懐かしの8620
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未だに現役の大正11年生まれの58654、3重連花輪線、
最後の活躍場であった湯前線…
鉄路あるところに8620無しといわれた、はちろくを語りませんか? 湯前線での最後の活躍を小学5年生の時に見学に行きました。
機関庫の見学、貨物列車発車前の58654のキャブにも乗せて頂きました。
同機が、ボイラ換装、台枠復旧を受けながら幸せに運行している姿には、
感動します。
また、有名な花輪線3重連を初め、随所で「空転しない機関車」として
活躍したとの事。
皆さんのはちろくの想い出を書いて頂ければと思いスレ建てしました。
※想い出・現役ともの広くて寛容なスレになれば良いと考えています※ 自己レスですが、五能線その他、走行線区は沢山ありますよね?入換作業専用
も含め。
最初8620・9600兄弟スレの方が良いか考えたのですが、
あえて、ここは、懐かし板なので、対象年齢を上げる意図もあり、
スレタイは8620としましたが、兄弟機9600の話題があってもいいですね。 “ハチロク”は自分的には余り馴染みのないSLだけれど、花輪線の三重連や五能線の印象が強く残っているね。
我が家にも貰い物だけど、龍ヶ森の三重連のパネルが未だに飾ってあるよ。
五能線の混合列車がハチロクには一番似合っていたと思うけど、残念ながら乗らず仕舞いだった。
あとは松浦線でお召し列車を牽いたことがあったよね。
ピカピカに磨かれたハチロクを雑誌で見た時に、形状のモダンさに衝撃を受けた記憶がある。 やっぱり8620の需要は少ないか〜と、と本人がageてみる。
休日中にエピソードの1つも書くようにします(汗) 末期でマトモな路線は五能線と花輪線くらいだからな
松浦線にも一部8620のスジはあったが
あとは
越美北線
福塩線
香月線
室木線
細島線
湯前線
あたりが思い出される
そういえば飯山線でも走ってたね 五能線で一番列車牽いてて海にドボンしたのって何号機だったっけ? 70年代前だと、東京近郊でも見られた様ですね。
千葉の8620は、「蒸気機関車(キネマ旬報刊)」にも出てきますね。
私は1970万博の年で小学1年生だったから、8620は「憧れの」機関車でした。
で、湯前線の最後の8620にぎりぎり会えたのが、小学5年生でした。
58654も、後刻復活したけど、一時はカウキャッチャーとか付けられて、
「長生きもしんどいんだな〜」と思いましたが、
最後は正道、然るべき8620の姿になって復活、機関車も人の生活も
最後まで分かりませんね。
台枠まで新製された、58654に、是非また会ってみたいですね。 8620は島安次郎(漢字違ったかな?)考案の先輪と第一動輪をリンクさせた曲線通過能力の高さが、現場で評価されたと、何かの本で読んだな。そっくりの後継機C50ではフランジ摩耗を嫌ってこの装置を外しだけど、結局現場は8620を選択したと。
8620も9600も、敢えて最高水準を目指さす、幹線からの転用を考慮していたから、国産名機の称号を頂いたんだろうね。
9600の広火室採用には、執念ささえ感じるかも? 8620ほど広範囲に活躍した機関車っておそらく無いでしょう。
稚内、根室から鹿児島、更に四国まで。
D51は宗谷本線は音威子府まで、根室本線は釧路までだし、
DD51、C57、9600とも四国へ行ったことが無いし。 >>13
その汎用性を評価すると、やはり8620は名機だよなぁー 国鉄が協力して撮影された三国連太郎主演の・大いなる旅路・の劇中で雪崩に乗り上げてハチロクの貨物列車が脱線転覆するシーンがあるが誰か詳細をご存知かな?
昭和35年の特撮とは思えないし・・・ >>16
テレビの中スレでもカキコしたが、東映動画製作「きかんしゃやえもん
D51の大冒険」中でも回想場面として大いなる旅路の18633脱線シーンがあった。 >>6
あと、久大線豊後森区の86。ここはなぜか、貨物がCの86で旅客はD60という
こと多かった。
中学生のころですが、最初に買った鉄道ファンが、松浦線のお召し機として、ハチロクとC11が走った
記事が載っていた号でした。蒸気機関車って、こんなにも美しいのかと感動し、それ
以来、8620型が一番好きな機関車となっています。
ボイラの太さも、化粧煙突も、ランボードの曲線も、みんな優美です。テンダすら、
絶妙のデザインです。
大正の世になり、日本もようやくこれだけの機関車を作れるようになったと
言うとき、その性能だけでなく、当時のセンスもいっしょにデザインしてくれ
たんだなと思います。機関車は先端を行く機械だったからこそ、美しくしたい
という意志が働いていたのではないでしょうか。
もう、そのころすでに、8620は幹線の花形機関車ではなく、地方線の隠居仕事に
回っていったのがほとんどでしたが、それがまた、なんとも日本的な、いい味の
景色を作っていましたね。 東京近辺では水郡線も有名ですが、上菅谷から分岐している太田支線にもハチロクは入線していたのでしょうか?検索しても太田支線についてはハチロクの資料が見つからなかったので。 >>20
8620は、とても姿が優美だね。
9600のずんぐりむっくりの姿も好ましい。
あのような優美、特徴のあるSLは、命名基準が変わった(蒸気機関車の性能が向上した)後には余り無くなったかもね。 九州の58654さんは、カウキャッチャーとか付けられて、
随分辛い思いもしたと思うが、
今は、オリジナルデザインを大切にされて、台枠まで新製されて、
幸せだろうね。 50年くらい前、倉敷駅に入替用に常駐していた。
1日数回、倉敷レーヨン(現クラレ)の専用線にも運用されていた。 九州の8620は、58654があるが、テンダーが、何となく安っぽい。
鉄板を貼り付けたようだ。
九州の8620で、昔、鹿児島機関区にいたのは、テンダーがC56の様に左右を
切り取っていた。 48674・48679・48696・68649である。
九州はテンダーがおかしい蒸気機関車が多過ぎる。
8620は勿論の事、9600・C50・C55・D51である。
8620とC50は、鹿児島機関区に、9600は、門司機関区に 39683・59680
69667
昔の大分では C5551〜C5554 そしてD519・D5112・D5123・D5193
である。
北海道の蒸気機関車は、改造が激しいと言うが、九州のがかなり激しい。
デフレクターのみならずテンダーまでとは。
>>27
48674の写真は保育社のカラーブックス「蒸気機関車」に載っていますね。
それと、C55の51〜54は急行「高千穂」新設時に指定牽引機として、ロングラン対応の為
水タンク容量の大きいD51とテンダーを交換した…んですよね、確か。
スレ違いゴメソ。 >>25
58654って大正に造られた部分はどこが残ってるのですか? 調べてみた。
1987年にボイラーを新日鉄にて新製、動輪を住友金属で新製、あとキャブ、ランボードを取替え
煙突も現役末期のパイプ形から化粧煙突に交換しているのでたぶん新製した。
2007年再復活に際して問題の台枠を日本車両で新製した。主要部分で大正時代から残っている物はありませんや。こりゃもう58654ではなくて88667ですね。 >>30
ロクサン型の台枠が残ってるのに103系3000番台を名乗った車と逆いってるな。 >>30
わしも物忘れのひどくなった脳みそと勃ちの悪いチ○ポを新しいのと取り替えたい。
あ、それとテンダー(嫁)も新しいのを・・・・ 9600も遅くまで残りましたが、動態保存されていませんね… 五能線の沿線に静態保存されてるヤツを動かそうという運動はどうなった? ハチロクといえばインテルのCPU(の系列)と認識してる人の方が、車より更に多いのではないかと。 東京から一番近い現役8620は水戸の8630などが消えてから
(昭和46年ぐらい)長野の美しい18688と88623になっていたね。
飯山線の朝の上り通勤列車222レを牽くのが晩年の日課。
88623はデフなし化粧煙突のままで長野無煙化後は福井へ行って
最期になったっけ。
18688は引退後千葉県に保存されたが千葉の多くの保存機の末路と同じく
哀れ解体・・・。 >>41
昭和四十年代に総武本線沿線に住んでいた者だけど、86というと貨物を引っ張る機関車だった。
客車を引っ張る姿は見たことがなかったかも。 8620の先台車にドイツ国鉄52型にも導入されたクラウス=ヘルツホルム先台車が導入されなかった本当の原因はクラウス=ヘルツホルム式先台車のパテント料(特許権)が高くて手が出せなかったからだと思います。 当方寡聞にして知らんのだけど、「8620」が形式称号になってるって事は、
「8600」型、ってのがあったわけ…?
あと、屁理屈言うと、上3桁が形式になるんなら、このSLの場合、「8620〜8629,18620〜18629,28620〜28629,…」
って付番されるべきものように思える。まあ、こんなことやってたら、最終番号(687両目)は
「688626」って、6桁にしなきゃいけなくなっちゃうけど…。 >>44
調べればわかるけど 8600型もあってそのため8620型に次の形式
があてられたのだっけ? 増備形式風で20両に満たなかったからか。
同じ意味だが逆に形式がさかのぼったのが初代9600=9580型だっけ。 ナンバリングからすると当初は量産するつもりはなかった?
でも8000代はあらかた使いつくしたあとの登場だったからかな… みなさんはどう呼んでいた? 私は
88622なら「はちはちろくにーにー」
18688なら「いちはちろくはちはち」
58654は「ごーはちろくごーよん」
だった 五能線の海に落ちた列車って、もしかしたら後の有名な鉄道写真家が乗るかもしれなかったんだよね。 >>45
8600という形式は無くて、8550(輸入機。アルコ製)が61両あったから
8600をオーバーしていて、8620という半端な数字からになったらしい。 最晩年まで比較的きれいな姿を保っていたのは何号機あたりかな?
昭和45年以降なら長野の88622、18688(パイプ煙突だけど)
あと九州の88622とか・・・。 >>49
ヲタ急には4110、ソー鉄には2120、KOには6760がいたな >>50
そうなんですね、勉強になりました。
8620好きの私に課題を振っていただいた感じで、
GWの勉強ネタにバッチリですww
宿題提出は無しですよね?・・ww 大きい門デフの現役時代の58654
煙突もストレートだった
湯前線で貨物牽いてた >>32 103 3000は、アコモ改造時点で台枠も新造じゃ? 五能線にも門デフ機関車あった?
鉄だった親父言ってた
事実? >>64
いたよ78627。豊後森から弘前へ転入、のちに廃車後8630に取付。
ただ8630も梅小路入りしたため取り外した。
よく覚えていないが両機とも入れ替え仕業専用で五能線本線にはでなかったような記憶もある。78627はどうだったか >>65
RFの94年12月号に、門デフ8630の本線走行の写真がありますよ。 昭和40年7月
肥薩線の瀬戸石駅で人吉地方大水害に伴う土砂崩れが列車を直撃しながらも、奇跡的に助かった38633号機(乗客・乗員も全員無事)
都城発門司港行きの夜行鈍行列車を牽引中の災難だった。 >>67
この頃、8620牽引だったんだね。
この2年後に肥薩線坂本駅から都城行に乗ったけど、牽引機はC55だった。
かなり長編成だった記憶がある。8620だと運転大変だっただろうね 8620でも肥薩線恐怖の矢岳を越えていたってこと?。
それなりに客車短くなきゃあの恐怖の坂上がれんだろう。
大正生まれの4110大車輪の活躍と裏腹にD51は線路壊すから嫌だと拒むはE10は
空転ばっかしでろくに働かずに放り出したりしていたのに。 どう見ても旅客向けの構造なのに、花輪線とか肥薩線とか山で重用されたのはなぜなの? カーブがきつすぎて
D型機じゃ入線できなかったから 山岳線ではないが、五能線もDE10に代わるまで主力だったな。
客車1両に貨車が10両以上の異常に長いミキストで。 >>69
8620は矢岳越えには使われなかった
瀬戸石は川沿いで別に急勾配があるわけじゃない区間
>>71
D型入れると保線の面でいろいろややこしい
米坂線なんかは路盤改良して8620から9600に変えた
別に重用されたわけではなく、他に適当なのがなかっただけ
C56がもし南方にいかなければその分の8620が早く消えた可能性もある
八戸線・二俣線・陸羽東線・陸羽西線・志布志線などもC58が入って8620を駆逐したが、
現場運用的にはそれほど変わらない評価だった
むしろ使いやすかったという声もある >>69
C57 9は矢岳越えで単機回送してたから、ハチロクも何かの都合で単機矢岳越えしてたのと違う? >>75
鉄ピクの巻末のニュース欄にそんな写真があったね。
撮影はもちろん地元のF氏 旧日本国鉄花輪線では終着駅のターンテーブルが小さすぎて8620しか導入できなかったため、採算の取れない3重連でだましだまし運行していたって。
太平洋戦争後に花輪線の終着駅のターンテーブルが20メートルに大型化改造されていたらC58の重連運転が実現できていたかも・・・。 >>77
終着駅じゃなく荒屋新町じゃないの?
好摩は普通にD51クラス可能の転車台だった(盛岡電化前は区間補機が転向に利用)し、
大館・盛岡は当然同様
あとC58入れても、大更までの小運転や竜ヶ森の補機は逆向も仕方ないわけで
採算とれないといっても三重連だけが採算割れというのでもないし、
三重連はわずか数往復の岩手松尾−荒屋新町区間だけだし
むしろC58を必要とするほどの貨物量がなかったのかも
(補機にC12あたりを使えばC58重連の必要はないし、区間補機なら
タンク機で十分、C11/C56でもよいが、要するに現場が変化を嫌っただけのような) >>77
キネ旬の蒸気機関車No.38に載っている話
高田隆雄氏と久保田博氏の対談より
・86の代わりにC58を入れると横圧がやや大きく、軌道強化がいる。
・C58に置き換えても牽引定数の増加は僅か。
・どうせDL置き換え間近だからC58要らなくね?
と言う理由だそうです。 北海道でのS字キャブのハチロクの写真なり資料を探しているがやはりというか全然見つからない… >>80
で、羽幌炭鉱に払い下げられたもう1両の8653はS字キャブでしたかね? 8620に似た機関車ならイタリア国鉄の640型、625型がありますよ。 8620で
九州のは、比較的癖の少ない車が多いが、
鹿児島機関区の8620は、風変わりである。8620の癖にC56風のテンダーを付けたのがあった。
則ち 48674、48679、48696、68649であった。 原形のハチロクカッコイイね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%848620%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A#mediaviewer/File:Kanto_Great_Earth_Quake_Nippori_Station_another_version.jpg >>30
「それ」が「58654」なら、そうなんですよ。結構まじで言ってます。
人間の皮膚や細胞組織もどんどん更新されていきますから
あなたの論法に従うなら何年前の自分は自分じゃないわけです。
いっぱい新しい部品に変えてもらって、構造物的には
製造当初の部分がたとえゼロだとしても
58654にはちがいありません。
かなり、幸せな機関車だと思いますよ。 神戸港駅にいた8620は煙突とヘッドライトの間に、鐘が付いていたが
それには、訳があったという、神戸港にはメリケン波止場があって、外人が多い。
蒸気機関車の汽笛だけならば、日本人は列車接近を認識できるが。外人は列車接近を認識できない。
メリケン波止場と言うだけあって、アメリカ人が多い。アメリカの蒸気機関車は
日本で言うならば『弁慶号』タイプのが多い。
列車接近を汽笛だけでなく、鐘を鳴らして理解させた。
鐘の付いた8620は、8635、8642であった。 8620が山岳路線で重用された理由、それは
「空転しない」
の一言につきる。
C58は空転に悩まされた機関士が多かったそうだ
電機でもそう。
EH10は踏ん張りが効くので重宝された(あくまで平坦線の話)
逆にEF65・66はパワーはあったが肝心の空転対策が…
冬の平坦線でも窓開けて空転しないかどうか音を聴く
すわ空転となればすかさず手動でノッチ戻し
(自動ノッチ戻し装置はあったがあてにならなかったんだと)
これじゃEF13・15と変わらんじゃないかと乗務員の不満たらたら
JR貨物がEH500導入した一因にはこれもあるそうだ 8620が空転しにくいのは周知の事だが。
C51も同じである。東海道本線の京都側で
姫路快速通称『ヒメカイ』でC51が走った。
C62が特急『つばめ』を牽引するそばを、C51は負けじと、快速通称『ヒメカイ』を牽引した。
一方、8620は、肥薩線北部、則ち、人吉〜八代間で長く走った。
晩年は湯前線に封じ込められた。肥薩線北部にC55、C57の進出である。
8620の湯前線封じ込めは、一説には、D51が関与していた。
具体的には、肥薩線の吉松で、都城方面、則ち吉都線で、貨物列車はC55、C57を使用したが勾配の急な所があって、空転が多発した。
貨物列車は、D51に統一する事となり、鳥栖機関区から、D518、D51889、D511038が吉松機関区に配属された。
そのため、C55、C57が人吉機関区に玉突き配属になった。
人吉機関区の8620は、湯前線封じ込めにあった。
8620の湯前線封じ込めは、D51が関与していたと言う所以がそれである。 C58が空転が多発して運転がしにくいと言われた、線区は
八高線、伯備線、美祢線ですねそれらの共通点は、石灰石を輸送している事です。
だから、D51に置き換えた。八高線のC58は、両毛線に
伯備線のC58は、構内入れ換え、姫新線、則ち、新見から津山・姫路方面
芸備線、則ち、新見から、三次・広島方面の客貨両面に使用された。
美祢線のC58は、重安以北、則ち長門市方面の貨物列車、
厚狭から長門市方面の、直通貨物『石灰石を除く、一般貨物』
宇部線の宇部・宇部港駅入れ換え作業に使用された。 →九州電機大好き
この人知識披露のオナニーばっかだけどその手のヒトなのか?
なんか現実でも煙たがられていそうだ 四国の8620は
8620、28630、48681、58623があった。
いずれも、松山や高松にあった。
九州に比べて、四国のは古臭い。 8620で北九州周辺にあったのは
香月線・室木線ですね。
若松機関区の8620は
28627・38629・38634・48675・58694・68660・88622
中でも88622は、若松機関区に配属される前は、東京の新小岩機関区にあった。
正面ナンバープレートが形式入りで数字がローマン体である。
九州の8620で、かなり珍しい88ナンバーであった為
正面ナンバープレートが盗難されると言う事件があった。 新小岩機関区にあった8620で、88635は、『みにくいアヒルの子』と言われた。
ヘッドライトがシールドビームで、煙突には、皿型の火の粉止めがあって、およそ8620とは言えない程、汚ならしいカマであった。
晩年、北陸本線系統の越美北線で、天皇陛下(昭和天皇)のお召し列車を牽引すると言う、栄光に浴した。
だから、88635は『みにくいアヒルの子』と言われる所以である。 米子機関区の8620で、28635・28675・48630は、変わったスノープロウが付いていた。
真ん中から左右に開く、フラップのある、スノープロウ。
まるで、ヨーロッパ、スウェーデンの蒸気機関車の様なもの。 こないだ、日曜日に熊本駅に、58654を撮影しに行ったけど
高架線に、到着した、更にスラブ軌道にあった。
蒸気機関車が高架線にあって更にスラブ軌道の上を走っているのを見たら、
面白くも何ともない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています