昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 阪和線沿線民なら昭和の頃、小学校の修学旅行は「お伊勢さん」だったという方は多かったに違いない。
利用した交通機関は、基本、近鉄派(あおぞら)と国鉄派に分かれ、おじさんは国鉄派だった。
あれは昭和55年の5月頃か…早朝、津久野駅に集合し、わくわくしながら急行型のキハ58や65で組まれた臨時列車に乗り込んだ。
おじさんのクラスは新しいキハ65で感激、隣のクラスは座席がくたびれたキハ58だったので
運がよかったのかも知れない。
隣の上野芝駅では他校の生徒が乗車、杉本町から阪和貨物線・関西線亀山経由で一路、伊勢市駅へ。
途中、関西線のどの駅か憶えていないが、行き違いで停車、その駅のめちゃめちゃめちゃ古い木造の駅舎に感激した。
おじさんは当時から鉄ヲタだったが、何処の駅で運転停車したかは憶えていない。
多くの駅を通過し、関西線の電化区間はそこそこ飛ばしていたと記憶している。
因みに復路は鳥羽駅から乗車、同じ編成だった。 おじさんが初めて新宮夜行に乗ったのは1984年…昭和59年の春、この頃、もう既に寝台車が外され単なる924レだった。
列車は23時丁度に天王寺駅9番線から発車、客車は12系、機関車はEF58だった。
和歌山までノンストップが特色で、車窓に釘付けになって通過する駅を眺めた。
345Mみたいに混雑する事はなく、ボックス辺り2人、多くて3人程度だったか、
田辺か白浜を過ぎるとボックス辺り2人程度、ひじ掛けを枕にして寝たと記憶している。
因みに当時の乗車位置は今でも9番線に薄く残っている。 皆さん昔の阪和線のサービスが悪いと書いてますが 自分も子供の頃同感で
かといって 南海の駅まで出れる場所じゃなかったので
阪和社形が発展していたら どんな素敵な車が走っていたろう と空想にふけっていた >>360
修学旅行の地引き網体験での女子の服装は体操服+ブルマだべ? >>362
快速と各停は昭和61年頃までは6両で、昼間の天王寺から鳳の快速は区快を含めて毎時4本、普通は同6本。
これを見るとサービスが悪いと感じるのは今の快速停車駅の住民のみ。
それに、あの頃は「はるか」がなく線路容量が余裕のよっちゃんだったので今よりも活き活き走ってた。 >>365
昭和61年11月改正までは、天王寺〜和歌山間の普通電車は1日2本しか運転されていなくて、鳳以南各停となる区間快速が運転されていたな あああサービスがわるいとは朱色の埃っぽい旧国や態度の悪い職員を言いたかったので
所要時間や本数わ特に不満なかったです 70系もいまはいい思い出です
南武線も客多いのに72系だったので 売春されるとこうなっちゃうんでしょうね >>365
貨物列車が旅客列車の増発を阻んでいたことも
あるかもしれないけど >>365
それもあっただろうし、竜華機関区から東岸和田や長滝、和歌山操までの電気機関車の
重連回送や単機回送などの関係もあったのでは その頃は貨物列車は最末期でコンテナ列車が数本
和歌山操駅の廃止は昭和61年
よって旅客列車への影響は僅少 >>336
阪和線は通勤路線なのに各停も全て転換クロスの豪華仕様。
それに引き分け、紀勢本線や和歌山線の227系はオールロング。 >>372
間違えた。
引き分けではなく引き換えだ。 >>372
>>373
国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
不適当だという声が上がっていた。
「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
ロングシートでもよかったのではないか >>374
> >>372
> >>373
> 国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
> 不適当だという声が上がっていた。
> 「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
> ロングシートでもよかったのではないか
どーせ上野芝駅でそれこそアホみたいにボケ〜と長時間停車しているだけなので6両編成の225系5100番台でいいと思う
ただし鳳〜東羽衣間の通称羽衣線にまで4両編成と言え225系5100番台言うのはまぁあれだ、正直言ってやり過ぎと思う
2021年令和3年きのくに線の普通電車がall227系電車になったらもうその時点で227系共通運用にするのが賢明だと思う
いくらコロナ禍だとは言え関空・紀州路快速がボロい電車なのにあんなは流石に言い過ぎだがあんな線言うかあんな区間
?に4両編成と言え贅沢すぎるな(苦笑) 朝の阪和間通しの103系快速で毎日通学してました
一生懸命走ってました >>376
昭和末期頃の103系は冷房と非冷房が混在してたな。非冷房なら妻面の窓も開け放たれていた。
平成に入ると完全に冷房化れたが、「冷風車」と呼ばれる全然涼しくない奴が存在してた。
103系の快速はラッシュ時以外は天王寺を出ると猛加速しながらポイントを渡るので車内が
大揺れしていた。今、もうそんな事はないのでそれも懐かしい思い出。
今の阪和は昔と比較すると多くの面でマイルドになってるわな。 でもそんなボロかった頃のほうがまだ、優等通過駅特にはっきり言って津久野は上野芝でアホみたいにボケ〜といわゆる長時間待避必要なんかなかったからな。
昔いいのかまだマシなのか知らんけど。
YouTubeで羽衣線に転換クロスなんて、Wi-Fi電車贅沢過ぎボロクソ言われるがsevereな言い方だけども今となっては、225系5100番台などという羽衣線には、はっきり言って分相応はっきり言って、アホが見栄張って三国丘とか泉陽とか、受けるようなアホきわまりない行為は、やめておけばよかったのにしかないな後3年ずれてコロナで関西空港駄目時点で103系電車置き換えがもしもあったら、225系5100番台なんか絶対投入されず、2両編成で小回りがきくそんな意味でも227系を素直に投入してたろうに(>_<)
過ぎたるは及ばざるが如しであり歴史にifはないがやはりそう思わざるえない。
TPOで227系を組み合わせるいうのが、Bestだったのはどう見ても間違いない。
(2連羽衣線、4連6連で区間快速各駅停車 南海が関西人に不評な関東仕様の内装の車両(8000系)を導入してしまったことによる救済措置として225-5100を導入したものだと思っているが 阪和線と聞いて思い出すのは
天王寺駅に特攻した103系
縁遠いから >>381
2度行止りに特攻しそのどちらにも乗ってた婆さん居たけど、運がいいのか悪いんだか 一時の天王寺駅のイメージが電車が衝突する駅だったw クモハ84は過酷運転で10年もちませんでしたが
たとえば羽衣支線のクモハ123とトレードしたら長持ちしただろか。 羽衣支線
乗ったのは、クモハ60001、旧型国電がなくなる一か月ほど前
オレンジの旧型に乗車できたのはこれだけでした
多くが天理に留置、乗りたかったですね
でも最末期でも、乗れただけよかった… 阪和線は青かったから、京浜東北線のお下がりって言っても違和感なさそうだと思ったがまさか本当に元京浜東北線車があったとは… 昭和47年から52年あたりまで 新快速、鳳停車45分、
快速、堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川停車で53分 この頃が最速か。
キハ80系くろしおが無停車で45分、きのくには48分だからやっぱ電車は速いな。
ちなみにその頃南海は 特急が新今宮・堺・岸和田で54分、
急行が新今宮・堺・羽衣・泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野・尾崎・みさき公園で64分だったと思う。
こっちもこのあたりが最速か。 >>390
当時の南海はまだ架線電圧600Vだったと思う… >>391
当時の南海は客車を牽引し、国鉄に直通していたね。 冷房化は新快速用に投入した113系3編成からスタートしたけど
その後の進展ってどんな感じだったかな。103系の冷房化なんて随分後のような記憶。 もしかしなくてもATC化が無ければ直接103の冷房車が新製配置されていた可能性は? 昔の京浜東北線の写真を見て「阪和線なのに、なぜ関東の行き先?」と思ったことがある
それも京阪神緩行線は偽物(元山手線車であるため)だったのに対し阪和線は本物(元京浜東北線車)だし 一時期103系のロングラン運行が有ったね。
天王寺発紀伊田辺行き快速なんてのもあった。
時を同じくして、京葉線でも東京発勝浦行き通勤快速があった。
103系自身もこんな長距離の運用につくとは思わなかっただろうな。 >>397
スレチかもしれないが103時代は勝浦まで行ってなかったみたいなんだが >>398
末期にはあったよ。ググれば記事や画像出ると思う。 >>390
当時は最高速度95km/hでしたか
それで45分は驚異的
最速時はくろしおで天王寺〜和歌山38分でしたね
南海は天下茶屋・泉佐野・尾崎・みさき公園・和歌山大学前の5駅追加停車で58分だから
こちらは最高速度向上(105→110km/h)効果があるようです 一時期、千ツヌに天オトからオレンジのモハ72や、その数年後113系の阪和色車がかなりの量転入してきた。
千ツヌの運用があった当時、成田線我孫子口でもその姿を見ることが出来た。 >>394
関西本線の湊町口を電化(1973年)するために、まとまったかずの113系の6両編成(クーラがないレッドライナー)が鳳電車区に入ってきたんだ。
それが阪和線用と共通に運用される状態が、紀勢本線の和歌山〜新宮が電化されるまで、つづいたんじゃなかったかな。
紀勢本線の電化開業のとき(1978年)に、まとまったかずのブルーライナーが入ってきたはずだよ。あたらしくつくった2000番台や、クーラがない6両編成・4両編成もあったね。
桜井線と和歌山線(王寺〜五条)を電化するとき(1980年)にレッドライナーが増やされて、あたらしくつくった2000番台や、クーラがない4両編成が入ってきてる。
この状態で、関西本線の車両基地として奈良電車区に分割されるまで、推移したはずだよ。 >>397 本線筋にマスカットの姫路〜三原とかもあったはず。岡山から姫路しか乗った事ないが、あれのフル区間は天王寺〜紀伊田辺に匹敵しそう。 >>387
初めて乗ったとき、オレンジのモハ72が新鮮だった。 >>404
自分も同じ感覚でした
ただ、70系+モハ72の編成では、70系に乗ってしまった
45年前でしょうか ホーム長が絶望的に短いという理由もあったんだろうが、紀勢本線直通は天王寺和歌山間
61.3kmをノンストップというのも不思議な感じだった。
コロナで客が減ってるとはいえ、今の快速の5+3などの最大8両編成もちょっと短いと思う。
おそらくだが、大昔から長い貨物が走ってた南海のほうが、線内優等10連にするときの
手間は低そう。実現はしないだろうけど。 天王寺和歌山間で最速38分の時代もあったのか
これがスタンダードになってたなら和歌山はもう少し発展してたかな >>406
まあ南海は泉北高速直通の準急で10両運転をやった実績があるからな。
南海本線での10両運転は泉佐野以南の凋落ぶりをみればもう実現しないんじゃないかなと思う。 >>407
それは和歌山市だけにもたらされる効果であって
和歌山県全体の発展にはならない
串本や新宮には… モヨとかモタとかの阪和電車の戦前のオリジナル形態は
なんで尾灯が左右対称についてないんだろう
デッサンが下手なひとが描いたみたい >>410
運転席側は標識灯
助士席側が尾灯
らしい。でもフツーなら位置くらいは合わせるよね。 和歌山まで標準38分なら勤務先が天王寺界隈なら十分通勤圏に入る >>412
ありがとうございます
阪和の顔つきで戦後も発展して近代的になった姿を空想してしまった むかしの『快速』
天王寺-鳳-和泉府中-熊取-和泉砂川-紀伊中ノ島-和歌山
むかしの『直行』
天王寺-堺市-鳳-和泉府中-(各駅)-和歌山 たまに乗ると隔世の感があるね。
モハ72にはよくお世話になったもんだけど。 南海の岸和田は特急停車駅やのに
阪和線は優等通過っておもしろいな
よっぽど人が浜側にしかおらんかったんか? 人里離れた山側を走ることで途中停車を極力少なくして阪和間を直結しようとしたのだから
むしろ今のように山側にも宅地が広がって途中停車のニーズが高まる方が不都合だね 東和歌山時代は阪和電鉄の名残で櫛型のホーム使ってたが、
昭和43年(’68年)に和歌山に改称されて駅ビルになっても、しばらく櫛型ホームが
阪和専用に残ってたな。あのホームから103系快速に乗った記憶がある。あやふやだけどw 1977年(昭和52年)
3月15日:熊取駅・和泉砂川駅が新快速の停車駅になる[37]。
3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え[84]。
4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった
1977年だからもう45年前になるか
45年前までそれこそ電車の墓場と言われていた阪和線が支線を含めこうなるとは誰が想像したろうか
1977年2022年同じカレンダーだけに >>416
確かに。ここまで変貌するとは思わなかった。 高速運転の多い宇野線のクモハ84と羽衣クモハ123をトレードしたら長持ちしたかも。 >>421
その、77年3月下旬に、新快速に熊取まで乗りました。
快速とあまり停車駅が変わらなくなったような…。
支線は、ギリギリで旧型電車に間に合いました。
73623-60001-79382の様でした。
本線は、76-72-72-70-70-76と、76-70-72-70-70-76の二本が、
ネガをスキャンしたらわかりました。
でも、複数の同行者は、キハ81-3と5が本命でしたね。
ネガの劣化が厳しいです。 関空に行ったとき、JRと南海が同じ線路を走っていることに改めて感激した。
成田空港はJRと京成が乗り入れているが単線並列。三線化したらどうかと妄想したものだ。 90年代まで山中渓と尾崎を結ぶ南海バス路線があってそこを走る府道が阪和線と隣接してて
南海の赤い円形のバス停が点在してるのが見えたな。大阪地区の最南端路線だったか? 岩出から和泉砂川を経て樽井に行くバスに乗ったが砂川ではほとんど乗り換えがなく樽井まで乗り通していた
樽井なんか普通しか停まらない小駅なのに… 2006年だったら南海は日中も区間急行が毎時2本走ってたんじゃない?後は当時イオンモールが珍しい時期だから泉南イオンの最寄りってのもあるんじゃないかね 岩出在住の人らは阪和線利用と言うと、紀伊までバスそこから阪和なのかな?
今は快速も停まるが、昔は通過してたし和歌山線で和歌山まで行ってそこから阪和だったか。 天鉄局スレ、落ちたのか。
天王寺駅の1-2番線が、往年みたく
人であふれる日は、また来るかな。
自分が知る限りでは
2017年夏のパンダくろしお出発式が
現時点で最後。
それより前に、頭端ホーム発の
臨時くろしおは消滅してたからね。 パンダくろしお、現役続行中なんだな。
いま調べて驚いた
この手のものって一時的で
目立たぬように消えてたってパターン
多いからね。 もともと期間限定でも好評のため延長ってのも結構多いよ オレンジの旧型車両が百鬼夜行していた頃が懐かしい。
今では隔世の感がある。 旧国時代に和歌山〜紀伊折り返し運転が日に1〜2往復かあった。
あれはなんだたんだろ。時間帯的に和歌山構内にいると邪魔だったのかな。 というか、山中渓へは県境越えになり
利用が少ない区間。
和歌山側通勤圏の末端駅で折り返していた
ということでは。 和歌山~紀伊の運転なんかあったのな
なかなかきめ細やかなサービスだ
>>439氏御指摘のように県境が乗客流動の限界になるので
そこまでは最低限の輸送力を保証しましょうという考え
昔の国鉄も捨てたもんじゃなかった 行政からの要請があったんよ
通勤通学難民を作るなっ!て 他に交通手段はなかったのかな
路線バスなんか普通にありそうだよ 103のクモハ編成は両端クハ編成と比べて不評だったとかなんとか >>447
多分ウテシ
そもそも国鉄やJRのウテシは先頭Tcのほうが馴染み深いだろうし
国鉄は電車ならば先頭は付随者であるべきというポリシーを80系辺りから持ってるらしい >>436
一時期、123系が入ってたな
今、宇部小野田線で走ってるやつ >>5
堺市駅は堺東や堺駅に比べるとショボすぎるので、堺感ゼロ >>452
あれでも相当色々できたんやで
国鉄時代はマジで周りになんもなかった >>452
JTBの時刻表だと堺東が市の代表駅なんだよな 下松駅は開業する前、駅名として「岸和田中央」「常盤」なども考えられていたようだが、
岸和田市下松町にあることなどから、「下松」という駅名が採用された。 昔、堺市通る時に「中川ムセン」の看板が見えたな。
あと和泉橋本辺りだったか毎日牛乳のでっかいハリボテの牛乳瓶、今もあるのかな?
上京して随分経つので知らない。。 >>457
毎日牛乳のハリボテの牛乳瓶は今でも久米田~和泉府中間にあるよ。
津久野駅前にあったパチンコ「阪和線」はもうないし、津久野駅付近ないから見えていた
「霞ヶ丘マンション」と書かれた古びた建物のマンションも今はない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています