大正時代の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
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令和になってまだ1年たたないのにコロナとはまいったね。 まあ、日本だけではなく世界規模だからね。
元号が悪いわけではないと思うけど・・・
ちなみにスペイン風邪は対象7〜9だったね。 関東大震災も大正時代。
歴史だ繰り返さなければよいが・・・ 地震の後東京の大学に通いおるスエオを探しに九州から3回行ったが見つからんかった。 スエオは姉の孫での、中央法科で司法試験目指して勉強しよったんだがの、
震災で焼け出されるかして消息がつかめんごつなっった。
当時56歳でまだ若かったき3度東京へ探しに行ったばってんが
どげなったかよう分からんうちにある朝真っ黒の乞食が坂上がって
うちに来よってな、誰かと思ったらスエオじゃった。 >>189
大変な状況だったようだけど、とにかく無事でよかったね。 >>189
その時代は司法試験という呼び名じゃなかったのよ
高等試験司法科
>>190
153歳な訳ないしw おおそいじゃった、お若いのようご存知じゃの。当時は関門トンネルも
出来ちょらんかったき、門司と下関は船で渡とった。門司ちゅうても
その後の門司港での、その後の門司港はその時は大里ちゅうとった。
スエオは七人兄弟の末っ子の男だからスエオでの、生まれる前は7人も
食わしきらんでおろせおろせ言われちょったが、姉の娘はおろしきらんで
産みよってな、所が面白いもんでそういう子ほど天才になるもんで、
無事に試験に通って弁護士になりよった。満州鉄道の重役の娘を
嫁にもらい緒方竹虎の知己も得て次は小倉市長かと言う昭和20年に
小倉の空襲で、よりにもよって焼夷弾が避難していた防空壕の穴に
すっぽり落ちて妻子諸共肉片になって電信柱まで飛んでしもうた。 おおすまん、孫の手を借りて書きよるき間違えたわい。
その後の門司は当時は大里じゃ。
しかしすえおは生い立ちから震災から空襲から何処か不遇な人生
やったなと思うと不憫でならぬ。昭和30年まで生きたオレが代わって
やりたかったとも思うとです。 >>192
昭和20年
父母が若松と門司に住んでいた
小倉は原爆投下候補地になって
1945年、焼夷弾空襲から外されていた筈 >>197
それ、wikiに書いてあるけど他に資料ある?
小倉原爆投下について、8/9に小倉投下に断念して長崎に投下した訳だが
1945年には小倉に空襲しない命令が出ていた記述がある >>198
>それ、wikiに書いてあるけど他に資料ある?
ない
これもWikipedia情報ですまんが
>1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された
と書いてあるぞ >>199
除外は原爆投下についてではないですか?
原爆投下候補地から除外、但し空襲禁止は継続する 小倉爆撃禁止が出ていたと記載
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/arsenalkokurafile/dropfile/drop.html >>200
この時に京都に変わって小倉が目標地点に追加されたんだよ
つまり小倉の爆撃禁止はこの時点から >>202
wikiから転載するけど、
1945年6月30日
「原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。」
北九州市の広報でも
1945年 3月27日の小倉大空襲なんて無いんだよ。(1945年3月27日小倉大空襲と記載があるのはwikiだけ、誰かが追記した?)
当時は 門司市、八幡市、小倉市、戸畑市、若松市 なんで各々に目標として設定される。
八幡、若松に比べて小倉は被害が少ないのは明らか >>203
6月13日までは小倉に関しては爆撃可だったんだよ
翌日に目標にされたんだから >>205
もともと192(昔の九州の鉄道スレの荒らし)が昭和20年の小倉空襲〜
(まぁ世迷事だろうが)書いたのに対して
書いたんだけどね
1945年、小倉市街は他の都市に比べて被害が少ないよ
人口は1940年国勢調査に依ると
小倉市173639人
門司市138997人
若松市88901人
戸畑市84260人
八幡市261309人 北九州市は合併する前は5つの市だったわけね。
八幡市は京都にあるけど、もし合併が行われなかったらほかの市名になってたのかな?
京八幡市かなって思う。
会津若松市は逆に若松市だったかもしれないね。 >>207
会津若松駅は
北九州市の若松駅があるから会津がついたんだよ
北九州の八幡は「やはた」読みが違うから、旧国名をつけなかったと思われます
伊予西条(広島の西条があるため)等、
JRになってから、そのあたりは徹底してきたよね お若いの、すまんの。空襲は昭和19年8月じゃ。孫が間違って書きよってな。
スエオ一家は犬を除いて防空壕の穴に待避したものでたまたまその穴に焼夷弾が落ちてバラバラになってな、皮肉な事に犬は一匹屋敷に残って無事でな、
主がおらん事なってくうくう鳴いとったという話じゃ。
不幸な事は続くもんでな、そのちいとも焼けもせんかった屋敷でスエオ一家の
葬儀を行ったんじゃが、喪主のスエオの兄トシハルがな、当時はすでに戦争で食い物も
だいぶなくなりよったんで葬式の時の料理の残りを食べての、
暑い時期じゃったんで食中毒になってこれもまた死によった。戦争でないときなら助かったんかも知れんが医者も薬も手薄になっちょったんやな。
オレはその後10年程生きとったんじゃが、最後は体も動けんごつなって、
大分婆さんに世話させて迷惑かけてしもうたんで、どうせそいなら、その時に
スエオかトシハルの身代わりになって死んでやれば良かったのにと思いよる。 >>208
>北九州の八幡は「やはた」読みが違うから、旧国名をつけなかったと思われます
読みは関係ない
文字で同じならアウト
福岡県遠賀郡八幡町が市制施行して八幡市になったのが1917年
合併で北九州市になって八幡市が消滅したのは1963年
この間の1954年に滋賀県蒲生郡八幡町・岡山村・金田村・桐原村・馬淵村が合併、市制施行したが
福岡県八幡市との重複を避けるために市名を旧国名付きの近江八幡市にした
やはたとはちまんだから読み方は別
京都府綴喜郡八幡町の市制施行は1977年でこの時点で他に八幡市は存在しないから改称することなく八幡市になった >>210
行政は北九州に八幡市が先に存在していたため、確かに音は関係ないと思う
(JRでは川内→薩摩川内)
近江八幡(旧名 八幡)と北九州の八幡
開業は滋賀の方が先
東海道本線(1889年)、鹿児島本線(1902年)だが、混乱を避けるため、1919年に近江八幡駅に改名している
理由として都市としての規模が全然違う
1920年当時
八幡町、都々城村、有智郷村
合算人口10876人
八幡市 (八幡市の人口は札幌市と同程度)
人口100235人
https://i.imgur.com/0tRKRaI.jpg
https://i.imgur.com/T2HE68v.jpg
https://i.imgur.com/mOmE6gO.jpg
https://i.imgur.com/J9Nzehc.jpg >>211
明治の頃の鉄道は他社との重複駅名あまり気にしてないよね >>212
明治時代は官営鉄道でないのが大半なので、
通しの切符とかあったのかな? >>213
官鉄八幡駅から山陽鉄道経由九鉄八幡駅までの切符だったら買えたんじゃないかと思うけどどうなんだろうね >>215
八幡駅の開業は1902年で国有化は1907年なので九州鉄道の八幡駅は5年弱の間存在してましたよ
通しの切符って連絡運輸の話ですよね?
運賃計算の話じゃなくて >>216
書き方が悪かったかな
当時の長距離は距離で降車駅が選択でき、関門海峡は汽船のため当然会社線が変わると運賃は起点キロから
八幡は優等の通らない1902年の戸畑線(海岸廻り)だったため
優等列車以外の九州の切符を関東、中部で購入出来るかは考えにくい
(旅行社手配の周遊券は別)
下関、または門司で九州鉄道の乗車券を購入したんじゃないかな さっきの地図(明治39年)
山陽鉄道の日韓汽船開航記事に
切符買い替えの手間なしとあるが、
これが鉄道だけなのか、韓国内の切符を指しているのかは不明
https://i.imgur.com/geBeUfD.jpg >>217
大蔵駅には優等停まりましたかね?
大蔵村の時代ですよね? >>218
ちゃんとその前に書いてあるじゃん
>又山陽線、九州線各駅及東海道線主要駅と京釜鉄道線との間に船車連絡通し切符を発売するが故
>途中切符買い替え手荷物預かり替えの面倒なし >>220
書いている意味が判りますか?
京城(ソウル)迄の通し切符は連絡船後開航後の話、国際線についての記載
215(明治32年)の二枚目の規約
(急行列車 神戸、三田尻間)
「但し官線と連絡の切符を所持せらるる乗客は右九駅〜」とあるので、連絡切符は有ったと思うが明確な資料は判りません
長距離は哩毎に運賃が変わる(切符が行先駅名表示なのか哩表示かは私には判りません)
明治39年の九州鉄道には優等ははしっていません(普通でも大蔵に停車しないものもある) >>221
>書いている意味が判りますか?
意味分からなかったら日本人じゃないレベルじゃん
そのまんまだよね
>京城(ソウル)迄の通し切符は連絡船後開航後の話、国際線についての記載
そりゃそうだよ当たり前じゃん
この人と話ししてると疲れるw >>221
>明治39年の九州鉄道には優等ははしっていません
だったら
>八幡は優等の通らない1902年の戸畑線(海岸廻り)だったため
これおかしくないか?
普通こう書かれていたら大蔵線には優等列車あったと普通は解釈するぞ >>223
何がしたいのか判らないが
資料のひとつ考え、
納得するものが有れば良いんじゃないの? >>224
>資料のひとつ考え、
>納得するものが有れば良いんじゃないの?
意味不明
何が言いたいの? >>222
ソウルのこと昔は京城って言ったんですね。 そう言えば100年前のスペイン風邪の時の車内でマスクつけませうの
ポスターは味わいがあるな。木造電車と思しき内装で乗客は和服、
だが黒いマスクが怖い。今のインフルエンザの祖先だから栄養衛生状態が
良くて暖房の効いたちゃんとした部屋で療養すれば治るものだった
らしいがな >>229
大蔵と八幡は別の場所
215の地図
戸畑と黒崎の間が八幡
大蔵廻りの時の八幡、戸畑の時刻表は見たことがない
海岸廻りは艦砲射撃の恐れが〜 >>232
今と比べてのんびりした感じがするね。
ロータリーが赴きあっていいね。 >>233
尾倉ロータリーは今でもあるよ
ちょい前に改修して車線とか変わってるけど >>234
まだあるんですね。
今度行ってみます。 >>235
クルマで行くならラウンドアバウトの通り方確認しとくといいよ >>236
アドバイスありがとうございます。
家の近所の駅にも小さいのはあるんだけど、大掛かりなのは未経験なので、
まごついて事故起こすことがないようにします。 ええと・・・
優先順位は、
1.ラウンドアバウトの出入口を横断する歩行者
2.ラウンドアバウトから流出する車両
3.ラウンドアバウト内を走る車両
4.ラウンドアバウトに流入する車両
だっけ?? 大正と言われて思い浮かぶのは
祖母:大正4年東京市生まれ
名鉄モ510:大正15年製造
丸窓電車に乗った時の感想は「ばあちゃんが尋常科の時の電車か」。 ごーめんねー♪ ロータリーの道と♪
また比べている〜♪
ってアラフィフ以上じゃねーと通じねーだろ! >>242 この数年後、昭和2年頃には19m級車体の新京阪P6や全金属製の東京地下鉄道1000形が出てるんだな。
15〜17m級半鋼製車体が主流だったが、転換期を迎えつつあったということか。
P6にしても構想、設計は大正末期から進められていたわけだし。 >>243
三浦祐太朗がカバーしてるし知ってる奴多いだろ
まあ通じなくても問題ないしなw >>242
ほんの20年位前まで普通に走ってたね。
琴電もそう。
車内に入って銘板見て大正の文字見た時はめまいがした。 ♪ 長さがちがう
♪木と鉄ちがう
♪重さがちがう〜
ごめんねー
大正の客車とぉ
今較べているぅ >>246
電装品や部品単位で見たら近年までつかわれてた会社もあったな、京津線の500型はハンドブレーキのハンドルだけデカイ年代物だった。
ってそれも20年以上前の話か ハァー 1067mmのゲージは日本の鉄道開通から今まで使われているね。 連結器が違う♪
ごめんねー
鎖の連結器とは連結器出来ないのぉ♪
ってクセになったじゃんよ。誰だ百恵持ち込んだ奴!
しかしどんな犠牲払っても大正時代に改軌出来なかったのかねえ。
シベリア鉄道の貨車とか見ると貨車のでかさの違うが国力の違いだと
感じられる。 そこはなぁ。
庶民宰相こと原敬の政権がが改軌よりも敷設拡大を優先したから。 中国とロシアを直通する列車は国境で台車交換するという。
タルゴタイプの台車にすれば時間短縮になりそう。 スペイン風邪の電車汽車の中ではマスクをしませう のポスターは室内が
木製ニス塗りなのと絵そのものに味があって何だか懐かしいねえ。
昔黒板にこういう絵をサラサラ書く先生がいたような気がするねえ。
懐かしいと同時に今日的話題、アップつうデートだねえ >>253 標準軌だから貨車が大きい、イギリスは?
標準軌化してもカーブや踏切の多い路線のままでは高速化できないし。 >>257
今更標準軌化することはないと思うけど、限界にあった車両を開発すればいいんじゃないの?
日本のミニ新幹線みたいに・・・ >>258 その回答の一つが振り子車や車体傾斜制御だろ 日本の鉄道もスリランカの鉄道ももともとイギリスの援助で作られたね。
なのにスリランカは1600mmより幅が広いゲージが使われている。
日本よりはるかに小さい国なのでナローゲージかなと考えていたが、以前旅行してびっくりした覚えがある。
日本も導入時に広軌にしていたらどうなっていただろうかと妄想する。 >>261 超広軌で大型車両の規格では参入しにくいので、軽便鉄道がもっと増える。
しかし、超広軌の国鉄との貨物連絡輸送が難しいのとバスやトラックに押され、軽便のローカル線は昭和初期から衰退し始める。
戦後はローカル線廃止が加速、地方の鉄道網は粗くなり超広軌の幹線しか残らなくなる。
スリランカがそんな感じでしょ >>262
確かにスリランカの鉄道はあまり有効に機能していない。
バスのほうが一般的だ。 >>264 瀬戸内行く汽船には勝てたけどね。
とは言え、旦那トンネルなどの長大トンネルはまだできてないから、難所を大きく迂回。 大正時代は15年と短く、関東大震災や、スペイン風邪に翻弄されたけど、それなりに
発展していたわけですね。 >>267
1901年(明治34)に八幡製鐵所が発足、それまでは輸入に頼っていたレールが国産化され、大正15年頃には国内自給率が6割程度に
レール敷設、輸送網の増強と、大正時代は目まぐるしかったんですよ 昭和といえば戦争、平成といえば災害、令和は天下泰平を願ったけど、いきなりコロナ禍とは・・・
早く収束してほしいね。 >>268
レールの国産化の影響は大きかったでしょうね。
それより古いレールの刻印には「カーネギー」とか書いてあるね。 以前古いレールを使った構築物を見るのが好きだった。
明治期のものとか見ると感激した。 古いレールの構築物って思いのほか残ってるね。
ほとんどが製造年70年以上は経過していると思う。
最古と最新の情報があったらほしいね。 小湊鉄道の養老渓谷駅近くの線路で1927年の刻印がはいっているのが現役で使われていた。
一応昭和だが2年だ。 駅まで9600を毎日見に行ったよなあ。
昭和49年。
何処の駅か当ててみてw >>274
9600は古いけど頑丈でパワーがあるから最後のほうまで残ったね。
昭和49年というと北海道か福岡かと思うけど、毎日見に行ったとの事から福岡の可能性が高いかな?
直方あたりかな? 羽沢横濱帝國大ステイシヨンから相模鐵道12000系が出発 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています