東京・九州ブルートレイン★135レ
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いなば紀伊や明星あかつきより
さくらはやぶさやなはあかつきの方が併結複数名称列車の編成的には豪華だよな EF66の顔もけん引デビューから平成の初期(たぶん九州ブルトレ没落前)までは綺麗に掃除されて
(それも夜通し走ってきたはずの上り列車の写真)いたが、晩年になると汚かった。
基地での車体洗浄しなくなったのかな? 深夜に走ると1日で虫だらけになるよ
洗車した翌日にフルサイズで撮って等倍で見るとすごく汚い
これが何日分も溜まるとスマホカメラでもわかるぐらいに汚れてくる >>781
まいにちは洗わなくなった、とかでしょうね。 残念だけど格が落ちたってことなのかもね。
以前は"寝台専用特急"として特急でも格上だったから運行後毎回くらい洗車していたのかも。
特急自体の大衆化が進んで、更に夜行客の減少や割に合わない運賃・料金で採算が合わないからコスト削減で…たまにしか洗わないってことに? 客観的な証明が不可能な自分が理解できないものを何かの陰謀のせいだと思い込む人には注意しましょう >>784
なるほど。
それだと汚れが蓄積される。 田端や長岡、青森の北行きの牽引機はピッカピカだったのにねえ 富士はやぶさネタ
2009.3.13〜14寝台特急富士・はやぶさニュース映像キャプチャ集【民放】
https://youtu.be/P_jqFEjMOMU?t=693
↑
滋賀県近江八幡市の高校3年井狩将真さん(18)は4月からJR西日本で働く。
↓
2013年9月 会社員 井狩将真容疑者(23) 岐阜県警北方署 強制わいせつで逮捕
2013年12月 無職 井狩将真容疑者(23) 近江八幡署 強制わいせつで逮捕 ブルートレインを作る
これ、20万くらいするんだろうな 「ブルートレインたらぎ」
テールの「はやぶさ」破れ幕は修繕されてるけど、残念ながら本当の幕じゃないね。
スキマから光は漏れてるように見えるから、プラ板か紙印刷かなにかだろう。
昔のこのスレで寄贈するっていってた人、けっきょく寄贈したのかな。 ↑
暗くなってから、絵マークの部分だけ点灯してないんだよね。
夜に見る寝台車というビジュアルイメージ的にも重要な部分だし、どないかならんものか。。 79年の動画見ていたら、はやぶさは終点西鹿児島まで食堂車が付いていたんだ。 方向幕って、透過光でも反射光でも同じような色に見える、けっこう特殊な印刷なんだよね
模型を作る時も意外と困ったり妥協する部分だし、素人が再現するのはかなり難しいんじゃないかと思う 俺が興味持ち始めた1980年頃にはもう付属編成の方に変わってたな 鉄道好きになった時には、熊本で食堂車もロビーカーもさいならだった。九州行きはロクロク牽引。 富士と共通運用だったんだっけ?
こちらは大分止まりだったな。 あさかぜ1・4号、出雲1・4号、富士、はやぶさが共通編成だったはず
あさかぜ1・4号は博多まで付属編成も行くが、出雲は出雲市で、富士は大分で、はやぶさは熊本で付属編成を切り離した
瀬戸とあさかぜ2・3号が共通で、瀬戸は宇野まで付属編成も行くが、あさかぜ2・3号は広島で切り離し
あとはさくらとみずほが共通だけど、出雲2・3号と紀伊はわからない 紀伊があったころまでは出雲+紀伊はさくら・みずほと共通だったよ
紀伊廃止と同時に出雲2,3号は専用編成になった
ついでにこのとき抜いたオシが24系のロビーカーの種車に 14両編成
あさかぜ1・4 全区間
はやぶさ 熊本
富士 大分
出雲1・4 出雲市(東京−出雲市間12両編成)
紀伊廃止で用途停止になったオシ14をオシ24 100番台化して日本海1・4へ回しておけば・・・ >>800-801
86年11月改正で大幅に変化した
>>802
日本海1・4号には後に瀬戸からオロネ25が回されて
予備車は出雲2・3号からあかつきに回されたオロネ14が担当されていたな >>802
車両が余ったのなら何かの列車に連結すべきってのはヲタの発想
対抗輸送機関がなく旺盛な需要があった一方で食堂車は一向に振るわず1975年の14系化時に外された日本海に
10年後に食堂車が捻出されたからって再度連結などするわけがない 食堂車は紀伊の廃止で外されたんじゃなくて、出雲3・2号の食堂車の稼働状況が致命的に悪かったから廃止になった
↓はかつて日食に勤めていた方の出雲1・4号の食堂車の営業に関するツイート
ttp://twitter.com/Tdd168_3009/status/900005102676660224
浜田発着の1・4号ですらこの状況、それよりも運行区間が短く東京発着の条件が悪い3・2号の食堂車の利用状況は容易に推測できるかと
@hayabusanozomi_
出雲、改めて時刻表を見てみると確かに食堂営業に不向きな時間でしたね。1号は早めに夕食食べてから乗り込んでも違和感ない時間だし
朝は着いてから街中で食べてもいいくらい。出雲市ぐらいで適切な時間になるけどそこで切り離したんじゃ。4号は朝食営業は確実に不可能ですね。
@Tdd168_3009
4号は朝食非営業でした。そういう意味では乗務員も本来一往復で1.5営業と効率が悪かったのです。
@hayabusanozomi_
ですよね、あの時間だと。ラッシュ前に着く食堂車列車は出雲4号だけですね。改めて分かりました。
@Tdd168_3009
営業を止めたくても止めさせてもらえない日食本社。乗務員を抱えて職場を維持しなければならない日食米子営業所。
当時はどこの営業所も同じ悩みを抱えていましたが米子は特に大変だったのではないかと思います。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ttp://twitter.com/Tdd168_3009/status/898795369621999617
@hayabusanozomi_
みずほは出雲1・4号と共に一足早く食堂車営業休止になっていましたね。
それとは別に、昭和50年代の末期には一度簡易営業に格下げになっていたとか。
@Tdd168_3009
平成に入ってからも簡易営業になった事がありました。
ただ、簡易営業でメニューを限定して使い捨て容器(ビュフェ式)で対応しても、乗務員を別に編成したり材料などを用意したりすると、
かえって手間という…出雲は営業時間が短く効率が悪かった上に、米子営業所での人員確保がむずかしかった。
@hayabusanozomi_
やくもがキハ181だった時代にはそれなりに効率よくまわせていたんですよね。出雲だけになったら、そりゃあもうまわるわけは。。。
@Tdd168_3009
退職者が出るとその補充をしなくてはいけませんが、米子市規模の街では募集をしても…
ともかく出雲は拘束時間に対して営業時間が短すぎので、時間給制での人員確保は難しく、当然、正規雇用など出来る余裕もなく…
夜行列車の乗務員確保は担当営業所泣かせだったと思います。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 出雲3・2号は米子止まりのいなばだった時代から非営業だぞ食堂車
紀伊廃止でようやく運用もさくら・みずほから分離したし増結や時間帯いじる余地も出たのは確かだが >>802訂正
○出雲3・2連結終了
×紀伊廃止
すまない
>>804
おいこら50.3の日本海用14系運用知っているのか?
早岐(佐世保)からあかつきとして来たやつを大阪から日本海として青森往復、そのあと長崎往復でやっと佐世保→早岐へ戻る1順に6本も必要なモノに、オシ14なんて繋いだ日にやぁ
毎日向日町で付け替えをやっていたら、向日町操車が切れるわ
日本海用の24系は宮原へ51.2新製配置から(この時はまだ非定期)
当然あさかぜ1・4の24系化で不足した食堂車を捻出するため、はやぶさ・富士の食堂車を熊本・大分回転をしなければならないほど不足していたから無理
変更するなら
53.2のあさかぜ1・4の24系化の際、
品川の出雲1・4と下関+広島のあさかぜ3・2を交換する。つまり、広島配置がたった4か月でなくなる惨劇付
53.10で出雲3・2は専用編成化して食堂車を外す
これで品川のオシ14は5両未運用が発生するので、うち3両をオシ24 100番台化して宮原へ日本海専用編成に組み込む形で使用開始 そもそも日本海が昭和40年代の頃から寝台の需要は旺盛なのに食堂車の需要がなかったのを無視してる時点で耳を貸す価値なし なかったと書いても、サシを改造してまで充当しようとした不都合な事実
結局そのサシは日本海では使われず、トワイライトへ組み込まれたけどね そのトワイライトとやらは昭和40年代の列車なのかよw 関西での食堂車従業員確保の困難さと関西ブルトレの食堂車の需要低下から、1975年3月で向日町と早岐から品川へと集約されたオシ14だが、
1975年3月の時点で配置9両、所要6両、予備3両と当初から余剰車があり、同時期の品川のオシ24が配置10両、所要8両、予備2両という布陣で
あるのとは対照的だった
1978年2月のあさかぜの24系25形化に際し、元々余剰気味で非営業列車の運用もあったオシ14はオシ24として再度活躍のチャンスがあったにも
関わらず、「はやぶさ」と「富士」の食堂車を基本編成から付属編成に移すことで所要数を削減して「あさかぜ」用のオシ24を捻出する方法が取られ、
オシ24への追加改造はなされなかった
1984年2月改正で出雲3・2号からオシ14が外され、配置9両、使用4両、予備5両となりさらに余剰が生じたが、転用先は本来の食堂車としてではなく
ホリデーパルのロビーカー(1984年6月・1両)と、はやぶさのロビーカー(1985年2月・2両)であり、結果品川のオシ14は配置6両、所要4両、予備2両
の適正な布陣となった
これらは昭和50年代以降も食堂車が採算が取れるほどの需要があった夜行寝台列車は東海道系統以外にはそもそもなかったことの証である >>810
青森発着の日本海はメインの需要が観光ではなく出稼ぎの帰省と修学旅行ということもあり食堂車の需要は当初からない
それを函館発着とするにあたって食堂車を5号車に連結する構想は立てたものの、函館までだと全く採算が取れないことが解かり
日本海には一度も連結されることなくそのまま立ち消え
結局スシ24はイベント列車に使うしかなかったが、トワイライトの構想が持ち上がりそちらに転用することとなっただけ 修学旅行と出稼ぎの帰省がメインなのに定期二往復も2008年まで運転していたのはなぜかな
しかも、季節日本海、末期はあおもりとして増発運転されていたにも関わらずね
修学旅行が多ければ、3本目を常設して、年始年末とかは季節の一般売りして、それ以外は修学旅行として余剰の発生していた20系を用いればよかっただけ
まったく食堂車が2両あれば2両常用の定期運転可能と本気で信じている時点で手遅れ確定
なーむー >>803
>日本海1・4号には後に瀬戸からオロネ25が回されて
>予備車は出雲2・3号からあかつきに回されたオロネ14が担当されていたな
それ民営化後ずいぶん経ってからの話だから、>>802と時代が違う 当時の利用状況すら全く知らない痛いヲタが何を言っても説得力なし
お疲れさま >修学旅行が多ければ、3本目を常設して、年始年末とかは季節の一般売りして、それ以外は修学旅行として余剰の発生していた20系を用いればよかっただけ
>まったく食堂車が2両あれば2両常用の定期運転可能と本気で信じている時点で手遅れ確定
何から何まで当時に関する認識が違うようですね
あとはご勝手にどうぞ 20系の食堂車ナシ20に関する事実も置いときますね
1970年8月 ナシ20の最終増備車27〜29が下関に新製配置
1975年11月 1968年8月新製のナシ20 22・23が新製からわずか7年で廃車
1977年10月 下関のナシ20の定期運用全廃
1978年2月 品川のナシ20の定期運用全廃
そりゃあ当時の会計検査院から怒られますわな
使う宛てなどないナシ20が品川と厚狭の構内に民営化直前まで長期間放置されていたのもこれが理由 20系は使い勝手が悪く
改造しにくかったのがなぁ
シャワールームがなかったことも 食堂車は人の確保と業者の都合が運行計画上の最も大きな要因だったからな
食堂車の業者は構内営業として国鉄にショバ代を払っていた
車内販売は黒字だったが食堂車は赤字基調で、収益も運行系統によって大きな差があった
夜行寝台の食堂車は昼行に比べて拘束時間が長い割には営業時間が短いだけでなく、途中駅での乗客の入れ替わりがないなど旨味がなかった
業者は従業員の人材確保に四苦八苦しており特に西日本ではそれが顕著だった
寝台の利用人員を見ると1974年度の19900人を境に急激な減少に転じ、5年で半減、10年では1/3にまで激減している
このため1970年代の終わりには夜行列車全廃論まで国会に提出された >>820
国鉄のブルトレ全盛時の鉄道雑誌は食堂車の事情についての記事がよく載ってたな
鉄道ファン1978年6月号の国鉄設計事務所の担当者の記事にある食堂車の記述を置いときます
>したがって24系としていろいろバラエティのある編成を弾力的に組成することが可能である.ただし、食堂車は食堂従事員不足のため一般に
>欠乏ぎみで,一部オシ14形式車をオシ24形式車(100番台)に改造したりして有効活用をはかったりしているが,14系・24系として寝台車に対する
>食堂車の割合が小さいのは,運行時間帯の性格上止むを得ない面もある. >>674の抜粋も置いときますね
ttp://twitter.com/Tdd168_3009/status/900332183142842369
@nqhcw708
お話ありがとうございます。確かに「出雲1・4号」は東京発ブルートレインで「みずほ」と並んで最初に「営業休止」になりましたし,上りの朝食営業は
出来なかったわけですね。でも,早期に西は「あさかぜ」と「瀬戸」の運用を分離し,「あさかぜ」に食堂車を付けても良かった気がします。
@Tdd168_3009
様々な理由がありますがそれは無理です。食堂営業の視点から。ファンの方々は何か幻想を抱いておられる方が多いですが、昭和40年代後半から
寝台特急の食堂車は赤字が膨らみ国鉄本社へ営業各社は廃止の申し入れを行っていました。当時は採算よりも乗客サービス優先の国鉄本社は却下。
乗務員用寝台の無料確保、営業料(ショバ代)の免除で営業継続をさせていたのです。実は100系登場時も国鉄本社から事前に示された案で食堂車が
連結されると知った4社が猛反発をした経緯もあります。食堂車は華やかに見えますが、実はとんだお荷物でした。
博多あさかぜ、100系、皆さんから見ても華やかでいい時代ですよね?けど内実は大赤字で営業各社は火の車だったのです。
民間企業となったJR各社も時代のニーズが寝台特急から新幹線に変わる中で、不採算の列車へのテコ入れは難しいでしょう。
夢を撃ち壊す現実の話で申し訳ございません。
@hayabusanozomi_
そういえば100系とほぼ同期のロビーカーも、当初は増結ではなく食堂車を外して代わりに挿入するという案もあったと聞きました。
種車にオシが選ばれたり車内に意味ありげなカウンターが設けられたりしたのはその名残と。
@Tdd168_3009
その案ありました。そういう意味では西が下関あさかぜにロビーカーを入れたのは妥当な判断だったでしょう。下関あさかぜはロビーカーのカウンターで
軽食や飲料の提供をしていました。寝台特急の場合、食堂車云々よりも時代の流れと共に列車その物の存在意義を無くしてしまったのでしょうね…
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>820-822
そういうことだったのか
これを知ってしまうと>>808にはホント乾いた笑いしか出てこないな 鉄道ジャーナル1979年9月号にある乗車ルポより
お客様の胃袋9時間お世話いたします 〜 <はつかり5号>乗務10名の奮闘記
取材日:1979年6月下旬
列車:25M(はつかり5号) 583系13両編成 上野10:03→19:04青森
乗車率:約70%
スタッフ:10名 食堂長1名、調理担当(コック)4名、会計係(ウエイトレス・車内販売担当)5名 全員が日本食堂青森営業所所属
売上:食堂21万円、車内販売15万円、計36万円 (当時の季節の平均売上:約30万円)
メニューベスト5:焼肉定食28、ハンバーグライス22、スパゲティ22、うなぎご飯19、トンカツ定食18
飲み物:ビール75、コーヒー29
>>670に1時間あたりの食堂車利用人員が出ているが、「はつかり」は22名/hで、列車ごとの売り上げランキングとしては平均程度 >当然あさかぜ1・4の24系化で不足した食堂車を捻出するため、はやぶさ・富士の食堂車を熊本・大分回転をしなければならないほど不足していたから無理
寝台車は次々に新製されていたのに食堂車は不足していたから無理?
それは食堂車が不足していたからではなくて、食堂車を新たに運営出来る条件が整えられなかったからだよね 【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】5レ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1560512057/585
585 回想774列車 2020/05/31 23:45:48.94 ID:Xgs/q5zj
新車最終増備(改造車含まず)
サシ481 1974/7/19(76) 1974/8/30(75)
サシ489 1974/7/15(12) 1974/7/15(11)
サシ581 1972/2/4(35) 1972/3/9(34)
ナシ20 1970/8/13(27-29)
オシ14 1972/7/25(14) 1972/8/10(11,12)
オシ24 1973/9/27(5)
間違っていたらごめん 大卒初任給統計
1979年 109,500円 (2012年換算)145,952円
10人がかりで9時間で売上が36万円 → 2012年換算で48万円 → 従業員1時間当たりだとで5300円/h/瑞l
1泊2日で青森から上野を片道9時間で往復してこの売上…こりゃつらいわ >>827
キシ80 1967/1/25(37)
キサシ180 1972/2/15(13) 利用者からすると、かなり割高だったし、
利用しづらかったのは確か。 だいぶスレチになってきたけど、特別なツアーやクルーズの中じゃなくて、日常の一部としての食堂車にあこがれたものだった
お定食150円は、当時の物価で見て高かったんだろうか、安かったんだろうか
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o417031366 >>831
大卒初任給
昭和29年(1954年) 10140円
2012年 201800円
物価
たばこ(ゴールデンバット) 30円
新聞購読 月330円
はがき 5円
かけそば 25〜30円
ビール大瓶 125円
米10キロ 765円 >変更するなら
>53.2のあさかぜ1・4の24系化の際、
>品川の出雲1・4と下関+広島のあさかぜ3・2を交換する。つまり、広島配置がたった4か月でなくなる惨劇付
>
>53.10で出雲3・2は専用編成化して食堂車を外す
>これで品川のオシ14は5両未運用が発生するので、うち3両をオシ24 100番台化して宮原へ日本海専用編成に組み込む形で使用開始
やる理由がサッパリ意味が判らない
特に上段の出雲とあさかぜの交換 浜田と出雲市に24系を予備車を含めて新規に分散して配置するメリットがサッパリ思いつかない よくわからんけど、
食堂車が付いている編成と付いていない編成で交換したかったのだろ
そして出雲2往復ともに食堂車なしで統一
ただ、そのセットとなる瀬戸を含めた編成の受け持ちは品川になるから、下関には主に九州ブルトレの付随編成を移管するのだろうか? あさかぜ3・2号と瀬戸が運用上でセットなのすらわかってないんしゃないかと
出雲は山陰線での制約から東海道ブルトレの編成よりも短くせざるを得ないのもわかってないのでは
>>835
九州ブルトレの付属編成を下関持ちにしたら切り離し場所は当然下関になるわけで、九州までの旅客需要の謝絶、食堂車の利用減、駅構内作業の複雑化、
長時間停車による駅ホームの容量不足など、あらゆる面でデメリットしか思い浮かばない ブルトレ食堂車の担当業者(1977年3月改正)
日食長崎 さくら
日食鹿児島 はやぶさ
日食門司 みずほ、富士
日食下関 あさかぜ1・2号(博多・20系)、あさかぜ2・1号(下関・20系)
日食米子 出雲
ソース:鉄道ファン1977年6月号 >>837
瀬戸もセットで浜田と出雲の担当にしたら、そのままだと瀬戸が減車になるわけで、
減車を解消するために毎日品川で増解結をやらせたらそれこそ品川操車が切れるわな >>837
発想としてはセット運用を変えてればの意味もあっただろう。
でも当時の国鉄は労組がそれなりに力を持っていて、今のJRのように弾力的にできず硬直してたのもあったし。 えっ?
浜田出雲からオロネを外して下関あさかぜに付けるの?
なんで? >>828
乗務員だけ切り取ればそうなるが
列車食堂だとそれ以外に地上設備と地上設備から駅のヤードまでの運搬の運転手、
駅のヤードの管理、駅のヤードからホームに荷揚げして列車に積み下ろす要員の人件費もかかってくるんやで
(もちろん持ち列車が2本以上だと分散される)
あと地上店舗だと10名のスタッフプラスαの固定で交代で休み取ればいいが
列車食堂だとある日の25Mの乗務員と翌日の乗務員とは違う(班)で
行路も班ごとに公休になるので列車本数以上に班の数は必要になる >>842
食堂車の従業員だけでみても休暇の付与等を考慮すると毎回の必要人数の概ね3.2倍が必要だからな
1日当たりの法定労働時間8時間をオーバーする片道9時間かかる毎日運転の列車で10名が必要な食堂車を毎日営業するには32名が必要 >>842
出雲を格下扱いにしたいんじゃないかな
実際列車番号も4桁だったり鉄道関係の本とかでもそう見てたところはあるんでなんだけど >>844のアンカー間違えた>>841だった
そんな出雲が結局国鉄時代の編成順に近い形で最後まで走ったのは世の中わからんもんだったが 寝台特急として最後まで生き残ったのは出雲と瀬戸だけという現実 >>844
>出雲を格下扱いにしたいんじゃないかな
本当にそれが理由なら呆れる他ないわ… >>837
そりゃないだろ
出雲1・4だって品川出区前に2両切り離されていたから
オロネ25についてはどうするかはご本人でなければ分からんけど
確かに付属についてはその問題が生じるな
なら全て基本・付属とも下関へ移管しかなさそうだね
下関→東京→西鹿児島→東京→博多→東京→宮崎(もしかして西鹿児島か)→東京→下関
サンクス >出雲1・4だって品川出区前に2両切り離されていたから
当時の出雲1・4号の基本ははやぶさ・富士と一緒の運用だが、付属は出雲のみの単独運用だったから出区前の2両切り離しはありません >下関→東京→西鹿児島→東京→博多→東京→宮崎(もしかして西鹿児島か)→東京→下関
それだと基本編成は10日間下関に戻ってきません
青森までの広域運用で有名だった早岐の14系よりもさらに2日長いんですが
1978年2月改正時の品川には146両の24系が配置になってましたが、これらを62両の配置しかなかった下関が面倒を見れたとでも言うの? >ご本人でなければ
違和感のある言い方だな
あっ() いや、横からだけど勉強になるな
>>849-850
付属編成の出雲分は運用が分かれていたんですか
知りませんでした
wikiに書いている感じでは2両だけ切り離していたように見えたもので
配置両数とか運用に詳しいようですが、どこか参考になるサイトとかありましたらお教えいただけませんか? >>852
改正毎の配置両数が書かれたサイトはいくつかあります(いずれもいくつか間違いがあるので補正は必要)が、改正毎の運用の詳細まで
書かれたサイトは寡聞にして存じ上げません
1980年代以前の事実確認については当時の書籍類が圧倒的な存在で、ネットの情報は信頼性が数段落ちるというのが実感です
下記は1976年10月のダイヤ改正に関する国鉄運転局猪口氏の雑誌記事(鉄道ファン1976年11月号)より
>1.東海道・山陽・九州線
> 東海道・山陽・九州線にあっては,長年の懸案であった東京−九州・山陰間ブルートレインの2段寝台化を行うこととなった.すなわち,新潟鉄工
>および富士重工に102両の24系(25形)2段寝台の発注,その落成を待って東京−西鹿児島間の特急”はやぶさ・富士”と東京−浜田間の特急
>”出雲”の充当されることとなった.
> (中略)
> 上記3列車については,1〜11号車の車種はいずれも共通としたため,列車遅延時など異常時にあっては編成を振り替えることも考慮され,特に
>「オハネフ」については今回の新製車から,前後に埋込式の尾燈も増設されて,従来品川客車区で行なわれていた緩急客車の尾燈合わせ(転車台
>を使用しての客車転向)の苦労も解消することとなった. 1976年10月改正時点の品川客車区の14/24系ブルトレの運用
さくらとみずほだけは基本・付属ともに「1レ→2レ→5レ→6レ」の一体運用で、それ以外は各列車ごとに単独での運用でした
さくら 1レ・2レ(肥前山口〜佐世保:4001レ・4002レ) / みずほ 5レ・6レ(鳥栖〜長崎:4005レ・4006レ)
南東121 ハネフ・ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数4 ※長崎/熊本発着
南東付121 ハネフ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数4 ※佐世保(早岐)/長崎発着
いなば 2003レ・2004レ
南東122 ハネフ・ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数2 ※米子発着
紀伊 2003〜4003レ・4004〜2004レ
南東付122 ハネフ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数2 ※紀伊勝浦(新宮)発着
はやぶさ 3レ・4レ
南東荷141 カニ 組数3 ※西鹿児島発着
南東141 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数3 ※西鹿児島発着
南東付141 ハネフ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネ・ハネフ 組数2 ※熊本(川尻)発着
富士 7レ・8レ
南東荷142 カニ 組数3 ※西鹿児島発着
南東142 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数3 ※西鹿児島発着
南東付142 ハネフ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネ・ハネフ 組数2 ※大分発着
出雲 2001レ・2002レ
南東荷143 カニ 組数2 ※浜田発着
南東143 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数2 ※浜田発着
南東付143の1 ハネフ 組数2 ※浜田発着
南東付143の2 ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数2 ※出雲市発着 1978年2月改正時点の品川客車区の24系ブルトレの運用 ※14系は1976年3月改正と変わらないので略
この改正で20系から24系25形化されたあさかぜは寝台車部分が13両一体の運用でした
はやぶさ 3レ・4レ
南東荷141 カニ 組数3 ※西鹿児島発着
南東141 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数3 ※西鹿児島発着
南東付141 ハネフ・シ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネ・ハネフ 組数2 ※熊本(川尻)発着
富士 7レ・8レ
南東荷142 カニ 組数3 ※西鹿児島発着
南東142 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数3 ※西鹿児島発着
南東付142 ハネフ・シ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネ・ハネフ 組数2 ※大分発着
あさあぜ 9レ・10レ
南東荷143 カニ 組数2 ※博多(竹下)発着
南東143 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネフ・シ・ハネ・ハネ・ハネフ・ハネ・ハネフ 組数2 ※博多(竹下)発着
出雲 2001レ・2002レ
南東荷144 カニ 組数2 ※浜田発着
南東144 ロネ・ハネ・ハネ・ハネ・シ・ハネフ 組数2 ※浜田発着
南東付144 ハネフ・シ・ハネ・ハネ・ハネフ 組数2 ※出雲市発着
※客車の管理は1両単位なので、実際は検査等のため品川帰着時に必要により編成内の車両の差し換えが1両単位で行われていました 昭和50年代、品川のホーム端で見てると、いつもブルトレを切り離して入れ換え作業してたなー
子供の頃は、なんであんなにしょっちゅう編成を組み替えるのか理解できなかった >>857
鉄道ファン1976年11月号と1978年6月号 >>856
国鉄時代の予備車は編成単位じゃなくて、車種の性格を考慮して車種毎に異なる比率で用意されてましたからね
24系だと電源車の予備率が他の車種よりも高めに設定されてましたし、最後まで1両単位の管理でした
1978年2月改正時点の品川の予備車の数
14系 ロネ1 ハネ5 ハネフ3 シ3(元々余剰車あり)
24系 ロネ2 ハネ9 ハネフ7 シ2 カニ4 >>853 の転記ミスを訂正
× 2段寝台化を行うこととなった.
○ 2段寝台化を行なうこととなった.
× ”出雲”の充当されることとなった.
○ ”出雲”に充当されることとなった. 下関あさかぜに食堂車を組み込むために瀬戸と運用を分離するというヲタの妄想 >>808 が、元日食関係者のツイート >>822 で完全に否定されててクソワロタ
ロビーカーが最初オシから改造されたのは、人手不足の食堂車を軽食提供設備付のロビーカーに置き換える構想が隠れていたのは初めて知ったわ 食堂車を外してロビーカーを入れてたらEF66のブルトレ牽引はなかったんだな >>838
BS朝日「鉄道の時代」のブルトレに密着の回で、門司で列車が発車していくと共に食堂車のスタッフが全員揃って階段を下りていくシーンがあったな
あまりに長すぎて全区間通しでの担当じゃなかったってことか >>864
ブルトレじゃないけど、百關謳カの阿房列車でも、門司で従業員が交代する描写があったね >>863
貨物列車需要が減ってたからどのみちEF66の活用先を考えなければならなくなってたと思う
だからロビーカー増結があろうがなかろうが66の寝台特急牽引は実現してたでしょうね 東海道ブルトレの食堂車は後に新博多と上野になって
一部は仙台も担当したはず
出雲も米子から上野に変更されていた >>866
活用先を考えるって言ったって、東海道山陽筋のブルトレに使われてたPFはその66より新しいんだから性能上の理由がなきゃやらないと思う。
しかもあのタイミングより後だと分割民営化で66は旅客会社に継承されてない。ってことは、65の一般型が代わりに減ってたか、66が清算事業団〜車籍復活だったかもね。
だとすると100番台はどうなってたか・・
ifの話しても意味ないけど。 >>868
JR化後も東海道山陽ブルトレには後期型PFが基本的に担当されていたよな ロビーカーなくてもとかいう前に、66があるからロビーカーとかいう構想も出来たんだろ
59.2で機関車余りまくって66は遊ばせるにはお高いし、PFは15や60の置換や他に転用できる
けど、66は東海道山陽以外に使い道なかったからな でも最近は武蔵野線やら東北本線の66の運用が増えたせいで
静岡あたりから西に住んでる人たちが撮影の機械が減るとぶー垂れてますけどね JR西日本に行った数以上の100番台を作ったってことは結局EF66は余ってなかったってことでしょ >>870
価格の高い66は余剰にしたくなかったんだな >>873-874
JR後に65Nや75の廃車前提だった車両を車籍復活させたりしてた。それくらい
当時、需給を読めた人なんかいなかったってことだよな
ヤード廃止した時点でコンテナは増える予測ついたろうけど、民営化まで大混乱だったし
目先のことで必死だったから、ブルトレの増収を優先した。カルテットもこのころだったような
カネも時間もなくてその中で出来ることやったんでしょう
>>875
鮮魚列車も死にかけてた。66がレサの短編成牽いてるの見て悲しくなった覚えがある
そりゃこんな使い方よりブルトレ牽かせたくなる。万人が待ち望んでたしね 貨物の輸送体系の変化で余ったのは昔ながらの遅い貨物列車を引く機関車。
コンテナ列車=速い貨物列車を引ける機関車は数が限られていた。
EF66にブルトレを引かせるのを待ち望んでたのはマニアだけじゃなくて?現場も? さくらの事故で廃車確定だと思われた55号機も大修理して復帰させたしな。 子供の頃はブルトレの先頭に立つEF66を望んだが、
いざ実現すると「あれ?意外に間抜けな感じだな。フレートライナーの方が格好良かった」だった。 EF66はマンモス機と言われることもあったが、
実はEF81のほうがひと回り大きいというのが面白い。
重さもEF63を除く最大の100.8tで同じだし。
EF65が小さくて軽いだけなのかもしれんけど。
リレー相手のEF30とほぼ同じ長さ(EF30が60mm長い)、
ED76にいたっては900mmも長かったという。
当時は全く感じなかったのが不思議。 >>880
でもパワーは最強やん。擬人化したら、
イケメンマッチョの66
ひょろガリの81
チビだがパワーのある腕白坊主の65
インテリ系の30 >>881
81はガリじゃねぇしw
66と同じ重さあるんだぞ
65ないし71のいでたちで、66並みのパワーの電機があればよかったのに
66の見てくれは個人的には苦手すぎる 昭和50年頃初めてあさかぜに乗った。
食堂車では水がこぼれて、停車駅の度に衝撃で目が覚めて、運転が乱暴すぎて貨物に乗ってんのかと思った。
あの頃はほんとひどかったね 下り富士で一番前のオハネ25(3両目は2号車でいいのかな)だったから、
そんなには揺れなかったけど、やはり停車毎に目が冷めてたかも。
それより、カマ(PF新車!)に近いから汽笛が結構気になったかも。
密着自連でも後ろの方はガタつくのかな? >>883
> 貨物に乗ってんのかと思った
貨物に乗ったこと無いのによく言えるなw EF66の客車に乗ってみたかった
東京近郊じゃヒルネ乗車も設定なかったし ヒルネ設定がなきゃ乗らんの?
あんまり自由になるお金がない子供のころですら貯金崩して乗りに行ったけどなあ
お金のことよりも親の説得が大変だった 乗り鉄ばかりじゃなんだから
何に金を使うかを含めて、いろんな鉄がいていいんだよ 東京から横浜まで寝台券買って乗ってもよかったんやで >>884
密自連は緩いくさびでナックルを押さえてるだけだから連結器にも少しのガタは残るし、緩衝器がけっこう動く
惰行から力行に入った瞬間なんか、編成全体が前後にけっこうガクンガクンと不規則に揺れてた EF66もEF65も男性っぽいから、
さくらのHMってなんか不釣り合いだった。
やはりはやぶさと富士が一番かっこよかった。 さくらのHMはカラーバリエーションが多すぎて、
どれをイメージするかにもよると思うよ。
個人的にはEF65Pに桃地に白花(一番地味だけど)が好きだ。 富士のヘッドマークは富士山型に限る!は、
66牽引以降のヤング()世代か戦前世代。 その二つのグループも表記がFUJIとHUZIで割れるぞ みずほにスハフ14が連結されているレアな動画があった。何だったんだろ? 品川スハフ14代用
まず昭和52年に防火・耐火向上工事
次に昭和58〜59年(尾久は60年、他は知らん)に2段化工事 >>274
新津は新幹線開業で一気に落ちぶれた感があったが、トワイライトエクスプレスの停車駅になったことで見直された感じはあった 1988年には既に入れられてたよ。
>>899
ヘッドマークに訓令式は存在しない。
戦前使用はバックサインしかも昼行列車だし >>907
東京から下関博多長崎に日着は不可能ですw >>906
あれはタダの飾り?
空知機関区のDDは重連仕様と半重連仕様区別出来るよう札入っていた 博多あさかぜ、出雲金帯編成は東日本の車だっけ?
東日本の車が収益薄そうな九州、西行きブルトレによく使われていたもんだ。 >>912
民営化後に割り振りしたんじゃなくて、国鉄最後のダイヤ改正で民営化後の車両の担当に合わせて品川に集中してたブルトレ車両を転属させた 北の北斗星・南の博多あさかぜ
こういう象徴的なものを運転することで、他のブルトレにも伝搬させ、寝台特急再興の礎にする目的があった
たしかに運転開始からバブル崩壊直後まではどうにか保ったものの、新幹線同様「速度がかき消した」
後付けでああしたらよかったと書くのは簡単だが、1986年当時の見通しとしては次点となるものの間違えてはいなかったと思う >>911
・あさかぜは伝統の列車だから東京の会社にやらせた
・グレードアップしたので、さらに新しいことをやりやすいようにカネがありそうな会社持ちにした
・地方の車両基地の容量の問題
とかありそう。 >>908
それは難癖ありきの屁理屈
戦前の富士は「寝台特急」ではない >>911
東京発着九州ブルトレは、国鉄時代看板列車だったからな。
>>916の語ってることも含むが、民営化前に各社の収益で揉める事は想定してなかった。
国鉄時代の全国長距離列車維持を、できるだけ維持していく意向はあった。
しかし民営化から数年して、各社特有の車両が新製されたが、九州ブルトレは4社分割で改造などの動きが取れなく、利用も斬減していった。
そして末端だけど収益が低い東日本と九州が見直し提唱して、みずほ、博多あさかぜ廃止になり、その後どんどん衰退化が進み、往年の輝きを失っていった。 285系やE26系が起爆剤になりえなかったことでお察し 285系の失敗は、発券システムへの設定が特殊過ぎて発券できない窓口ばかりだったため
E26系はそもそもクルーズ
そして寝台特急にトドメをしたのは設備の陳腐さではなくネットダフ
それで各社が何もしない政治屋にブチ切れて、既設(サンライズ)と人気の出ようがないしかもあまり席だけ直前販売のボッタクリ銀河以外、
全てネットダフドタキャン払い戻し不可能な募集型企画旅行式クルーズトレインにした
285系を増備しても自動車を運ぶ電動貨車を併結すなわちカートレイン以外では下関あさかぜも先がないし、
交直流版を作っても285系ができる2年も前から北海道新幹線のお話が出ているため、せいぜいあかつき・彗星程度しか使えない >>919
レール7という平成元年当時の番組の空席情報で週末は満席の赤や残り僅かの黄色だったのが信じられない。 WestExpress銀河の販売方式は元はマルス売りが前提でコロナ対応で暫定的に旅行商品専用にしてるだけやん
事情が違うとはいえ暫定編成時代はパック旅行専用だったTwilightExpressみたいにそのうちマルス売りになるやろ コロナがきっかけで技術革新が取り入れられたらいいな
災い転じて福と成す >>922
平成元年は食堂車が健在だったものの、衰退期だったので、それでも週末満席だったのは遠い昔の感じ。
バブル期だったので、まだまだ利用はあったか! 20系の時代は深夜の乗り降りがかなり多かった印象がある
夜行列車が多かった時代は、みんな気軽に短区間でも利用してた >>931
むしろそっちのほうが健全。
ヲタは全区間乗りたがるからな。笑 11月25日は三島由紀夫の命日だな。
50年前の、あの当時、日本シリーズでは巨人V9黄金時代だった。南海、阪急、ロッテが挑んだが全く歯が立たなかった。
50年前の、あの当時、日本シリーズでは巨人はロッテと対戦した。今は亡き東京スタジアム球場と後楽園球場で開催されていた。
50年前の、あの当時、後楽園球場はジャンボスタンドも無ければ、電光掲示板も無ければ、人工芝も張り巡らされていなかった。
50年前の、あの当時、全国には星の数ほど夜行列車が君臨していた。沖縄返還の直前の2年前だった。
京阪神から熊本、西鹿児島(鹿児島中央)を結ぶ寝台特急の夜行列車「なは」も、この当時に誕生したが北京オリンピック開催の年に廃止となった。
今後、私の発言の後にはこのAAを貼ってくれたまえ。
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サッポロラガービールも三島由紀夫の事件の記録と記憶は存じているだろう。
三島由紀夫の没後50年の日にサッポロラガービールを飲んで色々と考えてみたい。 昔は日本の東海道本線も終夜運転だったな。
50年前のダイヤは東京駅から沼津駅あるいは静岡駅まで15両があったから、下り終電熱海着が2:05だったんだね。乗客どれだけ乗っているのか気になる。
50年前の1970年は通勤電車に冷房車が入りテレビも民放に関してはカラー化率がほぼ100%になってた
50年前の1970年は地方も最低2局は民放テレビが映るようになりまた北陸本線では快速電車が既に走っていた
50年前の1970年は公害のピークであり翌年から四大公害裁判が相次いで提訴されるようになった
50年前の日本列島が大阪万博に沸いた1970年(新幹線が開業して6年目)に、東京→新大阪はいくらだったのか。
・ 東京都区内から大阪市内までの運賃 → 2,230円。
・ 東京から新大阪までの特急券(超特急ひかり号を利用)→ 1,900円で、合計4,130円。
・ 東京から新大阪までの特急券(特急こだま号を利用) → 1,500円で、合計3,730円。
・ 東京から大阪までの急行券(桜島・高千穂号を利用) → 300円で、合計2,530円。
ちなみに1970年の大卒初任給は37,400円(これは公式発表の数字)。
仮に現在2020年を220,000円とすれば、ほぼ妥当な数字だろうから、その比率は6.15倍となる。
さて、ここで計算(×6.15)をしてみよう。
・ 当時ひかり号利用だと現在の金額に直して → 25,400円。
・ 当時こだま号利用だと現在の金額に直して → 22,900円。
・ 当時、急行利用でも現在の金額に直すと → 15,600円。
新大阪〜東京は新大阪〜博多より距離が短いのに実勢価格が高い
客数も多いし東海は確かに儲けすぎだな
まあ、人それぞれ感じ方や意見が違って当然だろうけど、こういう一面も参考に見るとよい。
尚、手元に1970年の時刻表があり、現実その時代に新幹線を利用していたのでちょっと触れてみた。
昔の方が金額自体に価値が有ったことは事実である。新幹線に乗ること自体の価値も現在よりは格上であったことも事実である。
ちなみに東海道本線では50年前までは東京駅から浜松駅はおろか豊橋駅まで15両編成の普通電車が運行されていた。 70年代ロッテはシーズン中に東京滞在で
高速交通網が全国展開していなかったから、プロ野球選手の長距離移動は過酷であったと思う。
ジプシーロッテが多くの場面で叫ばれていたけれど、福岡時代のライオンズも過酷な日程であったことには変わりは無かった。
やっぱり寝台車は東京駅朝10時11時着の寝台で
泥のように寝て来てそろそろ終点に近いなーとうつらうつらしつつ駅通過の気配で
まだ横浜まだ川崎まだ品川そろそろヤバいでももう一眠り
おっと新橋も眠いおお有楽町これマジヤバいでようやく降りる支度を
初めて東京駅に到着して直ぐに出発するなよな2;3分猶予してくれって思って
さっさと着替えて荷物まとめて降り立つのがよろしいんじゃないでしょうか?
今から30年くらい前
東京駅行き最終の博多駅発が17時13分
現在は18時59分
ずいぶんと遅くなったね
その分福岡県の滞在時間が長くなった
でも今の博多駅行き最終の新幹線って新大阪駅から出る最終を博多駅まで引き延ばした形
1997年、JR西日本でも、500系新幹線車両の運用開始当時は
500系のぞみ号は新大阪駅発車出発から岡山駅、北九州市の小倉駅停車だけでも、新神戸と広島は通過する速達列車が構想されていた。
この、途中駅が岡山駅と北九州市の小倉駅だけの停車だと、新大阪から博多まで2時間10分程度での到着を目標にしていた。
また、東京駅から博多まで最速で4時間40分前後の到着を見込んでいたそうである。
また、新大阪、新神戸を発車したら北九州市の小倉駅まで通過する速達の500系のぞみ号が構想されていた。
この最速達の500系だと、新大阪駅から博多まで1時間55分前後、東京駅から博多駅まで4時間30分前後を見込んでいた構想があった。
特に、大阪府内から福岡県内は山陽新幹線と航空路線が競争関係にあったから理解可能である。
1997年、JR西日本でも、500系新幹線車両の運用開始当時は
山陽新幹線でも、500系のぞみ号を運用するに当たって、航空路線の乗客獲得競争の観点から鑑みて
岡山、広島、新山口駅の3駅は名古屋駅と東京駅方面に主眼が置かれていた。
東海道山陽九州新幹線は
東京、横浜、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、北九州、福岡、熊本の13政令指定都市を結ぶが
北海道東北新幹線は東京、さいたま、仙台、札幌の4政令指定都市のみ
地方は国鉄時代の方が確実に良かったろうな
国鉄時代はある種の悪平等的なところがあり、
都市部の利用者からは不満あったろうが田舎者にとっては使いやすかったといえる 新幹線でサントリーオールドの380mlを駅で買って飲みながら、博多まで出張で行ったことあるよな。
当時は0系ひかりで7時間以上掛かった好い思い出だ。
男が社会的に成功したかどうかが、クラウンに乗ることと
サントリーローヤルを寿司屋でボトルキープできるか、で 目安にされてた時代があったんだよな。
うちの親父は脱サラして商売やって、7年8年でようやくクラウンに乗って、寿司屋でローヤルをキープした時、本当に嬉しそうだった。
バブル崩壊直後は持ちこたえたが、その後の長引く不景気で会社は傾いて最期はみじめな人生の終わり方だったが、
サントリーローヤルを見ると、あの時の誇らしげだった親父の顔を思い出す。
つまりサントリーローヤルはバブル凋落の象徴。
サントリー 響も安くて薄っぺらな酒になったし、ユニクロみたいなブランド価値。
人手不足と言いながら、賃金はあまり上がっていない。少子高齢化で、高齢世代の扶養に金が注ぎ込まれ、
日本経済全体に余裕がなくなっているからだ。
新興国との競争も厳しくなっているから、非正規雇用の比率が大きくなっている。 西明石駅の激突事故、オフセット衝突の凄まじさが窺い知れる。相手がプラットフォームだからもある。 >>791
以前寄贈すると言った者です。
ネットで多良木のブルトレの幕を見たら破れてなかったので、何らかの形で幕を交換できた
のかと思ってました。
今の幕が本物でないのなら、自分の所有している幕を寄贈したい思いは変わりありません。
できれば多良木のブルトレに宿泊する時に持参したいと考えてます。
鉄道を利用して行きたいのですが、肥薩線があんな状況なので、当分先になりそうです・・・ 客観的に見て肥薩線の鉄路での復旧はまずあり得ないと思うので
さっさと行く方が無難
代行バスがハイエースクラスのジャンボタクシーすら供給過剰で
普通のタクシーに格下げになるぐらい需要が無い
こんな状況ではレールを残すどころかBRTすら成り立たない 探査機はやぶさ2号が話題になっているけど、同じ平仮名で号まで同じだから感慨深い。 >>947
わかるけど、どんなことでも話題になって各地の人に泊まりに来てもらうほうが
地域振興あるいは水害復興になるから、いいんじゃないの?と思う >>919
9年に食堂車の営業終了+のぞみ博多乗り入れ+夏に運休続出が見直しの決定打になった 14系のさくらに関しては94年以降の方が編成的には豪華なんだよな 職業営業列車>>(越えられない壁)個室やA寝台連結 食堂車営業廃止から28年。
今の20代は九州ブルトレが存在したのを知らない連中もいるので、
まして食堂車があったことも知らないだろうな。 >>963
1986年11月の改正で付属編成に移るまではカニの次だね 乗客専務はロネに乗務でその他車掌はハネフ乗務だよね? >>965
ロネ連結してなくても乗客専務車掌は乗務しているわけで 乗客専務(列車長)
車掌(ドア扱い、防護担当)
車掌補(列車ボーイ)
の順? >>966
あんたの言い分は合ってるが、少なくとも965はロネ前提の列車で語ってることくらい判るが。 夜空をイメージしたとか、オリエント急行あたりを参考にしたとか?
そう言えば20系製造前のデザイン案とか試験塗装の写真とか見た覚えがないな
イメージボードとか模型とかモックアップは最初にいくつも作るのが普通なのに ワゴン・リのType S寝台車ではなくて?
Type Lxの方が知られてるかもしれんけど 南アと比較する話はよく見るけど、ほぼ部外者の感想でしかなかったような
欧米を参考にしてた時代に、アフリカの鉄道を視察したとは思えないんだよね BSテレ東でいま 西村京太郎サスペンス寝台特急「はやぶさ」の女 やってる
さくら・はやぶさ時代で、下り列車を鳥栖で切り離す作業がフィーチャーされてた 西村先生はどのくらいのブルートレインを事件の舞台にしたんだろうか 大垣夜行もトロッコ列車も使ってるからなあ
誰かがまとめてるかと思ったけど検索しても見つけられなかった >>977
最初はEF65PF化直後の下りはやぶさを舞台にした「寝台特急殺人事件」だな。
運転停車で乗客が乗り降りする非現実的なトリックだったけど、そこから鉄道ものの
推理小説が多くなってきた。
その前に書かれてテレビ放映もされた「消えた巨人軍」も、
非現実的なトリックだったけど。 協力者がいれば運転停車で下車や乗車は不可能じゃないからなあ
客ドアのコック扱いでもいいし、荷物ドア、乗務員室、貫通ドア、通り道はいくらでもある
駅の改札を出なくても、ホームと反対に出て線路を歩いてもいいし 20系なら手動だからな
ロックは無いようなもんだし >>981
現実にそれをやると、車掌室に異常表示が出て騒ぎになる。
運転停車でも荷物扱いや当直の駅員はいたから、構内で騒動になってただろう。
運よくホームと反対に出て脱出しても、鉄道公安官か警官に職質されてジエンドw 車掌用の監視窓や乗務員ドアなら開けてもどこにも警告は出ない
鉄公もたまに巡回する程度で常時監視してたわけじゃない >>984
そんな事を寝台特急の乗客が実行するか?!
実際に実行されたら安全上の問題で槍玉に挙がって、警備や監視のの強化になっただろう。
監視窓から出入りするのは、小柄な女でも難しかったし。 西村京太郎のトリック、運転停車中に脱出は可能だったかって話だよ
1回成功できりゃいいんだから、そのあと監視強化されるとか関係ないし
車掌の巡回中を狙えば、一瞬ドアコック操作して警告灯が点灯してもバレないとか、まあいくらでもこじつけは可能 小説読んだりやドラマ観ることも否定されちゃうのかぁ 20系の手動ドアロック機構(オリジナル)に車掌が把握可能な開扉ランプなんてあったっけ? そもそも20系はドアを閉めなくても発車できた
車掌は駅を出るたびに巡回して、ドアを閉めて回ってた >>988
やるもやらないも、今、そんな列車ないだろう。
レスが子供だなぁーと思うわけで >>992
サンライズの運転停車があるだろう。名古屋とか米原とか。
自動ドアなのは同じw このスレッドは1000を超えました。
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