だいたい25年度製のモハ63は、川崎車輌の見込み生産車買い上げだから、
再度川崎車輌の工場で入念仕上げとなっていた。なので前年登場のモハ80並でしょうな。

昭和23年が実質的なモハ63の最終製作年度と言っていいと思うけれど、
その時期にはまだ「その時手に入った資材で」仕上げた70系や、オハ35が
いろいろ出場していた。
通勤客の死者が多数だったから、モハ63はクローズアップされるけれど、
実際D52のボイラ爆発や、EF13の機器室炎上なんかも、同じように
「資材不足・技術力不足」による結果なのだから、ひとりモハ63のみが
致命的な欠陥を持っていたのではなくて、その時代の車輌はみなもっていたと考えるべきかと。
何がそういう事態を招いたのか、ということの議論抜きでは、歴史を見誤る。

三段窓の試験車輌は私鉄にも案外あった。小田急にも電気系統失火全焼車にあったし、
となりの京王にもあったと記憶。なので、一つの「流行」という側面もあったのでしょうな。