進路の先にある、人工の灯りの群れ、既製品売り場。

ということなら、

ショッピングモールと自販機小屋はイメージとして相似形ということに気がついた。

同じものがスケールダウンして表れる。

一度目は届かなかったものを、二度目は踏みつける。

となると、酸っぱいブドウだ。
手に入らなかったから、くだらないものだったんだと思いこむ。
自己正当化、自己防衛のための認知の歪み。

お仕着せの人生を拒否しながら、
お仕着せの安心と幸福は欲していたということかな。
そんなうまい話はないのだ。
自由の歓びは何物にも代え難くて、そこから生じる責任は分かち難い背面となる。

意識の成長は階段のように進む、
似たようなハードルが何度も表れる。

ショッピングモール、自販機小屋、越えたとしても
道を進めばまたなにか似たものがあらわれるだろう。
なにか、豆電球とか発光ダイオードで光るオモチャとかさ。

夜に向かい、自然に向かい、自身の内面へ向かうほど、
昼の光も、文明の活気も、外の世界の賑やかさも小さくはなるだろうが、
決して消えない。消そうとしてはならない。
それは対になる原理なのだから。

入れ子のような構造、フラクタルの姿をした有限の世界を越えるには、
そのすべてを心でとらえ、釣り合わせ、ひっくりかえすこと。
止揚させることだ。

昼となく、夜となく。
南となく、北となく、
宅地となく、田園となく、
人造となく、自然となく、

左右の、対になる世界を心でとらえて、鎮める。

すると、高架の道路と畦道が、地を走る平面の道でなく、
天地よりも彼方へと繋がっている光の柱になって立ち上がってくる。

光も闇も行き交って釣り合い、波も粒も凪いで静かな、そこへすべてが解けていく。

・・・、という瞑想になったが、はて?それで良かったのか。まあしばらく続けてみよう。