>>262,263,268
「危機」と、「恐怖」は、完全に違うのだ。
人間のこころ、すなわち頭脳は、まったく違うものなのに区別できない。

「恐怖」は、安全を求める頭脳の行為であり、現実にはまったく対応できない。
「どうしょうか?」という過去を模索する迷いしかないのである。
それが未来のことであっても解答はすべて無知から来る。

「危機」には、こころの運動がない。
それは過去を模索する運動がすべてやんでいるのである。
「どうしょうか?」「どうしたらいいのか?」これがない。

「危機」では、優劣や権威の大小や依存や民族主義と、
普段は、あれとこれに際限なく断片化していて
現実に対応できない頭脳は、その断片化を完全にやめる、

なぜなら生存に関するすべての問題は、
その断片化、すなわち自己が起こしているからだ。

危機では、なにも一切抜け落ちることなく、
完全に「観る」、そこから行為が生まれる。

そこから生まれる行為は
「あなた」のものではなく、「あなた」や「私」という断片化もない。
叡智があるなら、そんな断片化は起きないのである。

安全を求めて残虐になっていくのは、
「恐怖」なのである。

「危機」では、その愚かさや無知の有り様がなく、
すべての「挑戦」に対する即座の対応がある。