山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. 京都から出雲市まで『山陰』に乗ったことがある。
但し、その当時愛称がつけられていたかどうかについては記憶が定かではない。
因みに、昭和51年の話です。 >>3
51年なら、多分名称ついてたような。
山陰には京都ー鳥取、福知山ー浜村、
出雲市ー京都と乗ってるけど、寝台は未体験。 うちが貧乏だったから、故郷の福知山に帰るのは必ずと言って良いほど普通列車だった。
とにかく最後部に陣取って、宝塚を出たらデッキへ。渓流沿いの景色をデッキから眺めるのが好きだった。
一番後ろが荷物車とかだったら、チクショウとか思ったもんだ。 行き気動車急行帰り客車鈍行というパターンが多いな
でもやはり客車鈍行の印象は強烈だったんだと思うな
大阪から東浜まで7時間丁度かかっていたがあーついに
来たんだなあという感動は客車鈍行ならではだったな
翌日は民宿の部屋から同じ客車鈍行723列車を見たが
偶然その時間夕方5時すぎにテレビアニメの再放送中に
客車列車が出てくるシーンがありうまくマッチしてた 福知山駅は、旧客ファンの聖地だったなぁ。当時の山陰線は、
ちょっとした駅には客車区があって、大量の旧型客車が配置されてた。
スハ32は早くになくなってしまい残念だったけど、それ以外の各種が
残ってたな。オハ35やスハ43に揺られて、駅弁食べながら、ゆっくりと車窓
を楽しむ。本物のゆとりの時間があった時代だった。
山陰線は、渓谷あり、海岸あり、温泉あり、スイッチバック(退避用?)
、特急・急行・夜行も寝台から座席までありの飽きない路線だった。
本物の汽車旅が楽しめた最後の路線。
初めて乗ったのは昭和五十年代の始め頃、旧客列車に乗って武田尾まで
撮影に行った時。列車はもちろん、途中で特急まつかぜに追い抜かれた
川西池田の構内も別世界でした。
川西池田で「まつかぜ」に抜かれる奴ねw
たしか、20分ぐらい停まったのではなかったかな?
「特急まつかぜの通過待ちです」と放送があって、時計を見ると、
その「まつかぜ」は大阪を出たか出てないかぐらいの時間なんだよね、たしか。
宝塚が手狭でなければ、十分逃げ切れる時間があったように思う。
それとも、別の事情があってのあのダイヤだったんだろうか?
まあ、どっちにしても懐かしいなあ〜 浜田発東舞鶴行(列番度忘れ)が不思議だった。
終点が福知山なら分かるけど、何で列番変えてまで東舞鶴へ…?
それも中途半端な時間。
小浜線の最終につないで敦賀まで行って欲しかったなw >>10
544レだな確か東舞鶴に21時前20時53分に着いていた 夜行山陰…懐かしい。
御先祖様の墓参りに出かける際によく乗ったな。
岩美駅で下車するのだが到着が確か早朝4時過ぎ。
何両編成だったのだろう。
降りようとデッキへ立つとあるはずのホームが無い。
ホームより列車が長いんだ。
同じく下車する見ず知らずの人と手を貸し借りしながら線路へ下りる。
夜明けの改札は無人。
駅前にある水呑場で顔を洗う。
静かながらんどうの待合室は時が止まったよう。
朝日が昇るのを待ってやっと歩き出す。
遠い昔の夏の想い出。 京都発浜田ゆき833列車が翌日大阪ゆき726列車になる
今なら特急急行でもありえない長距離運用にただ脱帽 一時期最長距離の普通列車だった824列車も、831列車の折り返しではなく、別の列車の
折り返し運用でしたね。 石原都知事が女性専用車両に乗車します
石原都知事が都庁記者会見で女性専用車両という男性差別の問題を指摘し、
後日、石原都知事自らが女性専用車両に乗車されるとのコメントをされました。
記者会見の動画をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=U04E6G2Cy8o&list=PLC6839F661C03104D 夏休み、大阪に親の帰省についていったときには、親の実家ベースに列車番号にDがつかない列車選んで
京都→福知山→大阪とか一人でプチ乗り鉄したなぁ。中学生ぐらいだったかな。
福知山線のトンネルではDD51の排気が車内に入ってきて天井の辺にモヤがかかったようになったのを見て
「全然無煙化じゃないw」って思ったのも懐かしい。
最後は大学生のときに福知山-鳥取往復をして乗り納め。
叶うことならまた乗りたいな。 824レにオハフ61って入ったことあるんだろうか?
あの木の背もたれの椅子で門司から福知山まで…
ヲタでも乗りたがらなかっただろうな、マジ拷問w 夏の山陰線客レで思い出すこと。
対向列車DLからの熱気もそうだけど、減速途中盛大に粉が舞っていたね。
レジンだとしてもカラダにはよろしくないものだったのかもw 川西池田で20分も停車して通過待ち!
完全に通勤輸送は眼中になかったのが良く分かるダイヤだね。
子供の頃に、宝塚まで複線・電化直後にしばらく宝塚に住んでいて、阪急と福知山線ともに乗ったことがあるけれど
福知山線で旧型客車に乗ることがあると、明らかに普通の電車とは違う、古くて長距離列車独特の雰囲気で、妙にワクワクした記憶があった
走行中にドアを開けてデッキに立って外を眺めていたこともあったし(今考えればかなり危険だけど)
遠足で1年に1〜2回、宝塚から先に行くと、武庫川沿いの雄大な眺めに子供ながら圧倒されて見入ってしまった
ただ、親は福知山線は本数が少なくて不便で、車両も汚いからか、阪急ばかり使っていたような気がするな 自分も阪急沿線にいたけど福知山線に乗ったのは多分福知山に行った時と鳥取の東浜に行った時だけと思う
1986年昭和61年11月までは大阪ー宝塚は阪急が当然で福知山線に乗るのはマニアかおかしい扱いだったなorz
あの「ゆっくり感」が、たまらなかったねえ!
これぞ客車鈍行の醍醐味!!
ちなみに夜行「山陰」にも5回ほど乗車したものの、5回目は1984年末の段階であって、
12系なんかに既に置き換わってしまっていた。
(このときには鳥取で下車して因美線のDC普通列車に乗り換えて、さらに津山で岡山に出て、あとは宇野・四国方面の連絡船を介したルートで高知へ帰省w)
…ま、旧型客車で福知山線経由でならば米子までが最長距離。
721列車、723列車、725列車は1985年まで旧客だった
27年前の話だから当然今の女子大生は知らないだろう
今の女子大生が知らないと言えば>>6でも書いたけど
1995年平成7年以降放送できなくなってしまっているキャンディキャンディも旧客同様に知らないだろうな
1980年昭和55年に山陰本線の旧客723列車を見ながら
BSS山陰放送テレビでキャンディキャンディを見たが
1980年昭和55年当時は当たり前にようなこの光景だが
2012年平成24年の今日ではどちらも不可能なことworz 川西池田発尼崎港行き客車に乗った、金楽寺駅を尼崎港駅と間違え
下車しようとしたところを、車掌に指摘されあわてて車内に戻った。 50系化する前の山陰線はまさに汽車ワールドだったな。
昔の非電化本線がそのまま残っていた。あの頃に旅行できて良かったよ。
1986年昭和61年11月までつまり国鉄最後の改正前まで
1985年昭和60年3月に大部分の路線からは旧型客車が
消えた後も最後まで山陰本線では頑張ってくれていた
最近は山陰へは車でしか行かないがもう二度とあの頃
あの国鉄時代昭和時代の感動ないだろうそれが寂しい >>27
門司発福知山行きが残ってた時代までが、特に良かった。
まだまだ茶色の未更新の客車も多く、35や61が数多くいたし、
大型運用も多く、客車=長距離のイメージ通りに走っていた。
旧型時代の山陰で乗った茶色のスハ42が良かったなぁ。
事情知らずに乗った若い女性まで驚いて、鉄に質問しまくってたもんな。
あの時代に山陰線で旅行できたのは良き思いでであり、
本物の汽車旅だったと思う。 デッキから人が落ちても世論は騒がなかったな。
「落ちる奴がどんくさい」、実際そうだっだから。
今では「ホームドア設置しろ」という時代までになった。 子供のころ完全に停止する前に飛び降りるのが、かっこいい気がして
よくやって叱られた。
このスピードなら大したことないと思うようなスピードでも、予想以上に
衝撃(こけそうになる)があったことを記憶している。 >>30
山陰本線の小駅だと完全に止まらないで発車してたww
今では普通列車も通過する居組駅あたりだったと思う 61系…背もたれは木、シートピッチ狭い、乗り心地最悪。
35系…直立した布背もたれ、座席に空き無い時に仕方なく座る。
43系…ここからはまあまあ、安定した乗り心地、ヘッドレストは木。
10系…明るい、軽快、天井広い、ヘッドレストはビニール。
50系…美しい車内。色はイマイチ。ロングシート、広い自動ドアが珍しかった。
12系…憧れの臨時急行車両、冷房付、シートピッチ広くエアサス、これが普通客車に格下げなんて信じられなかった。でも白帯消したりセミクロス化、車掌用扉付けたりして、えらく落ちぶれた。 >>31
それはないでしょう。どんな駅でも数十秒は停止してましたよ。 連結器圧縮させようと最後に機関車の自弁だけ利かすと、客車はユラユラしてる。
それのことでしょ。 ガシャガシャガシャガシャーン
て奴か。
密自連は20系から採用? >>36
その通り!勿論乗降客ゼロの小駅の場合に限定される
そのガシャガシャガシャーンの表現久しぶりに聞いた >>36
日本海の京都駅到着でも伸び縮みしてたぞ。直通ブレーキ引かずに停めてたなww ホームとは反対側の道床に下りて駅舎に直接行ったりしてたな。 最後部の開けっ放しの貫通路から流れるレールと景色を見るのが好きだった。 ぜんぶ旧客の時代、よりどりみどりでどの車両に座ろうか迷って
せっかくだからと一番古そうなニス塗りオール木製シートの61系だったかに座った
寝不足で疲れていたせいもあるが発車のたびに「ズゴーン」と脳天直撃の衝撃とともに
体がシートから3pくらいズレて大変な思いをした
さすがに耐えられなくなってスハ43に移動したら快適だった >>39
急行日本海?
小湊鉄道の気動車が小さい駅では超微速だが停止していなかったな。
スレ違い失礼。 1978年昭和53年10月までは急行だいせんも旧客だった
勿論70年代後半は青春18きっぷはなかった訳だけれど
スハ43とは言え使われていたのは周遊券時代ならでは
今のムーンライトえちごやながらの感覚だったろうと
思ったが急行だいせんは全車座席指定車なので別払い
普通列車と急行列車が同じ車両とはすごい時代だった 大阪駅の中央改札を入り、階段をのぼる。
階段の上のほうへ上がっていく途中で客車の屋根が見えてワクワクした。
ホームに出ると、最後尾に乗ろうかそれともいちばん古いやつに乗ろうかと考えながら編成を見て回った。
どの車両もガラガラで席は選び放題。結局最後尾に陣取って大阪駅を出発。
行き先はもう覚えていないけど、鳥取まで乗り通した。
昭和59年の春休み。
東京から大垣夜行を使い乗り継ぎをした時の思い出。
淀川の鉄橋や武田尾の渓谷をのんびり走った汽車。
楽しかったな。関西の人がうらやましく思えた。 続き
大阪まで18切符で来て、四国ワイドを買って四国旅行をする途中の出来事。
結局、汽車の魅力に負けて鳥取まわりで因美線津山線経由の四国行きに急遽変更したんだった。
山陰線のある京都には汽車があるのは知ってたけど、大阪にも汽車があるのにすごく驚いたのを覚えてる。
たまに大阪駅に行くことがあるけど、あの日の光景をいまだに懐かしく思い出す。
中央改札もだいぶ変わったけど。 あの頃、山陰線だけ異次元の世界だった
東京から京都まで来て山陰号のスハフ42に乗り込むとあまりのタイムスリップに
異国の果ての知らない国まで来てしまったような気がした
2,3日、旧客ばかり乗ってカニめし三昧していると、しまいには感覚が麻痺して
12系さんべに乗るとまるで未来の客車のように感じた
その後14系の殿様気分を知ってしまうと12系なんかよく乗れたなぁなんだけどね 山陰本線は旧型客車引退後も50系や12系が頑張ってた
12系客車が引退し完全に客車列車が消えたのは1997年
平成9年だからもう15年前の話になるがよく頑張った
今は電化区間は223系電車になったが、やはり客車が
福知山線山陰本線には似合っていたんだなと福知山線
脱線事故のニュースを見るたびに嫌でも思ってしまう >>45
ディーゼル旧客に慣れた者にとっては、電機に牽かれてかっ飛ばす北陸線・常磐線の旧客に乗ってシビれたもんだよ。 >>49
北陸本線522列車、北陸本線523列車に乗った事あるが
北陸本線では当時既に快速電車が主役だったのが残念
522列車は糸魚川、523列車は福井で快速電車乗り換え 山陰本線で旧客に乗ってたら電子音のハイケンスが流れたことがあったわ。
どれくらいの車両が電子音に交換されてたんだろ? 福知山線で旧客が無くなる前、ごくたまにオハニ36が連結されていた。
荷物扱いがまだあった時点か、その後かは良く思い出せないけど、後の様な気がする。
郵便車が付いていた時は全く姿を見せなかったので意外に感じた。 旧型客車とか、車内の環境や衛生状態は実際どうだったんだろう?
もともと相当な経年車両だったし、エアコンなど当然無し
トイレも垂れ流し式だったし
真夏や真冬なんかに混雑している車両に長時間乗っていると、体調を崩す人とか居なかったのかな? >>53
昔はそれが当たり前だったからね
変な話、旧型客車全盛期は生理用品もなかったから、
女が人前で生理の血を垂れ流すのも不思議でなかった
何よりも、SL時代の匂いと煙草の匂いが充満していた
変な表現だが、昭和時代の匂いだったと記憶している >>53
現在の生活や車両を基準に考えると、そう思えるんでしょうね。
そういえば、国鉄時代は、車内に消毒液の匂いが残っている事がありましたが、あの匂いは
国鉄独特のものだった様に思います。 子供の頃(福知山線非電化時代)に宝塚に住んでいたけれど、親に連れてもらって大阪に行くときは殆ど阪急ばっかりだった理由が分かったような気がする。
阪急は既に冷房車が走り始めていたし、車両の設備や手入れがまるで違っていた。
古くて汚い、埃っぽい旧型客車自体を、多分毛嫌いしていたんだろう。
まして、煙草を吸わない人だったから、車内に充満していただろう煙草やその他油や訳の分からない臭いも相当不快に思っていたのかもしれない。
子供の頃には分からなかったな。
まあ、最大の理由は、運賃が高かったことや、本数が少なすぎて不便過ぎることだろうけど。 夏の暑い車内の窓から顔を出し涼んだことがどれほど楽しかったことか。
今となってはクーラーが普及したことと安全性が高くなって出来ぬこと。
ああ、もし戻れるならあの時代へ戻りたい。 開けっ放しの扉から手摺をしっかり掴みながら身を乗り出したのは良い思い出。
武庫川沿いとそのトンネル・鉄橋、淀川鉄橋は特に面白かった。 >>54
出鱈目にも程がある。
ゆとりを騙して悦に入ってるのか? >>47
山陰本線は最後の汽車運用やってた路線だからね。長距離客車列車が大量
に行き交い、荷物郵便輸送も健在、寝台車付きの夜行普通、夜行急行が残り、
渓谷、海岸沿いを走り、餘部鉄橋、撮影名所のコンクリート橋、
スイッチバックまであった。昭和30年代ぐらいまでの長距離非電化本線の
形態が最後まで残ったのが山陰本線だと思う。
>>51
最末期だね。山陰に入ってたスハフ42のオルゴールも既におかしかったな。w 客車の切り離しは大体どこでやってたっけ?
福知山?豊岡?鳥取? >>63
京都や大阪からのは、福知山で切り離し、上りは逆。
豊岡でやってたのがあると思うが、あと米子と出雲市でもあったと思う。
鳥取は覚えがない。 山陰線・福知山線で貨物が復活することは
無いのかな? 普通列車・荷物列車・貨物列車(この場合は列車掛資格を持ってる車掌)に
客扱専務車掌が乗務することってあったんだろうか? >62
山陰本線にスイッチバックなんてありましたっけ? >>68
鳥取と福部の間にスイッチバックの信号場はあった
相谷信号場の廃止・鎧・久谷の棒線化と、城崎〜岩美は悪循環してますなぁ。
旧客の普通列車にカレチやレチチが乗ることってあったんだろうか? >>69
「出雲」の廃止まで、残っていたんでしたっけ? 旧客最後の年、僅か1両残っていた
ぶどう色2号塗装のオハフ33に乗車して、このスイッチバックで列車待ちした記憶が
あります。 >>71
オハフ33 389です。48 は青15号でした。 ごめん、そうだった。
しばらく残ってた5両のうちでごっちゃになってた オハニ以外ではニス内装の最後の2両だね。
もう一両のオハフ33 2625は福知山で邂逅したが
一期一会だった。
(遠方&幼少なので旧客自体に乗り鉄できなかった)
生涯の残念。 2625は、福知山線で最後に乗った篠山口発大阪行き普通列車に連結されていて、
迷わず乗りました。確か60年3月10日だったと思います。
福知山からの普通は既に12系で運用されていました。置き換え数日前の光景です。 うらやましいね。
沿線に住んでたり親戚があったりとかだったら
幼少だろうが乗れたんだろうけどね。 沿線住民だったよ。汽車通学している小学生も居たな。1時間に一本じゃ、通いにくかっただろう。 >>76
当時の福知山線は、三田あたりまででもちょっとした旅行でした。今は篠山口行なんて
本数多いですからね。 夏休みと冬休みは小学校に入ってから毎年1人で福知山まで帰省してたわ
和田山で乗り換えるんだけど接続が悪すぎて1時間は待ってたな
電車が駅に止まる度に線路の錆が室内まで舞い込んで目に入るし、
乗降口は開きっぱなしだし連結部の蛇腹は破れて布そのものが無くなってるし今じゃ考えられないワイルドさだったな
俺の記憶だと戦後の青い客車の乗降口は引き戸で、戦前の茶色い客車の乗降口は中折れ式でまともに閉まらなかったと思うんだけど
今見る写真じゃ中折れ式が見当たらない、ガキの記憶なんかそんなもんかな
ボックス席の窓の下に設置された慎ましいテーブルの下に付いてた栓抜き使ったことある奴いるの? >>72
これかぁ。茶色のオハフ33だけが廃車されて、その他3両はJR化後も
生き延びた。オハ46 512は大井川へ、他2両は動態運転。
その後オハフ33 48だけ梅小路で解体ショー。w
http://blogs.yahoo.co.jp/ozayo1965/7480267.html
当時の国鉄にはレトロ=カネになるの感覚はまだまだ無く、どうせ残す
なら近代化改装された快適なハコの方が良いだろうって判断する人が
多かったそうな。高崎は静態保存も視野に入れて客車を集めたので、
未更新車も動態でギリギリで残せたって感じか? 酉に継承されたのは、マイテと64系以外では
オハフ33 289
オハフ33 48
オハ46 13
スハフ42 2254
の4両かな?
JR化初期の頃のドア保安は、今みたいにうるさくなかったんだろうね。
少し前までの束の旧客臨みたいに各ドアに配置とかはしてなさそう。
http://homepage2.nifty.com/tkataoka/history/008/history_008.htm
↑これとか。つか反対ホームへ出てるとか
まだ国鉄時代の大らかさのままだし。JR関係者も乗ってるのに。 ホーム反対側の道床に下りて改札口に向かうというシーンはあったな。 今日、古い資料を整理していて見つけた記事ですが、1984年夏に、大阪から熱海へのお座敷
列車に、米イモのオハネフ122018を連結し、寝具置き場として使用したとの事。
使用後は、721レに連結して出雲区へ回送したとの事ですが、団体旅行とは言え、営業運転で
東海道本線の京都以東に入線した、最後の10系寝台車かも知れません。 >>79
電車が止まるたびって
もう電化してたのか? JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL >>83
営業運転では最後かな。10系寝台の上野撤退は1982年の上越新幹線開通
によるダイヤ改正だったと思う。その後、臨時での使用があったかは不明。
回送なら高崎へ保存車回送してるので、それが最後。(その後、横川で保存) SL末期の山陰ローカルってどうやって出発合図出してたんだろ?
DL同様に無線機で合図出してたんだろうか? んなもんSL末期どころか国鉄末期まで同じでは?
当務駅長がいる駅は出発合図機で出発合図
無人駅が無線
じゃね? まあSL当時なら古風な
直接肉声で「ハッシャー」もあっただろうね。 ホーム端の小さなスピーカから『ビィーー』って音がしてから
機関士さんが汽笛鳴らして発車していったよ。
1973年か1974年の3月後半、早朝の特牛駅下り蒸気列車
降車後のはなし。(ホームに駅員無し)
他のいろんな駅でもブザーが鳴っていたけど覚えてるのが特牛
誰がどこからブザーを鳴らしていたかは不明。 >>90
どうやって鳴ってたのかまではあなたと同じで判らんけど、
ブザーは間違いなく出発合図だね。 ブザー付きのとこと、無線機でこちら○○列車車掌、機関士さんどうぞ、
こちら○○列車機関士、○○列車発車!、ポォー・・の流れだった。
旧客は静かだから、掛け声が良く聞こえたなぁ。 >>92
蒸機時代?
ともかく、車掌を介さない「出発合図」常用の頃だったなら
無人駅が無線機扱いだったらしいね。 旧客車両が好きで特に夏休みには、良く乗りに出かけていたな。
夜行山陰も窓を開けて真っ暗な中に白熱電灯が光る田舎の風景を見ながら楽しんでた。
落ち着いた佇まいの車内、61系、35系、43系・・・・、
何故だかあの車内の匂いが妙に好きだった。
あの頃にデジカメがあったら、どんなにか・・・・
そして、今はもうあの懐かしい匂いもすっかり忘れてしまった。 >>96
今残ってる現役車両も、あの頃の匂いは変わらないね。
束も支社内イベントばかりなので、長距離乗れる機会は無くなって
しまったけど。 京都駅山陰線専用頭端式ホームも架線が無くて、
ローカル線独特のムードが醸し出されていて良かったなあ。
あれはまさにディーゼル王国の象徴だったよ。 夏休みは福知山の祭りと花火が一番の楽しみだった
姫路から片道4時間の道のりが行きと帰りで正反対で長いこと
帰りに福知山駅の入り口で売ってた水槽のニジマス買って帰りたかった 100まで来たね
旧型客車=昭和時代と言っても過言ではないが山陰本線福知山線はまさにそれだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています