山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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>>424
からまつ→名前が植物(マツ)ってことは判るが、列車系統との関連がいまいち解らん・・
はやたま→(熊野速玉大社を知らなければ初見ではちょっと解らんわー)
↑こんな感じかな。 >>427 ありがとうございます。そうじゃないかなと思ってました。
今の駐車場あたりですね >>427
淀江か大山口かと思ったけど、両方ともカーブしてなかった。 http://blog.goo.ne.jp/terunao920/c/85ec5e74dd7d58414ec2f1223d6a99e3/7
デジカメで撮ったかのごとく鮮明な写真だね。昭和52年とは信じられん。
リバーサルで撮っても必ずしもこうはならんから、
レンズとフィルムとタイミングの各個体差がバッチリうまくいったときだけだろう。 伊丹住みでしたが五歳の時にほぼ宝塚市の市内北部に引っ越すまで阪急しかないと思ってた
引っ越したあとは中山寺駅が遊び場になったけど電化でツマラン駅になって行かなくなった
それでも家のベランダから列車を見れたが旧客はいつも来るヤツなので香住発かなんかの50系を見た時の方がテンション上がった
今思えばモッタイナイ話です >>432
豪雪だった1984年の1月、屋根に雪のっけて鳥取方面からSGの暖房効かせてくる旧客乗りたくて
宝塚-大阪間でもわざわざ乗りに行ったな。 50系は今後増えるだろうと思ってたけど・・増えずに翌年12系とは驚いた。 その12系客レの時代しか知らん。
旧客最末期S61の7月と10月下旬、福知山まで往復した。
大阪駅で冷凍みかん、車販では篠山口の駅弁も売ってて買って食べたし、
帰路では腕木信号機の残存していた武田尾駅にも下車訪問したが、
やはり、福知の客レは、旧客時代に乗りたかった。
山陰ふくめて「生きている旧客」には、とうとう乗れなかった。
JR化後のドア保安ナシの64系と運よく予備車運用にも乗れたが、
先輩方の多い懐かし板だから、若い世代からは贅沢だと思われることを言わせてもらうけど、
JR化後のオマケみたいな運用は俺には「生きている旧客」じゃないんだよな。
61.10.31を最後に未来永劫乗れなくなった通常運用こそ「生きている旧客」なんよ。
毎度すまんけど、おそらく死ぬまで無念に思い続けてることのひとつ。 よく学校終わってから塚口駅まで尼崎港行きの入線作業を見に行ったものだわ。三菱電機専用線も懐かしい。 僕が生まれて初めて旧客に乗ったのは1984年(昭和59年)の3月・・・当時はまだ中学生でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪7:45(735ㇾ)11:30福知山12:21(835ㇾ)19:08米子 ※835ㇾの始発は京都
735ㇾは川西池田で博多行きの「まつかぜ1号」に道を譲りました。
735ㇾ・835ㇾ共にオハ35やオハフ33(スハフ33?)に乗車、835ㇾは他にナハ10やオハ61、オハ47が連結されていました。
オハ61は背もたれが木製で痛そうな感じがしましたし、ナハ10やオハ47は新しい感じがしたので避けていました。
オハフ33は835ㇾの最後尾の車両で開け放たれた貫通扉から見た餘部橋梁に少し恐怖を覚えました。
このオハフ33は妻面が絞られていたので戦前型でした。
帰りに乗った米子21:09発の826ㇾ「山陰」は、この当時すでに12系化されていました。
又、最後尾に10系寝台車が連結され羨望の眼差しでみていました。
朝、5:24に京都に着くと同じホーム向かい側に5:25発の旧客・833ㇾ浜田行きが発車直前でした。 昔は今ほど夏場が暑くなかったし、学生は、旧盆が終わって9月に
なろうかという頃に夜行で移動していたが、冷房が無い事の不快さは
余り感じなかったね。
冬場にしても12系よりも暖かった気がするんだわ。 僕が生まれて初めて旧客に乗ったのは1984年(昭和59年)の3月・・・当時はまだ中学生でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪7:45(735列車)11:30福知山12:21(835列車)19:08米子 ※835列車の始発は京都
735列車は川西池田で博多行きの「まつかぜ1号」に道を譲りました。
735列車・835列車共にオハ35やオハフ33に乗車、835列車は他にナハ10やオハ61、オハ47が連結されていました。
オハ61は背もたれが木製で痛そうな感じがしましたし、ナハ10やオハ47は新しい感じがしたので避けていました。
オハフ33は835列車の最後尾に連結され、開け放たれた貫通扉から見た餘部橋梁に少し恐怖を覚えました。
途中の混雑は鳥取から数駅程度、赤崎に到着する頃には車内は閑散としていたと記憶しています。
又、このオハフ33は妻面が絞られていたので戦前型でした。
帰りに乗った米子21:09発の826列車「山陰」は、この当時すでに12系化されていました。
又、最後尾に10系寝台車が連結され羨望の眼差しでみていました。
この当時は「私の旅のスタンプ」が大人気、少しでも停車時間が長ければ車外へ出て
みんな我先にスタンプ台に向かってダッシュしていました。 あの頃は若かった。
朝、5:24に京都に着くと同じホーム向かい側に5:25発の旧客・833列車・浜田行きが発車直前でした。 次、旧客に乗ったのは1985年(昭和60年)の8月・・・当時、僕は高校1年でした。
乗車経路は↓。ちなみに乗車券は青春18です。
大阪5:49(721列車)17:14米子19:15(3822D-822D)21:36東浜
この当時、721列車は既に12系化され、3822Dの始発駅は下関(米子まで急行さんべ)です。
※東浜で駅寝2泊&海水浴
東浜5:45(522列車)9:19福知山9:34(738列車)12:43大阪
この522列車が旧客でしてオハ35に乗車したと記憶しています。一方、738列車は12系でした。
実は旧客に乗車したのは、これが最後・・・良い経験をしたと思っています。 自分も旧型客車乗れてナハ10乗れなかったクチ。
廃車寸前はボロいだの隙間風が酷いの言われてたそうだけど、それでも一度乗ってみたかったなぁ。 割と近い世代が多いけど志向様々だねぇ、今51歳で59年2月改正時で17歳。
この改正でナハ・ナハフの半分余りが消えるということで乗りたくて関東から出掛けて行った思い出。
オハ35茶ニス車も60-3待たず59-2で落ちた車両が何両もあって、僅か2年の変化が凄く大きかった。
東京近辺は57-11で旧客消え、大阪まで行けば乗れる!とせっせと通ったよ。 あの時代ナハ10に加えて35系や43系の近代化された内装は好きだった。今でこそもっとニス塗り車に乗っておくべきだったと後悔しているが。ナハは乗ってる限りでは傷んでる印象は無かったけどね。 ナハ、ナハフは個体差があったと思う。ナハフ10 28はちょっと台車のガシャガシャ音がでかいけど
椅子は軋まなかったと当時のメモ書きにあった。 乗るたびに編成歩いて全車の編成メモってた。 確か鉄道ジャーナルの200号に門司→福知山の824列車のレポートが載ってたような。
著者は大阪の堺でナンバーの進学校の生徒。
あの頃のジャーナルは一般から旅行記を公募していたんだな。
消防から厨房の頃に掛けて・・・昭和53年頃から同57年頃に掛けて大阪駅まで良くに写真を撮りに行ってたけど
絵入りのヘッドマーク付きのブルートレインや北陸特急ばかり撮ってて他はあまり撮ってない。
新快速ブルーライナーの写真と辛うじて10系寝台+12系の「きたぐに」、雲仙・西海の最後尾に
ぶら下がってた青色の旧客荷物車の写真があるが、何故か沢山走ってた福知山線の旧客の写真が一枚もない。
ついでにスレチだけど113系のグリーン車もな。
因みにこの頃は福知山線の他、紀勢線や和歌山線にも旧客の客車列車が残ってた。 >>388
まだその頃の浜田駅前には万灯山と道分山が聳えていた時代ですな。
あれいつ位に崩されたんやろ。
昭和60年にはまだ工事中やったな。 今の時間だと、下りだいせんが篠山口、上りが鳥取あたりでしょうか きりはまビーチ駅とは何だったんだろうね?
90年代初頭なんて既に海水浴列車は終焉直前でしょ >>454
そうなのか。隣の上夜久野か丹波竹田あたりなら駅近くにスペースありそうだから移転してほしい ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 山陰線の旧客=行商のばあさんのイメージ残ってる。
旧客とともに行商ばあさんも一掃されちまった。 客車の話ではないがDD54が牽引してた時はアタリ感があった >>461
篠山口発の逆行運転C11の煙室扉が力行時バリバリ鳴るのが
もっと迫力あったよ。 下滝手前の谷川寄りのポイント、昔から100キロ制限? 現在の最高時速
120km/h(尼崎駅 - 新三田駅間)
ただし、尼崎駅 - 宝塚駅間は2005年6月19日から当分の間、95km/hとなっている。
105km/h(新三田駅 - 福知山駅間)
運転指令所:
尼崎駅 - 新三田駅:大阪総合指令所
新三田駅 - 福知山駅:福知山運輸指令所
列車運行管理システム:JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム (SUNTRAS) 尼崎駅(構内のぞく) - 新三田駅間
保安装置:
尼崎駅 - 篠山口駅間:ATS-PおよびATS-SW(拠点P)
篠山口駅 - 福知山駅間:ATS-SW 伊丹市・水銀使用廃製品のボックス回収にご協力ください。
http://www.city.itami.lg.jp/i/SOSIKI/SHIMIN/JINKENC/index.html
消費生活センターは、伊丹商工プラザビル1階にあります。FMいたみのスタジオが目印です。
阪急伊丹駅より徒歩約7分、JR伊丹駅より徒歩約8分です。
業務時間は平日午前9時から12時、午後1時から5時半です。(土曜・日曜・祝日と年末年始はお休みです。) 長崎ちゃんめん宝塚店(関西で唯一の店)は
宝塚駅や阪神杭瀬駅北/阪神尼崎〔南〕から阪神バス
「鳥島」バス停下車 篠山口〜福知山の普通・快速は福知山列車区の車掌のみ乗務? 福知山線の発祥は、川辺馬車鉄道が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(後の尼崎港駅) - 伊丹駅間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し
尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。 88年に東海道尼崎通過したとき、尼崎支線の土手だけ見えた記憶がある。鉄橋は無かった。間違ってるかな…? 国鉄職員の息子だった私はよく福知山線、姫新線、播但線とよく連れて行ってもらった
オヤジがやたらと旧客車に乗せたがるのが不思議で仕方なかった
私は追い抜いていく特急や急行が眩しくて、あっちに乗りたいなぁーーーとよく駄々をこねたw
今になって思えばオヤジがなぜあんなボロボロ客車に乗せたがったのかがよくわかる
オヤジには感謝しないといけないけど、本人も廃止が近いのが分かってたから乗りたかったんでしょうねw
福知山線では武庫川渓谷のトンネルに入る時、」デッキに怖くてビビった記憶があります。 送信してしまった
福知山線では武庫川渓谷のトンネルに入る時、
デッキに立ってて怖くてめちゃくちゃビビった記憶があります。
姫路に蒸気機関車が走ってた頃にもよくオンボロ客車に乗った記憶ありますね。
ここで〇〇系、××系、って書かれてるのを見てもわからなかったんですが、
検索して「おぉこの客車のことか!!」とわかった次第です。
スレチになりますが、和田山駅ではまかぜは停車してたので特急は停まる駅だと思ってたのに
通過していく特急があり驚いたことも記憶にあります。
まつかぜだったんですかね?
それから時刻表で和田山は太字の駅だったので大きな駅だと思ってたのに滅茶苦茶小さな田舎駅だったので
驚いた記憶もw
幼稚園か小学1年の時だったのでご理解をw 723列車大阪発米子行き乗ってまつかぜ4号と東浜駅ですれ違った事ならあるな
https://books.google.co.jp/books?id=L4YT42BjQ1QC&pg=PA148&hl=ja&source=#v=onepage&q&f=true
169ページと179ページとの組み合わせ17時23分に723は東浜駅発車しているが17時13分に1つ前居組駅発車してるので17時18分に723列車は東浜駅に到着して5分停車してまつかぜ待避した思われる >>477
時刻表ありがとうございます。
また話それるのですが、、、急行大社 ってのを見て思い出し
経路を見ると、、、名古屋→米原→ん??京都へ向かわない?と思い確認する前に
まさか敦賀から小浜線??と思うとまさにそれw
そこからどこを経由するのかと見るとなんと天橋立廻りw
なんじゃそりゃw
こんな急行があったんですね!
まるでミステリー列車かイベント列車のような経路ですね。
びっくりしましたw
定期運行されてたのが信じられませんw 豊橋って朝鮮だろ
浜松方面から東海道本線の電車に乗っていると嫌でも豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板を観ることになる。
でも、東京から豊橋に帰省すると豊橋朝鮮初級学校の看板を観ると、豊橋に帰ってきた実感が沸いてしまう。
豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板の他に朝鮮総連のイオ信組の看板も目に映る。
旧国鉄の線路沿いの一等地は朝鮮の土地が多い。
豊橋なんか良い例だが、豊橋はマシな法。
旧国鉄の線路沿いの一等地で朝鮮の土地が多い地域は
東京は新大久保、上野、日暮里、埼玉の川口、横浜の横浜駅西口で近くに朝鮮学校が控える。川崎も川崎駅から旧川崎球場までの周辺。
名古屋だと、名古屋駅から中村区から中川区に向かう方向は有名である。京都は京都駅周辺で京都駅南区一帯は有名である。
大阪は環状線、地下鉄、近鉄が交差する鶴橋かな。神戸は長田周辺。最近では少なくなりつつあるが岡山駅周辺も朝鮮が多い。
広島は広島駅周辺は再開発が進みつつあっても、朝鮮エリアはとどまっている。
山口県は、徳山、防府の駅周辺も朝鮮エリアがとどめているし、下関は大坪があまりにも有名である。
福岡も犯罪で名高い博多の堅粕、福岡の東、北の玄関である香椎駅周辺も朝鮮地域が名高い。言い出したら切りが無いくらい多い。
あと関西の近鉄沿線の一等地も朝鮮の土地が多い。
近鉄桜井駅の目の前には色鮮やかな朝鮮チョゴリを販売する店が目を引く。
近鉄の桜井駅周辺は1990年代終わりまでは駅一帯が朝鮮関係でにぎわっていた。朝鮮の国花「むくげ」の販売店、
色鮮やかな朝鮮チョゴリの店が大きいものでも数件は近鉄特急に乗っていたら目に入ったものである。
京都のJR線路沿いは京都駅周辺も朝鮮が割と多いのだが、嵯峨野線の円町から阪急西院までの間も少なくない。
阪急西院を過ぎてから阪急電車は地上に出てくるのだが、この境目に西院朝鮮人会館と言う著名な施設があった。大物芸能人も来訪していた。
京都の半導体企業のローム本社近くには西大路五条の朝鮮総連京都府支部と言う立派な構えの鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物がある。 >>478
しかもその大社って山陰線内で凄い長い区間各駅停車になったんじゃなかったですかね
>>479
朝鮮総連のビル競売にかけられるはずです 普通列車でも車掌長腕章の白服車掌さんが乗ってたダイヤがあったけど
急行の間合いで乗ってるだけ? 旧川西池田駅は阪急はもちろん川西国鉄前駅にも微妙に距離があった。
旧花屋敷駅とか無軌道電車とか、
ターミナルになる要素があったのに個々がバラバラだったのは残念だ。
今は乗り換えが楽になったけど、
発展が止まってしまったのは皮肉だな。 福知山線が初めて電化したとき、なんと場違いなイエローの103系が投入された。
当時はDL牽引の客車列車もあり、好んでそちらに乗った。 福知山線旧型客車が山陰本線より先に消えたのはデッキ転落事故が理由らしいがどんな事故だった?
高校生の悪ふざけだとかならまだしゃーない気するが鉄ヲタ例えば18キッパーが理由ならなんか残念 餘部鉄橋を渡っていた旧型客車の京都行普通列車のデッキから、
父親が息子を突き落とすという事件があった。 79年の転落死亡事故なら知ってるよ。A市内の中学生が旧客のデッキから転落して死亡。大阪駅から乗車して友達数人と走行中の最後尾デッキで遊んだ後に客室へ戻ったらしいが、1人だけ途中のA駅に降りた気配もなく蒸発。元々降りる予定だった次のT駅で駅員に連絡。神崎川鉄橋上の脇に倒れていたところ後続の貨物列車が発見された。その以降の死亡事故は知らないけどね。 >>490
三田駅にて1番線の進入分岐器付近で揺れが大きく雨で濡れていたデッキから足を滑らせたJKが転落死亡とサラリーマンが転落死亡があったな
それからまもなくして50系のレッドトレインが4本運行されるようになったわ
それを日本○産党市議団が我々の成果ですとチラシに書いていたな‥ 大阪−宝塚で阪急に乗る人がほとんどだったのは、頻度・車両・値段の面で国鉄が劣勢だっただけでなく、
旧型客車が主体だったため、デッキからの転落を防げないといった安全面でも見劣りしてたのも原因。
阪急は当然ながら自動ドアだからドアから転落するという心配もないので、そういうのでも雲泥の差があった。 昭和61年まで旧型客車は残っていた。
賑やかな大阪駅ホームからのDL牽引の旧型客車の発着風景は違和感そのものだった。 >>495
ん?昭和60年までじゃなかったかな大阪駅で旧客みれたの ときおり、豊岡や鳥取から後藤車両所に入場するキハ58やキハ47などが旧型客車列車の
最後尾に連結されることがあったが、これらの気動車には回送のため乗車できず、気動車の
窓のブラインドはすべて下ろされて、鳥取方を向いた前面か妻面に赤い円板が取り付けられていた 国鉄時代のキハ58いいね。11両編成のだいせん1号とか、丹波2号•いでゆ を思い出す。 昭和60年ですね。
福知山から篠山口までは61-11改正まで残ってた この時期の旧客は蒸気暖房の蒸気がもうもうとあがっていて
深秋の風景と相まっていい雰囲気を醸し出しておったのう。 昭和60年に12系に置き換えられたが、何かの理由で昭和61年の7月あたりに12系の代わりに旧客が運用され、大阪駅まで入ったらしい。
当時の鉄道誌で見た記憶がある。 環状線で大阪駅を利用したら隣りに停まってる1番線(当時)の青い客車が気になって
初めて親同伴で福知山まで往復したのが61年の7/22
福知山で旧客に初めて接して激しく萌えたが
どう計画しても泊まりがけになってしまう。
とうとう「本物の旧客列車」つまり通常運用の旧客に乗ることは叶わなかった。
同じ7月にそんなことがあったとは。乗りたかった。
余談だけど和田岬線の旧客、スハフ42には乗れた
予備車で1駅だけとはいえドア保安の無い本来の旧客に乗れたのは趣味的財産です 大阪発米子行か出雲市行きの旧客の普通列車で、途中、倉吉で切り離されて、
大阪から倉吉線関金まで直通する客車が連結された列車もあった 福知山、10系ハザ残ってたよな。大阪でナハフ11のトップナンバーが最後尾で水蒸気だしてる写真がどこかにある 福知山線が電化せず、DL牽引の列車がのんびりと走っていたら、
あの事故は起こらなかったはずだと考えると、残念に思う。 >>505
同意
スピードアップするにしても、無理があり過ぎた >>505
ハゲしく同意
阪急宝塚線言うか厳密には箕面線沿線だったから言うわけでないが
大阪梅田〜宝塚間くらいあれだ、別に阪急に任してよかったと思う
721列車大阪発出雲市行きだとか、722列車鳥取発大阪行きであるとか723列車大阪発米子行きであるとか724列車鳥取発大阪行きであるとか725列車大阪発鳥取行きであるとか726列車浜田発大阪行きであるとか今はなき大社線直通急行だいせん
1号であるとか4号6号であるだとかあの非日常的な性格こそ山陰本線福知山線の最大の魅力だったのに
高齢化社会の今なっては尚更青春18きっぷ利用高齢者救済意味でもあの福知山線を残してほしかった
事実昼間の快速は区間快速になり
福知山行き最終は旧客時代とほぼ=の時間帯になっているわけだし
新三田のニュータウン定年迎えた高齢者もその方が幸せだったろう
鳥取智頭急行一択になったし尚更
(鳥取自動車道が更に輪をかけたが) >>494
それは電化前の関西本線名古屋口対近鉄にも共通しそう。
今は特定運賃で、名古屋〜桑名・四日市はJRが安いけど、
電化前は話にならなかったこともあって、今でも近鉄が優勢だし。 山陰・福知山両線で停止目標12なんて見かけると「更にこれより長い編成あるのかよ」とついツッコんでしまった少年時代 今の鉄道は今日ぐらいの積雪であっさり運休してしまうけど国鉄時代は大遅延しながらも走らせてた 運休はしてたから。いまみたいに先に運休決めたりしてなかったけど
あきらめは早くなったな。まぁ風の息遣いを感じないとマスコミやおまえらに叩かれるからな でもこういう大雪の時ならたとえ運休はしなくても旧型客車ドアは
すなわちあの開けっ放しデッキは大変なことになってたんだろうな
この時間帯なら大阪発出雲市行き721列車その渦中にいた訳だが青春18きっぷなかった頃の旧客なんてそれこそ地元の高校生位だろうし
冬休みと言えそういう中通学の現アラ還高校生はタフだったんだな
今はたぶんそのころの高校生だとアラ還ジジイだし考えられないがw 餘部の事故から明日で35年だってさ
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202112/0014946062.shtml
あの高さから列車が落ちたのも客車が微塵になってたのが衝撃だったな
DD51が橋の上に残ってたのが印象的 >>514
今、慰霊碑が立っている場所のことを思い出して。
微塵になったのは客車だけではないでしょ?犠牲者もほとんどそちら側の方々。 >>515
> >>514
> 今、慰霊碑が立っている場所のことを思い出して。
> 微塵になったのは客車だけではないでしょ?犠牲者もほとんどそちら側の方々。
鉄ヲタ鉄道の事しか頭にないだろ∴鉄ヲタと言えるのかもしれんしこのスレで言うのも野暮な話だが
TWILIGHT EXPRESS瑞風で今でこそそれなりにメジャーな東浜駅だが1950年東浜駅できるまで駅がなく居組駅まで歩くしかなかったので列車に轢かれる人が絶えなかった
1950年東浜駅ができそれは一転し京阪神から臨海学校海水浴の客が東浜駅押し寄せる様になり最盛期60軒もの民宿あったらしいしかしモータリゼーション鉄道の衰退でそれは完全に過去になり全盛期の
1/20の3軒だけになってしまった。
勿論自分も山陰地方や日本海側の所謂裏日本住民ではないわけだが
こういう大雪でそれら地域方々が大変な時くらいそれら地域方々に餘部や東浜の方々の苦難の歴史に思いをはせてもいいのではと思う >>515-516
思い出すもなにも記事はそういう内容なんだが、読んでないのか?
上っ面で偉そうに良識ぶるとか、かこつけて訳わからん長文書いてくるとか
ボケ老人なのかな 武田尾にしか見えん。。
武田尾に発着する蒸機ってカラーで見たらこんな感じだったんだろうな。
https://www.youtube.com/watch?v=KSQW6D36Jz8&t=65s
(頭出しずみ) >>527
郷愁ってこういうの言うんだよなあ。
深秋の山々を背に客車から蒸気が立ち上り・・・。 >>527
すばらしい。冬に行ってみたかった
旧線と旧駅訪問は間に合ったが、福知旧客と季節は年齢的に間に合わなかったので
(旧線と武田尾は86年7月訪問が最初で最後) 高槻市社会福祉事業団で磁気カードを交通費代わりに支給でピンハネされてました! >>533
乙
キハ40系の快速がなつかしい。
>>534
写ってるけど段差があってメイン(奥)寄り部分はちょっと高い 福知山・山陰の普通旧客レで、ナハ10・11とナハフ10・11が、それぞれポツンと1両だけ編成に組み込まれている写真は見るんですけど、編成に両方が組み込まれることってなかったんですかね? 余程のイレギュラーでもない限り、
なかったんちゃう?
軽量客車の混結はけん引定数があるからね けん引定数がどれだけ厳密か、
ナコレク経験者のブログ見たら判るよ。
客車不具合1両の差替だけで一大事だから ガキの頃よく父親に福知山線の旧客を乗りに連れて行ってもらった。
オレはボロ客車より追い抜いていくまつかぜが眩しく輝いて見えて
アッチに乗りたい!と何度も言ってたw
走行中フルオープンのデッキに立たさせられたりして、この客車の方がええやろーーーと
父親が何度も言ってたのを思い出す。。。
この先あんな特急なんて何度も乗る機会があるんだから、
廃止でもう乗れなく客車に乗せてあげておこうと思ってたんだろうな。
今から思えばもっと乗っておきたかった。父親には感謝しかない。
おとーちゃんありがとーーー >>539 です
結局まつかぜに乗る事はなかったですね。。
82系だったかどうだか記憶は定かじゃないですが、はまかぜで明石→和田山 を乗っただけでした
あと岡山→米子のやくも も乗ったけどあれって82系でしたっけ?
デザインはまつかぜと一緒だったと思いますが。
〇〇系ってのは全く詳しくないのですまんませーーん。 >>542
キハ82系の普通車の椅子は背面にモケット貼ってないから直ぐ分かるよ
はまかぜがキハ181系に変わったのは1982年7月1日
伯備線の特急は最初からキハ181系 初代川西池田駅(旧川西池田駅)
旧駅当時の貴重な画像などはネットで見れるけど、
逆に、現在の旧駅跡を探訪した記事や画像が全くない
不思議だ。
能勢電の川西国鉄前の探索記はアホほど出てくる あ、貴重な写真を載せてる
「鉄道の街 川西」サイトさんの現在写真は
90年代末〜00年代直後であって、
少なくとも現在とは言えないからね。
どちらにしても、初見の者が
旧駅位置と現状とを比較しやすそうな画角の写真も
ないので。 どちらの線でもDF50牽引の客車に乗った。もう半世紀以上前だな、山陰本線ではC57とすれ違った。福知山線では当時はまだローカル線で昭和46年5月にC5741が牽引する臨時列車を撮りに行った。それ以後SLは走ってない。つい先日DD51が単機で走っていてビックリ!以前はたまにディーゼル機関車を見かけたがもう忘れた頃なのでしばらく見ていた 自分はイエローの新車の103系が投入された頃を懐かしく思い出す。
ついに新しい時代の幕開けかと思ったが、蓋を開けてみると旧型客車も継続して運転してるし、
汽車型ダイヤだった。6両編成で投入されたが、程なく4両編成に減らされ、中央の2両は常磐線の
編成増強用に旅立っていった。
今では隔世の感が有るね。 103系が入ってもガラガラの宝塚行きだけ。一番混むのはキハ47の快速篠山口行きだったな。
逆レは編成長いから日中は空いていたね。 三田の親類とこ行くのによく旧客乗ったわ
車両の先頭まで行くと機関車とご対面できたな
特にDD54のカッコよさは際立ってた DD54の牽く客車にも乗ったが故障して立ち往生するかもしれんと心配だった。SLと置き換えるはずが故障してC57が救援に向かうという皮肉なこともあったようだ DD54と共にキハ82も故障が多かったね。
開発を急ぐあまりこうなったと聞いたことがある。 SL写していた頃はDLが来たらカメラを向けなかった。今思えば少しくらいは写しておけば良かったかも知れない。客車がなくなるなんて思ってなかったし >>559
いやー、もったいない、というように感じるのは後からの思い
自分はSL乗遅れ組で、559さんより少し後輩?の年齢ともいますが、
旧型国電を撮っていた時に来た165系の急行
旧型客車を撮っていたことの50系客車
キハユニ16や15を撮っていた時の他のキハ
など、みんな同じ
自分は、まだ「来る者は拒まず」で、来たものはシャッターを押してはいましたが、
積極的に動くことはなかったです
もったいないといえばその通りなのですが、当時は主目的の車両以外はそこまでの切迫感が皆無でしたから >>560 さんは旧国スレに身延の話書いてた方ですよね
世代近いかも? 国鉄蒸機は小学生時代で自分のカメラでは撮れず
旧客・旧国末期の記録が精一杯・・
フィルム、特にコダクロームは現像含め高くてシャッター気軽に押せず
今デジカメやスマホでどんどん残してるスナップや動画は当時無理でしたねぇ
本当に末期ですが当時高価なビデオで山陰旧客撮ってる方のYoutubeは有難く拝見 559です、SLならシルエットでも形式がわかってたけどDLやELはほんの一部しかわからないし気動車や電車と客車も貨車も種類は全くわからなかったというより調べなかった。とにかくSL一筋だったな ガキのころ結構写真撮ってたけど無くしてしまったな、、
旧客の写真だけじゃなくDD51牽引貨物や凸凹編成気動車とかも当時は貴重に思えずちゃんと保管してなかったからな >>561
あーた贅沢ですわ旧客乗れたんでしょ。うらやましい。
自分は福知山線は旧線や昼の各急行には間に合ったが、12系化してからだわ。親付き消防の身には山陰旧客は遠すぎて乗れなかった。
本当のほったらかしの旧客は和田岬線の代車スハフ42だけ。すぐ着いてしまうし、個人的にはこの体験は「旧客に乗った」うちに入れられないんよね。 >>561
一列車では一シャッター限定
連写なんてとても無理
いま、40年前のKRをデジタル化して、当時のコダックのポジの凄さをあたらめて確認してしまいます
しかし当時安くない、高かったです >>564
いやいや確かに贅沢かも。当時大学生だったから自由に旅ができたし
でも60-3から61-11のたった一年半だけの旧線12系も貴重ですよ
その頃も大阪早朝の出雲市行き乗り通ししたもんです。
惜しいのは61-11までは篠山口や福知山以北に旧客残っていたこと
親御さんが浜坂あたりまで遠出させてくれてたら乗れたんだよね。
>>565
KRもエクタも当時の東洋現像所(イマジカ)出しで時間掛かったし
とにかく1本購入から現像までで千数百円・・・ 鉄道雑誌見てたらエクタクロームで写した写真もあったので真似して使ってみたが印刷工程の都合での事らしい。DLならともかくSLではあまり意味がなかったな。もうポジは残ってないがあったとしても退色してるだろう。その点はコダクロームの方がいいのか >>566
反応とフォローありがとうございます。
こことかで何度かボヤいてるので、ご存じでしたね。失礼しましたw
そうですね、しかし大阪福知山間は客レ時代で物理的にも時間が掛かったのと、
絵入り「まつかぜ」も通過を撮ったりしましたが
乗ることは思いつきませんでした。また、京都回りで帰ることとかも
まだ思いつかない年齢でした。
いま思えば、たとえば豊岡往復で片道だけでも旧客に乗れたはずですが、
一部区間だけでも乗る、って概念すらまだない子供でした。
まだ昭和の63年、カレチが〆造さん時代の大井川へも乗りに行きましたが
動態保存の旧客と現役供用中のそれとは、やっぱりちがうんですよね。
だから、たった数分でも和田岬線の代車スハフ42乗車経験は宝物です。 身近すぎても撮らんからなあ、ここの近所に2年半住んでいてもあまり撮ってはいない
武田尾などへの遠征もあまりない
しまったとは思うが、まあ、こんなもんだと諦めるしかない
https://tadaup.jp/loda/0731233114625898.jpg
S58.12 中山寺 まだ無人駅で、改札関係なしで出入りできた 追記
>>567
フィルムはKR、何本かあるが横着な保管にもかかわらず退色はあまりない
ER系は一部で紫の細かい斑点が出た
富士、コニカは物によって少し退色
ポジは案外強い
逆に平成になってからネガで撮ったやつの変色が酷すぎる >>569
見させて頂きました。[5]ってことは閉塞信号ですね
その閉塞信号機に出発合図器というのが
いかにも客レ時代を感じますね。
>>570
今でいう撮り鉄のリバーサルは猫も杓子もKRでしたね。 やっぱり外式のKRは丈夫だねぇ
90年代のネガってフィルムも安くなり雑になってると思うよ
プリントの印画紙も質が低下してるな・・
VHSテープも80年代のほうが90年代より劣化してないし
CD-Rも90年代TDKはまだ読み込めるが0年代台湾製がもうダメ
普及して安くなるとそれなりだね、服なんかもそうだし やはりそれなりの対価は払う価値がある理由があるね
そこまでの価値はないとどんどん貧乏至上主義を貫いた結果が現在 565ですが、皆さんご指摘の通りを実感
1978から1980年頃のネガカラーは、色相というか色の変化に愕然
保管が良くないことは事実ですが、黄色化とでもいえばいいのでしょうかね
色補正要です
また、露出アンダーというか暗部は極めて厳しい
露出オーバーのコマはまだ救えますね
それもあるのか、旧型の車両でも、茶色の再現が結構うまくいかないように感じます
少しずつ復元していますが、時間がとにかくかかります
1980年からKRとER併用でしたが、デジタル化してKRが一番再現が良いと感じます
ERは少し青緑化を感じます(ただし天気が悪い日に使用したためかもしれません)
KMは感度低すぎで一度も使用しておりません
いずれにしろ、KRは高いイメージしかなかったです 昔のコダックは感度が低く多少使いづらいところもあった。しかし一番の問題は国産のカラーフィルムを使う時に感度の切り替えを忘れることだな。 国産ポジといえば、ベルビアが出たときの衝撃
KRの発色好きには「悪趣味なギラギラ」で
後になってみればまさにバブル期の象徴だったかとw
旧客のあった頃に存在せず良かったと
90年代のRFやRMのグラビアを見て思う 小さい頃親父に連れられて釣りに行ったが福知山線に乗ったのだろう。SLの汽笛が鳴ったのを覚えている。SLに興味を持ち出した頃はもう少なくなっていて10年早く生まれていればと思ったな、だがそれだとこのスレを見ることなく逝ったか SL乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、それ以前の世代の方よりもはるかに大きいと感じます 旧客乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、>>578よりも更に大きいです。
(引用して遊びましたが、ガチです) >>579
和田岬も乗車経験ないでしょうか?
578ですが、正直マジで恐れ入りました
夜行も含めて普通に旧型客車に乗っていた時代の、
最後の10年ほどを末期まで経験した世代です
実は、SL乗遅れで旧型客車を経験した世代って、およそ10年しかなく、
その意味で層が薄い世代かもしれません
従って、混合列車のイメージも、SLではなくDE10などが引っ張るオハユニ61と貨車などのイメージになってしまいます
もしかしたら、そのあとの50系客車の世代とかあるかもしれません
変な個人的な偏見にもなりそうな書き込みで申し訳ございません 全列車ワンマンだらけになっちゃったけど昔はどこの路線も駅間長いと車掌がやってきて検札してたんだよな
旧客の普通列車なのに白スーツの車掌長や乗客専務車掌が乗ってる列車もあって
名所案内が充実していたとか ワンマンじゃないから無人駅から乗車したら
車掌さんに切符だしてもらったな。 同じ線路でも東海道線と福知山線とは線路等級が違う。そのため大型機関車は入線出来なかった。特急つばめは大阪到着後塚口まで回送してC62を最後尾に連結して宮原操車場まで行ってたので塚口までは特甲線なのかな。 電化したら近郊型電車が走り出すと思っていたらまさかの103系。
でもいずれは阪急に匹敵する通勤路線に変貌することを目論んでいたことがわかった。 >>585
まだその頃は良かった
最悪なのは61-11からの数年だ
113-800の2連ぎゅうぎゅう詰めは思い出したくない 大阪駅に113系の2両が堂々乗り入れていたよね。
12系の普通列車の方がずっと良かった。 車内販売すらあったもんな。12系普通列車。
浪花(篠山口駅の駅弁業者)の駅弁を車販から買ったよ。
1986年7月 >>587-588
あの1年8ヶ月はある意味国鉄最後の輝きという感じだな
旧客は好きだったが、60-3で一気に12系化されてオール冷房つき
ボックスも広い急行型統一みたいなもんだった
それがボロ電に詰め込みになったから改悪以外のなにもんでも・・
丹波路快速が出来てやっと近代路線だし
デカンショ弁当も旧篠山口駅舎も懐かしい 福知山線には篠山線という支線があったがもう半世紀前に廃止されてる。ディーゼル車が貨車を牽いたりしてたらしい。。 思い出したくない人には申し訳ないけどw
113系福知山色の青帯、正面V字の角度が
微妙にちがってる二種類あったと思うんだけど
合ってる? >>591
これだけ読んだだけで楽しそうな雰囲気が伝わってきますね
これは何という雑誌ですか? そうです。鉄道ジャーナルの1986年別冊がだいぶ表紙傷んだから
バラシてスキャン、デジタル保存したページです。
昔の旅鉄の旧客特集などもやってます。
記事内容も時代反映してるから面白くて。 1980年7月に、塚口→尼崎港乗車、客車は1両だけ、貨車はなし
乗客は数人と記憶、尼崎港での画像が1コマあるだけ
もったいない、としか言いようがない >>591
きれいにスキャンされてますね。どんなスキャナーをつかわれてるんですか?雑誌の整理もしたいけど
自分はきれいにスキャンできないので貴重と思われる写真が掲載されているものなどは躊躇してます。
山陰本線の旧客といえば母方の親戚が鳥取に住んでいる関係で子供の頃よく乗りました。
一度鳥取始発でDF50牽引の列車で倉吉まで乗った記憶があるのですが、詳しいスジをご存知の方おられますか?
午前9時頃の列車だったと思います。(45年くらい前)
それからいまはなき倉吉線の旧客にも乗りました。背ずりが木製でおそらくオハ61系等ではなかったでしょうか。
他にも今となっては貴重な思い出も多々あるのですが、当時は小学生で写真を撮影することは叶いませんでした。
もっとも、「貴重な体験」などという感覚も無かったと思います。 >>597-598
いつもの者ですが、撮影の件は、
別にそこまで悔やむほどでもないんじゃないですか。
写真技術はまだ200年も経ってませんし、
あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います。
自分は割と中高時代からそれで、昔から写真はそれほど撮りません。
撮影に夢中になるあまり、
肝心の乗車(乗り鉄本体)とその記憶に支障するのを好まないからです。
ラストランですらカメラを持参せず携帯でも撮らない人間ですw
あと、当時貴重だとは思わなかったって視点の話、
もうそればかりは世代や個人による「順番」ですわな。
自分は山陰旧客に乗れなくて残念でしたが、乗ることのできた、
保存運転ではないJR唯一&最後の旧客である
和田岬線の64系&代車や、けっこう各地で乗れた12系や50系客レも、
世代や個人によっては垂涎かもしれません。 >>599
> あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います
記憶ってあの世まで持っていけるのかな? 割とどうでもいい部分にだけ反応すんなよw
少なくとも写真は持って行けないのは確定。
論点である記憶のほうだが、異論は好きに言えばいい。強制しない
ただ、記憶つまり心ってのは形(実体)がないモノだから
その面においては少なくともスピリチュアル的親和性はある。 話の流れは凄い方向だがひとまず・・
>>598
いやいや古いスキャナでこれも何年も前にスキャンして、今の4K以上モニタなら物足りないですよ。
4000x3000くらいのスキャン必須なので自炊もし直しかな?と・・
体験というのは重いもので、いくら綺麗な写真見ても行ったことない路線や乗車していない車両では
今ひとつ実感が湧かないというのはあるよね。
父親の遺言が 「あの世に持っていけるのは、地位財産名誉ではなく思い出だけ」 だった。
そういう想念というのは複数の体験からあると信じてる。
ひとまず、今のうちに乗っておける好きな車両や路線には悔いなく行くことかと
来週平日に休みたっぷり取ったのでせめてキハ40系で国鉄時代思い出すことにするよ。 >>602
一部フォローありがとうございます。
キハ40系は徳島車をお勧めします。原形エンジンです。
夜行フェリーも関西側から高松徳島双方にあり便利です >>603
いえいえいこちらこそ。 今は関東住まいなんですが、今春徳島に行きました
夜行バスを鳴門で降りたらそのまま鳴門線-牟岐線直通に乗ったり
関東でも小湊鐵道や近畿では北条鉄道でも楽しめるので、これから数年は
まだ行けるかなと。
スレタイの旧客話では来月、痛恨のキャンセル・・大井川鐵道のEL牽引旧客を予約していたら
災害復旧見込み無し。で社の側から予約キャンセル通知・・
来年リベンジですねぇ。 >>602
ありがとうございます。スキャンについてもいろんな方の実践例を参考にしたいのですが、
そもそもここは自炊スレではないのでこれ以上は話題にしないほうがいいかもですね。
体験や思い出はどんな綺麗な写真にも勝る、たしかにそうだと思います。
反面、バックナンバーも含めた鉄道各誌や過去に撮った写真をupされてる方のサイト等を見て
追体験(に近い真似事)をしている自分がいたりもします。他人様の、場合によってはその人の
貴重な乗り鉄体験を犠牲にした写真を拝見することによってそれが可能なわけですから、見分を広げたり、
思い出を疑似的にではあっても反芻できる便利なツールではあるのではないでしょうか。 倉吉線の客車は、見た記憶があるが乗っていない
終点まで行くのは末期はDCばかりと思っていた Rail・Artさんのところに昭和42年10月の時刻表が載ってるけど
この時点で客車列車は上井-関金の列車が4往復、上井ー倉吉の列車が2往復で山守発着は全部ディーゼルカーだな
Wikipedia見ると泰久寺と山守は1線のみで機回し線とかなかったから
末期でなくても客車列車は関金までだったようだ 関金から先、気が不具合のときは
おそらくPPの客レだったんだろうね。 ディーゼルカーの予備車くらいあっただろうよ
プッシュプルにすると機関車2両に客車1両になっちゃうぞ 1980/03時刻表から、倉吉発下り
619(443D)山守
629(421レ)関金
749(445D)山守
914(423レ)西倉吉
1140(447D)山守
1328(425レ)西倉吉
1605(449D)山守
1620(427レ)西倉吉、山守行451D接続
1759(427レ)打吹、山守行453D接続
1841(455D)関金
1927(457D)関金
2127(459D)関金
朝の443Dの前に、関金行きの回送(441D)がありそう もう鉄模は数十年していないけど
関金という文字列は関水金属を連想させるね。笑 倉吉線列車は昭和60年3月改正で全列車気動車化されたが、気動車運用は
どうなっていたのだろうか。
鳥取発倉吉行きのキハ58系による最終列車が倉吉に到着後、そのキハ58系が
翌日の倉吉線気動車運用に入り、関金発倉吉行き最終列車で倉吉に到着後、
キハ40を切り離して、倉吉で夜間滞泊し、翌朝の倉吉発鳥取行きで鳥取まで運用後、
車両基地の西鳥取に戻っていたのだろうか 倉吉線が残っていれば、それなりに利用されましたかね?
少々もったいないように思えました >>617
うーん、どうでしょうね。そもそもが地方の小さな町ですし。
自分の経験でしかないのですが、>>613さんのレスを見てもわかるように本数も限られていましたから。
母親の叔母が打吹の近くに住んでいたのですが、倉吉線に乗るよりはバスの方が便数が多かったのでほとんどバス利用でした。
倉吉線で印象に残っているのは夕方の下り列車で夏休み中にも拘わらず制服姿の高校生で結構混んでいた事がありました(部活帰り?)。
打吹止まりだったので>>613にある17時59分発の427レだったのでしょう。その時は母親が今から自分たちの食事作りをさせては叔母に悪いからと
打吹駅近くの店で食事を済ませて行ったのですが、すでに夕食を用意して待ってくれてました。子供心にも申し訳ない事したと思ったものです。
ところでその頃、大阪市内から倉吉までの切符を買うと運賃が同額だったためか上灘までになっていたと記憶しているのですが間違いないでしょうか。 >>617
>>618
倉吉線が現在も残っていたら、関金~山守間のみ廃止されてレールは50キロレールに
交換されるなどの工事も行われ、列車はキハ47系、キハ126系、キハ120系が使用され、
関金駅は「関金温泉」などと改称されていたかも。 >>617-
一時期よりは減ったとはいえ凋落なく
現役観光地として認識され続けている「輪島」
その輪島までの鉄路が廃止されたのと
ちょっと似てるかも。
鉄路のある頃からずっと、
皆、バスやマイカーが主流だったってね。
なんで全国的な観光地で、現在でも廃れてはいない輪島までの線すら
廃止されたんだろ?ってずっと思ってきたんだが
最近調べてみて、判った。 全国各地同様の現象だが、高校生の数が根本的に違うんだよな
第二次ベビーブーム世代が昭和末期から平成頭までで
その後の世代で急減、大都市以外は車持ってる世代ばかり住んでる時代に
そりゃローカル線も長編成鈍行も要らないよな 残っていたら、米子/境港と同じような感じになったかかな? なってないと思う
あっちは境港市、米子空港、後藤工がある 当時の状況からして普通に考えれば倉吉線の廃止は火を見るよりも明らかだったでしょうね。
ただ、同じ鳥取県の若桜線が三セクとして成功を収めていると見るのであれば
倉吉線も沿線に観光資源が皆無というわけではないですから積極的な策に打って出ていれば
面白かったかも、という思いも少しはあります。 倉吉線は諦めて若桜線は三セクで残した地元判断から考えて
両線の違いは大きかったんだろ 若桜線は沿線民の「乗って残そう」がガチだったというのは知ってる 若桜鉄道は近年でも高校生輸送量が半端なく多いし、鳥取駅直乗り入れ効果もあって
大人の通勤者もいるから倉吉線とは状況が違うよ 倉吉線は廃止されるまで線路のバラストも枕木も古いままだったけど、
線路の夜間保守工事などは行われていたのだろうか。
線路保守などは全く行われていない感じだったが。 >>627
直通運転が今も生きてることそのものが
そのことを現してるよね。全国的には減少傾向だからね 倉吉線では大阪発米子行の客車列車が倉吉駅で切り離されて、その切り離された客車が
倉吉発関金行きとなる運用もあった。 >>629
あの乗り入れはもう一つメリットがあって、JR側も因美線で運用する車両を減らせる
因美線の北部から鳥取市までの通勤区間の客を若桜車で運べて
那岐方面は朝通学時間に那岐折り返しの戻しの1本の車両で済ませてる おかげでJRキハ47の若桜乗り入れが消滅してしまったよな。 山陰の寝台車は乗る機会がなかったです
学生ではどうしても寝台券の費用が出ず、いつも座席車ばかり
というか、寝台車自体乗れませんでした
普通列車なら、まだ一番安い追加料金で乗れたはずなのに… >>591
鉄道ジャーナルのスキャン記事内に川代渓谷(丹波大山→谷川間)の
記述があるが、「川の流れが列車と同じく日本海に向いている」
とあるが、加古川水系で播磨灘に注ぐのだがな。今は恐竜の化石で
有名になったな。
懐かし記事サンクス >>634
スレチだが、予土線で宇和島→窪川の向きに乗ると
四万十川が上流へながれていて違和感ある
地図を見れば理解できるが、やっぱり変な感じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています