昔の国鉄阪和線
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大阪〜和歌山間を結ぶ重要路線でありながら
その生い立ちゆえに陽の当たらなかった阪和線の思い出スレ 昭和61年9月末に淀川電車区からオレンジ色103系非冷房車6連1本が日根野区に
転属してきて阪和線で運用開始したとき、オレンジ色の旧国が活躍していた頃を
彷彿させた。
この編成は翌年にスカイブルーに塗り替えられて、冷房改造された >>207 正にあの時は感動した。ブルーの103を全部オレンジに塗り替えるのか
とワクワク期待したがはずれた、ブルーの褪せた色ばかりの編成に見慣れていた
ので同じ103系だけれども乗ったらまるで新車のように思った。 208
俺はその逆だった
阪和線の電車は青い電車というイメージが定着していたのに、オレンジ色の
103系が阪和線走ってるの見た時は違和感を感じたりもした。
11月ダイヤ改正ではウグイス色やオレンジとスカイブルーの混色編成も多数出現して、それらの編成見た時はなんだかすっきりしなかった 日本以上に女性の社会進出が進んでいる国はいくらでもある、というか日本が一歩出遅れてるのに
少子化が進んでいるのは>>155-156 >>158みたいな時代錯誤の老害が国のシステムを破壊してしまって、いまだにのさばってるから日本は国際社会から野蛮な国と思われて国力も落ちてるんだよねぇw
きっと女系天皇反対!夫婦別姓反対と叫んでる日本会議の馬鹿どもはこんなんばっかだろうなw
早く死ねばいいのにw 日本人の成人男性は
180で上位7%、178で上位14%、175で上位30%、
172で上位50%、170で上位37%、169で上位70%、
165で上位89%、165で上位90%、163で上位95%、
159で上位99%。
よって、下位10%の165以下を
クソチビ
という。
まともな女性ならクソチビなんぞ付き合うどころか、周りに近づかせたくないと思うよね。
さらに気持ち悪いハゲなんて言ったら、あんたなんで生きてんの?ってレベル 阪和線って首都圏の電車区間で見かけるよう横長タイプなのか
ほかの路線と同じ縦長なのかどっちだったんだろ クモハ103-26
昭和52年4月に浦和電車区から鳳電車区に転属してきて以来、冷房化される事も無く、
非冷房でほぼ原型を保ったまま阪和線で民営化後も運用されていたが、運用離脱後、
モハ102-111+オレンジ色のサハ103-779+クハ103-536の4両編成で日根野電車区の
片隅に長期留置されていたが、平成5年3月31日付けでモハ102-111と共に廃車。
クハ103-536も車体は色褪せて、ボロボロになっていたがしばらく材料線に留置されたまま、
平成7年9月11日で廃車。
このクハ103-536は廃車前、日根野電車区検修庫の台検線から165系に連結されて、
引き出されていたが、廃車前でも台車だけは検査されていたようだ。 >>201
当時、小学生だった為か、その事故は記憶にないな。もちろん、その当時から鉄ヲタやったけど。
でも381系は新製1年程度でえらい災難やな・・・。踏切警手て・・・あの頃はまだ有人やってんな!
因みにその2年後くらいに津久野の団地で起きたガス爆発事故は何故か良く憶えてる。
小学生の頃に「働くおじさん」って番組があってな…その関係か、我々のクラスも社会学習の一環で
鳳駅の指令室?みたいなところまで見学に行ったわ・・・あれはポイントを切り替える施設やったんかな。
時期は昭和51年頃やったか。でも小学生低学年にあんなモノを見せても誰も理解せんわなw >>214
昭和60年頃からしばらくの間、日根野に居たサハ103-26のモケットが試験的に明るい緑色に
変更されていてめちゃ目立ってたわ。サハ103-26でググったら、当時のモケットの画像が転がってた。 京阪神緩行線に201系や205系、207系の投入で捻出された冷房、非冷房の103系が
明石電車区や高槻電車区から奈良電車区や淀川電車区、日根野電車区に転出し、
車齢の高い103系や老朽車、非冷房車は一部廃車、非冷房の103系が置き換えられ、
その置き換えで捻出された奈良電車区や淀川電車区の非冷房103系がウグイス色や
オレンジ色のまま阪和線に転出という転属形態は、民営化後も続いていたが、
国鉄時代から阪和線がいかに冷遇されていたかということがわかる。 >>186
>>187
南海7000系は住友ミンデン台車(東武8000系とほぼ同じ)、6000系はパイオニア台車。
ちなみに南海7000系の台車と103の動力台車の軸距は同じ(車輪径は違う)だけど、乗り心地は雲泥の差だった。
103はコイルバネなのが災いしたんだな。
103初期型の座席は当時の首都圏のラッシュに対応した設計なんだろう。
103が出た頃に作っていた関東の車両はそういう設計のものが散見された。
>>199
南海6000系は全車東京工場製、大阪工場で製造されたのは7100系と22000系の一部。 阪和線に新快速が走っていた頃、久米田駅前にあったダイエーのゲームコーナーには、113系新快速のクハ111を模した100円入れたら動く子供向け遊具があった。
新快速のヘッドマークも表現されていて、リアルだった。 >>217
国鉄時代は確かに阪和線用として
103や113の直接新造投入は限られたが
関西線用も113しかなく
JR発足直後は他線区を差し置いて
いきなり205-1000が手当され
その次の221や207はご縁がなかったが
221は東海道山陽線と関西線用に続き
阪和線用と福知山線用も当初の新造構想に
まさか10年後
共に既存車の広域運用で実現するとは
223-0の68両で
日根野以北中心ながら一般輸送は随分挽回
しかも関空快速形という阪和線特化仕様
前述の221広域運用と併せて
快速系統の車両更新は一挙に進み
113体質改善車転入後の活躍も限られ
一方まだ通勤形は103老朽車も多く
さらに223-2500-3次車以降から
225-5000-5100にかけて
数十両単位の増備が続き
かつての他区からの転用中古車ばかり
という印象を名実ともに払拭 >>216
吹田工場施工の103特別保全工事で
2両だけアコモ試験車が設定された
うちの1両 >>212
阪和線沿線には下位10%が多いと思うwましてハゲとなると下位1%あたりかなw 国鉄時代はC電は当初の計画では103ではなく幻の105(今の105とは別)の予定だつたらしいが、実現していたら同じ色の阪和線も幻の105だった? >>208
民営化初期にアーバンネットワーク内の4ドア車の色をラインカラーに合わせた色に変更する案があった。
例えば東海道山陽緩行が青(207系と同系統)、大阪環状線が赤、大和路線が緑、阪和線がオレンジなど。 https://mobile.twitter.com/oer2000
>>225
仮称105が具現化し
東海道山陽緩行線に続き
阪和線投入が決まったとて
その所要は快速運用中心だった
史実のオト103新造分6連4本のみ
快速用としては
むしろ113のような近郊形を欲しており
103検討段階で阪和線各停の適度が高いと
言われていたことから
オトやヒネの通勤形としては
仮称105でなくやはり
史実通り103で正解だったと
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) もし国鉄のままだったら、あるいは民営化後も全国組織のままだったら今頃は205関東車・211関東車の独擅場だっただろうな
関西線も201関東車と211関東車 >>229
何度も既出だが
201は投入適正運用の制約が大きく
首都圏大阪圏ともに線区と用途が限定され
山手線すら主回路熱容量が危ぶまれ
そのままでは国鉄本社も一応検討した
大阪環状線への新造投入もままならず
山手線用201検討では
203ベースの新区分番代が想定された
大阪環状線や大和路線への転用が
叶ったのは西が深夜試運転の結果を受けて
体質改善と共に低コストだ改修できたため
つまり国鉄が継続していたタラレバなら
201の都市圏を跨いだ転用は不可能
また205は大鉄局が国鉄末期に
103置き換え分の新造を企画しており
捻出103冷房車のヒネ中心の転用を想定
そして
続きはモリ投入だった可能性が高く
天鉄局はナラ用211を
大鉄のホシ用211と共に企画していたが
史実のヒネ205-1000は
新会社準備室での企画のため発想になく
一方で当時の首都圏は
ヤテ向け205増備の最盛期だったため
まだまだ101が大量に残存しており
103冷房車すら貴重という状況で
国鉄継続だった場合は首都圏と大阪圏で
むしろ格差が小さかった可能性が高く
103のATC高運Tcは大阪圏転用があるも
こちらは片福連絡線の開業もあり
結果的に新形車は必須で
201が全車首都圏へ回った公算すら
また205の都市圏横断転用も少なく
組成変更用にTcやTなど小規模 >>154
もし分割民営化じゃなかったら2000年代に103ATC車が関西に転用されてボロクハ置き換えてたかも 103系の先頭車、クハ103、クモハ103も車両番号が近くても、国鉄時代の車両転配で、ほうぼうの電車区の配置になったな
クハ103-820、821、822、824 JR東日本 京葉電車区
クハ103-823、825、827 JR西日本 日根野電車区
クハ103-826、828 JR東日本 習志野電車区
クハ103-829、830 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-127 JR西日本 日根野電車区
クモハ103-128 JR東日本 宮城野電車区
クハ103-535、536 JR西日本 日根野電車区
クハ103-537 JR東日本 宮城野電車区 など
阪和に限ったことではないが、なぜ関西の103は低運が多かったのか?
まさか、大鉄と天鉄は高運を好まなかったとかか? >>233
ATC準備工事で、高運を首都圏に入れたから余剰車の低運が関西に来た。 山手京浜横浜に300両以上のATC対応先頭車が必要だったから、中古車が流れてきたのも仕方ないわな >>195
元々国鉄型は「質より量」だったから同時期の私鉄車両(特に関西私鉄)に比べると見劣りしてしまうのは確かだが。
>>196
「南海山手線」だったら車体寸法が長さ20m・幅2.8mで東芝の主制御と東洋のモーターそして駆動装置を採用した南海車だったかも。 113系は国鉄時代にも民営化後も網干電車区や静岡運転所などから日根野電車区に
湘南色のままで転属してくることがあったが、湘南色の113系は東海道線や山陽線、
湖西線などでも走っていて見慣れており、また湘南色はごくありふれていて、
湘南色113系が阪和線・紀勢線を走っているのを見てもさほど違和感は感じなかった。 クハ103-823〜などの先頭車が高運転台車の編成は運用で東岸和田発着や鳳発着の普通電車、
朝夕のラッシュ時の快速や区間快速、夜間の日根野行きなどの運用に入っていた。 クモハ103-2500も国鉄時代だったら登場せず関東車が絡んだ大規模組み替えが行われていた? 振り子電車特急で素早く南紀白浜へ旅行できるんだね。楽しみ。 昭和60年8月の夕刻、天王寺から和泉府中まで日根野行き「ホームライナーいずみ」に
乗車したが、その時の車両は381系ではなく、485系8両編成だった。
485系「くろしお17号」、または臨時「くろしお」が天王寺到着後、折り返し「ホームライナーいずみ」に
なっていたか、日根野から485系が天王寺まで送り込み回送されて、「ホームライナーいずみ」として
運用されていたのだろうか。
もう1本の日根野行き「ホームライナーいずみ」は381系で運転されていた。 85年(昭和60)というと、60・3改正で優等列車の「くろしお」一本化による「きのくに」の全廃、
充当用に485系の配置。ライバル南海も創業100周年。四国連絡用に「サザン」新製。国鉄の動向に合わせて
キハ5501「きのくに」廃止。。大阪南部の電車の顔ぶれに一つの変化があった年。 特急「くろしお」や223系、225系は阪和線内ではトイレ使用可能だが、
日根野電車区所属の113系の先頭車、クハ111のトイレのドアには、「使用禁止 除く 和歌山〜新宮間」と
書かれたステッカーが貼ってあったが、阪和線内では113系のトイレが使用禁止になっていたのは、
そのクハ111のトイレが垂れ流し式だったのか、タンクが設置されていても阪和線沿線民に配慮していたのだろうか。 その頃は垂れ流し便所
使用禁止区間が都市部の各線にあった >>1
ちょっと仕事遅くなれば大和路ホームに入ってくる23時過ぎの新宮行き乗って帰ってたがあれどこから来てたんやろか京都発か? 紀伊田辺〜新宮間で運用されていた非冷房113系4両編成の紀勢本線への送り込みは、
日根野発紀伊田辺行きから始まって、夜間の周参見発和歌山行きで和歌山到着後、
和歌山発日根野行き最終で日根野電車区に戻ってきていたようだ。 >>250
>>249
おお!ご丁寧にd
ああ言うのは日根野から新大阪までの入線は回送なんですか?それか新宮〜新大阪も 1日一本あったとか? >>251
新大阪22時40分発新宮行き(別命磯釣り)は日根野から吹田信号所まで回送
折り返して新大阪から客扱い開始
なお、天王寺行きは国鉄末期に廃止になってる 竜華機関区のEF58の運用は、3両が使用されて、そのうち2両は紀伊田辺と新宮に常駐し、
新宮夜行牽引機が竜華機関区を出区し、新宮夜行牽引で翌朝新宮到着後、客車は新宮に
常駐している別のEF58に牽引されて和歌山行きの普通列車として運用、新宮夜行を牽引してきた
EF58は翌朝まで新宮で常駐、和歌山に到着した客車は折り返し新宮行きとなり、牽引機のEF58は
紀伊田辺で常駐のEF58と交換されて、紀伊田辺で常駐となり、交換されたEF58が新宮到着後、
天王寺行き夜行を牽引して天王寺到着後、竜華機関区に戻るという運用だったようだ >255
夜間には紀伊田辺発串本行きで串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあった。
同じく新宮発串本行き最終で串本到着後、串本駅で夜間留置される113系もあり、
また485系特急「くろしお」の間合い運用による新宮〜串本間の普通列車も運転されていて、485系も串本駅で夜間滞泊する運用もあった。 >>220
尼崎事故が無かったら321が環状・大和路・阪和にも投入されていたかも
そしてJR型統一ももっと早かっただろう >>257
その場合、4ドア車を3ドア車で置き換えるということもなかった。
それどころか大和路快速にも4ドア転クロ(名鉄で実績あり)が投入されて、
221はきのくに線あたりに転用されてたかもしれない。 >257
321系が環状、大和路、阪和線に投入されていたら、側面の帯の色は阪和線用は
スカイブルー、環状線用はオレンジ、大和路線用はウグイスとなっていただろう JR化後のタラレバはスレ違いだが
321の原形となるD207の企画段階で
関空快速用を除き
ヒネとモリとナラの一般形を
D207にて集約する大胆な案はあったが
無線WAN構想を含め時期尚早と
尼崎事故直前にはホシ321量産に続き
将来のモリ投入が検討された程度で
この段階だと
北陸線金沢地区や山陽線広島地区を含め
管内の老朽国鉄形全廃に向け
やっと長期目標が打ち立てられ
中期計画に盛り込まれた状況で
まだD223が140km/h新快速特化形として
玉突き転配もそれが前提で
種々検討され具体は固まっておらず
103や113の体質改善車も活用の方針
一気に置き換えの目処が立ったのは
やはり尼崎事故により安全性向上が謳われ
321ベースで225が再企画されてから
史実から
仮に尼崎事故がなかったとして
モリにおける323の103置き換え本数分や
ヒネにおける225-5100-6連の投入分は
321がそれぞれ
現状より後回しながら投入されたのだろう
事故前は広域運用拡大方針だったため
路線別の車両塗装は
関空快速形を除き前提としてなく 私が小学1年生。
今から約35年前、堺市駅〜三国ヶ丘駅間で友達と保線用階段を下って線路に侵入。
側溝でザリガニ採りをしていたところ、走行中の運転手に見つかり急停車。
慌てて逃げました。
阪和線を止めてしまいました。
ごめんなさい。 上野芝駅が今の通過線を備えた形になったのは昭和57年頃だけど
それ以前、和歌山方面のホームは1面2線だったのでは?と思うような痕跡があった。
あと、昭和53年頃だけど上野芝駅の駅前にランボルギーニ・カウンタックを展示していた店舗があった。
ついでに今、上野芝駅の横を泉北1号線がアンダークロスしているけど、その道路を建設していた頃が
記憶にあるわ。あれは昭和51年頃か。 天王寺駅阪和ホームのウドン屋だけど、昔は練炭っぽい匂いがプンプンしていたと記憶している。
南田辺駅の手前に赤い文字で「ほねつぎ」と書かれた看板があって、子供の頃はこの看板を見て
「うわー!痛そう」と恐怖を覚えた。この看板は近年まであったけど、もう今はない。 ややスレチだが、昭和55年頃、津久野駅のロータリーに「レッドバルーン」という名前の
ファストフードのハンバーガー屋があった。内容はマクドと遜色がなかったと記憶している。
この店は早い段階で閉店した。他、おもちゃの「オクノ」が懐かしい。
※天牛堺書店の津久野店は今年のお盆頃に閉店した。老舗の「ヤマタケ」のコロッケは健在!
子供の頃はこの店でハムフライや玉子フライを良く買い食いしてた。 >264
津久野駅の近所の阪和線線路沿いの坂の所に「阪和線」というパチンコ屋もあったな 東羽衣にクモハ123が入る前は何が走っていましたか。 >267
非冷房のクモハ103+モハ102+クハ103の3両編成が運用されていた >>264
津久野駅がここまでしいたげられてるとイトーヨーカドーも総合医療センターもみんな車かチャリか救急車霊柩車だなw >>262
1980年昭和55年既に今のになってたなw
1980年昭和55年と言えば丁度高校入学高校が津久野駅近くと言うか厳密には、近くはないが南海バスで行ける高校だがこの駅を使うことが多かったが当時既に朝ラッシュのみ上野芝で通過待ちした。
1980年朝ラッシュのみだからなんとも思わなかったが今2018平成30年の様に年がら年中上野芝駅で長時間通過待ちと夢にもいや悪夢にも思わなかった(>_<) 上野芝駅が相対式ホームだった頃、上野芝駅で終焉間近の70系を見た記憶がある。
その頃には381系の試運転列車やキハ81先頭の「くろしお」も見かけたし、
鳳電車区にはオレンジ色の旧国や関西線用のウグイス色101系も留置されていた。 >>262 >>270
ウィキで文献があった。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線の駅となる[1]。
年月日不明 - 島式・相対式2面3線のホームを持つ地上駅となる。これによって下り東和歌山方面行きが待避可能となる。
1967年(昭和42年)頃 - 普通列車の6両編成化に伴い下りの待避線を廃止しホーム長を延長した。その結果、2面2線ホームの地上駅となる。なお上り線はホーム長を延長したのみ。
1980年(昭和55年)10月1日 - 新幹線型待避構造の2面2線と通過線2線をもつ橋上駅となる。
昭和42年頃までは下り線のみ待避可能な構造。
昭和55年10月1日以前は待避不可能、単なる相対式2面2線の駅だったのかな。 >>271
普段は汚れて走っていたキハ81のブルドッグだけど、引退直前は洗車したのか?
綺麗にピカピカになってた。当時、俺が通っていた小学校のクラスで「にわか鉄ヲタ」が大増殖。
ピカピカになったブルドッグが話題になってた。※当時、小学5年。
その「にわか鉄ヲタ」の多くはスーパーカーブームからの転向組で、もう中学に入れば鉄ヲタを引退してたな。 >273
キハ81は使いづらさやキハ82とは定員が異なるなどの理由から、「くろしお」でも
昭和51年頃から順次キハ82に置き換えられ、車体の傷みが目立つなどしてきて、
状態の悪かった1、2、4、6は先に廃車となり、比較的状態の良かった3と5だけが
天王寺方先頭車を努めていたな。 >>272
空中写真みたら、旧島式ホームの南端の、外側線(曲線側)の本線合流をふさぐようにホームが延長されてる。 阪和線の懐かし風景というと、、堺市のあたりに中川ムセンの看板。
和泉府中あたりの毎日牛乳の張りぼて、これは今でも目にするがガキの頃から印象深いな。
水間鉄道交差部では赤とクリーム時代の1201系と出くわすか注視してた。
和泉鳥取〜山中渓付近で並行する府道に点在してた南海バスの停留所。
大阪南海バスの最南端路線だったな。 >276
長居の所の阪和線線路沿いの地下鉄御堂筋線の保守基地。
かつては大阪市バス長居車庫だったな >>276
昭和59年か60年頃以降、杉本町の駅のすぐ近くの看板に黒いスプレーで「ちくび」と落書きされてた。
そして、その看板と落書きは平成に入ってからでも残ってた。看板の管理者は消すのがめんどくさかったのかなw
南海平野線と近鉄南大阪線(地上時代)との交差部を通る時は、いつも視界にそれらの線路を通る電車が視界に入ってた。
子供の頃から鉄ヲタだったので、いつも興味津々で眺めてた。
天王寺に着く時も決まって関西線や環状線の電車が視界に入ってな、いつもワクワクしてた。
ま、長距離列車の宝庫、大阪駅や向日町運転所の脇を通過する時の方がもっとワクワクしたけどな。 >>277
子供の頃、その施設に線路が敷かれていて保線用の車両が停まってたので阪和線関連のものだと思ってた。
それが地下鉄関連のものであると知ったのは高校に入ってから。
子供の頃は阪和線の線路とつながっていないのでおかしぃなぁと思ってた。
因みに、俺、そこの近くの男子校に通ってた。今は共学だけど。
あの頃は子供の数が多かったので(昭和41年生まれは除く)、土曜の昼の電車は6両の各停でも満員だった。
俺は鶴ケ丘や長居から乗ってたけど、すでに興国や此花、清風、四天王寺、明浄の生徒が乗ってたし、
鶴ケ丘や長居で我々、そして杉本町で浪速、浅香で愛泉、堺市では快速からの乗り換え組、
三国ヶ丘では住学や他の公立が乗ってきたりして車内ががやがやしてた。 >>280
そう。他の学校の奴は、みんなそのように言ってたなw。初めて聞いたときは、その名称に驚いた。
今は共学で校名も変わり、中学まで併設されたりして当時の雰囲気はないかな。
制服も学校指定で昔のような黒の一般的な学ランでもないし。
他の私学も今は共学のところが増えてるし、大きくイメチェンした。 一番イメチェンしたのは阪和線だがなw小学生の頃の阪和線は新快速快速除いて100%区間快速始め吊り掛け駆動ばかりマジ電車の墓場言われてたんだがまさか225系オール転換クロスシートばかり南◯山のにわか成金並みの激変だろうなw
せっかく車両はこれだけ充実してるのにうざろんぐに天国みたいな阪和線なのに8分とかアホみたいに上野芝長時間通過待ちのせいでイトーヨーカドー津久野店堺市総合医療センターのそのどちらとも客も患者家族も阪和線スルーしみんな車
こういうの宝の持ち腐れ勿体ない言うか阪和線言うか脳みそハゲてるわ線だなw >281
1980年代後半〜90年代の阪和線車内では、四天王寺高校と大阪女子商業高校(現:あべの翔学高校)の制服姿の女の子が一番ムラムラさせてくれたよな
下校時に美章園から乗車してきた大阪女子商業高校の制服姿の女の子たちは、
そのほとんどが三国ヶ丘駅で下車して南海高野線に乗りかえたりしてたな >>281
1988年昭和63年三国ヶ丘駅に区間快速止まるようになったまさにその年に団塊Jr.の知り合いの娘が富木駅から区間快速三国ヶ丘駅乗り換え堺東三国丘高校進学
lucky言うかめちゃluckyと言ってた団塊Jr.だけに受験競争はめちゃ熾烈であり第1志望の国公立大学医学部は不合格だが私立大学医学部に女だが現役合格だから三国ヶ丘駅に区間快速電車止まるようになったことが彼女の医学部合格→女医をpushしてくれたことは多分間違いない
医学部志望者には朝夕通学時間も惜しい 阪和線車内、もっと前(昭和50年代前半位?)だとタバコぷかぷかの高校生とかじゃなかったのw?
当時から利用してるがあまり見た記憶は無いけどね。。南海とかもそんな感じで知られてたw >286
高野線6000系や6100系などの中間車の運転室助士席部分もそうだな >>283
四天王寺は灰色の制服だったね。住学は水色、明浄はグレーのセーラー服だった。
>>284
津久野か・・・少子化と車社会化が著しいからね。今、津久野で降りてもロータリー以外は
商店よりも病院関連の薬局の方が多いくらい。あのミスタードーナツが今や薬局になってるし。
阪和線て公立高校の生徒が利用してたイメージが薄いな。伯太は和歌山方面になるし。
8学区は三国ヶ丘(地域ナンバー1)と泉陽(同2)以外は、泉北高速鉄道沿線の中途半端なところに点在してるからな。
美木多や上神谷、福泉、泉北、西高、堺東に行ってた同級生は阪和線沿線からチャリで通学してた。
俺が通ってた中学では東百舌鳥・上・鳳(地域ナンバー3)が近かったが、いずれも自身の学力不備で行けなかった。 >288
津久野といえば、駅のすぐ近所の線路沿いの高台にある神社か寺院かわからない
大きな家と、つい最近まで車窓から見えていた石津川すぐ近くの「霞ヶ丘マンション」と書かれた、鉄筋3〜4階建てくらいの古びたマンションも有名だったな。
このマンションは、今は建て替えられたか取り壊されたかして現存していないが。 >>288
それらの学校すべてブルマを採用していたんだよな。(多分) 290
1990年代の終わり頃まで四天王寺もみんなブルマ採用だったみたいだよ 阪和線美章園から長居あたりまでの区間は
最近(21世紀)にになってようやく高架化されたが
それまでは踏切も多くあり、交通渋滞の元凶になっていた。
今は移転しビル自体が取り壊されたシャープ本社の
すぐ側にあった南港通りの踏切は特にひどく
40年ぐらい前までは有人踏切で遮断機をタイミングよく
上げていたのだが国鉄の省力化により無人化され
朝などは開かずの踏切となっていた。
平野方面からバスでシャープに勤務する人や
地下鉄西田辺駅で乗り換える人が手前の山坂三丁目で降りて
歩道橋を渡っていたものだ。 >>295
あの踏切が一番エグかったよね。
あと地上に走っている最後の日に鶴ヶ丘駅南側の踏切できちょまんが遮断機くぐろうとして命落としたんですって?
あの踏切から少し西に行った所にあります札幌ラーメン『ほんば』よく食べに行ったな(遠い目)
まだ在るのかな?
大将は愛知県の出身の人でした。 >>295
>40年ぐらい前までは有人踏切
40年ぐらい前まで言えばまさにあそこで区間快速が吊り掛け爆走していたなあ。あそこがそういう場所と後から知ったがあそこでひかれたらひとたまりもないし不謹慎ながら区間快速吊り掛けモーター70系ならどんな音立てたんだろうと思う >>110
方向幕が今の黒地になる前の列車種別の色は
快速…赤
区間快速…黄緑
B快速…青
普通…種別表示なし 紀州路快速、和歌山口で4両編成の3扉クロス225系が六十谷や紀伊にちょこまかと停車していく様子は、
心なしかかつての70系区間快速を彷彿とさせる、、わけでもないか。。。w 非冷房の話し有ったけど、平成に入っても冷房3+非冷房3の6連が有ったような。
極端な弱冷房車の走りじゃないかな。 杉本町から上野芝の間に退避駅が無いのがダイヤ作成上のネックになってる
上野芝の長時間退避もそれが原因
堺市が退避駅になれば緩急接続もできてダイヤも組みやすくなるけど無理かな >>304
あった。
どっちが天王寺側に付くか、規則性があるのか観察したが結局分からず仕舞いだった 編成中に冷房車がある確率を100%にするよう組成を変えたらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています