地方私鉄の自社発注車、自社製造車を語るスレ
今やあまり見られなくなった地方私鉄の自社発注車と自社製造車について語るスレです >>60
諫早で出島の後に連結したあと、肥前山口で弓張だか西九州だかをその後ろに連結して、
13両くらいの長大編成のど真ん中に挟まる運用もあったね。 嵐電500
入り口の位置に難あり
当時は路線バスも入り口は最後尾だった 前中ドアが主流で前後ドアが嫌われたところもあるのにね
要は少数派は嫌われるということか 前中方式にすると側面が非対称になるから島式ホームが使えない 路面区間で島型ホームってあるの?
(起点終点を除く) 何か山奥?に真っ白になって保存されてた気が>富士急3100 2本のうち1本は踏切衝突事故で廃車、のこりは廃車後白塗りされて山奥に幽閉
華々しい出生とは裏腹の不幸な最期 モハ3100は“社運を懸けた”新車だったらしい
(創設50周年誌より) 昭和31年製造だからって話だけど。
同じ法則で昭和50年にモハ5000。 熊本や札幌など交通局にも見られたね。
一時は流行した付番方法だけど廃れるのも早かった。なぜ流行ってなぜ廃れた。 札幌は330が昭和33年製で8500が1985年製だったっけ 当時の富士急では元号と西暦を使い分けてた?
1970年譲受の国鉄クモハ14が7000型、昭和52年の小田急1900が5200型 >>246
旧国17メートル車だけ西暦だから、まったくの憶測だが
昭和4×年の4が入るのを避けたのか? 続いてる
取るに足らない迷信とは簡単に切り捨てられない 琴電なんかこんぴら号以後新車を発注せず中古を買ったり弄くったりしてるが
少しはできるぐらいの財力はあっただろうに >>248
愛知電鉄では末尾5も忌み番だったらしい 北陸鉄道の6000系、6010系を語らずにはおれん。
前者は「くたに」の名で、吊り掛け式が当たり前の地方私鉄の中にカルダンドライブの新性能。わずか9年で大井川鉄道に譲渡され、「あかいし」と名が変わったが、元々600Vでの新性能車だったのが災いして昇圧ができず、旧型車に牽引される始末…
後者は「しらさぎ」、こちらはアルミ車体だけど、軽量化のための苦肉の策で、下回りは旧型車の流用。なんともアンバランス。
そもそも国道8号線の延伸に伴って、北鉄加南線の一部を廃止せざるを得なくなったため、建設省(当時)の補償金で造られた。
特に「あかいし」の方が大井川鐵道では不遇だったけど、「しらさぎ」は旧型車なのが幸いし、昇圧されて結構使われ、今は「里帰り」して山中温泉の道の駅に保存されている。
地方私鉄の良き時代に生まれ、その後数奇な運命を辿ったロマンスカーとして語ってみた。 社員旅行全盛時代ね。北陸道が伸びてくると同時に観光バスに奪われた。 >>251
箱根登山はモハ105を永久欠番にした
2回も事故ったからだが 叡電の300は当時の社長の、大手に負けん新車を作れ!と号令して出来上がった代物だが
随所に京阪スタイルが散りばめられ大津線260の亜流と見られてしまう羽目に… 亜流ねw
ドア枚数を除けば同型といっても過言ではない 福井鉄道南越線モハ130も自家製だよね
小ぶりだけどよくまとまってスタイルが良い
ただ保守ができてなくてすごく車体が汚れていた記憶
ネットで検索しても正面が黒ずんでいた晩年のカラー写真しか出てこないのが寂しい >>257
本当は全線を一気に廃止してしまうつもりだったが粟田部付近の貨物輸送の需要が残ったので細々と営業を続けた
貨物頼みだから旅客は片手間であり電車の手入れが悪くなっていたのも道理かと。 こんぴらUが造って走りはじめるまで5年もほったらかし、しかも最後の新造車で以後は中古ベース
いったい何があったんだ
>>250 >>257
直接制御が素敵、のちに変更したかもしれないが