懐かしの鉄道車両メーカー [無断転載禁止]©2ch.net
帝国車両、大栄車輌など、
合併・倒産・事業譲渡のために
鉄道界から名前が消えた車両メーカーを懐かしむスレ 川崎は造船、車両、重工と三種類あってテツの入門当初は区別が分からず苦労したもんだ 戦前の私鉄車両(主に軌道)に鶴見木工製と何かの本に読んだ記憶が 大正時代後期の玉電1形に鶴見木工所製があるね。他に枝光鉄工所製なども。 枝光鉄工所は有名な印象がありますが、製造例はどこがあったでしょう? 略称がそれぞれ川造、川車、川重
既出だが他に日車東支、近車、帝車。
でも東急車両や武庫川車両、ナニワ工機は略されなかった アルミのナニワ
どう足掻いてもアナルなんかにならんでw >>156
加藤製作所、協三工業、日本輸送機、鉄道からほぼ足を洗って生きていっている。
まあ、一部は会社が併合されているが。 池貝は内燃機メーカーとして有名でしたが、今は中華系企業の傘下になりました。
昭和2,30年代の、
日之出車輌工業、大平車輌(三交サ100形)。
三候車輌、北陽車輌、六甲車輌(神戸市電900形)。
瑞穂工業(能勢電31,32,105)。
昭和車輌工業所(淡路モハ1005、1010,1011)。
といったメーカーもあまりよくわかりません。 もう半世紀前になるが、運輸省にいた叔父のつてで、汽車会社の南砂の工場を見学させてもらったことがある。
鉄道車両から橋梁などに主力を移そうとしていた頃だったが、制作中のEF66があった。
当時の金額で1両8000万と聞いたのを覚えている。 別に思い入れがあるわけではないが木南車両とかどうだろう?車両製作辞めて会社清算した後の後継(会社的な繋がりは全く無いが)法人が浜寺中央病院、これも最近どっか別の病院に吸収されて無くなったが…何故に車両製作から医療法人か解らない。 会社法で、登記簿の変更が12年間ないとみなし解散とされるので、清算会社や休眠会社の登記簿を売買するケースがあるが、
そういう例ではないだろうなあ? 野球中継で阪神の木浪の名前が出てくると木南車両を思い出す 声優の雨宮天の名前を見ると雨宮製作所を思い出しちゃう 木南ってくっつけると「楠」(くすのき)になる
社名もそのあたりに由来があるのでは、と妄想していたw 話変わるけど汽車製造が電車を受注したときに社名変更は考えなかったのかな >>174
豊田自動織機は自動車事業を開始してからの方が遥かに長いよな
現在ではフォークリフトなど物流関連機器が主力だったりするし
商号変更を複数回しているけど?相変わらず自動織機だし
1926、「株式会社豊田自動織機製作所」設立
1987、呼称を「とよだ」→「とよた」※漢字表記は変更なし
2001、「株式会社豊田自動織機製作所」→「株式会社豊田自動織機」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%87%AA%E5%8B%95%E7%B9%94%E6%A9%9F 豊田商事というのもあったな
トヨタとは全く関係ないが、ひところは日本中で知らない人はいないぐらいの超有名会社だった
(悪い意味で) 営団6000系を初めて見たとき、未来の電車って気がしたが、製造が汽車会社だったので
そのギャップに笑ってしまった。 確かに...「21世紀の電車」とも言われてたしな。 >>180
0系新幹線作ってる会社に何言ってんだよって感じだがな 社名は汽車ですが、汽車を作る会社じゃありません
みたいなコピーで就活生相手にPRしてそうじゃない? バナナ、ブレーキ、コットンティッシュに燃料電池
社名をどんどんハミ出します、日清紡
みたいなもんか >>178
川崎車両は川崎さん(本社は兵庫県で、神奈川県川崎市とは無関係) >>187
いわゆる神戸川崎財閥(松方コンツェルン)系の会社で東京川崎財閥とは無関係
川崎造船所を源流とする会社には川崎製鉄や川崎汽船などもある
そのほか神戸川崎系の流れをくむ会社には?
デイリースポーツを発行する神戸新聞社とか 枝光鉄工所なんてのもあったようだ
街中の零細鉄工所みたいな名前だw
受注実績は地元九軌や小倉電軌などはわずかで
京王や札幌市電など遠方が主力というのも面白い 八幡製鉄所工作部で1960年にSLが製造されている。
統計上は車両として計上されない機械扱いだけど、
観光用を除けば国内向け最終SLなのか、詳細がわからない。 >>190
どういう伝手で受注できたんだろうね
とても興味深い 昭和恐慌がなければ大正期の零細メーカーの勢力図が変わってただろうな
枝光がどうなってたか…… >>193
どうもならないよ
零細は所詮零細で終わる
下剋上などマボロシ 手塚車両、手塚製作所?出来はイマイチだったようだが 枝光と同様に九州で活動していたと思わわれる岡部鉄工所もよく分からないことが多い
ウィキペディアでも説明なし
ネット検索では福岡県で営業中の企業しか当たらない 大阪市今宮に工場があった日本電機車輛
大正9年に信貴生駒電気鉄道から
電車3両を受注するも経営破綻で閉鎖
鉄道会社が工場を引き継ぎ、
開業には電車完成を間に合わせた、とある
前金を受け取り、後は適当に着手してるふりをしただけで
トンズラをこくという手口は
今のように履行保証制度が整ってなければ
簡単にできたのだろうな 200(σ・∀・)σゲッツ!!
200キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
200(・∀・)イイ!! >>199
そんなに容易く製造を引継ぐことが出来たのか 逆に受注する側も、発注者に支払能力があるか不安があっただろう
リスク回避のために前金制もあるが納品までに全額払い込みに応じる発注者があるようには思えない 大正10年日本電気車輌製造の秋田市電100形は8年後に車体更新されている。
よほど手抜きした車両だったのだろう。
しかし東北にも販路があるぐらいだから、営業力に優れていたのかな。 帝国車両(→東急大阪→同和歌山工場→JTREC和歌山工場)の前身、梅鉢鉄工所。
南海浅香山駅近くに引き込み線跡の路地が残る。戦前に阪和線鳳に移転・帝車に改名。
ローカル鉄道向けの客貨車や路面電車を製造。
高野線で新車輸送したようだ。
スバルとは関係ない富士車両。
南海狭山駅に引き込み線の名残が残る。
工場跡地は比較的最近まで空き地だった。
主に大阪市電や貨車を作ってたようだが、国鉄では戦災復旧車の60,70系客車製造にも参入。
複線平坦線区間とはいえ、小型車しかいない当時の高野線で20m客車を新車輸送してたんだろうか。
現在は滋賀県に移転して別業種:http://www.fujicar.com/ 興国車輌は現在でも盛業中だね。
南海のイメージがあったけど、
今は正雀でおもに阪急の車両に携わっている。 1969昭和44年
東急車輛製造やアルナ工機など取引が拡大すると同じ時期に、南海電鉄からの受注が減少。
1969年(昭和44年)9月、東急車輛製造と取引開始。大阪府堺市鳳工場において新造車両の配線工事を施工。1970年(昭和45年)には南海電鉄からの受注が減少する。 造って十年もしないうちに更新工事を迫られるなんて余程の粗悪品だったのかな
昔はリコール制度なんてなく、とりあえず納車してしまえばこっちのもんみたいな考えかも >>202
当時からブローカーみたいなのが暗躍して支払保証させて着手に漕ぎ着けていたらしい
もちろん相応の額の手数料を取られる アフターサービスも大切だが
昔はそんは発想もなかったのかな 昔の鉄道雑誌に24系客車製造してますって
富士重工だかの広告よくあったよな。
直接宣伝効果はないけど、将来の技術者募集
の役にはなったかも >>210
古い私鉄車両めぐりとか読んでいると、小島栄次郎などのブローカーの
名前が出てくる。メーカーの体をなしてない個人商店状態 専業ではないけれど鉄道車両を手がけたメーカーとして、
最古参は創業元禄二年(1689年)の藤永田造船所になるのかな。
世界的に見ても古いと思うよ。スチーブンソンの蒸気機関車の125年前だ。 >>205
今の富士車両は産廃処理施設のプラントとかが主力らしいね
沿革見ると、滋賀に移転した頃には車両メーカーというよりは?
化工機(高圧タンク)メーカーや鋼材メーカーという感じだね
80年代半ばジャーナルの車両メーカー特集でも?
LPG高圧タンク関連が主力と紹介されてたし
以前、燃料業界やタクシー業界関連の出版物に富士車両の広告が掲載されてて
LPG充填所用やタンクローリー用のタンクが載ってた >>203
俺もそう思って法人検索サイトで見てみたがヒット無し
今この社名使ってる会社があったとしたら
先代がこんな潰れ方してるのを知るや否やすぐに改名したがるだろうなw 西鉄もメーカーを配下に置いてなかったっけ?
鉄道線500は新製こそ他社だが改造と廃車解体は西鉄産業の手で、とカラーブックスで読んだ 造船所が経営多角化のために電車受注に手を広げる…藤永田と川崎か >>221
九州車輌
1960年代に宮地岳線木造車の鋼体化や軌道線車両の製作とかを受注
新製車体は以下の通り
・300形(福岡市内線→北九州線)※準新車
・1000形(北九州線)
・331形(北方線)
親会社のコスト削減策で一部の車体を回されてた感じ
車両一式丸ごと大手メーカーへ発注するよりも割安だったとか なかなか豪華な顔ぶれね
路面電車車体専門メーカーとして生きる道もあったのでは 九州拠点だから何かと都合良かった
軌道線多かったし >>223
藤永田の名前は古い鉄道解説書(たとえば慶應鉄研のガイドブック)でよく見かけた
記憶に残る文字面 藤永田造船所の最終鉄道車両は、昭和8年製の近鉄東信貴鋼索線コ9形らしい。
今でも静態保存されているね。
軍縮期に海軍艦艇の受注が減って鉄道車両に手を広げ、
軍拡期の到来で忙しくなって本来の造船業に戻ったけれど、
当時の社長が信貴山を信仰していたので製造した車両と聞いている。
廃線まで使用されたから、何度か乗車した。
クロスロングが千鳥式のシート配置で、ニス塗りの車内には趣きがあった。 藤永田の話を聞くと、受注が見込めなければ撤退するのは企業としては当然で、今でも起こり得る事態とは思う
やがて国内ではどこも受注能力がなくなってしまうかも >>230
そこはロリ...もといロータリー専門やろが?