住民皆殺しは、大隊命令として、小隊長を通じて口頭で下りてきた。武進に突入する日、後方から一晩中寝ないで
行軍し追いついてきた。野砲重砲部隊2個小隊が、朝早く、4km手前から8砲門で町を砲撃した。

武進は、軍需工場が多かった。午前8時ごろから、友軍の飛行機が市内を爆撃した。これが終わって、第3大隊
(第11、12中隊)が突撃を開始した。

「抗日の巣みたいな町だ。(お前たちは彼らに)何をしてもいい。根こそぎ殺せ」と上官が言った。昼過ぎに市街へ
入った。武進の町は、誰もいないのかと思えるほど静かで、人影が見えなかった。それを一人残らず捜し出せという
命令だった。

5個分隊の戦銃隊員約60人が、一銃(重機関銃一銃)ごと5班に分かれて、路地から路地へとしらみ潰しに探索した。
民家の天井裏、半地下の食品貯蔵室、ベッドの下から、3人、5人と中国人住民が見つけ出された。屈強な男は、その
場で十字鍬やエンピによって顔を潰された。

年寄りと子どもを一カ所の家に集めて焼き殺した。若い女は戦利品扱いだった。寄ってたかって、1時間ほど、おも
ちゃにした。

いまでもよく憶えているのは、工場の横にあった、砲爆撃でできた、直径10メートルほどの大きな穴だった。穴の大き
さといい、深さといい、恰好の“処刑場”だった。穴の中へ、50歳ぐらいの中国人女性、4、5歳の子供、60歳ぐらい
の年寄りと、強姦済みの娘など30人ばかりを放り込み、上から(中国軍が捨てていった手榴弾を)10発ほど投げ込んだ。

50歳ぐらいの女性は、穴の底で虫の息ながら、まだ生きていた。「(その女がまだ)息をしているじゃないか……」
12中隊の誰かがそう言って、ごぼう剣で突き刺した。そこまでしなくてもいいのではないか、と思いながら(自分は)
見ていた……。

「しかし…… MGや歩兵だけが残酷なことをしたのではない…… 南京攻めで、似たようなことは衛生隊もやった……
輜重兵(軍需品運搬)もやった…… 砲兵隊もやった。あらゆる部隊がやったことだ」。