青函連絡船6便 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>528-530
旅館の下足番から宿泊客の色々の世話をする男衆を「番頭さん」と言っていた。
乗船名簿の用紙は乗船する便ごとに枚数が決っていて、
当然便名のゴム印(日付も)と番号が入っていたと思うよ。
しかも乗船乗車券の発売とセットで配布したのでは?
だから用紙は何枚も持ち帰りが出来た訳で無くて、
コピーなんかもっての他だったと思う。
しかも白焼きコピー(昔はXeroxで呼ばれた)が普及し始めたのは、
昭和40年代になってからで、
洞爺丸乗船した昭和20年代はコピーなんて夢の時代・・・
流石に浅虫温泉からは番頭さんが出向くのは大変だから、
青森駅桟橋出札には旅館組合の常駐の係が通っていたのではないだろうか?
(他の温泉のお客の乗船名簿の世話も一緒に) >>531
そんな推測並べられても少なくとも>>528への答えにはなってねえな 乗船名簿なんてデタラメ書いてたな〜
田村正和とかミック・ジャガーとか
乗船前に桟橋で箱に入れるだけだったし >>533
15号台風での洞爺丸遭難以前は、
乗船名簿の記入はほとんどの人が真面目に書いたし、
(隠れた目的で旅行する時は知らん)
その代わり遭難事件の後は、
まさかもう沈没はしないだろうと
いい加減な記入は増えたのだろうな。
宇高連絡船の紫雲丸の事故もあったから。
その後は日本では大きな海難事故は発生していないし・・・ >>530
家でコピーとかお前絶対現役時代しらない世代だろ >>531
乗船名簿とボールペンが一緒に洗面所にぶら下がっていたのを見た事ある
但し普通船室用だけで、グリーン寝台用はレチから貰う必要があった
583系と485系の特急車両のみだったと記憶している
はつかりの場合、浅虫付近で
レチが回収に回ってくるのも当時の光景 「レチ」って何だろう?と、思って調べたら「車掌」の事か 懐かし板に来るくらいの人間でその疑問が出るのは不思議だな
コピーの話もだけどなんか若い人が無理矢理話に絡んで来ようとしてるね 昔を知るのは善い事、知識だきひけちらかして空気壊さぬようにね
救命胴衣のつけ方も見とくんだぞ レチ、レチチは相当にマニアックだけど
カレチさんってそれなりに知られていたように思うが。 使用済みの乗船名簿はどうやって捨ててたんだろうか?
あの当時は個人情報保護法なんてものはなく住所・指名が書かれた紙を平気で燃えるごみとして捨ててた?
流石に海洋投棄はしなかっただろうが
今だったら運行終了後シュレッダーで処理しないと個人情報漏洩の危険性がある 青函連絡船の廃止直前と
昭和30年代でも時代の違いがありそう。
洞爺丸乗船経験の世代にとっては、
「北斗」のC寝台〜連絡船1等船室〜「まりも」特別2等車が頭に。
(123等制の時代)
鉄道3等で旅行する人も、
青函連絡船の3等は車両甲板の下が船室だったから、
『異』級乗車券を買って、青函連絡船だけは2等に乗船するのが通だった。 「異級乗車券」
「車両甲板の下に船室」
もう訳分からん 「車両(搭載)甲板の下に(3等)船室」
洞爺丸遭難事故以降の連絡船は、
大型化した事もあって
123等全ての船室が車両搭載甲板の上の構造に設けられたけど、
遭難事故以前の旧型の青函連絡船では、
3等の船室は乗船入口は勿論桟橋と同じ高さにあったけど、
長い階段を降りた一部喫水線の下にも船室があった。
(上の階に線路が敷かれた車両搭載甲板があった)
それを嫌がって連絡船区間だけは2等の「異級乗車券」を買うのが
津軽海峡を旅する旅慣れた乗客の常識だった。
何しろそうしないと甲板で過ぎゆく浪間も眺める事も難しいのだよ。
洞爺丸転覆事故では12等の乗客も脱出出来ないまま犠牲になったけど、
3等の乗客に至っては外の様子も分からないまま、
いきなり「ポセイドンアドベンチャー」状態で閉じ込められて・・・
一般の客船でも例えば昔の伊豆七島に向かう東海汽船でも
小型船の3等は壁が船底そのままに斜めになって不気味だった。
(学校の行事で乗船して団体だったからしょうがなしで) >>545
「異級乗車券」は上の「車両甲板の下に船室」にも関連して、
何時まで制度があったか知らないけど、
123等、後の12等制度の時に、
元々1等または2等で旅行する乗客が、
鉄道区間でも3等(のちの2等、今の普通車)しか
運転していない区間を挟んで旅行する時に、
乗車券を買う時にその区間を申告して指定すると、
その区間は下級の料金に差し引いて運賃計算して発行される。
本当の金持ちはそんなセコイ事はしないけどね。
昭和30年代頃までは幹線だと普通列車にも半車の2等車がよく連結されていた。
乗車券の地紋が3等は薄赤で、2等は薄青、1等は黄色だったから、
異級乗車券は上の等級の色で発行されたから所持していると鼻が高かった。
連絡船区間の運賃は鉄道区間キロ程通算とは別の等級別運賃だったから、
差額の計算も楽で簡単に「異」級乗車券が買えた。
鉄道区間でも一部だけ12等とする「異」級乗車券が買えて、
下記の様な遣い方が出来た。
(1)特急「つばめ」「はと」にしか無い、最後尾の展望車のデッキで
出発の見送りに答えたいコスい成り金見栄っ張りは、
展望車は1等乗客しか利用が出来ないから、
東京〜小田原位までは1等で後の目的地大阪までは2等の「異」級乗車券を買った。
(2)地方の事業所の幹部社員・家族が転勤で任地を離れる時は、
規定で2等旅費が支給されるから、(今なら飛行機でビジネスクラス?)
いきなり本州方面の接続急行に乗れない駅でも
普通列車の半車2等車に乗り込んで社員の見送りを受けるのが習慣だった。
心ある幹部社員は3等で構わないと言うが、
(乗り換えた先の急行列車では特別2等車に)
庶務の社員がそれでは示しが付かないので是非2等でと懇願して。
そんな時に列車が空いた時期なら始発駅からなら3等でも大丈夫で、
「異」級乗車券を買う事に。
セコい社員は全区間2等の乗車券は乗り換え駅で払い戻ししたりして
「異」級乗車券に買い直して差額をせしめる輩も。
社員や役人の出張でも階級で2等乗車券が支給されるけど、
同様に差額をせしめる奴もいたそうな。
何しろ2等は3等の倍額で1等は更に倍額だったから。
急行料金も等級で違って高価になった。
私の世代の2等乗車券のイメージは、
今で言うグランクラス位の値打ちがあったね。 ちと長いが歴史の勉強だな
さすが船底は知らん、親は船底のが揺れないと言ってたが強がりだったのか 船現物を知らなくても洞爺丸事故の経過やその後の代替船(初代 十和田丸や津軽丸)の構造改善を読めば、三等が船底だったコトは自然と知りそうなもんだがなあ。
知識経験があるから偉いかタコとかじゃなく、末期に自分の見たまま以外まったく関心が無いなら寂しいね。 多分実体験として知らないって意味じゃないかなと読めるんだけど 船底とか書いてるが、実際には船底じゃなくて第二甲板。
車両甲板の1層下で、床面よりちょっと上が喫水線。 高齢者は意固地になりやすいの、分かってるのに
「番頭さん」の件で、執拗に突っ込んだ奴は誰だよ >>546
洞爺丸形なら、三等でも椅子席なら下部遊歩甲板だから、
車両甲板の下まで行かなくても良かったのでは?
車両甲板下の第二甲板にあったのは三等桟敷席だけで、
他の三等施設は下部遊歩甲板にあったはずなのだが。 >>553
好き好んで3等の船底の船室に乗った訳では無い。
その端艇甲板の船室は競争が激しくて。
混んで座れなかった3等急行の旅や、
本州の夜行急行で3等の硬い座席に座って過ごした後は、
青函連絡船の4時間半で寝そべって背筋を伸ばしたり、
洗面や食事と短い休息の時間だった。
だからちょっと余裕がある馴れた旅人は、
差額を払って2等船室に「異」級乗車券を買って乗った。
ちなみに昭和29年で3等が220円で2等は440円。
その差額の価値は当時日雇い労働者の日給が
彼らを通称ニコヨンと呼んだ254円だったから想像出来る。
2等船室なら洗面所も明るくてお湯がたっぷり出るし、
食堂はメニュー豊富で美味いし、売店も花盛り。
1等船室は1780円で高値の花、
ボーイさんもいて何かと世話を焼いて呉れる。
坊っちゃまと呼ばれたは人生でこの1回だけ。 >>551
「船底」は言葉の綾で固定閉鎖の丸窓から外を見ると、
目の前に海水面が広がって港外に出ればちょっとの波で
窓ガラスが洗われる。気分は水没・水面下・船底だよ。
後年アムステルダムで泊った安ホテルが
床が水面下で目の前の運河をボートが通る度に
波が窓下に打ちつけて落ち着かない夜だったよ。
共に「板子一枚下は地獄」とは良く言ったもの。 船底へ行くには乗降時間かかりそうだな
二代目は入口広くて売店があった
そしてマリンガールなる案内の人? >>556
その通り、
接続する急行の3等は自由席しか無かったから、
(函館、青森)桟橋ダッシュで先頭を走るには、
到着時刻より早めに下船口で待ち構えていないと出遅れて大変。
だから下の船室の奥なんかに乗っては最悪。 この人妄想入ってるよね
結局「旅館の番頭さん」の件まともに答えてくれてないし 正論だと思って他レスを真っ向否定する発達の臭いがする
それが嘘だったり >>554
そういう話を聞くための書き込みではなかったんだけどなぁ。
まるで「三等船室全てが第二甲板にある」みたいな>>546の書き込みに対する
「第二甲板以外にも三等船室はあったでしょ」っていう確認のつもりだったのだが…。
これは大事なことだけど、洞爺丸形では「端艇甲板」には船室はなかったよ。
本当に乗ったことがあるなら、知ってて当たり前のことなんだが…。 ここに書き込む諸兄はほとんど、
学生や成人してから専門的な知識も探査吸収しつつ、
乗り船をした経験で語っているのでしょ?
それと幼い頃から小学生位で洞爺丸に乗った経験と
比べるのは無理じゃない?
60年も昔の社会の仕組みは
当時の人しか実感としても語れないし、
歴史として聞き置けば勉強にはなるから。 末期が消防厨房の頃ではあったけど覚えてるものです
十和田摩周八甲田ばかり当たって当時は不運と思ったが青森函館に残って逢えるから今となっては良かった
まだ函館市電の海岸通り線があってニセコ待ちに市電乗り潰したりね 宇高連絡船のホーバーを青函連絡船に転用は不可能
波が荒いのでスカートが破損する危険性が高い
ジェットフォイルがかつてあって1時間40分で結んだが短命だった
ナッチャンReraも短命だったが引き波が強烈すぎて漁業被害が出たのが一因である 八甲田丸や摩周丸の保存に、JR東日本やJR北海道は関わってないの? やー。洞爺丸乗った人の話おもしろいっす。
当時の日雇人夫の日給と乗船するだけの金額が同じってことは
現在だと1万くらいだろうから連絡船乗るだけで1万かかるってわけだ。
俺が最初で最後の連絡船って高校さぼって松前線に乗りたかったんだが
時間的に無理で江差線の途中駅で引き返した思い出が・・・
周遊券の値段が行き帰りの急行券込みで3万行かなかったと
思った。当時は連絡船見納めなはずだが、そんなに人がいたって記憶ないな。今なら葬式鉄がたくさん押し寄せるのだろうが。 連絡船終了後に、一回イベント運航があって
客が1人だけだったって噂聞いた事あるけど
話の出処憶えていないからデマかも ちょっと調べたら
廃止の半年後に復活運航があったのか
列車の接続はしない観光船で夜はホテル!か
当時、話題になった記憶がないけど
この時乗った人、ここにいるのかな 廃止された同年6月から9月まで1日2回運航
この時、一回くらい乗客1人の日があったかも知れないけど
分からない 江差線で折り返した駅思い出した。
わらびたいって駅だったと思う。
夜の便で青森に戻ったが、食堂なんて俺一人だったな。
三平汁と何か名物を食ったな。
その1年後だか2年後に宇高連絡船に乗ったな。
宇野と高松行ったり来たりした。ホバーも乗って食い放題のアイスも
もちろん食った。 大分でホバーの余生に乗った、波しぶきすごかった、空港の陸に上がってからぐるぐる回って遅かった
思えば青函で車運んでたがいつ載せたのやら、5〜6台なら時間はかからんか >>570
ノシ
土日祝は行楽客や青函博がらみの利用者でグリーンを除いてそれなりに埋まってた。
平日1人しか利用者いなかったのって記憶あるけど、夜間のホテル利用者のことで新聞に載ったんだっけかなぁ。
いい場所取ろうと構内からダッシュして乗船口の橋に敷いてる緑色した凸凹マットが滑って大コケしたのも思い出。 >>575
アンコール運航開始と青函博開幕に一ヶ月もギャップがあるからねぇ。
今考えてもやけに早すぎた感があるが、休止期間は三ヶ月以内とか制限があったのかな。 >>575
うわぁ
本当にありがとう
1人乗客のエピソード、記憶違いじゃなかった
でっかい船に1人だけ乗船とか、自分だったら精神的にキツいかも
だとしても、1人だけで乗れたら良い思い出だよなぁ >>578
すまん。
今wikiで調べたが湯ノ岱だな。
遠い記憶の彼方だからごっちゃまぜ。
金も時間も制約ありまくり(今もそうだけど。)だから江差線完乗できないまま廃線になり。本来の目的の松前線も時間で乗れなかった。 3月が熱狂的なお祭り模様だったせいか、アンコール運航はどうしても冷めた扱いが多いんだよね。
年表でも何も触れないとか。
だけど日に2往復便とはいえ各船には正統なクルーが乗り組み、タグや地上要員の皆さんが支えた紛れもない青函航路だったのですよ。
末っ子の十和田丸が回航で大トリを飾ったけれど、別れを告げる涙声はずっと忘れない。
なお、東奥日報1988年9月20日朝刊には、写真との二段ながら回航便出航の光景が掲載されている。
桟橋の光景や乗組員の切ない心情をまとめた秀逸な記事だけど、さすがにバックナンバーは無いだろうなぁ…。 アンコール運航とか復活運航ではなく、正式には「暫定運航」というのだそうだ。 >>582
当時大学生だった自分は復活運航も東京から通いました。JR東3日間乗り放題15000円のE Eきっぷがあったからね。バイト料をつぎ込みました。
6月初めの青函博が始まる前は本当に空いていて、後部桟敷は基本閉鎖していました。
食堂やサロンも売店も普通に営業していたし、シャワーも使えました。
洗面所のカランがカーテンで区切られて、今で言えばシャンプードレッサーみたいに改造されてました。また、案内所で売っていたD型硬券のデザインは変わっていました。
6月3日の1便は出航式があったけれど、ガラガラでした。6月中は空いてて、ブリッジだけでなく、気軽に車両甲板や総括制御室とか見せてくれたし、航行中に船尾扉を開けてくれたりしてくれました。
7月位から船内ツアーって形になってたけど、航行中の船尾扉を開けるのは運輸省に言われてダメになってました。やってた便もありましたが。
羊蹄丸の車両甲板には3月13日22便の黒板がそのままになっていて、清水50t、乗用車◯台(台数は忘れました)、さようなら、と書いてありました。
夜はくつろぎカードで十和田丸も羊蹄丸も泊まりました。企画券で9月18日の最終日まで一斉に売り出したんだけど、1ヶ月前からと思ってる人が多かったのか、あっさり取れたんで、びっくりしました。
9月18日の4便はシャッターが開く前から並んでみどりの窓口に走ってグリーン船室が取れたのは嬉しかった。
回5001便は青森で見送りました。自力で動いている連絡船を見たのはそれが最後でした。ちなみに動いてる連絡船は羊蹄丸の回航が最後です。
長い思い出話ですみませんね。 海峡編成はトンネルで潜ってる場所が表示されたりトンネル壁に残像で絵が出る演出があったが
それすら昔になった、新幹線が逆に遠い存在 北海道新幹線な
あれほど、地元のニーズ無視した交通機関も珍しい >>584
レスありがとうです。
船尾扉半開はRJ誌の1988.09月号の羊蹄丸レポにも紹介されてましたが、指導を食らったとは当時は知りませんでしたね。
貴兄が乗られた最終4便を安方岸壁で待ち受けましたが、旋回すると船尾扉は半開しており明かりが煌々と灯された空の車両甲板が印象に残っています。
「これで最後だから!」で夕凪の陸奥湾を眺めたんだろうな、と想像してました。
この日曜夜も船上ホテルがあって回航が翌日になったのは当地の住民として幸いでした。
待合所のベンチを積み込んだのはそこそこ知られていますが、乗船案内パネルにはきちんと十和田丸の船名と照明が入っていました。
乗客のいない回航でも最期まで函館行きとして送り出す…はなむけと心意気だったのでしょうね。 >>588
新幹線、在来線特急共に中国人が多数
外国人パスが有るから殺到するんだろうな >>590
外国人専用パス廃止
日本人専用パスを作れば良い
高速1000円効果と同じになる。
中国人が増えても日本人客が逆に減るし… >>586
函館駅と青森駅の間の移動が大変になったともいえるからな 青函フェリーは駅から遠いのかな
海を渡った感が渡道のミソだったからトンネルは便利であっけなく > 海を渡った感が渡道のミソだったからトンネルは便利であっけなく
そこを解ってくれる乗り鉄が、年上の人でも減っちまった。
「北斗星」に乗って目が覚めたら北海道!って、「つまんねー」って思ったのは俺だけか?
(実際に乗ってみてつまらなかった)
まだ新幹線と特急で乗り換えながら行った方が楽しかった。
今も北海道に乗り鉄で行くときは、青森と函館で乗り換えすることをマイルールにしてる。
現在だとどうしてもフェリーになっちまう。 青森駅と函館駅からフェリー乗れればな
もう何度目だろうか、この愚痴
後、本線を第三セクターにして、経営分離するのも何なんだろう
鉄道から自動車へ主要交通機関変えるなら、自動車の利便性高める様にするべきだが、それも無い
地方の交通インフラについて、長期的な展望が、まるで感じられない 「日韓トンネル」物流利益は年間2253億円 対馬・壱岐経由で利用・収支予測 日帰り圏拡大 新たな観光需要
最終更新:7/6(金) 0:58
長崎新聞
7/5(木) 12:47配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180705-00000007-nagasaki-l42
韓国から対馬・壱岐を経由して九州へ至る「日韓トンネル」構想について、西南学院大の野田順康(としやす)教授(開発論)が利用・収支予測をまとめた。
物流は年間営業利益を2253億円と試算。
旅客は試算から外したが、「日帰り圏が韓国南部と九州・中国地方に形成され、新たな観光需要が期待される」とした。
野田教授は元国土交通省国土計画局総合計画課長。日韓トンネルの検討もしたという。
今回は日韓トンネル実現九州連絡協議会などから調査依頼を受けた。
2020年着工、30年供用開始と想定し、総貨物輸送量を韓国、ロシア、中国との間の輸送実績から推計した。
国交のない北朝鮮は韓国との人口比などを基に算出。
これに英仏海峡トンネルの利用状況を反映させ、3276万トン、655万TEU(1TEUは20フィートコンテナ1個)とはじいた。
この量を運ぶには鉄道18万両が必要となる。1両当たりの通行料金は英仏トンネルが約45万円のため、距離に比例し約5倍の225万円と設定。
年間収入は4095億円、営業利益は英仏トンネルの利益率を適用し2253億円とそれぞれ見込んだ。
建設に向けた資金調達と返済の方法も検討した。建設費を10兆円と想定。このうち4兆円を出資で賄い、着工3年後と6年後に
それぞれ3兆円ずつ融資(利率1%)を受けることで確保する。
30年の供用開始から元利均等償還すれば35〜50年後に完済すると予想した。
野田教授は「東アジアの平和と安定が実現し、十分な出資とソフトローン(貸し付け条件の緩やかな借款)が供給されれば実現可能」としている。
日韓トンネルは戦前から構想があり、1980年には大林組がユーラシア・ドライブウェイ構想の一環として提唱。
現在は国際ハイウェイ財団(東京)が対馬、壱岐、佐賀県唐津の3市内で調査用斜坑工事を進めている。 >>596
中国と韓国の間に北朝鮮があるだろう
政治的に安定しないと無理 青函連絡船では、いわゆるごろ寝できるじゅうたん席は正式いは「座席」、または「じゅうたん席」、椅子のところは「椅子席」と言っていた。
規程やマニュアルなどもすべてそのようになっており、少なくとも乗組員は桟敷などとは言わない。 所要時間3時間50分だが寝台あったんだな
ただ夜中や早朝に移動とかあって睡眠時間が十分とれなかった? 寝台、通は往復取って、折り返しでは起こさないでもらったものだよ。
折返し便が客扱いしてないとダメだけど。 >>559
>>601
1974年から1988年まで青函連絡船に乗ってきたけど絨毯の
席は桟敷席って言われてたよ。事務長も船内放送で桟敷席と
いう名前で述べてたし、交通公社の北海道時刻表でも青函連絡船
見取り図のページに桟敷席という記述があった(1976年頃)。 >>596
中国の高速道路で、開通と同時に崩壊するダンボール戦機の高速道路という洒落にならない事例があったくらいだからね。
製造技術の未熟さが災いし、開通したと同時に落盤事故でおじゃんになるだろうな? >>604
私も同じ頃青函連絡船に乗務していたが、規程、マニュアルのほか、図面でもじゅうたん席は「座席」となっていた。
ただ、「座席」でわかりにくいこともあったので、そのようなときは「じゅうたん席」と言っていた。
お客さんの間でどう呼んでいたかは知らないが、正式には「座席」が正しい。 グリーン桟敷は指定だから座席なのかな
救命胴衣とか仕切りがいろいろありそう >>609
折角貼ってくれたけど、肝心のところがボケて見えない 一般の旅客の間で「桟敷」という言葉が使われていたというのはともかくとして、
正式名称が「座席」だというのは八甲田丸や摩周丸に行ってみてもわかる
>>600は「朱色5号って何?タラコだろ」って言っているのと似たようなものでは? >>608
グリーン船室、普通船室ともに「座席」と言われていた。 グリーンの座席って何が違ったの?
絨毯がふかふかとか? 椅子よりカーペット座席のが倍位なんだな
寝転べる座席?ばかり使ってた 座席より椅子席のほうが一人あたりの占有面積が大きいってことだね。 グリーン指定席の深く倒れる独立シートは良かったね。
大揺れの際には座敷に寝そべってるより楽だったような。 幸い縦によぉーっと揺れるだけの静かな航海しか知らん
時化の航海は如何だったでしょうか 焼山沖でのぼせるときはピッチングとローリングのまざったような揺れが続き、船首を波に突っ込むと「ドーン」という音と振動、数秒遅れて「ザーッ」とかき上げた波が降ってくる。
30分〜1時間ものぼせたあとに落とすと、揺れが変わる。 >>624
今もカーフェリーならどこでも味わえるよ。
水と鉄の塊がぶつかると、こんなにズシンズシンするかと驚かされますな。
船尾にいると時折プロペラが海面に出てしまい、ブーーン!と空回り音が響くこともある。 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 青函航路の場合、海峡部を越えれば何とかなるからな。
陸奥湾に入ったーとか、松前半島の影に入ったーとか
ホッとする瞬間。 ボーイング747の出現で青函連絡船が斜陽化したよな
1980年のダイヤ改正で函館中心から航空機利用による千歳空港を中心としたダイヤに変更された
しかし今度はボーイング747が4発エンジンで燃費が悪くほぼ同一定員で平屋で双発エンジンのボーイング777に置き換えられ国内からは引退して世界的にも減少してる 青函連絡船じゃなくて、鉄道そのものが斜陽化したんだよ。
すでに長距離旅行の手段として、その役目が終わっている。 飛行機に乗りたくない人にとってはやはり鉄道に頼りたいが、近場すらお金かかるようになったのはねえ…。 都市近郊の通勤路線以外は無用の長物。
消え去る運命といったところか? >>633
JRの本音は、新幹線網使っての旅客・貨物輸送、大都市近郊区間、リニア、
関わるのはこれだけにしたいんだよ。
残りは国道バイパス、遊歩道、にでもしとけってね。 >>634
新幹線貨物は、今のところ実現していないのは何故? >>635
大型物資を大量に運べない
貨物輸送により、旅客輸送ダイヤに支障をきたす >>635-636
貨物ターミナルを今から建設しようにも適当な用地が見つからないだろう。
あと、コンテナの規格をどうするか。 青函連絡船は2000円で行けたのに北海道新幹線で高騰してしまったな
運賃が年々高騰している
青春18きっぷオプション券は金額的にフェリーと変わらないが使ってる人いるのか? 安い運賃で昔みたいに上野から寝台特急(はくつる、または、ゆうづる)に乗って、青函連絡船で津軽海峡を渡り、おおぞら、おおとり、北斗で札幌に行きたい。
叶わない願いだけど。 >>638
利用費の高騰=かさむ維持メンテナンス費用って現実問題もあるからなあ。
ならばこそ様々な種別列車を走らせて、誰でもウェルカムって姿勢が欲しいものだが…。 おっさんですが、45年前の今日あたり、初めての北海道旅で急行「八甲田52号」(だったかな)で青森に着き、初めての連絡線に乗船しました。「八甲田丸」でした。思えばこの年が連絡線の輸送人員が最大だったんだな。 往時知ってると、今の青森駅、脱け殻みたいで唖然とする。 青森駅は単なる通過点で、駅周辺の記憶はほとんどないな。
駅には用がなくて、さん橋待合室は泊りも含めてすごく多用させてもらった。
1席ずつに区切られていない長いシートは仮眠に最適、冬は暖房が聞いて暖かく、洗面所もお湯が出て、夏は開け放した窓から潮風が心地よかった。
何便か見送ってのんびりして、その間に普段なじみがない貨物船の入港もゆっくり見られた。 函館さん橋の椅子は1席ずつに区切られたFRPのやつで、しかも夜、2便が出ると待合室を追い出された。 青森は下りて階段上がって右行けば近かった
平成も後になって八甲田丸に再開するんで初めて青森駅出た
函館はニセコ待ちで途中下車したもの >>648
函館って畳敷きのエリアが無かったっけか。記憶違いかも >>648
そうなのか?
おいら函館で一晩過ごしたけど。
たしかに椅子では横になれなかったな。 青森駅の女性待合室は畳敷だったような
函館駅のは記憶にない 青森の桟橋待合室にお土産やさん(キヨスク)とコーヒースタンドあったなあ。
あそこって考えてみると桟橋の先っぽの方でほとんど周りは湾内なんだよね。
暴風雨の時なんかちょっと場所的に怖かった。 いや、青森さん橋の位置は、西側は舟入澗、その先は油槽所、東側は1岸のスペースの先は安方倉庫(その後、最後の時期だけアスパムなど)だったので、まわりが湾内ということはない。 全体的に見れば、しいて突き出していたのは3岸程度だろう。 >>652
時期とか年代で違うのでは?
大昔はターミナル駅で寝泊まり可能だったみたいだし >>653
子供の頃、金魚ねぶた買って貰った思い出 >>655
周りに建物が無い待合室は風当たりがあるから“湾内”って感覚を覚えたんじゃないかな。
青森の街自体が陸奥湾の南端だしね。
厳密に防波堤内だから外だからって定義つけなくてもよいと思う。 八甲田丸や摩周丸の保存に今のJRは関わってないの? >>660
かかわっとらんよ。
函館はJRが撤退して何年になるか・・・?
お荷物になるものはいらないんだよ。 >>661
八甲田丸の車内にはJRの車両がたくさんあるのだが >>662
元JRの車輌な。
あるからって、だからどうしたって?
八甲田丸も摩周丸も、今現在どこが管理しているのかを言ってるんだろ? >>662
元JRの車輌な。
あるからって、だからどうしたって?
八甲田丸も摩周丸も、今現在どこが管理しているのかを言ってるんだろ? 雨がすごかですね。
このままでは、”テケミ”せざるを得ませんな。
連絡船の船乗りなら、この略号が通じる。 >>666
あのぉ〜
風が弱くなってわずかに日がさして来たんですけど・・・ 台風が去ったと誤解して出航、七重浜の悲劇に至る運命であった
遭難方々へ南無阿弥陀仏、ご供養 津軽とあけぼのは連絡船との接続悪かったと
J-Trainに書いてあった 連絡船待合室で、ゆっくりしたいので、接続良過ぎるのも考えもの >>670
奥羽沿線重視で役割が違うからね。
航路接続はいわば余技。 八甲田も連絡船待ち一時間位あったかねぇ
津軽は待ち悪くて使った事ないな >>672
だけど大阪からのでも接続悪いパターンが多かったんだよなあ
日本海の二本目のと白鳥くらいだものまともな接続の奴は 非常時の貨車の海洋投棄の実験したことがあるが今だったら実験後に投棄した貨車を引き上げないと海洋汚染の問題が起こりそう
それも鉄製の傘を貨車に取り付けて非常時に海に投げ落とすことで水圧で引っ張り投棄するという豪快なものだった
昔は船内で出たゴミも海に捨ててたとか今じゃ考えられない >>670
そりゃ書いてあるだろな。
元々が秋田・青森の地元向け列車だからな。
ゆうづるにだって、東北向け(北海道連絡を考えていない) 送信しちまった。
ゆうづるにも東北向け列車があったんだから。 トンネル開業後も「はまなす」に接続しない最終はつかりは走り続けた(時刻は少し繰り上がったが)
1便ありし頃は乗り場や名簿記入とか定番の案内に加えて、奥羽線方面白鳥号は明朝だから桟橋待合室へ行くように放送されたもんです。
トンネル開業後は当然それらは渡道客と共に無くなったけど、国4を行き交うトラックを眺める夜汽車風情はずっと好きだったな。 青函博記念で八甲田丸船長の名前入りポスターが家に貼ったまま。昭和63年8月15日の日付。
ただ昔からの疑問が。
この船長が青函トンネル開通の番組にも出ていたのだが、その時は違う船名の船長と紹介されていた。何度も見たから間違いない。
船長っていくつもかけ持ちとかしてたんでしょうか?あるいはテレビ出演時は他の船、サイン当時は八甲田丸の船長になっていた?それともサイン用に八甲田丸船長に扮していたのかな? >>680
連絡船の船長って列車長みたいなものじゃね?
新幹線の列車長も常に同じ車両担当じゃないみたいな 青函博のときの八甲田丸だったらK船長だろ?
青函博当時、青森桟橋長兼展示船の船長。
63年1月までT丸乗り組み船長。その後船員区船長。
T丸の前はH丸だったか?
船長でも、貨物船→客船、組別ではC→B→Aと席次が上がるたびに、ほとんどの場合船も変わるから異動は多いよ。 とくに、3月13日以降はJR北海道に残った人たちだけだったし、乗組員の乗務も船も終航前とは違ってた。 >>683
そうです。Kさんです。
異動は多かったみたいなんですね。
レスありがとうございます。 K山さんは1月に大雪丸が引退して以降、乗り組み船長休暇時の代務やメディアの取材対応もされてたよね。
今はつべから削除されたが「新・日本の駅(番外編) 青函連絡船」1988.03.11本放映?にもホスト役をされてる。
津軽丸船内で産まれた子が数年前に事故で亡くなったことに沈痛な顔をされてた。
後年、横浜大桟橋へジャパニーズ・ドリームを見送りに行った際、ブリッジのK山さんに手を振ったらにこやかに帽を振り返してくださったな。 k山さんは齢83かな。
ご健在ですか?
長崎でお世話になりました。 ちなみに今もつべで見られる動画に大雪丸のがあり、青森出港後のクルー紹介放送で『本船の船長はS田XXX、事務長は…』というのがあります。
このS田船長こそアンコール運航で十和田丸に乗り組み、最後の函館行き回航5011便の大トリを務めた方です。
(新聞には実名掲載あり) >>686
代務で乗るのに乗組船長の代務、と限定することはなかった。
相手が乗組船長でも専属船長でも、休暇を取った「船長」の代務で乗る。 >>689
何年ごろの動画でしょうね?
Sさんが大雪に乗っているなんて、S60年以前? 今度の台風21号は強いまま海峡西〜日本海を北上しそうですねえ。
予想天気図を見ると必ず青函連絡船遭難に思いを馳せてしまう。
しかし今でもカーフェリー会社は、いつまで走らせようか止めようかを悩む立場に変わりはない。
どうかフネに関わる総ての人々がただただ無事にありますように! ナッチャンreraは短命だったな
ジェットフォイルも消えた
高速船は水の抵抗が大きくてどうしても燃費が凄まじく悪化してしまうので運賃が高くなってしまう
小笠原TSLがぽしゃってしまったのは燃料費高騰のため >>693
水の抵抗が少ない船形そのものはとうの昔に出来てる。
波高が年がら年中変わる海域では高速を発揮できず、投資効果が得られないからだ。 ナッチャンReraは引き波が洒落にならない位凄くて漁業被害出てしまった 高いカネ払って時間を買う需要のない地域、ってことだね。
いまや、青函フェリーがいちばんいいんじゃない? >>693-694
インキャット社製の高速船は、荒れる海には向かないからね。
それでもなんとか高速フェリーをやろうとしたけど、リーマンショックがなぁ…
>>696
それは「ゆにこん」時代の話では? >>697
青函フェリーって最近新しくなったんだっけ? 高速船は、ジェット機と同様に燃料どか食いだからな…。
水の抵抗を乗り越えて、船足を36ノットや48ノットなどと速くすると、燃料消費量が多くなる。
ガスタービンエンジンはターボプロップエンジンを船舶に使うようなもの。
エンジンの排熱を周りにある海水で冷却する手立てが要る。 >>702
別に、海水冷却なんぞ連絡船当時のディーゼルエンジンも同じや。
特記するほどのことではない。 道内の交通機関が全麻痺の中、青函のカーフェリーはいち早く動き出したな。
輸送艦おおすみも向かうそうだが、海を渡る手段の多様性は再検討すべきと思うたわ。
関空なんかしばらくは船便頼りになるのでは? >>705
どれか択一ではなく複合や融合させたリカバリー手段をってこと。
新幹線は真っ先に動いたものの、在来線は滞ってる。
本州側にもどこかの駅で足止め食らってる貨物列車がいるわけで。 関空のタンカー衝突の事故で「走錨」というワードをよく聞くたびに洞爺丸台風で遭難した各船のことを思い出した。 >>707
別に今でも多様な手段があって択一じゃないだろ
リカバリ手段はたくさんある
鉄道貨物の船への積み替えなんて必要分は普通にやってるだろ 道産たまねぎは最盛期(今)6割が鉄道輸送なんだと
臨時にトラックを至急手配してるらしいがそれでも遅れるってNHKが
青函フェリー臨時収入か 走錨とは、錨を引きずって流されること。
荒波に流されて走錨すると、ウインドラスでのアンカーチェーンの回収が困難になるため、
海難事故の要因になる。
錨を下ろす際、ウインドラスの冷却と制御がうまくいかないと、摩擦熱で煙が上がり、
最悪の場合、船首で火災に陥る。
※鉄製品がぶつかりあうため、火花が散るんだった…。
キハ40系で非常ブレーキを使用した時でも車輪と制輪子の間に火花が散るのと同じ。 三味線に皮を提供したぬこの肉はどうしたのだろう
やっぱりローストですかね 自衛隊がなっちゃんチャーターして北海道へ物資輸送
て言うか、ニュースはなっちゃんがどんな船なのか説明するべき 大洗〜苫小牧間のフェリーも災害支援に大活躍だってね。
青函連絡船が残っていたらどうなっていたか… 貨物列車が動かぬうちは滞留して、旅客輸送ができるだけ。 青函連絡船が残っていても、活躍の場はないな。
本州からの臨時輸送はフェリーかRoRo船持ってくれば済む話。 >>716
苫小牧発仙台行きフェリーは誰かの歌にあったな サイコロネタはループするな
チェリッシュのはつかり号は北国へのが好き >>721
よく知らんのだが、チェリッシュによれば、はつかり号は夜行? 2002年と言ったら、16年も前の話
生まれた子が、高校生に成長してるくらいの年月 青森に着くのは日付が変わってからだもの。
フネに乗り換えたら一寝入りするわけだし、まだまだ旅は続くのだ。
上にも書いたが到着前のアナウンスは独特の言い回しだぞ。 窓の雪景色がきれいに見えるのは確かに明日の朝になるだろうな
北海道渡ってからだけど
チェリッシュによればっていうけどあれって荒木とよひさの作詞だぞ >>728
荒木とよひさって結構有名な作詞家だよね? >>729
JR西の社歌の作詞家だな
ヒット曲いっぱいあるよね
全く売れなかった曲もたくさんあるけど
はつかり号は北国へは後者 こんなやり取りをしてると、やはり北国行き新幹線は「はつかり」であるべきだよな。
愛称発表時に違和感ガッカリ感を覚えた人は一万はいるはず。 青森開業時点で「はやぶさ」ゴリ押しだからな。
ましてや札幌開業は北海道主体で決めるから「はつかり」は望めない。
公募しといてなんてザマかと。 「国電」→ゴリ押しで「E電」→定着せずに愛称消滅みたいなもん? 公募一位が通らないなんて昨日今日始まったことでもなかろうに >>711
本気で書いてる?
釣り?
走錨したら、やるべき事は早く風に立てる事と、捨錨だ
ウインドラスは関係ない >>733
「かむい」か「ほくと」かもね
函館山線並行だから
「ほっかい」「おおとり」もありか
しかし、平仮名にするとかっこ悪っW
いい加減新幹線愛称のカタカナや漢字も解禁してほしい 「カムイ」って響きが格好良いよな
意味的には列車の名前には大袈裟過ぎるけど
「シャクシャイン」とかダメなのかな
これも響きが格好良い 公募一位で決めるルールにすると
「田代」とかになりそう リンク
「だめです!船が傾きすぎていてクレーンを動かせません!」
この意味は、船が傾きすぎると、救命艇のダビッドを動かせなくなるという意味。
救命艇のボートダビットは、重力で落ちるような仕組みになっている。
したがって、船が傾きすぎると、ダビットが降りなくなってしまう。
その理屈は、模型の船で試してみればわかる。 >>738
「きらら」になったりして。
もちろん397号もできる。 今年も、いや最期の二日間から30年の歳月が経つんだな。
3月の定期終航には及ばないものの、青森発臨時3便羊蹄丸は左舷各デッキからこぼれるほどの人々を乗せて去っていった。
そして夕暮れの中、臨時4便十和田丸がゆっくりとふくうら丸の援けを受けながら最後の青森着岸。
それを待っていたように青函博会場から花火が上がり全ての閉幕を知らせていた…。
3月と違い即日回航はせず、この夜も船上ホテルを営業したのは幸いでした。
翌19日(月)1040にふくうら丸が、1200に十和田丸が歴史的な船出をしていったのです。 アキバIMONで書籍海峡の鉄路青函連絡船・道新刊げと
歴史を時系列に追った本ですな 補助汽船かあ 「ふくうら丸」 2000本おめでとう(関係ない)
なぜか「かつとし丸」が印象に残っている。葛登支(かつとし)岬からの命名なんだよね。 乗船中、いつでも乗組員の美人女性から性感マッサージが受けられる性感連絡船ができればいいんだけど… 青函連絡船ご利用の方に申し上げます、接続便は青森0時35分発1便、十和田丸です。お乗り換え時間があまりございませんのでご注意ください。
これから車掌が乗船名簿をお配りします。連絡船ご利用の方はご記入の上・・ 憶えてないんだが、接続列車から乗船する場合と
連絡船待合室から乗船する場合って、同じ列に並ぶんだったろうか
通称「桟敷」の方が人気あったから、前例で駆け足でないと、居場所が確保できなかった
魚の干物に、マヨネーズと醤油付けて食べるのと
発砲スチロールの容器に入った味噌汁
セトモノの容器に入って釜飯弁当
茶葉で淹れるお茶、冷凍ミカン
今では当たり前になった、ファンタの350ミリ缶
当時は北海道限定で、連絡船内に自販機があった >>754
接続列車からしか青函連絡船に乗ったことないけど、列車が駅に着くとすぐに連絡船の桟敷席目指して死にものぐるいで走った記憶がある。
悠長に並んでた記憶なんて全くないよ。 >>754
列は同じだったはず。
青森駅から連絡船に乗るときは、改札→ホーム→連絡船待合室だから青森発の客か接続列車の客かは区別できない。
列が何本かあったのは、先発便と次発便のそれぞれグリーン船室と普通船室の列じゃなかったかな? >>757
追悼記帳
9月26日は台風の特異日、だったかな、
こちらでは伊勢湾台風になるが。
先日の関空もだが、走錨しだすと何ともならんのだろうなあ。 婆さんの姉が洞爺丸。爺さんがハガキを50枚出して青函トンネルの試乗会の1番列車に当たって乗った。 何度も洞爺丸の模型を使って、当時と同じ波浪を再現した波でやっても座礁してしまう。
座礁後、左側から波を食らわした後、右舷のビルジキールが水槽の底に接触して、復元力を失って転覆する様子。
図書館で読んだ青函連絡船洞爺丸事故についての本から。
船舶は、起き上がりこぼしの原理で、ちょっとくらいなら傾いても元に戻ろうとする。
だが、傾きがある限度を超すと、復元力が効かなくなり転覆してしまう。
特に重心が高い船の方がちょっとした傾きでも転覆しやすいということがわかってきている。 >>745
だから、机の上での計算や理論だけでは、十分に求めることはできない。
電気配線だってそうである。
電気配線をシミュレーションするソフトウェアだってある。
リンク
「シーカー修正機を使って、デタラメに書いた電気配線の回路図を
修正した結果、きちんとしすぎて、何が何だか分からない…。」 洞爺丸台風に伊勢湾台風に
9月の末ってのがな
運よく助かっても寒くて凍え死にそう >>762
それは『座礁してしまう』ではなく『座礁するだけで転覆には至らなかった』ないかな?
そこで流砂を模すために毛布を沈めたら、ようやくビルジが引っ掛かって船体が倒れたという結果。
積載貨車が倒れたのも傾斜にトドメを刺した。 >>765
重量級の寝台車マイネフ38が船内で横転したとか? 車両甲板には横転するスペースはないよ。
すぐ壁にぶつかる。傾く程度。 >>767
傾いたいるだけとはいえ、固定具が切れるほどの状況ならば、車体の重量は殆どが
壁に掛かっている状態で、それが船を横転させる方向へ押す力になる。
だから、視覚的には傾いているだけでも、力学的には「倒れた」と言える状況。 あおもーりー あおもーりー
あおもーりー あおもーりー お疲れ様でした 終着 あおもりです
駅出口は 到着した列車の 後ろの方向です
(この間に連絡列車の案内 奥羽線 津軽線など)
北海道方面 連絡船にご乗船の方は
到着した列車の前の方向にお進みください
今度の連絡線は ○時○分 出航 ○○丸です >>766
ナ・・・・
オ・・・・重い
ス・・・・・すごく重い
マ・・・・・ますます重い
カ・・・・・・・かなり重い
だっけ?
貨車のムラサキと違って覚えにくい >>771
コホナオスマカ
コは小型車?
ホはボギー? >>765
生き残った元乗組員の中には、貨車緊締具の鎖が切れる音を聞いたと言っていたな…。
緊締具は、貨車がずり落ちないように留めるための鎖やワイヤー。
宇高航路では、気象・海象が穏やかで、かつ航海時間も短いので、
よほど荒れない限りは貨車緊締具の出番は無かった。 船の揺れで貨車が脱線しないよう車止めに連結器とブレーキホースがあったんだな
ブレーキを掛けておいて車両をロックさせることが出来るが電気指令式ブレーキは間にブレーキ読み替え装置積んだ控車を入れない限り使えない
電気指令式ブレーキ車を航走した事例を聞かない >>754 >>755 >>756
特急列車からの接続客には車内でマルトク(〇の中に特の文字)の名簿が
あらかじめ配られていて、それ以外の客よりも優先的に乗船できた。
マルトク以外に接続列車の指定券を持っている客も優先された。
すべての便で適用されていたかはわからないが、多客期に混み合う深夜便で
桟橋で乗船を待つ列をしり目にマルトクの名簿で優先的に乗船したことがある。 >>776
そうだよなぁ
接続列車から跨線橋走って、通称「桟敷」確保した思い出がある そりゃ仮にも連絡船なんだから、接続列車の指定とってるのに満員で乗船できませんとはいかないだろ。 「しらゆき」から連絡船で北海道に渡ったけど、
「はつかり」「みちのく」「白鳥」の客が優先だったなあ。
こちらの行列を尻目にさっさと乗船していった。
目的の便に乗れるかヒヤヒヤだった。 昭和50年代以降は、満員なんて年末年始と5月連休前半の特定日のほかは、、終航間際くらいしかなかった。
あとは客室はガラガラで空気運んでた。
もっとも、青函連絡船は貨物が重要で、旅客はついでみたいなものだったけど・・・。 >>778
青森までの列車が普通列車なら満員の場合は後回しになったはず
その場合、乗車券類有効期限を一日延長と接続列車の指定席変更は手数料なし(満席の場合はグリーンにしてくれたが、あくまでも特例) 今でもそうだろうが、青函間だけの旅客需要なんて少数だろうから、優先度は低くて当たり前だったのだろう。 距離と時間が長いせいか「東京からのお客(さん付け無し)がいちばんエライ!」というヒエラルキーがあからさまだよな。
宇高連絡船には優先権どうこうは無かったのにね。 昭和40年代迄の栄光の時代ではあるなぁ
外廊下で寝てた担ぎ屋のおばちゃんなんかは空いてる便(早朝以降の)乗ってたて事か 担ぎ屋家業からして朝市で仕入れて昼に行商するんだろうが、朝の便は夜行接続で混んでいそう。
廃止前の昼前便しか乗ったことないから知らんが。 朝の便はそんなに混まない。
やっぱり混むのは真夜中に出て早朝に着く11便、1便、12便、2便。
その深夜便も、最後の頃は常時客扱は1便、2便だけになっちゃってたよね。 末期改造船の石狩丸・檜山丸も乗って見たけど、旅客サービスが少なくなってたのが寂しかったね。まあ客数も減ったし、食堂や寝台がなくても仕方なかった。
シャワーはあったよね 船楼甲板の自動車格納庫の船首側、弘済会の部屋のとなりだっけ? 35年位前、夏休みアルバイトしてたな。売店食堂で。 >>790
弘済会って、乗組員の組別とか交代とまったくちがうんでしょ? 乗組員の勤務はわからないけど、弘済会は2往復と3往復の2パターンだったよ。
ちなみに乗組員の食事は弘済会の職員が作っていた。 【世界教師マ@トレーヤ】 ニート親子共倒れ、トレーダーはビルから投身自殺、貧富ダブルノックアウト
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539828384/l50
株式をギャンブルにして企業経営を不安定にして失業者を増やした投機家は、その報いを間もなくうける! >>784
宇高の場合は乗船時間が短いのと通勤通学需要もあったからね >>784
八戸からだろうが博多からだろうが同じだぞ ゆうづるから乗り継ぎで、まずやることはシャワーを浴びてそのあと食堂で海峡ラーメン味噌味を食べると北海道へのテンションが上がるんだよな
それからは座敷で雑魚寝 寝台で寝て、連絡船で寝て、、、
合間は食って、、、
まさかゆうづるはグリーン席じゃねえだろうし。 寝台車のグリーン車は謎だった
寝台券取れなくて、乗った事あるけど 船の中ってリクライニングシートか畳で雑魚寝じゃ無かった? 俺は津軽丸型しか知らんがさすがカーペットだったぞ
グリーンと普通桟敷の違いがいまいちわからん、面積とかあるんだろうな、きっと >>801
上のレスに毛足が長かったってあったぞ。 普通座席とグリーン自由座席は、確かひとりあたりの面積が違ったはずだ。
カーペットが違うのと、あと、たしかチャチな枕があったのでは? マージャン室みたいなのあったよね、娯楽室みたいなの。 「我が良き船よ」
1番
♪銅鑼を鳴らして 奴が出る〜 腹に貨物を 積み込んで〜
北の旅情がしみ込んだぁ〜 乗船名簿を手にもって
あぁああー 青函連絡船 おまえ今頃 あの海の上で
俺とおんなじ あの波見つめて なに思う〜
2番
♪旅のあの娘に声かけしては どこに泊まるのあのYH(ユース)?
語り明かせば函館の 灯火(ともしび)迎えにやってくる
あぁああー 青函連絡船 旅の始まり明日はどこの地
道内線路を 乗り歩きながら 旅をするー 4月、深夜なのに青森出航間もなく桟敷席窓の外にはイルカが並走、程なくそれも暗く見えなくなって寝てしまった イルカの伴走ってどういう習性なんだろうね?
陸奥湾の棲息研究はされてるけど、群れをなしてフネに近づくのは排除の威嚇行動なのかな。 イルカのマークは昭和50年代以降かねぇ
今見ても秀逸ですな 各船のイラストマーク、船員さんが描いたものだったいうことを、先日出た道新刊の本で初めて知った。
黒岩さん的な人が他にも居たんだね。 あ、Jトレだったかな。
同じ頃に買って読んだからごっちゃになってる。多分Jトレだ。 >>814
クマさんのマークのが可愛かったね 大雪丸だっけか 四つ葉牛乳売ってたなー エントランスに自販機あった。 おお そう言えば函館の桟橋でお酒注文したらおばちゃんが一杯だけ酌してくれたのはビックリ >>816
クマって猛獣なのに可愛いイメージ
子グマから飼うと人に慣れるらしい 犬(オオカミ)でも、ライオンでも、ウシでも、馬でも、キツネでも、鳥でも、小さい頃からずっと(特に親や仲間と離して)育てれば馴れるもんだ。馴れた親と一緒なら野生より人間との距離は近くなるけど。
ちなみにアイヌがイヨマンテ(っつったっけ?)で使う熊は、子熊の時から人間と一緒に育った馴れた熊な。野生ではない。
ところで、グリーンと普通は乗船口が違ったと記憶しているけど、中入れば繋がってるでしょ?
あれ、グリーン持ってたら普通乗船口から乗ってもおkだったの? >>823
とくに問題なく、普通乗船口入ってすぐの階段上ればグリーン。
グリーンのタラップは出航5分前で上げてしまうから、それ以降に乗ろうとすれば寝台客もグリーン客も普通船室の舷門から入ることになる。
>>824
船内の牛乳は自販機で、最後の頃は四角パックだった。 北海道から帰る時に台風か何かで大幅に遅れて寝台
発車してしまい 青森で旧客のグリーン車だけの特別列車で上野まで帰った記憶が。おそらく1970年前後。連絡船が満席で階段に座っていた記憶もある。 そういう国鉄の良さ、サービスにどれだけの経費がかかっていたか。
乗客数は前の列車に乗れなかった人だから収入的には0だし、乗務員の手配、余計な列車が走ることによる、わずかではあろうが車輌や線路への負担、リネン類の交換。もちろん折りかえしは空で回送だろうし。
国鉄魂を感じるね。
当事者でなければ、それを放漫経営だと言うヤツもいるんだろうけど。 まあでも今なら大体交通機関もあるし、宿泊施設も充実してるけれど
当時はそうじゃないから国鉄が始末つけるしかなかったという事情があると思うよ
連絡船が満席だったわけで、それだけの客が青森駅に滞留したら大パニックだわな
国鉄魂とかはあまり関係ないと思うよ
JRになってからも青森や秋田の雪で白鳥が運休だっやりすると
富山あたりから救済臨出したりしてたじゃん 話が脱線するけど 用意された車両は
確かスロ62 で座席の下の一段高いヒーターが夏なのに熱くて
お土産が暖かくなった記憶が。
巨大な座席灯が印象的だったなー
払い戻した特急と寝台料金は上野に迎えに来た親がしっかりと没収しました。(全部グリーンで親もおったまげてた) >>829
自車発電機の真上だったとか?
いわば“キロ”の始まりだものねぇ。
全車両Gというと見た目にはお座敷列車っぽいな。 もしも、翔鳳丸、飛鸞丸が生き残っており、洞爺丸台風級の大荒れに見舞われたら…。
北見丸、日高丸のような海難事故に陥っていただろう。
※翔鳳丸の車両甲板後部開口部は広いため、荒波が打ち付けると、一気に海水が入る。 眼下に下北半島、当機は着陸体制に入りますとアナウンス
船に揺られていた時代はゆるかったのか長時間耐えていたのか、飛行機だと大切な儀式を忘れた気になるな 私も函館に行くときは100%飛行機になってしまったな。
下り便で東向きにおりるときなど、青森から津軽海峡をそのまま北上してくれるときもある。
函館発の上り便は秋田のほうに向かってしまうのでいまいちおもしろくないが。 >>818
この講演会って一元さんでも行ける感じ?
常連さんばかりで初めての人が入りにくい雰囲気はない? 3日に青森駅へ行ってきた。八甲田丸は休館だったけど青空の中で静かに佇んで津軽海峡を見つめている姿に感動した。 すっかり変わってしまって駅周辺だけど、青函連絡船が運航していた時とそのままだったものの一つがあった。
「あ お も り 駅」とひらがなで書かれた本屋の上の駅名板‥‥。 あの頃はその横にサンポットだったかの暖房ボイラーの宣伝板があったっけ。
ガランとした駅のホームはやはり寂しかったけど。 >>836
往時の賑わいは無いからな
青森駅からフェリー出す訳に行かんのかねぇ >>837
ベイブリッジの下をくぐれんだろう?
いずれにしても、トラックとかがあそこまで乗り入れるのはちょっと… むしろアプローチ道路が無いから。
大トラやトレーラーが国道から街中を昼夜とわず通られたらタイヘン。 まぁ、もともと何もない所に町を造ったようなものでしたからねぇ。 かと言って、弘前が栄えるかと言うと
まぁ、他の街より寂れてないがって程度 道民からすると通過点な青森函館
函館はサブ北島GLAYだが青森は誰だろう 淡谷のり子、吉幾三、田中義剛(評判悪い)辺りか
青森市内に記念館とか無いんでは
函館以外、都市が無い道南と
それなりに人口が分散してる青森じゃ違うだろう そう考えるともうチョイ栄えてても罰は当たらないと思うんだよね > 青森
なんなんだろうな >>846
>そう考えると
どう考えたんだ?
本州の果てだから仕方がないよ
山口だってあんなもんだし >>844
青森、函館はすでに通過点ですらなくて、飛び越し点。 >>845
>淡谷のり子、吉幾三、田中義剛
南部出身のキャラメルヤクザを混ぜるなと津軽人の怒りの声が聞こえる 生還連絡船が現役のころはゆく年くる年の中継現場として使われてたよな、青森駅 雪の青森駅は、年越しの良い絵になっただろう
横浜港みたいに、年越しの汽笛鳴らしたんだろうか でも、青森港だったら00時05分に長声二発、00時10分に長声一発が聞けたはず。 写真集に船上からの初日の出とサロンに置かれた鏡餅のものがあったのが印象的だなあ ブリッジの操舵スタンドの脇か、海図台にも鏡餅が置かれてた。
終航間際の頃は見なかったが、以前は船によっては古株のクオーターマスターがするめを
上手にドライヤーであぶって伊勢海老の供え飾りを作ったりしてたものだ。 大晦日、元旦を含む年末年始は、全部走るのは乙便だけ、甲便、丙便は沖泊で間引き、
貨物船も沖泊。走る船も空船ばかり。
客便は普段と変わらず、しいて言えば船内放送が大晦日、元旦に合わせてちょっとアレン
ジされるくらいか? 小型船で走行する
中型船や大型船は思うように動けないので、決して近づかない。
船舶は日本であっても基本は右側通行。
だから、大型船とすれ違う際には、お互いに右に舵をとって避ける。
46リンク+ ◆BotWjDdBWA 2018/07/25(水) 20:28:23.77ID:gG5bAjJV
栃木県からの接続でもRadiko.jpは東京判定になる…。
優れた地域判定ができるサイトなら、きちんと栃木県栃木市の判定になるのに、どこかがおかしいぞ…。
※Radiko.jpの地域判定の精度が糞仕様なだけかな?
IP アドレス:
106.73.238.65
ホストネーム:
M106073238065.v4.enabler.ne.jp
ドメイン
enabler.ne.jp
プロバイダー (ISP):
KDDI CORPORATION
国:
Japan (日本) - [ Wikipedia]
地域:
Tochigi (栃木県) - [Official Site] [ Wikipedia]
都市:
Tochigi
風力何メートルかの風が吹いていて多少揺れるかもしれませんがご安心ください、と言う船内アナウンスはちょっと怖かった。 安心して下さい
揺れませんよ
って言ってほしいよね 退職して年齢を重ねた
青函連絡船乗組員だった方々は、
函館や青森の市内に固まって住んでおられるのだろうか?
彼らが通う居酒屋なんかで話を聞いてみたい気がする。 青森にはほとんどいないな。
青函連絡船の本拠は函館で、現役時、みんな函館に住んでたから。
青森にいるのは、青森出身で実家に帰った人だけでしょう。 50系な。
当初は旧客を駆逐した悪役だったのに、50系さえ懐かしい愛おしい。 >>870
俺八甲田接続のしか乗ったことないから海峡は100パー14系座席車 奥羽本線の各駅
今は電車なんだな
スマンが鉄分低いので細かい事分からん
東北本線の廃線後歩いたけど、あれもよう分からんかった
昔乗った夜行は、彼処を走ってたって事なのか >>871
50系以外の海峡があるなんて廃止されてから知った。かなり鉄道から離れていたからだけど。 >>872
去年、東武の「SL大樹」で乗った。
懐かしさで涙が出そうだった。 50系=タラコ色の列車
14系=ブルートレイン
個人的には「海峡」はブルートレインのイメージ
車内販売があった >>870
その50系を駆逐したにっくき仇が701系 それがさ、今の若い鉄ヲタって、701に萌えているんだよな。 >>868
青函船舶鉄道管理局が函館にあったからな ニセコや利尻で頑張った車両がまだ走ってるんだな感>14系海峡
トンネル位置表示がなくて少しつまらん 船籍港は、国鉄時代は「東京」でJR化後は「函館」でしょう。 ガキの頃は帰省時に宇高連絡船によく乗ったが、あの1時間ですら長く感じてた。
青函って4時間だっけ?想像を絶するよね。子供には地獄だっただろう。 1986年の夏休みに青春18きっぷで青森〜函館間を4日間くらい連日2往復(深夜便の
船中泊含む)して殆ど船内で過ごしていたのが懐かしい。当時は大学2年生だったが
青函連絡船に乗る事が目的の旅だったけど当時がなつかしい。 連絡船のコインシャワーが懐かしい。
フリチンになって、そして・・・みんなやっただろう! 子供には4時間は長い
特に、ほぼ水平線しか見えない時間帯 深夜便は桟敷(席だってね)で横になって放送が流れたらもう対岸て感じ
昼間は後部デッキのベンチでぼやっとハの字の航跡眺めてて長く感じた 初めて青函連絡船に乗ったのは1975年高校二年生に訪れた修学旅行の北海道だったが、
青森早朝到着の「ゆうづる1号」で接続便が八甲田丸だった。9月下旬の台風シーズンで
青函連絡船は陸奥湾から津軽海峡に入ると時化の影響を受けて船は動揺、キヨスク売店の
お土産は崩れて売店はシャッターを閉めて閉店。それでも当時は船と言えば湖の観光船・
久里浜〜金谷や川崎〜木更津のフェリーしか乗ってないため、青函連絡船のような大型船に
乗るのは初めてなので珍しくて船内探検して席には一度も座らなかった。
帰路は大雪丸利用で食堂の利用も自由だったため、グリル大雪でラーメンを食べてから
サロン海峡で珈琲を飲むという当時の高校生にとっては破格の出費でしたが、いい想い出に
なりました。
自分は北海道に行く時は学生時代は急行八甲田や社会人になると寝台特急ゆうづる・
はくつる利用が多く帰路もそれらの接続で移動したため、深夜便の乗船回数が少なく、
1985年から3回しか乗船機会がなくてそれが心残り。 昭和から平成になる直前の昭和62年に国鉄はJRになり、そして昭和63年に青函トンネルと瀬戸大橋が開通して
北海道と四国が地続きになって寝台列車が直通するようになったんだったな。そして青函・宇高の両連絡船も廃止になった。
その翌年に昭和が終わり平成に。本・島直通寝台列車の瀬戸、北斗星、トワイライトエクスプレスは平成の鉄道の象徴だったが、
青函直通寝台列車は平成と共に役目を終え、次の新時代まで残ったのはサンライズとなった瀬戸(出雲)だけ。
新時代に生き残る寝台列車が日本でこの1つだけになるとはな・・。 >>897
俺は北海道方面も含めて、寝台特急は思ったより長生きできたと思ってるけど。
九州ブルトレが21世紀を迎えられるとは思ってなかったし、北斗星やトワイライトも
90年代の間に新車にならなかったことで、2010年代まで持つとは思ってなかった。
サンライズは、瀬戸より出雲の方が廃止できないのだろうなと思って見てる。 上野駅からゆうづるorはくつるに乗り、青森駅で青函連絡船に乗船。
函館駅からおおぞらorおおとりor北斗に乗るのが当時の定番だった。
北海道から東京に向かうときはその逆。
当時がなつかしい。 >>904
自分は貧乏だったので八甲田or十和田から連絡船、函館からはニセコだったな。
就職で札幌から東京に移り住んでからは帰省に道南ワイドが使えるので道内は特急に乗ったが。 >>905
俺はもっと貧乏だったので、18きっぷ片手に上野を朝イチの黒磯行き普通列車で
出発して、鈍行乗り継いで夜に青森に到着して101便か1便に乗ってたな。
でも後で計算したら、道内で夜行だけ急行に乗ったり、友人と2冊目の18きっぷ
を共同購入したりして、ワイド周遊券での旅より金が掛かっていたことが判明…。 思い出はプライスレス、とかカッコいい事言ってみるテスト 北海道は周遊券だったな。夜行急行多かったし。青函連絡船乗りに行くときは18切符だったけど
黒磯発一ノ関行の旧客あったよな。上野555発使って全部旧客で青森まで行ったこともあった >>907
思い出はいつも綺麗だけど、それだけじゃお腹が空くよな >>904
はくつる ゆうづる 顔が良かったよね
月光も同じ顔してた おいおいなんだか貧乏なやつばっかだな。
おれは北海道に行くときも東京にもどるときも飛行機だった。
ダグラスDC-8かボーイング727のどっちかだったな。
もちろんスカイメイトだけどね。 >>902
基地が西出雲だしどうしても片方消すなら瀬戸だけどね >>914
YS11は鹿児島発与論行きに乗った。
台風が近づいてる時で凄い揺れたよ。 >>917
どういたしまして。お役に立てて何よりです。
青函連絡船、それに接続するJNRもことでわからないことがあれば何なりとご質問してください。
このスレの連中は雑魚ばかりなので、私は今後も正しい青函連絡船やJNRの実話をお話していくつもりです。
ご愛読よろしくお願いいたします。 何せ、ちょっと 渡道して 乗っただけの異邦人、なんで
YSは羽田ー三宅島で乗った、台湾からの買い戻し機だった 今更ながら青函連絡船について学ぶ為の書籍を探しているのですが、
JR北海道の"青函連絡船 栄光の航跡"は最適でしょうか
他におすすめ書籍がありましたら、ご教示いただければ幸いです >>921
青函連絡船ものがたりはどうでしょうか。
宮脇俊三の文、黒岩保美さんの絵で、
子供でも分かりやすく紹介されています。
復刊ドットコムにまだ在庫があると思います。 すみません調べたら在庫切れになっていました。
Amazonや福音館書店にも復刊の在庫は無いようです。 >922-923
ご丁寧にありがとうございます
調べたら図書館に蔵書がありましたので、今度拝見してみます >>921
坂本幸四郎著「青函連絡船」が良いかと思います。
今ならヤフオクで出品ありますよ。
あとはインターネット上に勉強になるサイトがいくつかありますよ。
個人運営のサイトなのでリンクは貼りませんが。
「青函連絡船 歴史」で検索してみると良いかと。 >>925
書籍に限らずネット上でも情報収集してみます
ご教示くださりありがとうございました 年史だと、
航路沿革史(S14・30年)
五十年史(S32・50年)
青函連絡船史(S45・60年)
航跡(S53・70年)
栄光の航跡(S63・80年)
と、だいたい10年ごとに出ています。
中には入手困難なものもありますが、一般に販売されてた栄光の航跡あたりが入手しやすく
無難なように思います。
ネット上のものは、かなり思い込みによる間違いが多く、内容もこれらの本、あるいは上前純
一郎「洞爺丸はなぜ沈んだか」あたりの受け売りが多く、本で読まれたほうが確かです。 また2時過ぎだ、北海は指定だから焦らず函館までもう一眠り
船乗りさんありがとう トンネル開通記念式典を複雑な眼差しで見つめる関係者の姿が忘れられない
開業すれば自分達の仕事がなくなるから手放しで喜べない事くらいは子供心にもわかったのだ 青函トンネル開業日が青函連絡船の最終日だった。
青函トンネル一番列車に乗って、青函連絡船の最終便に同じ日に乗れた。
なぜこうなったんだろうね? >>932
不測の事態に備える意味合いもあったろうね。
全国の鉄道は繋がっているという意識はまだ残っていた。
今ならトラブルあっても「不通ですから」のひと言(他人事)で終了。
まあ、開業直前まで使っていた青森の控車とかを函館に回収する必要もあったんだけど、どうせ臨時便出すなら当日なら乗せた方が少しは稼げるし。 >>932-933
なるほどそういうことだったのか。
納得しました。 最終日、「臨時便」と言ってたものもすべて最初から計画運航で、
特別に走ったわけでもなんでもなかったんだが・・・ 青函連絡船での自動車航送は1988.3.13の前日くらいで打ち切ったんだっけ? オークションに出てくる青函連絡船の日誌類って、なんで八甲田丸のものばかりなんだろう。
八甲田丸から流出してるのかな? 今まで大事に保管していた元乗組員が亡くなったとか… 今日の朝の連ドラ「なつぞら」見た奴、ここにいるか?
昭和29年代末か30年代初頭の時代に、十勝地方に午後にいる人が
「今からここを出て、明日の朝一番の連絡船に乗る」のは不可能だと
思うのだが…。 >>943
昭和33年10月改正時のダイヤだと、準急狩勝〜アカシアで帯広1551→函館613というのがありますね。
でもそれ以前だとどうですかね… 406レ
帯広発12時台になるけど
戦前から朝一の青函連絡船に間に合っていたよ
帯広発15時台で間に合う様になったのは
1955年(昭和30年)から
https://i.imgur.com/efeWe6Z.jpg
https://i.imgur.com/n4DHNgS.jpg 調べていただき、ありがとうございます。
調べ直したら、該当シーンは昭和30年の設定なので、>>945氏の言うように
ギリギリ可能ですね。
だけど、物語の展開を見ていると該当シーンはもっと遅い時間と思う。
登場人物の一人が東京から主人公を訪ねて十勝の農場にやってきて、用件
を済ませてその日のうちにお暇するという内容だから。
農場が十勝の何処なのかという問題もあるし(帯広近郊らしいが)。 北海道を関東一都六県くらいのスケールに考えてるんだろうね。
津軽海峡(大間〜戸井)を手漕ぎ舟で渡る小説もあったくらいだし。
坂本幸四郎さんの著書で荒唐無稽さを検証する章は面白かった。 >>950
函館から大間にある家々が見えるんだっけ。
坂本さんの著書を読む前に「ありえねー」って思ったよ。
現地見ないで書いちゃったんだろうな。
それが映画になるほどのヒット作になっちゃったと。
まぁ、推理小説なんて無理や無茶がないと成立しないから。 >>951
『大間の自宅から対岸の屋根が…』だったかな。
作者は後書きかインタビューかなんかで「地図を眺めて創作意欲を掻き立てた」という。
これについて坂本さんが「●●氏が見た地図スケールはいくつなのか気になる」という突っ込みかつイヤミも痛烈でしたな。
関東でたとえれば海ほたるから木更津市街の家並みを肉眼で眺める…それより距離があるわけで。 とりあえず松前藩の舟は渡ってたんだろうけど
厳しい海峡なのは違いない、マグロが鍛えられる位の海だ 「飢餓海峡」の設定も台風の中小舟で海峡越えたんだしなあ。 問題は、洞爺丸のセットを使って、荒波のシーンを作れるかどうか…。
日本の映画のことだから、どうせ、今市な映画に決まっている。
機関室に大量の海水が侵入して、蒸気タービンが焼き付きで停止するシーンとか…。
洞爺丸の資料に基づいた再現ができるかどうか…。
じゃ、アニメで再現してみるか…。
ギンコ
「左エンジンの蒸気圧を落とすな!エンジンを止めるな!」
その後、苦しそうな音を立てながら振動していた左エンジンが煙を上げて止まってしまった。
リンクは「右エンジンは大丈夫か」と聞いてきたが、そのうちに右エンジンも煙を上げて止まってしまったという。 循環水ポンプの電動機が冠水したため、左発電機が故障し、その結果、
左エンジンの潤滑や冷却がうまく行かなくなり、故障に陥ったわけだ。
自動車のエンジンで言うなら、ラジエーターが故障してオーバーヒートで焼き付きを起こすようなもの。 90年代頃に、NHKのテレビドラマで洞爺丸事故シーンが
あったって聞いたことがあるけど…。
当時テレビを全然見てなかったからよく分からない。 エンジンの無い小舟で北海道から青森へ渡る場合
潮流で流されるの想定して、松前から下北半島目指せば可能なんでは
実際にやってみないと、何とも言えないけど
上手く潮流に乗れば、殆ど漕がずに対岸に着ける
…様な気がする 干満のタイミングによって海流も変わるから、速ければ太平洋へ流れてしまうし遅ければゆるゆると下北へ漂着するのもありえる。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 >>964
晩年は続航していたのは甲便、乙便だけで、丙便のあとに貨物船が続航していたのは昭和50年代後半まで。 最盛期最大30往復 昭和47年3月(定期28往復。貨物繁忙期に限り30往復)
昭和48年8月5日 旅客輸送超過のため、有川桟橋発着の津軽丸型使用の貨物便に旅客を乗船
(有川−函館間バス輸送。後にも先にもこの1日だけ。ちなみに最大2隻合計4往復あるけど使われた便は不明)
↓
25往復 昭和53年10月?
↓
21往復 昭和57年11月
↓
17往復 昭和59年2月 有川閉鎖
↓
0往復 昭和63年3月
↓
2往復 昭和63年6月3日
↓
0往復 昭和63年9月18日(終了) 青函連絡船の終航は昭和63年3月13日で、それ以降の暫定運航は「青函連絡船」には含まれんよ。 3月は定期運行の終了=メインの運輸機能の終了ではあった。
でもアンコール運航と呼ばれた暫定だろうと、れっきとしたクルーと地上要員の方々が最後の日まで事故も無く任務をまっとうされたのだよ。
「最後は3月の1回こっきり、それ以外は認めん」の価値観もけっこうだし、3月以後の記載がない年譜・通史の書籍も実際多い。
しかし自分は涙声と長い汽笛で青森に別れを告げた回航便の姿は、最後まで青函連絡船だったと考えている。
これからも。 まあ連絡船より海峡のが便利になったが海峡廃止に新幹線で不便になった
青函フェリーは車はじめ需要あるだろうか フェリーは絶対的に料金が安いから
地元の需要がある
新幹線は料金高いから、乗る人は限られる >>969
青函間ローカル客は、所要時間より価格で移動手段を選んでいるよ。
かなり以前からそういう層からは、青函トンネルは敬遠されている。
絶対数が少ないのは確かだが。 一方、本四備讃線は快速マリンライナー無双で高速バスはないとか まあ、
青函間の客 → フェリー
遠方から道内の客 → 飛行機
物好きか、新幹線に乗ることが目的の客 → 新幹線
この住み分けはかわらないだろう。 鉄道を使うことがかえって敷居の高い贅沢に感じるとはなんてことだ…。 昔、波が高く揺れた時に乗船したことがあり
船内風呂の湯が波打っていたことがある。
床で雑魚寝してたが船酔いしかけた。 >>975
それ、冬の日本海航路なら今でもごく普通に体験可能。 >>975
晩年の青函連絡船には旅客用の風呂はなかったんだが。 「床で雑魚寝」
突っ込むとしたら、こっちじゃなかろうか >>977
50年前の青函連絡船には、普通にあったと思う。たぶん
東日本フェリーだったかも。苫小牧ー仙台便も乗っていたからね。
>>978
当時は、A・Bベットのほか、座席シートと雑魚寝できる広間が
あってね毛布・まくらも常備されていた。
指定席は取らず広間か座席で寝ていたね。
深夜も津軽海峡観るのも良かった。 >>979
A・Bベット???
そんなものはなかったぞ!
あったのは、等級制の時代の1等寝台と
モノクラス後の「青函連絡船の寝台」だ。 青函連絡船はシャワーはあったど湯船は無かったと思う
床って言うか、通称「桟敷」で、正式名称はスレの上の方に出てた筈 蒸気船に浴室なんてあったとしても雑魚寝する三等客は近寄れもせんじゃろ。 >>979
50年前の青函連絡船に旅客用の浴室はありません。
浴室は船内に3カ所ありましたが、乗組員用で旅客は使えなかった。
旅客が使えたのは、3カ所あったシャワー室のみ。
寝台は1種類だけ、50年前だったら津軽丸型の客貨船だけにあった。
そのほかはグリーン指定席(椅子席のみ、旧1等)、グリーン自由席(椅子席、
座席(じゅうたん席)、旧2等)、普通船室(椅子席、座席)。
寝台以外は毛布なし。
まくらはグリーン座席にはあった。
50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
設備だった。
記憶にあるのは、青函連絡船ではなく苫仙間のフェリーでしょうね。 たとえ幼少期だろうと汽車旅行で乗ったフネと、大衆車で4or7号をはるばる走って乗ったカーフェリーか定かでないなんてあるのか。 >>983
>50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
>設備だった
そりゃあ長距離フェリーと比べたらそりゃそうよ >>986
長距離フェリーと比較するまでもなく、当時並走していた東日本フェリーと比べても
相当見劣りしてたんじゃない? 今、40歳ですが小学校3年の時に青函連絡船の復活運行で羊蹄丸に乗りました。
行きは北斗星6号。小樽から倶知安までc62 ニセコに乗って、函館から青函連絡船復活運行から583のはつかりで盛岡。
って旅程でした。今でも鮮明に覚えています。多分、僕らの世代が青函連絡船を知っている最期の世代なんだろうなぁ。 >>988
6号は上りなので、もし日暮れに上野を出た3本目なら5号かな?
数泊はしたのだろうけど話題の列車を盛り込んだ濃い旅程ですな。
夏休みのプラン立てたお父上(?)も最後の機会とリキ入れたんだろうねえ。
どうかその記憶や写真を大切にしていってください。 >>987
じゃないって言われてもな
具体的に比較してくれ このスレもアスパムが見えてきたな。
はい、翼角15度。 防波堤かわしてスターボード、1岸送迎場。
右舷後方からタグが追走。 >>971
但し冬季のフェリーは時化など気象海象面での問題もあるので、
冬場だけ新幹線を利用する客もいる。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 689日 15時間 47分 29秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。