一番懐かしいのは、柿ノ木坂から分岐していた南風ア(はえのさき)線という盲腸線だ。
昭和53年10月2日に廃止され、チャレンジ20,000Kmが始まる前だったので、
乗車した人も少ないのではないか。元々は九州に多く見られた運炭線だったが、
途中駅は二つ、終点の次郎丸までの僅か12.7Kmでは赤字も当然。
末期は、DD13に牽かれたオハフ61が2両という編成で、朝、高校生たちを乗せて2往復、
13時頃に土休日運休の1往復、夕方に2往復の計5往復だった。
もちろん、沿線に並行してバスが15往復も走っており、高校生は定期代が安いから、
国鉄を使っていたに過ぎなかった。
私が乗車したのは、土曜日の夕方の1本目。9月も終わりで、帰路は薄暗くて景色もよく見えなかった。
終点の次郎丸は街外れで、元々は炭鉱の中心地だった所。そのせいか無人駅だった。
ひと駅戻った百足塚(むかでづか)は街の中心で、当時でも炭住が多く残っていた。
ここは、有人駅で駅スタンプまであり、記念に硬券入場券を買い求めた。
すっかり暗くなったなか、19時代の上り最終列車に乗車したが、乗客は私一人だったのも、
いい思い出である。