉へのスキー旅行で妙高高原まで
の乗車でした。確か、ワタシが乗車した70年代半ばには全区間電化されて
いたと思うのですが、何故か気動車でした。多客期には10連位の編成となり
DMH17が豪快なサウンドを奏でて快走?していました。
直角ボックス席の車内はアフタースキーの下心アリアリのビンボー学生どもの
スキー旅行客で結構賑わっていましたね。 >>20
>300km以上は青天井でしたっけ?
モノクラスになってからは201q以上、300円です。
手元にある母が春日井で駅員さんに頼んでいただいた切符、
昭和45年8月8日の日付ですが、
京都から勝川・古虎渓間行き 東海・千種経由 720円
急行券 京都→200q 200円
となっています。 >>22
ありがとうございました。
もう半世紀近く前ですが、やっぱり安価だったんですネ〜。
中央西線しなの(キハ181系)、北陸線しらさぎ(モハ485系)、高山線ひだ(キハ82系)
紀勢線くろしお(ブルドック)・・・。
特急は羨望のまなざしで見送るのみ。ビンボーでしたが、でも良い時代でした。
番外?ですが・・・。
名鉄キハ8000系北アルプス号の間合い運用の新名古屋駅(現 名鉄名古屋)発着。
これも凄かった。 >>23
>名鉄キハ8000系北アルプス号の間合い運用の新名古屋駅(現 名鉄名古屋)発着。
>これも凄かった。
北アルプス号自体は? >>24
北アルプス号は残念ながら乗ったことはありません(8500系になってからも)。
木曽川に架かる有名な鉄道道路併用橋時代の犬山橋をDMH17の轟音と共に渡る姿は何度か
見ましたね。
キハ8000系は国鉄特急色に準じた塗装でしたが、オールハザながら名鉄得意の連続窓とか、
なかなかオシャレでしたよね。(デビュー時はロザもあったらしいですね) >>25
ああ、実際に体験したのが間合い運用の方なのですね
ところで体験談が1970年代後半っぽいのがおおくないですか? >>26
>実際に体験したのが間合い運用の方なのですね
そうです。新名古屋で次発か次々発の準急か急行待っている時だったと思います。
新名古屋の狭い構内にしばらくもうもうとディーゼル排気が充満していました。
今なら即苦情でしょうね。
’72〜以降の高校大学の頃ですが、随分時系列とかはゴッチャになってますね。
記憶に関しては極めて曖昧です。何せおよそ半世紀前のことですから・・・。
もちろん鉄道好きではありましたが、いわゆるガチガチの鉄チャンではありませ
んでしたし車窓から流れる風景を見ていれば満足するような軟弱鉄でした。
車両メモとかも取ってませんでしたしネ。 >>23
中央西線のDC急行は「赤倉」の他、長野行が「きそ」南小谷行きが「つがいけ」でした。
「きそ」は夜行の客車列車もあって、寝台の連結もありました。
スレチですが昭和48年の中央西線・篠ノ井線電化まで、名古屋発着の木曽福島・塩尻
・松本・長野行の客車の普通列車もありましたね。 1973年の電化直前の時刻表では
急行きそ1号(多治見始発長野行き)の停車駅は
多治見・土岐市・瑞浪・恵那・中津川・坂下・南木曽・野尻・須原・上松
木曽福島・藪原・木曽平沢・塩尻・松本・明科・麻績(現・聖高原)・篠ノ井・長野
と隔駅停車状態 昭和44年か45年の春ですが、藤沢の親戚の家から帰る際、藤沢から小田原まで
東海道線の普通、小田原から名古屋まで「こだま」に乗りつもりだったと思います
が、東海道線が遅れ、「こだま」への接続が悪くなり、18時ころの「東海」の
名古屋行きか大垣行きか失念、22時ころに名古屋駅に着いた記憶があります。 急行「いすず」
名古屋〜伊勢市間では、競合する近鉄特急の方が早く、また非冷房のキハ58系では、
車内設備面で近鉄特急車に勝てるはずはなく、新幹線乗り継ぎでは「いすず」の急行料金が
近鉄の特急料金250円に対し、100円になっても、名古屋から伊勢方面へ向かう客が、
スピードも遅く、非冷房でボックスシートの急行「いすず」など利用するはずはなく、
「いすず」は閑古鳥が鳴くような状態だった。 >>30
隔駅停車になってる区間も所々にあるけど全区間そうであるようなミスリードは良くないと思うよ >>29
懐かしい写真、ありがとうございました。
この急行塗装時代も記憶あります!
北アルプス号、もともとは準急からスタートだったんですね。
御指摘の通り、特急格上げは1976年10月からだったみたいですね。
ワタシは新名古屋着発だけでしたが、間合い運用のキハ8000系が名古屋本線
を爆走する(と言っても95km/hがリミットらしいです)姿を見てみたかったですね。 >>28
乗車したことはありませんが、大阪⇔長野間の夜行急行『ちくま』ってありましたよね。 急行比叡は今の快速ぐらいの所要時間だったんじゃない? 名古屋7:30発の比叡1号は大阪に10:06着で所要時間2時間36分(1970年7月)
(現在)ほぼ近似時刻発 7:32発大垣行き新快速に乗車して途中大垣と米原で
乗り換えて(岐阜→米原間は各駅停車となる)新快速姫路行きで大阪着10:13で所要時間2時間41分
余り変わりませんね〜。
比べるまでもありませんが、のぞみ1号で新大阪まで47分・・・。
そういえば、比叡1号はこの頃(1970年頃)はサハシ連結で営業もしてたんですね〜。 東海地方には高速急行という種別を設定した会社があったな。
略称である高速という呼び名のほうが一般的だったけど。 >>15
夜行の「のりくら」はご想像の通り、新聞輸送が重要な使命でした。
同じ時期、「紀州」紀伊勝浦行の夜行もありました。
しかし、登山やスキーの需要ピーク時はそれなりに混雑していて、
自由席に早めに乗車できる着席券(50円、後に乗車整理券に名称変更)
なるものも発行されており、大時計前のコンコースに着席券所持客、
不所持客それぞれに並ぶようになっていました。
そのころは発車案内は白黒テレビでしたね。 >>23
北アルプスの間合いは、
朝:新川から甚目寺の給油所まで回送、給油後新名古屋まで回送して
→新名古屋〜豊橋間を座席指定特急で1往復(新名古屋6:10発/8:17着)
→栄生まで回送でしばらく待機
→折り返して神宮前まで回送、神宮前駅堀田方の渡り線で下り線へ。
夕方:神宮前で折り返して神宮前〜新鵜沼間を座席指定特急で1往復(新名古屋16:57発/19:05着)
→神宮前発津島行座席指定特急(新名古屋19:32発)、津島から新川まで回送。
だったように記憶しています。 >>40
なるほど。やはり新聞輸送も担っていたワケですね。
キユニでも連結していたのでしょうか?それともキハ58のデッキに大量の新聞を便乗
させていたのかな??
少し脱線しますが、紀勢線の名古屋発天王寺行きB寝台連結(新宮から?)の夜行鈍行、
921列車、名称がついた『南紀』、『はやたま』。乗ってみたい列車でしたが、かなわ
ずでした。DF50あたりにけん引されて紀伊半島一周をトコトコ走ってた旧客・・・。
これまた、いいですね。 >>41
なるほど、そうだったんですね。
北アルプスの間合い運用の丁寧な御説明、ありがとうございました。
そういえば北アルプス号はクリーム4号、赤2号の国鉄特急色ではなく、クリーム4号、赤11号の
急行色塗装で正面のオヒゲ書いていたのですネ。確かに、ちょっと違ってましたね。でも、なかなか
秀逸だったと思います。
あり得ない話ですが、間合い運用のキハ8000系が一宮木曽川間で国鉄キハ82系特急ひだとデッド
ヒート(両方とも鈍足ですが)なんて、あったら面白かったでしようね。 >>32
同じく近鉄特急に勝てなかったと言えば京都〜鳥羽間の急行「志摩」もそうでしたね 関ヶ原を越える移動がわずらわしいので急行比叡復活してくれ。 鳥羽発天王寺行急行「きのくに」が設定されていたが、さすがにこの列車を全区間乗り通す人は
いなかったようで、この列車は周参見から和歌山止まりの車両を増結したり、白浜から
南海電鉄直通難波行急行「きのくに」のDCを和歌山まで連結するなどして走り、
和歌山でこれらの車両を切り離して、鳥羽発の車両は3両で天王寺に到着していた。 昭和40年代から50年代の前半、16;30〜17:00に東海道下り、北陸方面の急行が
まとまって名古屋を出発していましたね。
16:30 比叡
16:43 兼六
16:47 のりくら
子供心に、17時台にすれば会社が終わってから乗れるのに中途半端な時間だと
思っていましたが、今思えば官庁などの広域会議が15時ごろに終わってから
乗るのにちょうどいい時間帯だったのかもしれません。
中央、関西方面は18時台まで急行がありませんでしたが、周辺の県庁所在地で
言えば岐阜・福井・石川・富山は中部ブロックなのに対し、三重・滋賀は近畿
ブロックだったのでしょうか。では長野県は? 単に夕方のラッシュ時に運転できる余裕がなかっただけだと思うよ 17時台ならまだしも、16時台に余裕がないということはなかったと思う。
昭和53年の53-10改正前だと、中央線の16時台は
16:04中津川行、16:35坂下行、16:44美濃太田行の3本だけ。
そのあと17:00にしなの、続いて高蔵寺行。 >>49
だから余裕のある16時台に三本まとめて出してたんだろ >>50
ああ、そっちの意味ね。
>>48の問いかけが、なぜ長野方面にも16時台の急行がなかったの?
だったので、それに対するコメントだと読み違いしていた。
当時の東海道下り名古屋発の17時台ってそんなに余裕がないダイヤ
じゃなかったようだ。昭和53年で16:57快速米原、17:10美濃赤坂、
17:23しなの大阪、17:34米原、17:57快速大垣。快速の前やしなの
の後なら余裕で入れられそう。 熱田駅はかつては名古屋の南の玄関駅として急行も停まったのに、金山総合駅もできて寂れたな
名鉄神宮前は地位は落ちた感じだけど賑わいは維持しているのに。 熱田駅は場所がなあ。
熱田神宮にはちょっと遠いし、近くに他線の駅もない。
市電の分岐点で熱田駅前始発もあったころは、もう少し
人がいたけど、今は本当に閑散。 九州の475系と北陸471系が並ぶことは有りましたか。 >>54
山陽新幹線岡山開業より前の1970年に鹿児島に11ユニット新製配属されているから
並ぶことはあったんじゃね? >>3の中年替え歌オヤジあるある
>>3に(30年くらい前の子供番組の主題歌の)替え歌を書き込む
↓
その直後に違うIDでスレタイに沿った会話が始まるが、何故かその会話に>>1のIDは参加しない
↓
最初にあんなに会話が成り立ってたのに何故か翌日以降は誰も書き込まなくなる
↓
叩かれると「何が悪いんだ!5chは何を書いてもいいはずだろ!文句ばかり言うな!」と逆ギレする人(恐らく>>1)が出てくる
↓
スレの保守目的で「関連スレ」と称して
無関係な板に彼が立てた糞スレ(京都の女子大生がーとか気持ち悪い内容)のリンクを貼る
↓
スレが完全に止まるが一ヶ月に一回程度保守目的の文字列が投稿されてなかなか落ちない >>53
> 熱田駅は場所がなあ。
> 熱田神宮にはちょっと遠いし、近くに他線の駅もない。
地下鉄名城線・神宮西からは徒歩5分位です。
実家が瑞穂区なので、東海道線で東京方面から大垣夜行で帰ってきた時は
いつも熱田で降りて地下鉄に乗り換えてました…昭和末期の頃は。
金山が「総合駅」になって東海道線が停まるようになってからは、流石に
熱田→神宮西の乗り換えは使わなくなりましたが。 >>59
鈍行なのでスレ違いかもしれんが
上り救済臨に乗ったら
鷲津で本家(?!)に抜かれた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています