世の人は糞尿は臭い、汚いと言うが、しかし美人の腹の中にも糞尿はある。
 外へ出せば汚いが、腹の中に密閉しておくからなんともない。
 糞尿を密閉した貨車で送って、外気に触れないで処理すれば何でもない筈だ。
 所沢の農場で、尿と糞とを仕分けして、尿はパイプで畑の中へ送る。これで野菜を作ってまた腹の中へ還元する。
 これを繰り返すことが天地の理法に適ったやり方だと思った。
 伊勢の大神宮では落葉が何尺と溜まっている。
 肥料をやらないけれども、みずからの落葉で樹木自身が成長していく。
 この天地の理法から見れば、海に糞尿を捨てることは間違いである。
 それで、人間の手を用いずして、糞尿を電車に積み込み、人間の手を用いずしてこれを降ろす。
 つまり、人間の手の代りに地球の引力でやることを考えた。
 始発駅に糞尿のタンクを拵らえ、石油タンクのような糞尿車を作って輸送し、終着駅に大きなタンクを作り、糞尿車のバルブを開ければ、モノはタンクに落ちる。これを農村に渡す。
 そのころ農村は食糧増産に懸命な努力を続けながら、肥料不足に困っていた。
 増産は戦時的要請だが、戦争は今迄使っていた化学肥料を取り上げてしまった。
 昔の農業に返って下肥を使えばいいわけだが、そうするには人手もなければ車もない。
 お百姓は遠い所を都内まで取りに出かけてくる暇がなかった。
 もし、都内に有り余って困っている糞尿を、肥料不足の農村まで運び出せたら、それこそ一挙両得と言う訳である。

 糞尿貯留槽は西武鉄道、武蔵野鉄道両沿線数10ヵ所に全容積27万1,000石を設置し、肥溜の上ヘレールを敷き、その上にクンク車を引き込んで落す。
 つまり、『電車から溜槽へ、またさらに自動車に、自然落下の法則で地球の引力を利用するもので、将来は一日2万石程度の糞尿を処理し、野菜増産に貢献する。』
 と言う狙いであった。
 運転は人間の輸送を終ったあとの深夜を利用し、帰路はタンク車の上に特別の台をつけて、農村から都内向けの野菜輸送が出来るようにした。
 一日2万石の輸送能力は、大八車でやるとなれば、延々16kmも続くという大変な量であった。