世間的には「知性」が尊重される、
なぜなら「知性」こそが、言葉を覚えたあとにいつの間にか出てきて「私はー」と意見をいうものであるからだ。

「私」、それは過去の死骸になった知識なのであって存在するものではなく、実際には生きてすらない。
その「知性的な私」からでてくる言葉のすべては実際にあるものからの逃避なのだ。

世間的には「知性」が尊重されるが、「知性」的な人には、「理性」がない。
あれもこれも「知っている」という人には、「理性」が働かないのである。

この知っている、知っていないという知性ではなくて、
「わかる、わからん」という「理性」あるいは「悟性」とはいつ出てきて働くのだろうか?

頭から過去すべての「知識」を追い出して、
「事実だけをなにも変えようとせずにじっと見つめているとき」ではないだろうか?
知性的な私が存在せずに、頭が空になったとき、即座に腑に落ちるのである。

「理性」とは頭にはない。
実際に起きていることと、「まったく同じであるとき」に「わかった」となるのである。

>>1
あなたは地震が来たらどうしたらいいのかと知識的に悩むより、地震にあうことである、地震に直面することである、
なにも逃避せずに「事実だけをなにも変えようとせずにじっと見つめているとき」に「わかった」となるだろう