なんという小型船の数だ。帆柱の数だ。機帆船、水や食料を売る小型ランチ、ポンポン船(焼き球ディーゼル機関の船)
後部に住居付きの古いハシケ、水上警察・巡視艇の白色の数隻が接岸し、沖をゆく貨物船とタグボート。岸壁に並ぶ
海岸の食堂から、うどんと、醤油味ちゃんぽんと、コショーの香りが広がる。その中、満杯の船をうまく避けながら、
市営の渡し船がこちらに向かう。海岸沿いの北の方向に石炭の山と、そこで健気に働く蒸気機関車、くんろく、D50,D60
の姿があったはず。その岸に、機帆船とポンポン船と、はしけ。
ずっと昔、若松港は大正14年ごろ、石炭運搬の帆船の数が35,000隻を数え、それを目撃した外国人に「驚いたな、欧州
の港を凌ぐマストの本数だ」と言わせた。それより前の明治時代は「川ひらた」という陸のダンプカーの様な、手漕ぎの
小さな川船が、筑豊炭田から下っていた。この石炭運搬用の川船、別名「五平太」(ごへいた)は、最盛時に9000隻が遠賀川
を上下していた。この若松港は、帆柱数、世界一、船頭も多く、そして石炭積み出し量が日本一となった。私は幼児ではあったが
その、船多き時代のその終わりの部分を見た。そして、その次に蒸気機関車の黄金時代が到来する。「くんろく」や、D50、D60が、
逆三角形の石炭貨物車を引いて走り回る。