名無し氏(>>369など)の論は、言葉遣いもさることながら、
ちょっと興奮しすぎていて論理破綻が見られる。
一方習志野氏の議論はほぼ冷静で、事実に即して議論を持ちかけていると思う。

とにかく当時は、資材が無いことと、何事も進駐軍のCTSにお伺いを立てないと
ことが進まなかった。もちろんDT13にベアリング産業保護のために、
ローラーベアリングを入れたとか、木造客車鋼体化のために、
CTSのお偉いさんを、千葉地区最悪の老朽木製客車に乗せたwとか、
いろいろ手を尽くしたところもあったのだが、
制御連動OFFを1955年までやめられなかったほど混雑は激しく、
昭和28年頃になっても、窓ガラスに多数サンが入っていたり、
板がはまっている例があった。例えば青梅線の運用車には、ドアにチョークで
「不良」と書かれ、手動扱いの状態が1953年ですらあった。
そういう中でのモハ63新製、モハ72増備車新製、モハ80系登場だったわけだ。
モハ80もそういえばよりにもよって「受け取り検査」の回送で全焼した例が
あったよね。
今の時代からは想像を絶する資材難があって、それによる慣例的安全第一設計が
崩れてしまったことは否めないが、そこにはモハ63を設計し、運転していた組織である
運輸省〜国鉄だけでは、どうにも出来ない「ある歴史的流れ」があったことは
考えを致す必要があると思う。

付け足し的情報としては、車輌に高速度遮断器を設けないで、変電所のそれで
代用する考えだったらしいが、変電所の遮断器は、突流で送電停止にならないよう、
甘めの設定になっていて、それでしょっちゅう車両火災につながったことも
要因としてはあるそうだ。

「決戦形電車」として、質より量の、旧来の安全対策より代用材で3年持たせる電車としての
モハ63は、確かに戦後速やかに改良されるべきだったと言えるが、
それは後年の考え方であり、当時それが許される状況ではなかった。
それをして、致命的欠陥と今言うことはたやすいが、もう少し時代背景を
広くとらえる必要があるかとは思う。
昭和23年製のモハ63は、雨樋が原則としてつき、天井板も張られ、背刷りにも
モケットが張られるなど、なるべく戦前のレベルに近づけようとした努力のあとも
見られる。そういう小改良は続けられていたことにも目を向ける必要があろうる

一方で輸送力不足に苦しむ私鉄にまで入線し、車輌不足を救い、
限界拡大などの施設改良も促した功績も無視できず、
功罪両方に目を向ける必要があるとは、そういうことだと、思いますです。