☆伝説の2輪レーサーを語る☆
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伊藤史郎を始め伝説のライダーを存分に語ろう!
まぁリアルタイムな話は難しいから聞き齧った程度でもヨシ 高井幾二郎やら金谷秀夫を知らんのか 汚れた英雄知らんのか 浅間山レース知らんのか 知らんけど 246沿いのガソリンスタンドで藤原儀彦から貰ったサインは今も大事にしてる 体のハンデキャップをものともしないチャンピオン、ドゥーハン さすがにFスペンサーからドゥーハン辺りの事かと思ったら伊藤史郎かよ
50代、60代は自分が一番熱かった頃がすでに伝説の域だと自覚しろよ 菅生のストレートで前じゃなく空に向かって行ったやついたっけ。 契約金が入れば手にした額を派手に使う。100万でも200万でも一晩で平気で
使いまくる。貯金なんかしない。
女にも不自由しない。決してスマートなルックスではないが、180センチの身長、甘い声、
母性本能をくすぐる弱気な一面を垣間見て、史朗の虜になる女性は少なくなかった。
雪ヶ谷の自宅にはガールフレンドたちがしょっちゅう押しかけてくる。
女同士が部屋で鉢合わせなんてことも珍しくない。
「そんなの俺の知ったこっちゃない」
感情のおもむくままに史朗は無軌道な生活をむさぼっていた。
ありったけのお金を使い、抱きたいように女を抱く。
「レースに勝とうと思ったら、他人に好かれちゃおしまいだ。嫌われて嫌われて
孤立しちまうくらいがいい。自分をとことん追い込んでギリギリのところでマシンに乗る」
―それが史朗のレース哲学だった。
「史朗さんはバイクに乗るのが一番辛かっただろうね。あれだけメチャクチャをして
誰からも嫌われて、それでも表面的には”史朗さん、史朗さん”と立てられ、すべて
許されるのは結局レースで勝つからだ。ともかく速い。だけど、もし勝てなくなったら
どうなるか、それは本人が一番良く知っている。勝つしかない、勝つために自分でわざと
そういう状況に追い込んだんだからね。相手に対する牽制じゃない。あくまでも自分に
向けての行為なんだ。実際、彼はそれで没頭できた。
レース前の興奮、集中は物凄かった。しびれて、全身が震えるってくらいに・・・・。
でも、怖さを振り切ってレースに出るまでのあの苦しみ方は気の毒なほどだった。
だからね、私生活がなおさら乱れた。夜は眠れない。眠れないから睡眠薬を飲む。
結局、悪循環が始まったんだ。」
(CBSソニー出版 消えた天才ライダー伊藤史朗の幻、本橋明泰氏の回想) 第2回浅間(1957年)でヤマハYDに乗った俺はスタートからガンガン飛ばして独走だった。
完璧に”格の違い”を見せ付けて連続優勝、と思った途端にアクシデントが起こった。
7周目、エンジンが焼きついてリタイヤせざるをえなかった。
乗り方が下手なわけじゃない。マシン性能が俺のテクニックについてこれなかったんだ。
他のライダーなら焼き付かないマシンが、俺が乗ると焼き付いてしまう。
それほど俺のスピードは段違いだった。人の出せないスピードで俺は突っ走っていたんだ。
ベルギーで勝った時だったなあ(1963年ベルギーGP、ヤマハ世界GP初優勝)、
オレ、涙が止まらなかった。オレはよくやった、これでいいんだ、これでいいんだって・・・。
あれは速いスピードだったよ。 当時まだ車も完璧じゃない頃だからね、
250キロ近いスピードで行った時、この車は果たして持つか持たないか・・・、
コーナーに入っていくと車がはっきりとねじれるんだ。
オレは他の人以上の乗り方をしてるから、他の選手には分からないもっと危険な
分かり方をするわけだ。
ああヤバイ、これ以上あけたらヤバイぞ・・・なんて思いながら、でもアクセルを
ゆるめなかった。
あの時だったなあ、長い間ベルギーに住んでると言う日本人の老夫婦が、オレの手を握って泣くんだ。
「私たち、ベルギーで日の丸が見れるとは思わなかった。今日まで生きていて良かった」って。
オレも思わず目頭が熱くなった・・・・・・・。
(CBSソニー出版 消えた天才ライダー 伊藤史朗の幻) 単行本の消えた天才ライダー・伊藤史朗の幻は滅多に出てこないけど、
RIDEというオートバイ雑誌の1~4に復刻掲載されている。
これならヤフオクなどで簡単に手に入る。
片山敬済にライバル心を燃やし、またオートバイに乗ってみたいと言う史朗に
サーキットでのテストを快諾した、単行本では実名が出なかったチューナーが
POP吉村というのも明かされている。
単行本の元になったサイクルワールドというオートバイ雑誌の連載は
83年8~84年1月号、84年6~11月号、85年6月号。
単行本でカットされた部分も結構ある。 映画汚れた英雄で最初のスターティンググリッド選手紹介シーンでイトウシロウが入っとるのには笑った まぁ本当はフミオなんだけど 中坊の頃に近所のバイク屋で貰った水谷勝と辻本聡のサイン色紙は未だに大事に残してる
あと高校生の時にモーターショーで貰った小林大と清水雅弘と田口益充のサイン色紙も残してる 先日、某雑誌の仕事で元モトクロス全日本チャンピオンで、WGPレーサー中野真矢らを
育てたSP忠男のオーナー鈴木忠男氏に会った。業界では「忠さん」と呼ばれる有名人。
60年代に活躍された方なので、62年生まれの僕などまったく当時のレース状況などわからない。
話を聞き始めてすぐ、「俺の一番尊敬するレーサーはイトウシロウというんだ」といわれ、
あの四角顔のコメディアンが?と反射的に口にしてしまったほどの無知さである。
かなりがっかりした忠さんの顔を見て、後日調べてみると、なんと「伊藤フミオ(史朗)……
シロウという音読みが当時の通称だった」というこのライダー、63年あたりに一年ほど
大活躍しただけで、拳銃密輸で逮捕、ヤクザとの関係など黒い噂が飛び交うなかレース
シーンから消え、ついでに日本からも消えて、アメリカにわたったまま消息不明になっていた、
伝説的な「天才」ライダーだったのだ。
忠さんは一度一緒にこの史朗とスタートラインに並んだことがあるという。
最後の浅間火山レースで最初にその勇士を見てから、「なんと豪快な走りだ!」と感激。
次は宇都宮クラブマンレースでもっとはっきり目撃、大感激した。
自分がヤマハからプロライダーになった後の1959年、長浜でモトクロスの大会があったとき、
忠さんはゲスト出場していた史朗と一緒にスタートラインに並ぶ。
しかしスタート時にチェーンが切れて、リタイアしてしまった。
そのとき、史朗とは話さなかったのか?と聞くと、「雲の上の人だったもの」と首を振る。
「とにかく走りがすごい。あんな走り方見たことがなかった」
もしもう少し運がよくて、レースに復帰していたら、史朗は日本人初の世界チャンピオンに
なっていただろう、というのが大方の見方のようだ。
つまり、幻のチャンプ、そうなったからこそ忠さんも「永遠のヒーロー」と呼ぶような、
ジェームス・ディーン的存在なのかもしれない。 伊藤史朗は1963年にヤマハRD56で世界GP 250ccクラスに参戦。
大規模リコールによる経営難で1962年に世界GP参戦を見送ってマシン開発に
専念したお陰で勝てるマシンが出来たけど、経営難の影響はまだ残っていて
1963年は12戦中わずか4戦のみ参戦、史朗は優勝1回、2位3回でランキング3位になった。
当時の月刊オートバイ誌の座談会では、スイスのヤマハファンの大富豪から
費用は出すから世界GP参戦を続けてくれと申し出があったのに、断って
日本に帰って来たとあった。
当時はスポンサーのお金でレースするなんて考えられない、部品メーカーのステッカーを
貼るとそのメーカーからお金がもらえると知って驚いたなんて時代だったんだ。 史郎の本持ってるし その後も追いかけてて知ったんだけど、彼その後も生きててハワイに住んでたんだよね そして ハワイでのインタビューも読んだけど遠い昔を懐かしむような穏やかな人生おくっていて…失踪後どんな道程で今にたどり着いたかは語らずじまい もう少し知りたかったな お台場のイベントでジャンケン大会勝って高橋国光さんからロッシのサイン入りTシャツ
貰った時は感激したなぁ 俺の生年1961に日本人として初めて世界GPで優勝した国光さん
腰の低いレジェンドだった 「ホンダなら、本田さんなら・・・」
その言葉を史朗は何度となく呟いた。史朗がそう悔やむのは単に愚痴ばかりではない。
史朗とホンダの間には知られざる因縁があった。
ヤマハのエースライダーでありながらレースに出場させてもらえない、ちょうどその時期だった。
(※1962年、デザイン優先で整備性を犠牲にしたスクーターSC-1のリコールによる経営危機)
「ある日、ホンダの河島さんから呼ばれたんだ」
浜松の本社に出掛けてみると”ホンダに来てくれないか”という誘いだった。
「伊藤君、日本製のオートバイに外人が乗って優勝しても日の丸は上がらない。
マシンだけが世界一になってもダメだ。日本製のオートバイに日本人ライダーが
乗って世界一にならなければ意味がない。それをキミがやってくれ!」
本田宗一郎の言葉はまさに殺し文句だった。
ヤマハの重役連中の態度に業を煮やし、レースに出れない欲求不満も爆発寸前だった
史朗は激しく心を動かされた。
胸の奥に無理やり押し込めていたレースへの情熱が、一瞬にして全身に流れ出し、
史朗はうなずいた。
「日本人ライダーで世界一にならなければ意味がない・・・か、その通りだぜ」
史朗は何度もその言葉を胸の中で繰り返した。
だが、その数日後、今度はヤマハの重役から”お座敷”がかかった。
「あれ、どうしてわかるんだろうねぇ・・・。重役の態度が、どうもいつもと違う。
すごく低姿勢なんだ」
”伊藤君、話は聞いたよ、まさかホンダさんには行かないだろうねえ。
キミね、伊藤史朗、イコール、ヤマハ。このイメージがあるからね。これは大事だよ。
いいかい、伊藤史朗はヤマハなんだ”
そんなことをさんざん言われた。
俺も酔っていたし、聞いているうちにそんなもんかなと思って、つい、ハイわかりました、
って言っちまったんだ。ヤマハの重役は大喜びさ。それがまさか、こんな後にまで
響くとは思ってもみなかった・・・・」
ヤマハの重役の引き止め工作によって、史朗のホンダ入りは幻に終わった。
「そこまでしておきながら、最後は簡単にオレを見捨てやがった・・・」 みどり市にバイク市長がいた時の南海部品のイベントで忠さんと平忠彦さんが
ゲストで来ててサイン貰った時も嬉しかったな 好々爺になってた逆ハンの
忠さんと太目の平さん あと岡崎静香さんも来てたな 一緒に写真撮って貰った あとは堀ひろ子さんにサイン貰ったな 1982京都のカスノモータースだったな
女性ライダーでレーサーのはしり 目もとくっきりの美人だったから雑誌や
バイク業界界隈で人気だったな その後急逝して美人薄命とはこの事かと思った 世界GP初挑戦で見事優勝したのが上田昇さん 1991鈴鹿の日本GPで125クラス優勝
ダンロップのイベントでサイン貰った この時木下恵司さんも来てたな 1979 350
1981 500(ヤマハ) 1986 500(ホンダ)の全日本チャンピオン でも一番印象に残って
るのが1983の日本GPでフレディ・スペンサーの後を追いかけてスプーンで転倒した事
これで全日本チャンプ逃して平忠彦さんに持ってかれた 何でこけたのか聞いてみたら
ギア抜けとの事 これでヤマハを首になった でも愛すべき熱血レーサーだった 世界GPでは一勝も出来なかったNR500だが全日本では優勝した事があった
1981 鈴鹿200` 雨の降る中ペースが落ちたのが幸いして燃費のいいNRは
無給油で乗り切った 2st勢が給油のピットインをしてる間に稼いだリードを
最後まで守って見事優勝!木山謙悟さんにサイン貰ったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています