【中日】チアドラゴンズ Part.46 【チアドラ2018】
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愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1�ハは福留孝介に血�゚ており、「bコひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
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もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
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岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
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もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
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「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
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岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 愛知県で生まれ、ごく普通の公立高校である西尾東で野球を続け、愛知大学からNTT東海に進み、中日ドラゴンズに入団する。
王道だとは言わないが、愛知県の野球少年にとって幸せを絵に描いたような経歴である。岩瀬仁紀。
現役最年長選手が、通算1000試合登板という前人未踏の大記録を自らの花道とし、現役引退を決めた。
大学時代は投打二刀流だった。愛知大学リーグの安打記録にあと1本足りない124安打。
岩瀬によると「達成できていたら、その後の野球人生が変わっていたと思う。野手で勝負しよう。そう考えたはずですから。あの1本差で打者への未練が断ち切れたんです」。
4年生の秋にナゴヤ球場のスピードボールコンテストに参加。136キロを計測し、中日ベンチが「あの若者は何者なんだ」とざわついたのは有名な話だ。
バットを置き、投手に専念した社会人時代に才能が一気に開花した。当時は2位まで逆指名枠を使えたドラフト制度。
1位は福留孝介に決めており、「ぜひ1位で」という他球団の誘いを断っての中日入りだった。
★「先発だと飲んでも次の日は試合で投げないからいいけど、リリーフだと次の日も投げるから酒が残っていると困るだろ?」と抜擢のいきさつを話している。
もしあと1安打を打っていれば……。もし酒豪だったなら……。
わずかな「if」をすり抜けて、岩瀬は毎シーズン、当たり前のようにフル回転を続けた。
20年で1000試合。単純に「1年50試合」ペースを積み重ねてきたことになる。
もっとも岩瀬は2015年に左肘の不調などにより登板ゼロ、翌2016年も15試合にとどまっている。
すでに40歳を超えており、ここで一度は引退を申し出たと伝えられるが、最終的に翻意したからこそ米田哲也の最多登板記録を塗り替え、岩瀬の無双伝説は完結した。
20年の現役生活は能力や才能がなければ成り立たないが、強さが伴わなければ1000試合には届かない。
絶対的に故障に強い肉体は、両親から授かったものだが後天的には鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」で磨かれた。
プロ入り前に出会った初動負荷理論によるトレーニングは、関節の可動域を広げ、故障を未然に防止した。
「初めて行ったときから体にすごくなじんだんですよ。それに年齢を重ねるにつれて効果を実感することができました」
統計があるわけではないし、そもそも比較は難しいがプロ野球で最も短命なポジションはどこかと問われれば、多くのファンは「リリーフ投手」と答えるのではないだろうか。
それは実際の試合で投げる数よりもはるかに多い準備を、ブルペンで求められるからだろう。だからこそ岩瀬の20年、1000試合という数字は驚きに値する。
今後、トレーニング理論がさらに進化し、選手寿命が延びたとしても岩瀬の足跡をたどるのは相当に難しいはずだ。
「数字には本当に興味がなくって。終わったときに振り返ればいい。ずっとそう考えていました」
数々の金字塔や積み上げてきた数字には無頓着そのものだった。
歩いてきた道、登った山には興味がなく、かといって遥か彼方を見据えているわけでもない。ただ一歩、一歩。
派手なオーバーアクションやガッツポーズひとつするわけでなく、任された試合を勝ったまま終わらせる。
ちょっとした体調不良すら許されぬポジションで、何事もないかのように実績を積んできた男の生き方だった。
「あの状況でマウンドに上がり、3人で抑えて帰ってくる。あんなことができるのは岩瀬だけだ。もっとそのことを評価されてもいいんじゃないのか」
岩瀬をセットアッパーからクローザーに配置転換し、20年の現役生活の中で最も長く「監督と選手」の関係だったのが落合博満氏だ。
2007年11月1日。日本ハムとの日本シリーズ第5戦(ナゴヤドーム)で、球史に残る「完全試合継投」が行われた。
先発の山井大介が8イニングを投げ、落合監督は継投を決断した。1点差、日本一、そして完全試合。
失点どころか安打も四球も出してはいけない究極の救援だった。1000試合にも407セーブにもカウントされない登板こそが、岩瀬を際立たせる。
あれほどまでに過酷な任務はないだろう。それを命じた落合監督と遂行した岩瀬。2人にだけ通じる思いはきっとあるはずだ。
1974年生まれの同学年には松井秀喜や黒田博樹、ロッテの監督になった井口資仁らがいる。
最後まで現役でいるのが中継ぎで奮闘する岩瀬になろうとは、同世代の選手は思いもしなかったかもしれない。
1学年下の松井稼頭央に2学年下の新井貴浩、チームメートの荒木雅博ら現役の名球会会員が続々と今季限りでユニホームを脱ぐ。
2000安打を達成した福浦和也が来季も現役続行を表明したが、球界の若返りが大幅に進むのは間違いない。
会見で引退を表明したとき、どれも清々しい表情に見えたのは、
やりきった思いがあるからだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています