昔の国鉄阪和線
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>>318
夜間には御坊・五条行の8両編成の103系の快速も設定されていたこともあった。
和歌山で切り離されていたな >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
紀勢線ユーザーは大阪から来た電車の大半が和歌山で止まってしまうことに精神的障壁を感じてる
田辺御坊有田海南と大阪を途中乗り替えなしで行き来できる電車はとても大切な存在
今は特急しかなくなってしまったのがさびしい >>318
直通でいうと、阪和ユーザーは何とも思ってないが
カレー事件林真須美最寄り駅の六十谷に快速が止まるようになりおかしくなった
もちろんあのカレー事件と快速の停車はまぁあれだ、一見関係ないようであるが
カレー事件で六十谷の林真須美宅野次馬
?が急増してから六十谷快速停車なので
あのカレー事件のせいで世間一般和歌山≒毒入りカレー事件イメージなったので和歌山駅以南どーでもいいのがさびしい 和歌山毒物カレー事件(わかやまどくぶつカレーじけん)とは、1998年7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部で発生した毒物混入・大量殺傷事件である。
1999年(平成11年)5月10日:ダイヤ改正により次のように変更
紀州路快速が運転開始。
三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅が快速列車の停車駅になる。
関空特快「ウイング」が廃止。
本当か解らんが時系列的には合ってる 名前が同じだけで鉄道とは何のつながりもないが
むかし大阪と和歌山に阪和銀行という銀行があって、
ここが潰れたときに幹部役員が資産を隠したとかでお縄になるなどとんでもない会社だったが
このスレ見ていて、ふと、思い出した 屋号に阪和を名乗ったのは末期だけ
元々は興紀相互銀行だった
阪和線にはまったく関係ないw ウィキには荷物車連結当時の急行「きのくに」の写真があった >>327
その荷物車には、和歌山県紀南・紀中方面に配達される大阪本社発行の各新聞社の新聞や
小荷物などが積まれていたようだ 夜に天王寺から御坊や紀伊田辺行きの快速もあった(和歌山線五条行きと併結)
和歌山で切り離していた 特急も急行も和歌山以遠走るのは線内通過ばかり
ちゃんと停車する南海と逆で嫌がらせと思った >>330
今年3月14日の改正で「くろしお」が全て日根野停車となり
そういうのが全て姿を消すという >>330
特急も急行もどころか普通はやたまさえ旧型客車さえそうなのは度肝抜かれたな
JRになってただの快速電車になったが165系だからこれはこれで無理あったが 朝に紀伊田辺or御坊発の天王寺行き快速もあったな
和歌山で五条発と併結して >>255
http://blog.livedoor.jp/tc381_124/archives/1044714469.html
ここにある日根野発新宮行き(2701H+2332M)と
新宮発日根野行き{2355M(+2702H?)}は関係ありますかね?
全く別のスジ? デッキ付き電機機関車が走ってると聞いて見に行った
あれは何型だったんだろう
かっこよかった >>340
阪和線・紀勢本線の貨物列車廃止まで走っていた色がマルーンのデッキ付きの
その電気機関車は、EF15型
ヘッドライトがシールドビーム2灯になっているのも、竜華機関区所属の電気機関車の特徴だった >>341
そうそう!阪急色やったw
EF15 やったんや
ありがとーーー
ホンマにかっこ良かった! 国鉄時代やったら旅客列車はEF52+スヌ31、貨物列車はED60の重連で決まりやね ED60の運用は竜華〜杉本町〜阪和線〜和歌山操までで、紀勢本線に乗り入れて新宮までの
運用は無かったな 横から別人が申し訳ないけど何が駄目なのか全くわからない
きちんと書いてくれ EF52が生きていた時代に新宮電化時代の話を繋げようとする脳味噌、
スレタイすら理解出来ない脳味噌、人それぞれやねぇ 阪和線といえばEF58が旧客を牽引していた「南紀」や「はやたま」では? >>349
EF58牽引による12系客車の臨時急行「きのくに」もあった。
それだとか、EF15+EF58の重連による貨物列車や、竜華〜和歌山操間の
電気機関車の重連回送や単機回送も見られた EF58牽引による12系客車の臨時快速「いそつり」もあった 12系客車による臨時快速「いそつり」は昭和62年年末〜63年年始にかけて、新宮→天王寺間で日中に運転され、阪和線内は無停車だったが、和泉砂川で阪和線快速待避のためドアは開けずに停車、DD51が牽引していた。 本当はいそづりなんだが濁音が嫌われていそつりになった
少し言い難い 阪和線沿線民なら昭和の頃、小学校の修学旅行は「お伊勢さん」だったという方は多かったに違いない。
利用した交通機関は、基本、近鉄派(あおぞら)と国鉄派に分かれ、おじさんは国鉄派だった。
あれは昭和55年の5月頃か…早朝、津久野駅に集合し、わくわくしながら急行型のキハ58や65で組まれた臨時列車に乗り込んだ。
おじさんのクラスは新しいキハ65で感激、隣のクラスは座席がくたびれたキハ58だったので
運がよかったのかも知れない。
隣の上野芝駅では他校の生徒が乗車、杉本町から阪和貨物線・関西線亀山経由で一路、伊勢市駅へ。
途中、関西線のどの駅か憶えていないが、行き違いで停車、その駅のめちゃめちゃめちゃ古い木造の駅舎に感激した。
おじさんは当時から鉄ヲタだったが、何処の駅で運転停車したかは憶えていない。
多くの駅を通過し、関西線の電化区間はそこそこ飛ばしていたと記憶している。
因みに復路は鳥羽駅から乗車、同じ編成だった。 おじさんが初めて新宮夜行に乗ったのは1984年…昭和59年の春、この頃、もう既に寝台車が外され単なる924レだった。
列車は23時丁度に天王寺駅9番線から発車、客車は12系、機関車はEF58だった。
和歌山までノンストップが特色で、車窓に釘付けになって通過する駅を眺めた。
345Mみたいに混雑する事はなく、ボックス辺り2人、多くて3人程度だったか、
田辺か白浜を過ぎるとボックス辺り2人程度、ひじ掛けを枕にして寝たと記憶している。
因みに当時の乗車位置は今でも9番線に薄く残っている。 皆さん昔の阪和線のサービスが悪いと書いてますが 自分も子供の頃同感で
かといって 南海の駅まで出れる場所じゃなかったので
阪和社形が発展していたら どんな素敵な車が走っていたろう と空想にふけっていた >>360
修学旅行の地引き網体験での女子の服装は体操服+ブルマだべ? >>362
快速と各停は昭和61年頃までは6両で、昼間の天王寺から鳳の快速は区快を含めて毎時4本、普通は同6本。
これを見るとサービスが悪いと感じるのは今の快速停車駅の住民のみ。
それに、あの頃は「はるか」がなく線路容量が余裕のよっちゃんだったので今よりも活き活き走ってた。 >>365
昭和61年11月改正までは、天王寺〜和歌山間の普通電車は1日2本しか運転されていなくて、鳳以南各停となる区間快速が運転されていたな あああサービスがわるいとは朱色の埃っぽい旧国や態度の悪い職員を言いたかったので
所要時間や本数わ特に不満なかったです 70系もいまはいい思い出です
南武線も客多いのに72系だったので 売春されるとこうなっちゃうんでしょうね >>365
貨物列車が旅客列車の増発を阻んでいたことも
あるかもしれないけど >>365
それもあっただろうし、竜華機関区から東岸和田や長滝、和歌山操までの電気機関車の
重連回送や単機回送などの関係もあったのでは その頃は貨物列車は最末期でコンテナ列車が数本
和歌山操駅の廃止は昭和61年
よって旅客列車への影響は僅少 >>336
阪和線は通勤路線なのに各停も全て転換クロスの豪華仕様。
それに引き分け、紀勢本線や和歌山線の227系はオールロング。 >>372
間違えた。
引き分けではなく引き換えだ。 >>372
>>373
国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
不適当だという声が上がっていた。
「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
ロングシートでもよかったのではないか >>374
> >>372
> >>373
> 国鉄時代から阪和線は103系を使うような路線ではなく、103系は阪和線に
> 不適当だという声が上がっていた。
> 「関空・紀州路快速」の運用に入らない6両編成の225系5100番台は
> ロングシートでもよかったのではないか
どーせ上野芝駅でそれこそアホみたいにボケ〜と長時間停車しているだけなので6両編成の225系5100番台でいいと思う
ただし鳳〜東羽衣間の通称羽衣線にまで4両編成と言え225系5100番台言うのはまぁあれだ、正直言ってやり過ぎと思う
2021年令和3年きのくに線の普通電車がall227系電車になったらもうその時点で227系共通運用にするのが賢明だと思う
いくらコロナ禍だとは言え関空・紀州路快速がボロい電車なのにあんなは流石に言い過ぎだがあんな線言うかあんな区間
?に4両編成と言え贅沢すぎるな(苦笑) 朝の阪和間通しの103系快速で毎日通学してました
一生懸命走ってました >>376
昭和末期頃の103系は冷房と非冷房が混在してたな。非冷房なら妻面の窓も開け放たれていた。
平成に入ると完全に冷房化れたが、「冷風車」と呼ばれる全然涼しくない奴が存在してた。
103系の快速はラッシュ時以外は天王寺を出ると猛加速しながらポイントを渡るので車内が
大揺れしていた。今、もうそんな事はないのでそれも懐かしい思い出。
今の阪和は昔と比較すると多くの面でマイルドになってるわな。 でもそんなボロかった頃のほうがまだ、優等通過駅特にはっきり言って津久野は上野芝でアホみたいにボケ〜といわゆる長時間待避必要なんかなかったからな。
昔いいのかまだマシなのか知らんけど。
YouTubeで羽衣線に転換クロスなんて、Wi-Fi電車贅沢過ぎボロクソ言われるがsevereな言い方だけども今となっては、225系5100番台などという羽衣線には、はっきり言って分相応はっきり言って、アホが見栄張って三国丘とか泉陽とか、受けるようなアホきわまりない行為は、やめておけばよかったのにしかないな後3年ずれてコロナで関西空港駄目時点で103系電車置き換えがもしもあったら、225系5100番台なんか絶対投入されず、2両編成で小回りがきくそんな意味でも227系を素直に投入してたろうに(>_<)
過ぎたるは及ばざるが如しであり歴史にifはないがやはりそう思わざるえない。
TPOで227系を組み合わせるいうのが、Bestだったのはどう見ても間違いない。
(2連羽衣線、4連6連で区間快速各駅停車 南海が関西人に不評な関東仕様の内装の車両(8000系)を導入してしまったことによる救済措置として225-5100を導入したものだと思っているが 阪和線と聞いて思い出すのは
天王寺駅に特攻した103系
縁遠いから >>381
2度行止りに特攻しそのどちらにも乗ってた婆さん居たけど、運がいいのか悪いんだか 一時の天王寺駅のイメージが電車が衝突する駅だったw クモハ84は過酷運転で10年もちませんでしたが
たとえば羽衣支線のクモハ123とトレードしたら長持ちしただろか。 羽衣支線
乗ったのは、クモハ60001、旧型国電がなくなる一か月ほど前
オレンジの旧型に乗車できたのはこれだけでした
多くが天理に留置、乗りたかったですね
でも最末期でも、乗れただけよかった… 阪和線は青かったから、京浜東北線のお下がりって言っても違和感なさそうだと思ったがまさか本当に元京浜東北線車があったとは… 昭和47年から52年あたりまで 新快速、鳳停車45分、
快速、堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川停車で53分 この頃が最速か。
キハ80系くろしおが無停車で45分、きのくには48分だからやっぱ電車は速いな。
ちなみにその頃南海は 特急が新今宮・堺・岸和田で54分、
急行が新今宮・堺・羽衣・泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野・尾崎・みさき公園で64分だったと思う。
こっちもこのあたりが最速か。 >>390
当時の南海はまだ架線電圧600Vだったと思う… >>391
当時の南海は客車を牽引し、国鉄に直通していたね。 冷房化は新快速用に投入した113系3編成からスタートしたけど
その後の進展ってどんな感じだったかな。103系の冷房化なんて随分後のような記憶。 もしかしなくてもATC化が無ければ直接103の冷房車が新製配置されていた可能性は? 昔の京浜東北線の写真を見て「阪和線なのに、なぜ関東の行き先?」と思ったことがある
それも京阪神緩行線は偽物(元山手線車であるため)だったのに対し阪和線は本物(元京浜東北線車)だし 一時期103系のロングラン運行が有ったね。
天王寺発紀伊田辺行き快速なんてのもあった。
時を同じくして、京葉線でも東京発勝浦行き通勤快速があった。
103系自身もこんな長距離の運用につくとは思わなかっただろうな。 >>397
スレチかもしれないが103時代は勝浦まで行ってなかったみたいなんだが >>398
末期にはあったよ。ググれば記事や画像出ると思う。 >>390
当時は最高速度95km/hでしたか
それで45分は驚異的
最速時はくろしおで天王寺〜和歌山38分でしたね
南海は天下茶屋・泉佐野・尾崎・みさき公園・和歌山大学前の5駅追加停車で58分だから
こちらは最高速度向上(105→110km/h)効果があるようです 一時期、千ツヌに天オトからオレンジのモハ72や、その数年後113系の阪和色車がかなりの量転入してきた。
千ツヌの運用があった当時、成田線我孫子口でもその姿を見ることが出来た。 >>394
関西本線の湊町口を電化(1973年)するために、まとまったかずの113系の6両編成(クーラがないレッドライナー)が鳳電車区に入ってきたんだ。
それが阪和線用と共通に運用される状態が、紀勢本線の和歌山〜新宮が電化されるまで、つづいたんじゃなかったかな。
紀勢本線の電化開業のとき(1978年)に、まとまったかずのブルーライナーが入ってきたはずだよ。あたらしくつくった2000番台や、クーラがない6両編成・4両編成もあったね。
桜井線と和歌山線(王寺〜五条)を電化するとき(1980年)にレッドライナーが増やされて、あたらしくつくった2000番台や、クーラがない4両編成が入ってきてる。
この状態で、関西本線の車両基地として奈良電車区に分割されるまで、推移したはずだよ。 >>397 本線筋にマスカットの姫路〜三原とかもあったはず。岡山から姫路しか乗った事ないが、あれのフル区間は天王寺〜紀伊田辺に匹敵しそう。 >>387
初めて乗ったとき、オレンジのモハ72が新鮮だった。 >>404
自分も同じ感覚でした
ただ、70系+モハ72の編成では、70系に乗ってしまった
45年前でしょうか ホーム長が絶望的に短いという理由もあったんだろうが、紀勢本線直通は天王寺和歌山間
61.3kmをノンストップというのも不思議な感じだった。
コロナで客が減ってるとはいえ、今の快速の5+3などの最大8両編成もちょっと短いと思う。
おそらくだが、大昔から長い貨物が走ってた南海のほうが、線内優等10連にするときの
手間は低そう。実現はしないだろうけど。 天王寺和歌山間で最速38分の時代もあったのか
これがスタンダードになってたなら和歌山はもう少し発展してたかな >>406
まあ南海は泉北高速直通の準急で10両運転をやった実績があるからな。
南海本線での10両運転は泉佐野以南の凋落ぶりをみればもう実現しないんじゃないかなと思う。 >>407
それは和歌山市だけにもたらされる効果であって
和歌山県全体の発展にはならない
串本や新宮には… モヨとかモタとかの阪和電車の戦前のオリジナル形態は
なんで尾灯が左右対称についてないんだろう
デッサンが下手なひとが描いたみたい >>410
運転席側は標識灯
助士席側が尾灯
らしい。でもフツーなら位置くらいは合わせるよね。 和歌山まで標準38分なら勤務先が天王寺界隈なら十分通勤圏に入る >>412
ありがとうございます
阪和の顔つきで戦後も発展して近代的になった姿を空想してしまった むかしの『快速』
天王寺-鳳-和泉府中-熊取-和泉砂川-紀伊中ノ島-和歌山
むかしの『直行』
天王寺-堺市-鳳-和泉府中-(各駅)-和歌山 たまに乗ると隔世の感があるね。
モハ72にはよくお世話になったもんだけど。 南海の岸和田は特急停車駅やのに
阪和線は優等通過っておもしろいな
よっぽど人が浜側にしかおらんかったんか? 人里離れた山側を走ることで途中停車を極力少なくして阪和間を直結しようとしたのだから
むしろ今のように山側にも宅地が広がって途中停車のニーズが高まる方が不都合だね 東和歌山時代は阪和電鉄の名残で櫛型のホーム使ってたが、
昭和43年(’68年)に和歌山に改称されて駅ビルになっても、しばらく櫛型ホームが
阪和専用に残ってたな。あのホームから103系快速に乗った記憶がある。あやふやだけどw 1977年(昭和52年)
3月15日:熊取駅・和泉砂川駅が新快速の停車駅になる[37]。
3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え[84]。
4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった
1977年だからもう45年前になるか
45年前までそれこそ電車の墓場と言われていた阪和線が支線を含めこうなるとは誰が想像したろうか
1977年2022年同じカレンダーだけに >>416
確かに。ここまで変貌するとは思わなかった。 高速運転の多い宇野線のクモハ84と羽衣クモハ123をトレードしたら長持ちしたかも。 >>421
その、77年3月下旬に、新快速に熊取まで乗りました。
快速とあまり停車駅が変わらなくなったような…。
支線は、ギリギリで旧型電車に間に合いました。
73623-60001-79382の様でした。
本線は、76-72-72-70-70-76と、76-70-72-70-70-76の二本が、
ネガをスキャンしたらわかりました。
でも、複数の同行者は、キハ81-3と5が本命でしたね。
ネガの劣化が厳しいです。 関空に行ったとき、JRと南海が同じ線路を走っていることに改めて感激した。
成田空港はJRと京成が乗り入れているが単線並列。三線化したらどうかと妄想したものだ。 90年代まで山中渓と尾崎を結ぶ南海バス路線があってそこを走る府道が阪和線と隣接してて
南海の赤い円形のバス停が点在してるのが見えたな。大阪地区の最南端路線だったか? 岩出から和泉砂川を経て樽井に行くバスに乗ったが砂川ではほとんど乗り換えがなく樽井まで乗り通していた
樽井なんか普通しか停まらない小駅なのに… 2006年だったら南海は日中も区間急行が毎時2本走ってたんじゃない?後は当時イオンモールが珍しい時期だから泉南イオンの最寄りってのもあるんじゃないかね 岩出在住の人らは阪和線利用と言うと、紀伊までバスそこから阪和なのかな?
今は快速も停まるが、昔は通過してたし和歌山線で和歌山まで行ってそこから阪和だったか。 天鉄局スレ、落ちたのか。
天王寺駅の1-2番線が、往年みたく
人であふれる日は、また来るかな。
自分が知る限りでは
2017年夏のパンダくろしお出発式が
現時点で最後。
それより前に、頭端ホーム発の
臨時くろしおは消滅してたからね。 パンダくろしお、現役続行中なんだな。
いま調べて驚いた
この手のものって一時的で
目立たぬように消えてたってパターン
多いからね。 もともと期間限定でも好評のため延長ってのも結構多いよ オレンジの旧型車両が百鬼夜行していた頃が懐かしい。
今では隔世の感がある。 旧国時代に和歌山〜紀伊折り返し運転が日に1〜2往復かあった。
あれはなんだたんだろ。時間帯的に和歌山構内にいると邪魔だったのかな。 というか、山中渓へは県境越えになり
利用が少ない区間。
和歌山側通勤圏の末端駅で折り返していた
ということでは。 和歌山~紀伊の運転なんかあったのな
なかなかきめ細やかなサービスだ
>>439氏御指摘のように県境が乗客流動の限界になるので
そこまでは最低限の輸送力を保証しましょうという考え
昔の国鉄も捨てたもんじゃなかった 行政からの要請があったんよ
通勤通学難民を作るなっ!て 他に交通手段はなかったのかな
路線バスなんか普通にありそうだよ 103のクモハ編成は両端クハ編成と比べて不評だったとかなんとか >>447
多分ウテシ
そもそも国鉄やJRのウテシは先頭Tcのほうが馴染み深いだろうし
国鉄は電車ならば先頭は付随者であるべきというポリシーを80系辺りから持ってるらしい >>436
一時期、123系が入ってたな
今、宇部小野田線で走ってるやつ >>5
堺市駅は堺東や堺駅に比べるとショボすぎるので、堺感ゼロ >>452
あれでも相当色々できたんやで
国鉄時代はマジで周りになんもなかった >>452
JTBの時刻表だと堺東が市の代表駅なんだよな 下松駅は開業する前、駅名として「岸和田中央」「常盤」なども考えられていたようだが、
岸和田市下松町にあることなどから、「下松」という駅名が採用された。 昔、堺市通る時に「中川ムセン」の看板が見えたな。
あと和泉橋本辺りだったか毎日牛乳のでっかいハリボテの牛乳瓶、今もあるのかな?
上京して随分経つので知らない。。 >>457
毎日牛乳のハリボテの牛乳瓶は今でも久米田~和泉府中間にあるよ。
津久野駅前にあったパチンコ「阪和線」はもうないし、津久野駅付近ないから見えていた
「霞ヶ丘マンション」と書かれた古びた建物のマンションも今はない >>458
ありがとう、まだあるのねw
あれを見つつさらにアンダークロスの水間鉄道の500型(南海1201型)と遭遇と言うのが当時の車窓の
自分的に醍醐味だったような。。
それと阪和線の天王寺よりはもうほぼ高架なんだっけね。以前のシャープ本社や付近のため池とかもう見れないのか。 >>452
名前だけ「堺市」駅なだけで
駅規模や周辺はいつまでも旧駅名「金岡」のまま。
徒歩圏内に火葬場があるし >>457-458
奈良線に乗ってると瓢簞山駅付近に見える角柱の広告塔、
白地に赤文字、昔風のゴシック文字で「毎日○○」
古いので赤色が焼けて劣化している。
電車に乗って見てると、下半分が建物でチラチラしてよく確認できない。
車窓に見流して数年、いちどハッキリ見たいと思った。
で、ビジュアル的に毎日新聞ではないので、
「毎日牛乳」だと思い込んでたんだが、まさかのパチンコ店「毎日会館」。
つい先だって閉店したそうです。
https://goo.gl/maps/eBG6hiEqYQLqiafD8 まあ、何はともあれ堺市は政令指定都市だから頑張ってもらわんとな。 >>4
地下鉄の「新金岡」を見て、じゃあ、新ではない元の金岡ってどこなん?って思う人々も多いことだろう >>429
泉南イオンか、ネット界では日本一有名なイオンモールだな >>82
ラピートは阪急経由天下茶屋接続で間接的に京都や北摂ともつながっているという考え方もある >>466
堺市北区金岡町は南海高野線白鷺駅付近にあり、阪和線堺市駅とはかなり離れている 今ならJR堺・JR岸和田・JR貝塚・JR泉佐野だったかも。
ていうか国鉄○○ってつけたがらなかったな。 >>470
国鉄時代は大体が、私鉄駅名に方角か「新」をつけてたね。関東でも「新子安」とか「新秋津」とかね。、 新子安は京急の方が先に開業したのに駅ができるからと名前を変えさせられたいう過去がある
小田急相模原も同じ 営団地下鉄では営団赤塚、営団成増があったけど、東京メトロになって地下鉄赤塚、地下鉄成増になった。最初から地下鉄で良かったのにな。 昔と言うか、今も残る和泉砂川や長滝、東佐野あたりの阪和電鉄の名残をとどめる駅舎。
南海も浜寺公園、諏訪ノ森の旧駅舎や蛸地蔵のような戦前からの建築が魅力的で、かつての
ライバル(今もだけどw)同士しのぎを削ったであろう時代に思いを馳せるのも乙なのだ 2/12に梅田の切替工事で
特急ホームに往年の賑いが終日再現されてたのか。
事前に知らなかったのもあるが、前夜に吐き気がして寝込んでた
往年を知る者としては見に行けず残念 久しぶりに乗った。
車両が全て223系235系で統一し、東羽衣支線も例外でなかった。
でも、頭端式の天王寺のホームにいると、今でもオレンジのモハ72やスカ色の70系が入線して来そうに錯覚した。 スカイブルーの103系快速やブルーライナーの113系新快速が導入され時も大きなエポックだった。 103系の末期の頃は天王寺発紀伊田辺行きなんてゆうとんでもない列車があった。
関東でも東京発勝浦行きがあった。
どちらもスカイブルーだった。
今ではスカイブルーの103は兵庫と和田岬を行ったり来たりするだけだが、
それもまもなく見納めだ。 山陽線なんかでもあったが、
2本か3本の区間運行を1本にまとめた列車と捉えれば
特にとんでもなくは無いかと。
ただ単に、ローカル区間に103系が合わないという刷り込みが
そう思わせやすいってだけで。 >>4
設置された当時(阪和堺停留場)は金岡村だった当時にあって、堺金岡停留場になったのは堺市に合併された後。さらに金岡駅となり、昭和40年の「あすか」停車で堺市駅に。当時快速は朝ラッシュ時を除いて通過だった。 地下鉄に「新金岡」があったり、南海バスの金岡車庫(営業所)とか
金岡と言う名前自体今も馴染みと言うか、生きて?いる感じではないのか。 そうなるわな。堺市って駅名は
単に対外想定的な名づけに過ぎないでしょ。
堺市ったって、改称当時ですでに広大なわけで、
少なくとも現地民に即応した駅名ではない >>478
広島地区で、呉線の広発柳井行きとかトクヤマ雪乃の103系があった記憶 下関行きもあったような?
間違ってたらスマソ 朱色の旧国が走っていた頃、モハ72に運転台を付けたクモハ73600番台には向かって
右上に方向幕が設置されていたが基本は使用せず常に白地表記のままだった。
時々「杉本町」と読める文字の上4分の1くらいだけ見えていたりした。 70系はシンプルだったが、40系(モハ60、クハ55等)や72系は特に前面スタイルの差異が
色々あって未だに良く把握していないw >>482
まあ堺市役所に近い国鉄の駅としては今の堺市駅が近いってことやったし。三国ヶ丘は南海に乗り換えれば早いけど、当時は普通のみの停車。 >>483
「行きの」の誤変換の文字は見たくないなあ
飽きた 堺市駅は金岡に改称しよう。
東寝屋川が寝屋川公園に改称したように、みんなで頑張れば可能かと。 堺、堺市、堺東。
この3駅の互いのランクってどんな感じなんだろう。人の流れ、周囲の賑わいとか。
地元民j無いのでその空気が実感できない。 堺市内だと高野線界隈が交通や人の流れが多いんでしょうね >>483
103系投入直後はあったけど、便所がないとの理由でわずかな期間のみでで下関直通はなくなった。 >>489
堺東は市役所もあり商店街もあり高島屋もあり、バスターミナルも最大。そこにマンションなどの住宅も増えた。
堺と堺市は住宅が多いイメージ。イトーヨーカドーが最初にやってきた頃は賑わったかもしれないけど、撤退した今はプラットプラットだけでは難しいな。
ちなみにiPhoneの保守でプラプラにあるカメラのキタムラにお世話になっています。 和泉府中の少し和歌山寄りに南海バスの車庫があって、特に緑塗装時代で
行先が方向幕タイプのころは電車の窓から見える「和泉府中駅前ー毛穴」(だったかな)の
文字を見ては笑ってた思い出。 毛穴って陸の孤島なんだよな
家買うつもりで鳳まで歩いてみたらあぜ道満たないの使っても15分かかった 過去の地図を見てみたら、長承寺から東に折れて泉北2号線の高架くぐった先の石津川渡る手前が終点か。なんであんな辺鄙なところに。 海沿いの集落をフォローするように敷設された南海と違って、内陸の農村地帯を
直線的に貫くように敷設された阪和線。未だ、特に鳳以南の車窓って田んぼに宅地が
点在するような郊外のまったりした景色が広がるイメージがある。
もう上京して随分経つのでまあかなり様変わりしてるんだろうけど。 >>497
和歌山への時短が目的で敷設したのかもしれない。 >>498
まさに時短が主目的でしょう。
できるだけ直線的に軌道を敷設し、
京阪系列ということもあり当初は標準軌での敷設を目論んでいたし >>497
阪和線は東貝塚〜和泉橋本間で水間鉄道をオーバークロスしたところで、車窓風景が一変するな 国鉄時代、新快速が設定され快速も113系でスピードアップ、そのなかでちょっと鈍足イメージだった
区間快速は堺市、鳳、それ以南各停で所要72〜3分ほどだった(昭和50頃の記憶)。
しかし、すっかり停車駅の多くなった今の日中の快速とそんなに変わらない感じで、
やはり当時においても直線コースを取っていたゆえの俊足ぶりと言える。 昔の三国ケ丘駅。電車が通過するかなり前から線路から音がよく聞こえた。 白幕時代の区間快速の方向幕が好きだった。
側面なしのやつは論外 >>502
いつしか快速停車駅になったけど、南海の方は未だに急行通過だね。 >>504
昭和末期から区間快速が停車してたけど朝しかなかったしな。
1999年から快速停車だからまだ24年か。 >>503
手巻きの方向幕で区間快速の文字が緑と赤と青とか、快速と新快速も赤と蒼があった 阪和線の113系の前面方向幕の旧幕の行き先には「区間快速 天王寺―御坊」、「羽衣線」も入っていたが、
113系は最後まで羽衣線に入線しなかった。 和歌山ローカルの話。
JR和歌山出て数百メートル北(天王寺)行くと道路がオーバークロスしてるが
以前は道路は地上で「北第1踏切」という踏切が設置されてた。
83年(昭和58)頃まで有人だった。子供の頃よくここで電車を見ていた。
コーナンなんかもちろんなく、捺染工場があってインクの強烈なにおいが漂っていた。 高架化前、下松~東岸和田間にあった戸梅踏切は警報機だけしか設置されてなかったがこの踏切で人身事故が
発生後、遮断機が取り付けられた。
この踏切の先の和歌山寄りにあった小土野踏切は遮断器も警報機もない4種踏切だったが、自動車通行不可で、
またこの踏切を渡る人もほとんどいなかった。
現在はこの2つの踏切は高架化により廃止されている。 キハユニ16か。
天王寺15時くらい発の「きのくに」の先頭につないでたな。で和歌山15時50分くらい着やったか。
和歌山でキハユニ16切り離して「きのくに」は16時くらいに先発、そこで和歌山に先着してた(と思う)和歌山市からの
キハ35の4両編成周参見行きにキハユニ16を先頭にくっ付けて、16時何分かに周参見へ。
だったかな? 紀勢線電化(78年)ちょい前のヒトコマですお。。 そのキハユニのハは客扱いしていたのかな?していたなら過去に戻って乗りたいな。 きのくに運行時(天王寺〜和歌山)はしてなかったように思う。
紀勢線内は客乗せてた。自分も乗ったから。
クロスの背もたれが低い初期タイプと高くなったのと2種類あったように思うんだが、
記憶違いかなあ。。和歌山線に中間車改造のキハユ15があって、こっちは背もたれが
高かったのは覚えてる。 まあでも阪和線内のキハユニ16の画像とか見ると人が乗ってる感じのがあるんだが、
あれ職員かな。。想像でしかないw 45年くらい前、午後2~3時頃の和歌山方面行きの先頭に新聞積んでた
今はさすがにないよね >>520
地方のローカル線ならまだ残っているようだ。
先日成田線、成田ー佐原間を乗車したところ、最後部の一部をシートで仕切って荷物室って書いてあったし。 新聞に限らず鉄道の荷物・貨物輸送はもっと復活していいと思う。 貨客混載ならすでに増加中。
阪和線もそのうち閑散時間帯でやるんじゃないかな?
夕刊がなくなりつつある新聞はもう増えないだろう。 紀南方面に自動車道が伸びてきてるから漁港から大阪方面は機動力のあるトラックが便利。
阪和道なんか保冷車飛ばしまくりw 紀勢本線・阪和線で海産物運ぶメリットとしては、定時性と、駅ビル、駅ナカ飲食店にダイレクトで届けられる(トラックの駐車場所や荷卸しスペース・時間不要)ってとこかね
天王寺や大阪の駅直結店舗にとってはありがたいかも >>516-517
昔のことだから(良い意味でユルい)
いったん断られたとしても
希望すれば乗れたでしょう。 津山線のノスタルジー編成を借りてきて、きのくに、しらはま復活運転しないかな。 杉本町駅6番線。かつては2番線とは繋がっておらずに貨物しか入らず、待避列車は本線から直接2番線に入っていた。なので、大和川渡った後もしばらく加速していた。
現在らこのようなルートで走行する普通は夜間しかないが、はるかが大阪環状線に行けずに抑止したり故障車を閉じ込めるためにら6番線を使用している時にたまに本線から2番線に入ることもある。 >>528
今では支社界超えのレンタルすら困難な時代になってるから無理だろうね。
車両面だけでそんな状態なのに
ハンドル訓練やら停目やらの調整も必要
国家規模の肝入りなら可能性もあるが、
沿線自治体やJR支社が企画したとしても現状まず困難 senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2017/09/03/1983122.jpg
昔は竜華操車場とのアクセスだけだったな。 >>531
かつては、日立ポンパ号やオリエント急行のような奇想天外な企画もあったんだけどな。
国鉄時代のほうが柔軟性があったのかな? >>533
オリエント急行はJRになってからじゃね? >>534
そう。昭和63年だからJRになった直後だね。
その頃はまだ、JR間の絆があったんだね。 しかし、まさか国鉄時代は日根野電車区が浦和電車区との絡みがあるとは思わなかった かつての京浜東北線が阪和線とそっくりな車両だったので、これは阪和線は京浜東北線からの転入車両を使ってると冗談で言おうとしたらまさか当たってたとは… クハ103-53
この車両は国鉄末期の広域転配で豊田電車区から日根野電車区に転入してきて、
4両編成の混色103系の天王寺寄りにオレンジ色のまま連結されていたが、
のちにスカイブルーに塗りかえられて、冷房化された。 日根野から千葉(千ツヌ)にもたくさん広域転配されていた。
オレンジのモハ72や113系ブルーライナーを我孫子駅で見た覚えがある。 阪和線は元京浜東北線、大阪環状線と京阪神緩行線は共に両端先頭車だけ元山手線 86年10月まで東岸和田は快速通過だった。和泉府中を出て熊取まで通過。
その頃まで「南海は岸和田は特急も停まるけど阪和は快速停まらんてエライ差ァつけてるな、
何でやろ・・」とずっと子供の頃から思ってた。貝塚(東貝塚)も同じ。待避線もあるしまあまあ大きいよね。
市の代表駅としては国鉄私鉄双方あっていいと思うんだが、やっぱ阪和線のほうはちょっと
一段階落ちるんか? 逆になぜ熊取(みたいなあんな田舎の駅w)が古くから快速停車駅なのかと言う不思議。。
ちなみに地元民じゃないので実際のあの辺の空気と言うか状況はあまり把握してまへん。 阪和線のラインカラーがオレンジなのに103系の色が青だったのは、京浜東北線からの転入で改造を必要最小限にするために外観では所属表記の書き換えのみに留めたからだったのか(などと) >>542
当時は「ラインカラー」は導入されていなかった
今のオレンジは和歌山みかんと太平洋の陽光に因んで、JR化後大分経ってから設定されたものではないか >>541
東貝塚は後にユニチカになる工場のためにできた駅ですね
熊取は確かに不思議ですね
和泉砂川は砂川遊園があったんで快速止めるのは分かるのですが 三国ヶ丘は快速停車になってかなり経つけど、南海の急行は今でも通過なのはどうしてだろうか? >>545
中百舌鳥もそうだけど、乗り換えられたくないみたい
阪和線快速は停車駅倍増で天王寺~和歌山間が遅くなった
三国ヶ丘・東岸和田・日根野・紀伊・六十谷
昼間は日根野での連結・切り離しと長滝~紀伊中ノ島の各駅停車 乗降客増加で快速が停車になったという話もある。
三国に限らずだが、結局阪和線快速の停車駅増加も集客見込めるからと言う感じで
昔のような天王寺と和歌山の速達使命がさほど重要でないのは末期新快速の停車駅追加で
とっくに実証されてる話とも思う。 熊取は京大原子炉ができたから快速停車になったとかじゃなかったっけ。 >>546
南海の場合は自社線は難波で止まってしまうからね。
なにわ筋線できても高野線からは直通しないだろうからこのままかも。あとは準急に格下げしてしまうか。 >>548
天鉄局の人が京大出身で、原子炉と話がついたとかなんとか 東岸和田が昭和61年11月改正で快速停車駅になったのは岸和田市の人口が増えてきたこと、
岸和田市の発展が目ざましいものもあり、国鉄・天鉄局・岸和田市が協議して、東岸和田が快速停車駅になった。 103系は結局、高運転台車の方が先に消滅してしまった
多分羽衣線があるために取り扱いの面で低運転台車を後に回したかもしれないが >>548
京都大原子炉は2026年に運転終了予定らしい。
だとすると、快速通過になるのかな? 国鉄時代に標準の運転台でユニット窓、ブタ鼻シールドビームの冷房付き103系って阪和線運用あったのかな?
京阪神緩行、環状線ではよく見かけた。関西線も入線してたかな? >>554
昭和59年頃、ブタ鼻シールドビームのクハ103が先頭の非冷房の103系が
京阪神緩行線から阪和線に転属してきて運用開始された >>555
あー、その辺の頃か。
高運転台の103系って80年(昭和55)10月だったか、いわゆるATC準備型の冷房付きが
新製投入されたのは記憶にある。それまで旧来の転属組の103系ばかりで、相変わらず阪和は
お古ばっか回されてるなあ、と思ってたw >>547
てか単に直通速達需要は「特急をご利用ください」でしょ 205-1000も223-0も南海対策で急遽計画されたものだったとか 昔の阪和線と言うと、オレンジのモハ72とスカ色の70系、急行型の気動車ばかり連想する。
でも今は223系と225系の天下。羽衣支線さえそうなので隔世の感がある。
ただ、頭端式の天王寺駅ホームに佇んでいると昔と変わらず、旧型国電が入線してくるような錯覚に陥る。 羽衣線に225が使われるようになるとはまさか思ってなかったので未だになんか慣れないw 途中で増解結させるよりは同じ車両で走らせ続けたほうがいろいろと楽。趣味的には5000番台も223系も共通運用してもらいたいぐらいだが、ワンマン運転対応はそこまでしなくても良いだろう。 昔は電機もED60&61やゴハチが末期まで活躍してて独自色があった。
キハ81ブルドッグも終活の地だった。色々お古回された阪和線だが反面、マニアには
興味の事欠かない路線だった。 3ドアのクロスシート車で統一されるなんて誰が予想しただろうか? 環状線まで超ロングシートになるんだもんなぁ
びっくりだわ そもそも103系も導入当初は快速増発で投入したから通勤形と近郊形の境目はそんなになかったと思う。きのくに線まで運行してたこともあったし。むしろ京阪神緩行線のほうが今も昔もビシッと分けられてる。
その究極形が現在の阪和線3ドアクロス統一。関空輸送対策で座席は少ないけど詰め込みにも閑散時の輸送にも無駄が少なくて上手く活かせた形。 113系が検査かなんかで代わりに103系が新快速に使われたこともあったな。
新快速マークを描いたビニール幕?みたいなの掲げて爆走してた。 >>569
夕方に、天王寺→紀伊田辺なんていうのもあった。
京葉線の東京→勝浦といい勝負だった。 一応、JR化後も、黒幕になるまでは103系に「新快速 天王寺」「新快速 和歌山」の幕が入ってたはず >>569
クロス車の旧来の既成概念だけでは実現は無かっただろうね。
どれが先かって順番とかは判らないけど、
「バリアフリーの浸透」「片側1列への気づき&実施」というのを経て
クロスなのにクロスのまま詰め込むこともできる、というのが
実現したみたいな印象。 信楽高原鉄道事故や福知山線脱線事故が無かったら、JR西は阪和線向けの207系を
大量増備して103系をすべて置き換えていたかも。
その時の207系は京阪神緩行線用とは帯の色が異なり、スカイブルーの帯になっていたかも >>575
信楽/尼崎というより震災が無かったらでは?
阪神大震災が無かったら間違いなく1997年以降に207が南アーバンにも投入されてただろうし、0番代3連(現実では無理矢理1000番代のモハを挿入)の処遇も違っていたかもね
223-0ももしかしたら207を阪和に導入する事を前提にしていたかもしれないし 223-0は207-1000とシステムが共通で、というより南海対策で急遽207-1000のシステムを流用して223-0が設計された
(設計順位としては1000番代の方が先、そのため登場が1000番代の方が後ながら0番代がビードレス車体、1000番代はビード車体になっている) 103系は私鉄では東武8000系より小田急2600形の方が近かったと思う
東武8000系は高速型で103系とは異なるが、小田急2600形は103系同様に低速型だったから
(しかしその小田急は2600形同等の車体で高速型の5000形/5200形に移行するが) 阪和線は3ドアクロスシート車に全て変わってしまったが、南海には片開きドアの6000系が今でも元気に走っているのを見ると嬉しくなる。
ワシとそうかわらない年齢、ワシも頑張らねばと改めて思うのだ。 尼崎事故が無かったら321系が南アーバンにも導入されていたかもしれないと思う
201/205-0転用でも置き換えきれなかったからね 運用がめんどくさくなるからやらなかっただろう。
泉州地域〜和歌山間で人口増加している予測があるならそうだったかもしれんが、減少しかない未来では結局現在とあまり変わらなかっただろう。 旧国がまだ健在の頃、4扉3扉混結してたがホームでの乗車位置とかちゃんと区別させてたのかな。
よく線路わきに「○○乗車位置」みたいな看板?がずらっと並んでるが、当時(77年3月以前)は
まだ設置してなかったか。新快速は乗車位置をホーム上にペイントしてたのは何となく記憶にある。 >>582
その頃は整列乗車って概念自体がなかったなあ ターミナル駅だと大体、乗車位置が示されそこに整列っていう認識はあったと思う。
南海だけど新性能化が完了した後だが、4扉2扉しっかり編成区別されてたから
四国号や急行とか優等種別なんかは並んでたな。 そのとおりなんだけど、583さん含めて
そういう乗る側の認識の問題じゃなくてさ、
事業者側つまり国鉄側が混沌というか「ない混ぜ」だったんだよ。
それが言いたかった
気動車だって混成だったでしょ。
乗車位置の観念は、無いとは言えないが、希薄だった
そういう運行面の都合でさ。 和歌山駅の新快速の乗車位置ペイントってまだ残ってるのかな? 僕は阪和線の103系を初めて意識したのは2010年頃なんだけど、その阪和線の103系が京浜東北線からの転属車だったのを知ったのはつい3年前の事 >>590
べつに全部が全部、京浜東北から来たわけじゃないんだけど 国鉄時代の103系でもドアの車内側が鉄で緑に塗装されていたのとステンレスだったのと二種類存在してた。 >>591
クハ103-15〜16、クハ103-17〜18といったド初期車の連番で組まれた編成は山手線出身で転属当初は正面に黄色の警戒色が入って関西線色になってたな 昭和43(1968)年の阪和新性能化第1陣の103系6連×4編成は新製投入なので
ステンレス扉だったな。旧東和歌山も和歌山に改名、ステーションビルになって
阪和線和歌山口も一気に現代的になった。 58 名無しでGO! sage 2023/05/22(月) 22:10:41.38 ID:jEzAOX+g0
阪和の天王寺に突っ込んだ事故のニュース映像をYouTubeで見たが、インタビューで現場が直すよう苦言しても一切直さなかったって言ってるな
現場の声を軽視する体質は当時から全く変わってなくて笑うわ 修理代をケチって大事故になって結局多額の賠償金を払わさせる羽目に 阪和線103系はいくら大半が1964〜1967年製とは言っても阪和線に来たのはだいぶ後なんだよね
ここが同時期の関西私鉄車両とは違うところ 113系は詳しくは知らないけど1964年に京阪神快速に投入されたんだっけ? >>594 68年の東京周辺であれば、中央快速の乗入れではあるが青梅線でも新性能電車走ってたし、中央・総武緩行や常磐線でも新性能車投入がかなり進んでたのでは。
大阪環状線でも72系が相当数走ってた頃か。 68年に新性能車初めて導入ということは、東京の私鉄では8000系入り始めた東武東上線と同様と考えればよいのか。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 今の阪和線は223・225系に統一され隔世の感があるが、たまたま天王寺の行き止まりホームにいたところ、列車が全くいなくなった。
ホームのドームは昔から変わらす、今にもオレンジのモハ72が入線して来るように思った。 >>603
その223系も一部が嵯峨野(山陰)線に転属 ライバル南海の新性能通勤車は63年(昭和38)にすでに7001系をデビウさせていた。木目のアルミデコラにファンデリア、
住友ミンデン台車(空気ばね)にふかふかのモケットロングシートで乗り心地、アコモ共々上々だった。 >>606
その南海7000系は台車が東武8000系に類似してたな 103系は本来駅間の短い山手線用として開発された車両だったため、阪和線では使いにくかったと思われる >>602 東武東上線の8000系導入、63年だった。東京の大手私鉄幹線でかルダン車入るのが最も遅かった東上線に5年遅れて、阪和線にかルダン車投入ということか >>605
湖西線や草津線でも運用してる
>>607
でも当初は快速用として導入された 113系投入後、データイムはブルーライナー色(冷房付き)が新快速、間合い運用の春日色(非冷房)が快速というのが
ひとつのパターンだったような。んで新快速最終が天王寺(和歌山)に着くと、H・Mを折り返して赤と青だけの模様で
快速運用になった記憶。 連投だ。その春日色113系も関西線快速のH・Mは付けたままでこれも折り返して赤一色にして阪和線快速で運用していた。 阪和線の新快速に乗ったが、写真は撮っていなかった
まだ旧型電車が残っていたころで、そちらばかり優先、もったいない 103系の快速運用、周辺私鉄に例えるとすれば阪急3100系を神戸線の運用に就かせる様なもの
(3100系は宝塚線用の低速型) >>614
阪和沿線住みの天王寺区以南住み民は阪急を生活圏で使わんし
観光とかでたまに京都に出るときくらいしか乗らないから
例えがいまいちよく判らない。
他にわかりやすいタトエない? 103系は快速どころか、検査で113系が不足の時は新快速にも使ってたな。
区間快速乗ってて長滝で通過待ちしてたら吊り掛けのような爆音(多少色付け)で走行してたよ。 >>617
ええ103が新快速!?(モーター壊れそう)
想像しただけでも恐ろしい 103系は最高速100キロでそれ以上は出さないからな、心配無用。 >>616
南海6000は性能的には近郊型の方が近いから話が違う 七尾線で活躍して最近廃車になった415系の800番台33両は113系の改造車だが、その中には元天オトで長年新快速カラーで活躍
した車両がクハ4両、モハ7両合計11両ある。
阪和線の新快速カラー6連3本の18両だったからそのうち11両が415-800番台に改造されたわけだが、クハの4両(クハ111時代の
車番は52、339、352、360)のどれかは新快速色に復元して京都鉄博に展示してほしいなぁ。
でももう潰されて残ってないんだっけ・・・? 関西では103の使い方を本来とは間違っている路線が多かった感じ
東でも常磐快速線があったが >>622 東で武蔵野線、それに京葉線や埼京線の快速も同様。構想だけで終わった「105系(仮称)」を導入すれば良かったわけだが。赤字国鉄にコスト高の通勤車両を量産する余裕が無かった。 103は113/115の通勤型版ではないんだなぁ… 103の数をもっと少なくして、その代わりに113系のロングシート版を投入しておけば良かったのかも・・ 初めて103系が登場した当時の阪和線は、くすんだオレンジのモハ72や、古ぼけた70形
煙染みの付いた気動車の中にあって、「掃き溜めに鶴」の様相を呈していた。 >>625
まぁ現実には山手/京浜東北線のATC化による余剰車の活用もあった(と思われる)から… DC時代のくろしおは阪和間無停車で45分、きのくにで48分とかだったと思うが結構な俊足だったな。
紀勢線電化後もきのくにはDCで残ったけど、113系普通とたいして変わらない所要時間で
ただただうるさい存在でしかなかったw いえいえ、元々国鉄が昭和33年に運行開始、翌年から南海も自前のDC新製してきのくにとして乗り入れ開始。
最盛期14往復前後の大所帯急行だったな。片道夜行もあった。鈍行B寝台の後に天王寺出て新宮翌朝5時10分着くらいだったか >>629
南海から紀勢本線に直通する列車があったなんて隔世の感があるね 阪和間は今はクルマで往来しやすくなったけど、平成元年頃までは高速は阪南ICから海南まで。
昔ながらの下道(国道26)での移動だったな。海南から湯浅までは84年(昭和59)には出来たがそこからはやっぱ国道。
紀南観光というと釣りとかで荷物がある人は大体クルマ、温泉や名所めぐりは鉄道、みたいな感じだったかな? 阪和自動車道が松原まで繋がったのが平成初期なのよな >>629
南海きのくにを知ってる者が
どうしてそんな認識になるのか判らんわ。
片側だけ知ってるってのがありえん >>634
西名阪も近畿道につながっていなかった頃、トラック乗りをしていた。
名古屋から名神を使って大阪に行くより、実質高速の名阪国道を利用する方が
ずっと安かったのでよく利用していた。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 西名阪はよいけれど東名阪を東京・名古屋・大阪の列挙として使うのをやめてくれ。 急行きのくにのように、発着地が異なる編成を途中で分割併合するが、一つの列車名で統一するケース(他に伊豆急下田行き+修善寺行きの特急踊り子など)と、別々の列車名にするケース(例:DC急行ときわ+奥久慈、DC急行アルプス+かわぐち(富士急乗入れ)など多数)の違い、基準って何かあるのだろうか?
南海乗り入れの方を別の列車名としてもおかしくないと思うのだが。他に適当な名称が無かったからか? 60年代までは紀勢本線全線で運行区間で色々愛称があった。
紀州、しらはま、南紀、はやたま。。 >>642 マルス導入以前の話だろ、電話連絡だから多様な列車名つけとかないと間違いや混乱が生じる。
号数つけるにしても1号、2号位ならいいが、10号、15号と多いと混乱する。 >>641
埼玉県加須市立○○小学校
7月20日は終業式です。おかげさまで大きな事故や怪我・不登校もなく、1学期を締めくくれ
そうです。 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが 84年頃、関東でも常磐高速が土浦辺りまでしか行ってなくて、常磐線に水郡線乗り入れのDC急行が走っていた。阪和線、紀勢本線も和歌山の少し先までしか高速道路通じてなく、DC急行が走っていたのが似ている。常磐線、非冷房キハ55は走ってなかったが >>644
不登校のお子さんがいないのはすごいですね。 結果論だが、主電動機について通勤型もMT54を採用していたら、1985年辺りまでずっと製造され続けていてその後はそのままMT61を採用した車両に移行していたかもしれない
MT55とMT60は共に特殊の様な気がしてきた >>623
幻の105は実現しなかったが、むしろ南海7000/7100はその幻の105に近いと想像
その証拠が特急車(10000)と連結 >>641
埼玉県加須市は県境マニアで有名だね。
柳生駅近郊には埼玉、栃木、群馬の3県境が1つの場所にある。 県境マニアの関西地区の話
・イオンの高の原店は店内に京都と奈良の県境がある
・京都府と三重県が接しているのを知らない人が多い >>652
和歌山県北山村は和歌山県飛び地で三重県内にあり、
同じく新宮市熊野川町嶋津も三重県内にあって和歌山県飛び地になっている >>652
イオンのことは知っている人多い。
店内に線が引いてある。
県により条例など違うから必要だと思う。 阪和線の県境というと、雄ノ山隧道を想像しがちだがもう少し北寄り(山中渓方面)の小さな鉄橋が県境。
真横を並走する旧熊野街道の橋の両端に大阪と和歌山を示した標識があり車窓からも見て取れる。
橋の名前も境橋とかで、日本最後の仇討ちがあって云々と言う、まあググれ加須 おいら海に近い泉州に住んでたから
和泉市や貝塚市のとなりが和歌山県なんて全く想像もつかなかったな。 京都府南丹市がなかなかすごい。
大阪・兵庫・滋賀・福井と県境を接している。
大阪と福井に接しているなんて地図を見ないと位置関係が把握できないね。 >>642
紀州、きのくに、紀伊…
旧国域が広く、複数の進入ルートがあるがゆえだが、
意味としては同じような愛称が並んでたな。南紀も仲間に入るか? >>657
4県と接している市町村は、南丹市以外では埼玉県秩父市(長野・群馬・東京・山梨)と岐阜県高山市(長野・富山・石川・福井)
があるのみ。
地図見ないと位置関係がわからないね。ちなみに3県に接している市町村はかなりある。 岡山と香川は橋がかかって初めて県境を接するようになったと思いきや、瀬戸内海の島、石(井)島に岡山と香川の県境があるとのこと。
有人島では日本唯一だとか。 >>659
高山市はとにかくでかい。
香川県・大阪府よりでかく東京都とほぼ同じ 父鬼 神於 蕎原 葛畑 大阪南部の山間部珍名難読萌え 京都市もなかなかなもんだ。
滋賀県と大阪府に接している上、福井県とは直線距離で、5キロ位しか離れていない。 くろしお号は天王寺駅の1番線ホームから出発しないとくろしお号らしくないよ
15番線から発着するくろしお号には旅情が感じられない >>663
左京区や右京区は大阪市より広いんだよな
てか大阪市が府庁所在地なのに余りにも狭過ぎるだけなんだけどね >>664
1番と2番かな。昔、ホーム頭端部に特急、急行券の検札なのか臨時の発売ブースかなんか柵立ててた記憶がある。
それと天王寺うどんは必ず寄ったなw >>664>>666
梅田地下駅の切替の日に無理して見に行けばよかった
(某神社に初めて行ったら神気に「中った」のか帰路に頭痛吐き気して寝込んでた)
行ったヲタの多くは単に物珍しさだけの撮りテツだったろうが
俺ら往時を知ってる者は1・2番ホームの活気を見たいんよね >>665
左京区の北部に行くと深山幽谷の趣で、都から遠く離れたことを実感する 阪和線の103系が元京浜東北線車という事を知った時の僕「ついに京浜東北線が関西に進出」 僕は阪和線の103を意識したのは2010年頃の事だが、その103が国鉄時代に関東から転入してきたものである事を知ったのは3年ほど前 俺が認識した阪和線103系は
折返しが同区間なら固定で使える阪和幕
お顔にお髭がまだあった
ようするに国鉄時代だけど >>668
友人がドライブ中に熊を見たと言っていた。 山中渓って2面2線ホームだが、昔は2面4線だった。外側2線は通常の待避線じゃなく、ポイントがクロッシング部分がない
安全側線みたいなポイントで保線車両の留置用だったような記憶 久米田駅の保守用車両留置線はかつては待避線で、阪和電鉄時代や南海山手線時代には列車の緩急接続や
列車の通過待ちが行われていたが、国鉄時代に緩急接続や待避が東岸和田や和泉府中などに集約されたため、
待避線の線路は分断された。この待避線は、ホームと線路との間隔が広すぎるようにも見える それは個人的にはそうは見えない
電照部分だし
通風口はグリルがあるから髭に見えるわけで 東には眉毛を片方だけ剃った様な103系が存在していた(西日本には存在しないが) ゆとりダイヤ化により普通は鳳止まり、鳳〜日根野は区間快速となり、紀州路快速は熊取〜和歌山間各駅停車となってしまった 主要駅地域だけが栄えてた昔は速達サービスが有効だったが、今は徐々に各駅地域の利用も多くなって
こまめに停車して客拾ったほうが収益上がるんだろうな 各駅地域の利用が増えたんではなくて、大阪から離れた地域の主要駅の利用が減ってきたってこと。その結果、快速運転する区間が減った。
まあそれでも熊取以北の日中の快速は昭和後半までと比べたらまだ多い。 >>681
熊取以南が問題だわ
一部特急が止まる和泉砂川も長滝・山中渓も昼間は同じ扱いなんだよなぁ となると、和歌山方面の列車を平日日中2〜3時間は半分に減らすことに。砂川も以前ほど多くはないからね。 少なくとも新快速が運転開始された時期(阪和間は鳳のみ停車)の日中の東岸和田以南の快速停車駅(熊取、和泉砂川)は快速1(東岸和田は通過)、区間快速2だったような。そんなに変わらん。 70年代の新快速運行時代やその後もだが、日中で区間快速の砂川止まりとかなかったっけ? 和歌山行毎時2本以外で。
東岸和田まで各停(もちろん全駅)も設定されてたが、以南の各駅が区間快速毎時2本じゃ少ないし。当時の時刻表があればすぐわかるけど。 詳細なのは残っているのkなあ。
冊子にも簡易にしか掲載していない >>680-681
70年代以降を考えれば、どちらの変容も当たっているし
またそういう郊外方面の各停駅に家買った人はマイカー主流でしょ、
速達利用者が減っていく要因の一つになったのではと >>686
よく窓口とかでもらえるカード型と言うか1枚モノの一日の発車時刻が掲載されたやつ。ああいうので当時のがあればいいんだけどな。
逆にJTBとかのデカい時刻表だと大都市国電路線のは始発終電以外は簡略した記載だしな。 >>687
マイカーについては今の国道26号や阪和自動車道や阪神高速湾岸線などが延伸するにつれて便利になってきたってのもあるかな。それと、泉北高速和泉中央延伸。 仮に特急の京都乗り入れ開始がもっと遅かったら207系先行車が阪和線配置になっていた可能性はある?
(初のVVVF車でどの様な事が起きるのかが未知のため当時運行系統が独立していた片町線配置になったという説がある) JR西日本化後の4ドア車最初の新造となった205-1000は阪和線用だったからなぁ…
でも以降、南大阪周辺に4ドア車が新造投入される事は無かった
(207/321とも京阪神アーバン向けだけで終了) 結局JR西日本化後の南大阪アーバンでは最初で最後の4ドア新造車となった205-1000が登場したのが1988年
紀勢線特急の梅田貨物線経由での乗り入れ開始は1989年だそうだが >>688
1971年のがネットにあった
ttps://www.pinterest.jp/pin/431430839309026950/ 区間快速は下りラッシュ時間帯は鳳までで、それ以外ほとんどは和泉府中まで快速運転なんだな。
速達時代の新快速(と快速)運行になる前のこの感じ、逆に現在の運用に近いな。
紀州時快速は熊取から各駅だし。 阪和線の103系には、高運転台車も3本だけながら存在していたらしい
まるで京浜東北線だが、運転台直後にも戸袋窓があるのが相違点だった模様 2011年以降の阪和線(大阪環状線、大和路線も同様)がゆとりダイヤになったのは、全ては2005年の福知山線脱線事故が始まり
ここでスピード重視はやめ、新々快速(新快速140キロ運転)の構想も中止となった >>695
80年(昭和55)10月に6連3本が新製投入されたっけか。阪和線はお古ばっかのイメージだが、これと
もうちょい前の昭和53年10月の改正時(紀勢線電化時)にシートピッチ、幅改善の113系2000番がデビュー間もなく1編成?投入された。 阪和線は中古車ばかりだったそうだが、これも関西が私鉄王国と言われていた要因だろうか 少なくとも阪和線のライバルの南海は車両を製造した所が横浜の東急車両だったせいで関東私鉄みたいだと言われていたが、車内に関しては蛍光灯カバーが無い以外はちゃんと関西仕様だった(腰掛端の処理、ドア内側が化粧板仕上げなど) (そもそも103が駅間が短い路線用として開発された車両であり、阪和線には合わなかった説) 103系も天王寺−鳳の各停に運用するなら駅間が短いという点でも合ってるが、
阪和線では各停だけでなく快速系統での使用も考慮する必要があったからな。 関西総括の大鉄と阪和線管理の天鉄局の折り合いが悪くて中古ばかり回され、ってのはよく聞く話。
まあおかげで趣味的な面で独自の車両の顔ぶれが見れた。電機もED61とゴハチの重連、DCキハユニ16、キハ81ブルドッグ
雑多な60系72系旧国、70系スカ色・・。昭和50年代初期はバラエティ豊富な阪和線だった。 >>702
EF58とED60、EF15の置き換え用として、高崎区からEF60が竜華機関区に転属してきたが、
EF15は貨物用して3両だけ残り、ゴハチとED60は全機廃車、昭和61年11月改正で、
EF60もEF15も廃車されたな。 前にも書いたかもしれんが103系導入時は快速用だった。 >>704
ヨン・サン・トオで阪和線に投入された103系は、元阪和電気鉄道モヨ100型などの社型電車の置き換え用に投入された。
快速に2本使用されて、残り2本は天王寺〜鳳間の各駅停車に使用された。 >>702
72系も阪和線に入ったのはロクサン由来の車両が多かった 阪和線には205系0番台(京阪神緩行線用)が転入してきた一方で、201系は転入せず 京阪神緩行線は当初は103ではなく幻の105(後の105とは異なる)が投入される予定だったとされているが、実現していた場合は阪和線もそれになっていたと思う >>707
京阪神緩行線用の201系は阪和線には転入しなかったが、日根野電車区での疎開留置のため、
阪和線への入線実績はある 201系は大阪環状線や大和路線に転用しても使う制約が多すぎたみたいだな
京阪神緩行線からの撤退(321系導入)が福知山線脱線事故以前に決定されたものだったからこれについては予定通り実行せざるを得なかったが、これがスピード重視をやめるのがもっと早ければ最後まで京阪神緩行線で使い倒してそのまま廃車だったかもしれない >>703
EF60、まあ結構なお古だったけど幹線用のF級新型電機が地元で見れたのはうれしかったw
他にも国鉄末期の阪和線は165系の転入、DC急行きのくに全廃、ホームライナーいずみ(はんわライナー)運行と
顔ぶれの入れ替わりが色々とあった。 >>711
阪和線、紀勢線でのEF60は客車牽引の運用あったんかな?
あの当時の客車列車は既に12系だったから貨物用のEF60でも問題なかったと思うが >>712
天王寺発新宮行の新宮夜行や和歌山〜新宮間の客車列車を牽引していたEF58がEF60に置き換えられた。
昭和61年11月改正で、紀勢本線の客車列車は165系電車に置き換えられた。 >>712
天王寺発新宮行の新宮夜行や和歌山〜新宮間の客車列車を牽引していたEF58がEF60に置き換えられた。
昭和61年11月改正で、紀勢本線の客車列車は165系電車に置き換えられた。 顔ぶれと言うと、きのくに全廃くろしお格上げ〜本数増加で485系も同じころ投入されたが
振り子じゃないので紀勢線内は遅かったw 一般客には京阪神緩行線と阪和線が同じものにしか見えなかったと想像 >>716
阪和線に網干区から湘南色の113系が転属してくると、阪和色の113系が117系に置き換えられる前の
京阪神緩行線の153系の新快速を彷彿とさせて、阪和線のスカイブルーの103系が国鉄時代の京阪神緩行線を
彷彿させてくれたな 関西の103系には一部、ドアの内側が化粧板張りになってるのがあった 昭和61年に阪和、紀勢線に投入された165系、ブルーライナー色に塗りかえれば
かつての153系東海道山陽線の新快速のイメージが復活するのではと思ったが
あの当時じゃそんな余計な支出は無理だったかなとw >>719
その当時は、阪和線にオレンジ色やウグイス色の103系が関西線や片町線などから転属してきて、
103系のスカイブルーとウグイスなどの混色編成も多数発生したが、これらの混色編成も国鉄末期の緊縮財政による
経費節減もあったのだろう 化粧板というか黄緑に塗装されたドアだった気がする。 >>721
昭和50年代の阪和線の103系は、ドアの内側が薄い黄緑色に塗られている車両が多かったような 阪和ホームのカレーショップが9月末で閉店したとの由
国鉄首切り策の飲食店で現役店は他に残ってる? ・(懐かし板)
・(スレタイ)
・阪和ホーム
・カレーショップ
これで天王寺駅だと解らん奴は
スレに書き込む資格ないと思うが。 >>726
分かる分からないじゃなくてどこかを明確に書いた方がいいだろ
受け取り側に負担強いるのは歳とった証拠だぞ >>727
このぐらいでは負担を強いてはいない。
あんたの調べる力、連想する力がないとしか言いようがない。
もしかしてニュースサイトの中身を読んで考えることもせずに見出しだけで反応するタイプ? >>728
あぁこの人にも書いてることが通じてない 明確に書けなど何という不粋な
そもそもこの手のスレは特定のキーワードだけで話を膨らませられる奴のための物でもあるしな >>720
2011年頃に103系体質改善車が森ノ宮から来た時も当初は森ノ宮時代の塗装(オレンジ色)のまま使用されていた模様 例え阪和ホームって知らなかったとしてもここは阪和線スレだし「阪和線」と「阪和ホーム」を組み合わせてググったら結果出てくるだろ?たとえ住宅工事屋が出てきてもそれ以外を探すだろ?>>729はそれもできんてことやぞw ID:oThU9yri
この爺さん、よっぽど気に障ったようだな 平成の30年前からミレニアム00年代、和歌山に帰省となると新幹線でビールで酔いそして天王寺うどん喰って帰郷してたわ。。
和歌山人はな、雑巾(ぞうきん)はドーキンやっしょ 阪和線103系は国鉄時代末期の1984〜1986年頃には8両貫通編成があったが、すぐに解消されたものの、JR西日本化後の1999年頃に少しだけ復活してたらしい >>740
6M2Tの8両編成が3本組成された。
中間車のモハ103とモハ102は、程なくして広島から転属してきたサハ103に置き換えられた。
1999年4月~10月下旬ごろまで、奈良区から日根野区に借り入れられたウグイス色の103系6連1本が阪和線で運用されていた JR西日本の103系には、クーラーの効きが悪い車両があったみたいだね(僕はその車両に乗った事は無いが) >>741
この頃に土休日ダイヤのみ天王寺発鶴橋・大阪経由鳳行きの環状線直通の区間快速がスカイブルー8連で設定があったかと。
1度乗ったがクハ103の17と18が両端の103系1次車の完全未更新で戸袋窓が残っている超ポンコツ編成だった。 そもそも定義ではクハ103-177までが初期車という事になっているそうだが あの色の区間快速って鳳以南どうやって走らすのかと思った当時若い鉄オタもいたんじゃないのか? 京都鉄道博物館に保存されているクハ103-1だが、当初は編成で保存も考えていた模様
今だったら編成ごと保存してそうだが
(2011年頃はまだ初期車から廃車の方針だったからクハ103-1を保存するだけに留めたと思う) ないわな
少しでも原形に近く残ってるのを遺すのが本来
大阪地下鉄100も、だから105が残された
ところが日本人って昔から
トップナンバー残したがるんよね
昭和期はまだ、冒頭に書いた本来の意図と
考え方が拮抗してたからよかった
ところが平成以降はそれも消えてしまった
子供や素人の考える1番思考しか
残っていない。日本人の認識も劣化したなと 大阪府消防学校には、阪和線で活躍していたクモハ103−110が保存されていて、
同車は戸袋窓も残されていて、原型に近い。
色褪せているが。 103は結局、高運の方が先に消滅してしまった
2006年、2008年、2011年のそれぞれ103系の整理の際は順当に古い順に廃車していたが、2017年からその法則が崩れ結果的に高運が先に消滅してしまった また、阪和線(と今後の大和路線)が普通列車まで転換クロスシート車になったのも、103系の本来ならまだ使えたはずの車両を潰し過ぎた結果だと自分的には思っている まあ保存のために車両が存在してるわけではない。その時々の運用の事情が最優先で、やがて時代が過ぎて
たまたま保存の機運が上がってその時の都合の良いものを保存してるだけの話。 確かに・・・
後になって解体されてしまう車両も多い。 隣の南海も、みさき公園に20000系を保存したが結局は保存から9年ほどで解体された 戸袋なしの103系はどうも違和感しかなくなんかどうでもよくなってきたような…
5000系の戸袋なしは全然そんなこと思わずこれはこれでいいじゃん、と思ってたのになんでだろ? 最後まで戸袋窓が残ってたらしい全車17〜18で揃っていた6連やクモハ103-109を含む4連をもう少し後まで残してくれればどれほど良かったと思うけど当時は戸袋窓とかは気にせずに、とにかく初期車(と冷風車)を潰している様な感じだったみたいだからね 鳳電車区の片隅に非冷房の関西線色のクハ111が1両だけポツンと留置されていた。 鳳駅の羽衣線のホームになぜかグーテンバーガーの自販機があって
わざわざ買いに行ってたなぁ そういや昭和の頃は天王寺の9番ホームは
数年に一回電車が止まらずに突っ込んで事故ってたなぁ 鳳駅6番線はほとんど使用されることはなかったが、時折、クモハ123の1両編成が入線していたような
クモハ123が103系3連に置き換えられてからは、羽衣線103系は6番線に発着することはなく、のち、
6番線のレールは撤去されて、6番線は閉鎖された 保存の話で思い出したが、東佐野や和泉砂川のようなかつての阪和電鉄時代の名残をとどめる駅舎、
高架化や80年代くらいまではまだ何か所かあったんだろうか。あまり記憶が定かでない。
南海の蛸地蔵とかも含めずっと後世まで残してほしい。 大阪市内で高架化されたとき何駅だか破壊されたな
南田辺、鶴ケ丘とか、あのへん数駅 >>761
1982年頃にもあったらしい
しかも当該はクハ103-115だったとか クハ103-546か-567が残っていたら京都鉄道博物館でのクハ103保存車はそれになっていたかもしれないが…
余談だが2011年のダイヤ改正で多数の初期車に混じってクハ103-205.-206.-237.-238が廃車になったが、それが要因でクハ103-115.-116.-127.-135が残存してたと思われる >>761
天王寺駅車止め衝突事故は、
>>762の指摘の通り、1982年(6/7番線)と1989年(4/5番線)の2回。
1989年のほうは101系改造で、ブレーキの効きが悪いことが、前から運転士間では指摘されていたとか。 103系は東では故障しまくった事が要因でさっさと全廃になったけど西では重大な故障をしたという話を聞かないんだが
やはり対応の違い? メンテをしっかりやれば結構持つのかも知れない。
まだ現役だもんな。 >>774
そう考えると今も残っている西日本の103系は化け物だな 西日本の103系はモハユニットは1974年以降製造のものが多く、全体で見るとそこまで古くはない
しかし、クハがクハなだけに余計物持ちが良く見えてしまう 東急旧7000系の水間鉄道譲渡は、実質103系の後を追ったんだな 昔は東急に京浜東北線との並走区間があった(今は廃止) 昔の東急には古い電車が多く隙間風で寒かったらしい。
そんな唄があった。 >>781
最近でも旧7000系を改造した7700系が池上線を走っていた(しかも養老鉄道に譲渡されて今も走ってるらしい) >>760
当初はマックバーガーだったんだが、マクドからクレームが入り名前が変更された 2011年に廃車になった103系初期車(うろ覚え)
クハ103-1.2.21.22.31.32.36.41.51.52.63.65.67.68.72.96.97.108.111.117.118.119.120.121.122.126.128.132.133.136.137.163.176.177.591.602.609.610.616
モハ103-246+モハ102-401 結論:2011年に103系初期クハや旧延命工事モハをバンバン廃車してなければ、今も阪和線の各停に103系が残っていた可能性
(2016年以降は後期車や体質改善車をまず優先して廃車が進められ、結局旧延命工事車が後まで残った) 東横線と並走区間があったのは根岸線じゃね?
それ以前は知らん。 >>785
いつしか見なくなったね
どんぶりに入った蕎麦やうどんの販売機もな
コンビニの普及によるのかな? >>792
運行系統としては同じように扱われるが名称は違う。
あんたは黄色のラインを中野で見ても総武線と呼ぶ人か? しかしこのスレの>>1も
「その生い立ちゆえに陽の当たらなかった」とか
無茶苦茶なこと書いてあるな。
阪和線の出自たる阪和電鉄は伝説的なわけだし。
国有化以降のことを言いたかったんだろうか?
それでも「日の当たらない」路線でないことは確かだろうに。 >>791
どんぶりに入ったうどんの販売機、現役なのが秋田タワーの休憩所にあった。
まだあるんだと感激した。 まあ京浜東北線も阪和線と同じ色の電車が走ってたからいいじゃないか。 阪和線がなぜ東海道山陽線と同じ色になったか……っと 旧国(一般型)が中央線のオレンジになったのは何でよ
環状線片町線まとめて、みたいな感じか。 >>799
阪和線の103系、本当に京浜東北線からの転入車だった >>800
阪和線の場合は京浜東北線からの転入車(転用前の塗装のまま所属表記だけ書き換えたと思われる)が理由では どうせなら113系新快速色と同じマリンブルーにすればよかったのに >>798
あのような物はもっと普及するかと思ったけど、廃れていったね。
あのうどんの販売機、出来上がると「はいっ」って感じでプラスティック製のどんぶりが出てくるのが良かった。 >>806
阪和線への103系投入は、南海7000系や7100系への対抗策だったが、
同じロングシート車でも奥行きの浅い103系のロングシートでは、南海車に勝てなかった。 南海7000は空気ばね 薄木目の化粧板の明るい車内、ファンデリアも快適で 後発の103系など足元にも及ばなかった。
ついでに言えば、その前にも南海11001系新性能車に対抗して投入したのが旧国70系という苦しい選択・・ >>807
こうやって見ると南海車はまだ関西らしい車体で、むしろ103系の方が関西感が無い 南海はよく関東っぽいと言われているが、阪和線103系の原型の姿を見てしまうとそんな印象は無くなる
多分東急車両で作られていたのが関東っぽいと言われる理由だと思う 乗務員訓練で阪和線の205系1000番台が紀勢本線に入線したことがあったが、
205系1000番台は、和歌山以南での運用に入ることはなかった。 >>810
南海は、近畿の私鉄には珍しい20m4ドアで国鉄と同じ軌間だからかね?
阪神と大阪地下鉄と80年代後半からの京阪以外は、座席袖部のスタンションポールが、南海含めて長らく付けなかったのが、
近畿地方らしいなと印象深く思っていたな >>813
間違い
南海のほうが国鉄通勤車より50cm長い 関西の私鉄は自動改札の導入がかなり早いのが特徴的だが、南海もその一つだったらしい
これも関西私鉄である証拠
その一方、国鉄時代は関西地区では片町線にしか自動改札が導入されていなかったらしいから、この点でも阪和線の方が関西感が無かったと想像 南海は1973年5月に和歌山市駅が高島屋テナントでリニューアルした当初から自動改札を導入していたな。
なのでというか切符も自動券売機で購入。阪和線は確か当時まだ自動券売機は近距離(50q内?)だけで
天王寺〜和歌山61キロだと窓口で硬券だったような。。 >>804
いや、113阪和色の帯はスカイブルーから派生したものだったよね? 阪和線は南海対策で205系1000番代や223系0番代が導入されたと言われているが、103系も南海対策だったのか >>810他
南海が関東っぽい部分は、ソフト面
つまり旅客案内とか対応とかそっち系の部分
昔から「つっけんどん」な印象なんだよね
近鉄だって同じく古くて大きい民鉄けど、
近鉄は意外にそうでもないのが面白い >>808
南海7000は機構的にはむしろ東武8000の方が近い 関東民鉄にあてはめるときは
やっぱり南海=東武だわ。総合判断すれば。
個人的には近鉄=東武ではない >>818
よんさんとおで阪和線に投入された103系24両は、社型と呼ばれていた元阪和電鉄モヨ100型の置き換えと、
南海7000系への対抗、旧型電車置き換え用に山手線や京浜東北線などから阪和線に転属してきた103系は
阪和線電車の新性能化のため >>822
つまり
南海7000=103
南海9000=205-1000
南海1000=223-0
なのか >>823
その通り
昭和59年から天王寺〜日根野間で運転開始された381系の「ホームライナーいずみ」に対抗し、
南海は朝夕ラッシュ時に特急「サザン」を全車指定席で運転した。 >>819
ああそうか。関西私鉄乗り歩いて、京阪阪急阪神はカルチャーショック
みたいなの感じたが南海はそれ程でもなかった、あいりん系のおっさん
見掛けた程度で でも南海は1973年から1985年まで本線には車両新造が無かったけど、阪和線はその間の1980年に103系18両が新製配置されていたそうだが >>826
阪和線用の103系の新車はよんさんとおで投入された103系24両と昭和55年に投入された
高運転台クハ103の6両編成3本のみ
それ以外は京浜東北線、山手線などからの転属車で阪和線電車は新性能化された 阪和線の場合、205系1000番代と223系0番代の新製投入があり、バランスのため2000年代初頭までの103系は経年車割合が多かったとか 103系の体質改善試作車は、末期はサハを抜いた6両が阪和線に来ていた 103系が結局、高運転台車と南アーバンの体質改善車が先に消滅してしまったのは、前者はJR東日本からの譲渡車、後者は体質改善試作車の存在がネックになったと僕は思っている 103系にはWAU102なる、分散クーラーに改造された車両もあったが、その分散クーラー車はクーラーの効きが良くなかったらしい
僕は分散クーラー車に乗った事が無いので詳しくは知らないけど 阪和線紀勢線の113系4両編成は、両端先頭車クハ111がシートピッチの広い2000番台、
中間車が0番台という編成もあった。 >>831
屋根上に室外機が2台乗っているからよく効くかと期待して乗ったら逆だった。 >>831
>>833
クハ111にも分散クーラーが設置された車両があった。 2台であれば「集約分散型」では?
4台でもそう呼ばれた南海6200系など。 >>785
いつしか見なくなったね。
コンビニの普及の影響かな? 南海では当初は6000系を高性能通勤車の標準とする想定であり、結果的に6000系が高野線用で南海線は7000系とする事になったのは6000系の営業運転が高野線に決定したタイミングだったとか >>824
あと
南海50000=281
もあるか >>821
東武8000には電制が無かったが、それも南海7000には付いていた
そう言った点でも南海7000は(車体はこの時期の各社20m4ドア通勤車の中では唯一の片開き扉ながら)足回りはこの時期の各社20m4ドア通勤車の中で一番よく出来ていたとも言える >>843
東武8000は電制がないのによく会津高原まで乗り入れたと感心したことがある >>845
少なくとも関空・紀州路快速の切り離しはやめて全て関空快速とし、代わりに区間快速を和歌山発着にした方が良いと思う >>844
そう、一つの欠点として東武8000は電制が無い
(初年度からいきなり量産というのも影響していそうだが…) 結果論でしかないが、101系にMT54を載せた(史実とは異なる)103系だったらもっと違ったのかもしれない
その場合は史実201系相当は登場せず、そのまま史実205系相当に移行していた可能性もある >>849
ステンレスの205系が出現するのは時期尚早だったのではないか。
203系はアルミだったし。 阪和線の103系や113系はSELD(HSCDと同等)だったから当然電制付き。
勾配用の抑速ブレーキこそ付いてなかったけど、雄ノ山峠は25‰だったから、
103系や113系でも充分対応できた。 >>851
勾配ならセノハチよりも急なんだよ。
抑速ブレーキが必要なのは坂の長さが影響するんだよ。 >>850
近郊型みたいな流れを想像してたんだが
(近郊型はMT54搭載車からそのまま211に移行してたみたいだし、ただ211は関西には導入されなかったが) MT54で歯数比が大きかったのは食パンだったっけ? 路車板の本スレがなかなか安定しないな。
とりあえず三国ケ丘でミシミシしながら接近してくる音を思い出しておくか。 >>853
もう少し民営化が遅れていたら211系導入もあった気がする。 >>855
賽の河原だわ
スレ立て荒らしに流されまくり ま、211系を発展させた221系が一時期走ったからよかったな。、 阪和線って今は元日未明の延長運転すら無いんですね
いつまであったんですか?
令和以降も、日根野くらいまでの延長ありませんでしたっけ? いま読んだページには「2018年元日まで実施してた」云々って
書かれてましたけど、合ってますか?
それって終夜ではなく延長運転のほうですよね? かつて新快速が走っていた頃、青帯冷房付き113系が阪和線で最上位であり、主に快速として間合い運用非冷房赤帯113系は
少し劣るポジションとして子供ながらに認識してはいたが、同時に関西線では堂々と主役のHM付き快速として活躍していたのを見るたび
場所を移せば(環境が違えば)トップを取れてる姿が妙にかっこよく見えた。 211系は関西には導入されずに終わったけど、代わりに(?)221系が211系のシステムを踏襲してくれたから良かった 関西ではどうやら103の高運転台は不評だったみたいだな
JR西日本化後の先頭車化改造車が低運転台になった辺りも見れば分かる >>861
当時は急行きのくにでさえ非冷房がまだ残ってた時代だしな >>864
せめて美章園以南で
以北は阪和電鉄開業時から高架なんだから 一時期、阪和線の103系の前面に大和路線みたいに白い帯が巻かれている事があったそうだが、すぐに元に戻った模様 恐らく白帯車は京浜東北線との識別のため?
で京浜東北線のが引退したため阪和線は元に戻ったとかは? 阪和線のあの白帯は紀勢線(きのくに線)直通できるかどうかでは? ATS─SW取り付けた車両であることが分かるように付けたけど、全車両取り付け終わったので消すことになったとか。 ATS─SW取り付けた車両であることが分かるように付けたけど、全車両取り付け終わったので消すことになったとか。 阪和線の103系で特筆すべき点は本当に元京浜東北線車だったという事
京阪神緩行線は色こそ京浜東北線だったものの車両そのものについて京浜東北線走行歴は無かった 京阪神緩行線と大阪環状線は先頭車は山手線からの転入、中間車は新製
大阪鉄道管理局側の要請で中間車は新製となったかもしれないが僕は国鉄時代は生まれていないので国鉄時代の事はよく知らない
その後、京阪神緩行線から関西線と片町線に転属
そしてJR西日本化後に片町線から岡山/広島に転属したものと推測 国鉄時代に常磐快速の増強のために天ヒネから北マトへ転属した車両もあった。 JR初期の電車編成表の配置表に103系が東/西に関わらず連番で配置されててうおおってなった 113系阪和色、仮にあれが阪和色じゃなかったら普通に湘南色だった? >>876
国鉄時代には千葉地区に天ヒネから千ツヌへ転属した車両もあった。
オレンジのモハ72や113系ブルーライナーは新鮮に映った。 >>876
>>878
運転開始当初の阪和線の「新快速」に使用されていた113系は東海道線の京阪神快速からの転属車で、
湘南色を阪和色に塗りかえた車両だった。
その後も、スカ色や湘南色113系が阪和線に転属してきて、阪和色との混色編成の113系の快速や
新快速が見られた。 阪和色というか東海道山陽の新快速(ブルーライナー)色じゃないの? まあ今となっては阪和色のほうが通りはいいけどw
なのでそういう新快速イメージであの色になったんじゃないのかな。
混色というと73年関西線電化で春日色が出てきた頃、塗装が遅れたのか「クハ(春日)+湘南2両+スカ2両+クハ(春日)」という
編成を阪和線で見たっけな。 青帯と春日塗りで新快速のヘッドマークが違っていたよね? 春日色113系のHM、初期の快速HMは大型で2枚重ね。スケッチブックみたいに真ん中を支点(蝶番)にめくり下ろせる仕様で
上からめくると赤一色のHMになった。 >>877
例えばクハ103-1〜9が基本的に西日本なのに-4だけ東にいたり、クハ103-145〜212が基本西日本の中で-178、-179、-188が東だったりとか 同様に昔は大阪環状線と武蔵野線、福知山線と総武緩行線が同じ車両を使っていたらしい >>886
高運転台のクハ103は、クハ103−822まではJR東日本、クハ103-823からはJR西日本に所属していた 前頭板のタイプちがい、
青帯と春日色の差だったの?
単純に前期と後期の差だと思ってたんだけど 一時期は森ノ宮から高運を転入させて225-5000と共に低運を淘汰していた事もあったが、結局低運が後まで残った >>888
そういう事です。ただ末期の新快速(熊取とか停まってた時期かな)のHMが小ぶりな円形のものになって
青帯&赤帯関係なくそれを掲げてた。 >>892
堺市・鳳・和泉府中・熊取・和泉砂川・紀伊中ノ島 関空開業前は単なる現業面の区切りってだけだったからな。日根野 熊取なんて何にもないし市でなく町だし何で停まるのか謎だった。 熊取自体は町だけど、ニュータウンもあるし駅勢圏に泉佐野市もあるし。 >>899
それだとJRから堺と付く名の駅名がなくなる。 昭和50年代、紀伊中ノ島は快速は日中通過、ラッシュ時に何本か停車してた。
元々は和歌山線との乗換駅だったので阪和電鉄時代から優等種別も停車してたが、和歌山線が中之島を通らず
短絡線で和歌山に発着するようになって(昭和47年)すっかり寂れたのに継続して中之島に停車してた印象がある。 阪和と新京阪の共通点。伝説に残るような電車を走らせるも業績がイマイチで
戦争合併で短い生涯。でもその車両は昭和40年代まで元の職場で第一線で活躍 >>900
南海の堺と堺東が中心地だから敢てJRに堺が付く駅がなくても
いいんでないかい。 >>906
阪和線の通る市町村で、自治体名のつく駅のないところは
阪南市、泉南市、と和泉市(ここは微妙だな)
かな 泉南市の市政施行70年(昭和45)、阪南市では91年(平成3)で比較的新しい自治体なので
戦前から敷設された鉄道の駅名とするには少々似つかわしくない印象はある。。 >>906
政令市なんで、泉南や阪南みたいな他の市とは違う。 >>910
何故かイズミチュウオウは全国に3つもある。
泉中央(仙台市営地下鉄南北線)
いずみ中央(相鉄いずみ野線) >>912
その横浜市泉区にある「いずみ中央」は地名としては「和泉中央北」「和泉中央南」がある。
さらに「和泉が丘」も存在する。 仙台市泉区は元々泉市だったこともあり駅が所在する地名も泉中央。さらに泉ケ丘もある。 今の日根野支所ができた1970年(当時は鳳電車区日根野派出所)その前の日根野駅は普通と区間快速(直行)だけが停車? >>905
紀州路快速は2011年3月から、熊取から先は各駅停車となった
その代わり普通は日中は鳳止まり
区間快速が日根野止まり 都心から離れるに連れて段階的に本数が減っていく教科書的なダイヤですね >>921
終点できれいに接続があればいいんだけどね >>920
そんなこと承知の上に決まってるだろ
快速運転をする快速は紀伊中ノ島通過
熊取から各停の紀州路快速こと各停は紀伊中ノ島停車
それだけ >>923
とはいえ種別は紀州路快速だし、区間快速もそう。
直通快速の大阪環状線区間みたいに種別を変えていないんだから快速の仲間にはかわりはない。 895他
熊取は原子炉のある某大の研究施設がある
なんかそっち関連と引き換えに快速停車させたとか何とか
話を聞いたことがあるが本当なん?
そも停車駅の推移を知らんので詳しくない >>925
それは都市伝説だと思う。
利用者が多いからだろう。 熊取から山側(東側)に行くと結構大きな住宅地があるんだよね
そこの利用客が多いのかなぁ 南海くまとりニュータウンは1973年事業開始だからまだ人口が急激に増える前。
熊取町公式の「歴史」にこんなことが記されている。
↓
昭和38年(1963年)に、京都大学原子炉実験所が設置され、熊取駅が快速停車駅となったことで丘陵地を中心に大規模な宅地開発が活発となり、人口も急増、農村型集落から大都市近郊住宅都市へと変貌してきました。 熊取は町なのに何で快速が止まるのか疑問に思う人が多い様だけど、
地図見ると泉佐野市との境界近くなんで、泉佐野市民の利用も多いと思う。 和泉府中駅の利用者も泉大津市民がまあまあいるというのも同じ。 >>932
泉大津市にはJRの駅ないけど、和泉府中駅のすぐそばに市境が有るし、
少しだけどJRが市内を通過している。 JRは駅名は「和泉〇〇」と付けるのが慣例?なのか。南海には泉佐野、泉大津、泉ヶ丘と和泉大宮と混在。 市制施行で市名が泉大津・泉佐野になったことから駅名も泉大津・泉佐野に変わったという経緯があるからね >>934
和泉府中、和泉橋本、和泉砂川、和泉鳥取…
みんな既存の駅名があるから、混同防止のために旧国名を被せたんでしょ
…とはいえ、府中と橋本は国有化前から和泉を付けていたのは興味深い。 基本は旧国名だから「和泉」。
「泉」は市制移行時につけたもの。
これは例えば泉大津市の場合、和泉町→和泉市と混同されるのを避けたため。
とはいえ、平成の大合併後に丹波市があるのに篠山市があえて丹波篠山市に変更とかややこしくしている事例もある。 >>938
和泉砂川は村の名前とった信達から近くにある砂川遊園にちなんだ砂川園って名前かえたのに今は砂川遊園ないんだよね
砂川って地名もないけど学校の名前にはなってる
不思議な感じだわ 南海に関しては自治体の名称で駅名ネーミング、阪和は旧国名でネーミングか。(基本的に)
まあそもそも地域の認識として「和泉」と「泉」が混在してるのがややこしい土地だなw >>943
>>940
ナンバープレートについては当初原則1文字だったから和歌山の「和」と混同しないように泉になった。 鉄道の話ではないものも書いたが和泉≒泉繋がりで関係はある。
砂川はやはり信達が馴染むかな >>936>>937
いずれも市制施行時に、すでにある市と同じ名前は名乗れないので
泉大津、泉佐野、河内長野になったんだよね
狭山町が狭山市ではなく大阪狭山市になったのも同じ事情 熊取町はなぜか泉南郡のまま飛び地状態になってる。本来なら?泉佐野市に含まれてそうな地域だが。 郡は今となっては住所表記でしか意味がなくなっていて、郡という組織は存在しない。だから気にもしていない。 郡に1つの村か町しか無いところあるので
郡庁や郡会あったら面倒なことになったかも。 平成の大合併で都道府県内同一町村名が激減してだいぶ整理されたから郡の表記はもういらないような
昔は現在の美章園駅以南は全部郡だったな 昭和50年代、快速が東岸和田通過で熊取停車というのが子供心にも違和感あったな。
まあ南海岸和田のほうが市街中心で特急停車も当然のような感じで、阪和のほうはまださほど賑わってる風情はなく
通過も仕方ないのかとは思ってたが、それでも熊取のほうが快速停車で格上的に感じさせるのがちょっと腑に落ちなかったような。 >>947
市制施行時に同名の市が既にある場合認可されないことになっている。
読みが同じなのは認可される。例えば佐倉市が既に存在するけどさくら市は認可された。
ちなみに府中市は広島と東京にあるが、これは同時に申請されたという偶然によるとか。 >>955
認可されないのではなく、今でいう「忖度」です。
あくまで総務省では「同一市名は望ましくない」という「方針」。伊達市は2006年に成立しているから泉佐野市や泉大津市なんかよりずっと最近。 >>957の伊達市は福島県のほう。
北海道伊達市は1972年。これでも泉大津市や泉佐野市よりも遅い。 明治期の南海鉄道の案内誌には単に「佐野」や「大津」とあるな
自治体名でなく駅名の話になるが
千葉の勝浦なんか移民先のほうが単なる「勝浦」で
本家本元が「紀伊勝浦」と割を食ってたりする
自治体の命名に関してもある程度しそういうのは仕方ないね
その土地内では昔からの地名であって真似してるわけでもなく
単に他地方とダブってる状態だけなわけだし その、千葉と和歌山と徳島の勝浦は仲が良い
ビッグひな祭りなんかは、徳島の勝浦が千葉の勝浦へ提案したとか。 伊達の場合は元々北海道の伊達が福島の伊達から移住した人たちなんで
伊達市にしていいかと問い合わせたら「そっちが本家なのでいいです」
となったとか >>963
そういう昭和民的な寛容さも
現代人からは失われてる気がする
もし仮に今同じことがあったとして
そんな鷹揚な同じ反応できるかな?
とも思う 東京と広島の府中は仲が悪い。
現在の宮古島市が、合併の際に宮古市を名乗ろうとしたら、
岩手の宮古市が苦情をいれたために、宮古「島」市となったいきさつも。 摂津市は元々三島町で市制施行のときに「三島市」にしたかったが
すでに静岡に三島市があったんで摂津市にした
今なら「大阪三島市」あたりにしたかもしれない 阪和線に「紀伊」と言う駅があるが旧国名だけドンと名付けた駅というのは珍しい? みんな譲りあって仲良くしようよ。
戦国時代はもう終わったんだから。
グローバル、グローバル! 和歌山市内に紀和も紀伊も現住所にそういう名前がない
三重県紀和町と言うのはあるがw >>979
個人的意見ですが、国立と同様に、当時の両隣の駅(紀伊中ノ島、和歌山市)の頭文字を合わせたもの、と自分は考えています。 >>979
近くに紀和遊園とかがあったんじゃないですか
知らんけど >>980
和歌山県と奈良県を結ぶ「紀和鉄道」が由来では?和歌山駅から改称時にはずいぶん月日が経ってはいたけどw
ちなみに夏の高校野球の代表は1977年まで和歌山県と奈良県のそれぞれ1位校が争う「紀和大会決勝」で決していた(一部記念大会は和歌山と奈良でそれぞれ1校ずつ代表) 南海とは昔からライバル関係にあったけど、関空に乗り入れが決まり、双方が同じ線路を走る日が来るとは・・・
それを知った時は思わず号泣してしまった。 昔は鉄道が輸送の主役で道路が貧弱だったというのもあった。
あと、阪和の都市間ではなく、沿線開発によってどっちの沿線を選ぶかというフェーズがあった。成熟してからはライバルというよりむしろ棲み分けと補完の関係。 阪和線(阪和電鉄)は建設当初から紀勢線南紀方面への客貨輸送も視野に入れてたからね。 >>985
これにより南海が狭軌である事が分かりやすくなった 阪和電鉄は構想時点では標準軌を採用することも考えられていたとも言われている
その場合紀勢線直通を諦めざるを得ないが
南海に勝つためには高規格にするしかなかった 駅を少なくすればよかった
大阪市内を出たあとは鳳、府中、砂川だけなら和歌山まで30分も夢ではない 今はほぼ並走してるなんば~尾崎は天王寺~和泉砂川よりだいぶはやいんだよね
阪和線、意味ないじゃん 京阪神間ならともかく阪和間にそれほどの需要があったのかね >>993
昔はまだあったんだろうけど、今はねぇ・・・ 平成元年頃、朝の快速の主役は103系だった
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