0001名無し様2017/04/07(金) 20:28:33.97ID:UojlQcBa
松本薫選手について
語り合おう
これからはビロディドのスレンダーボディに慰めてもらうしかないっ
五輪は忘れて実業団続けて来年入賞めざすとかどうよ
別に即やめんでも
2016年リオデジャネイロ五輪後に1年余り休養し、天理大大学院で柔道を研究していました。振り返ってみてどうでしたか
大野 視野が広がりました。修士論文を書いたこともそうですし、柔道教室で子供たちに教えたり、テレビやイベントに出たりして、有意義な時間を過ごせました。
今までは柔道での学びをインプットするだけで、整理する時間もなかった。これからは、この経験をいかに柔道に落とし込めるかが大事だと思います。結果を出さないと、
「あのとき休まずに柔道をやっておけば勝てた」なんて言われかねない。どう生かすかは自分次第です。
修士論文のテーマは大外刈り。得意技を研究し新たな発見はありましたか
日本発祥の柔道が初めて五輪の正式競技となったのは64年の東京だった。中谷雄英(たけひで)さん(77)は日本武道館のこけら落としとなった10月20日の
軽量級(68キロ以下)で見事に金メダルを獲得。柔道界に歴史的な第1号の金メダルをもたらした。当時はまだ「柔道=無差別」という意識が色濃く残っていた時代。
意地と猛練習で栄光をつかんだレジェンドの熱い戦いを再現する。
中谷さんが初めて代表候補に選ばれたのは五輪の2年前、明大2年の時だ。「柔よく剛を制す」が神髄の柔道には元々、体重別という概念がなく、世界選手権も
体重無差別で行われていた。しかし東京五輪で初めて体重別が導入されることになり、普段73キロだった中谷さんは軽量級で五輪を目指すことになった。
当時は今のように代表選考大会はなく、年間を通して随時開催される強化合宿と選考試合の内容で判断する方式だったため、いっときたりとも気を抜くことはできなかった。
五輪までの3年間に実施された強化合宿は58回。参加選手は延べ1万7603人。その中から選ばれる五輪代表は、各階級1人だけという狭き門だった。
「高円寺に代表専用の合宿所があって、ほとんど住み込みで1日8時間くらい稽古しました。コーチからは国民の血税で強化されていることを忘れるなと言われましてね。
もうみんな必死でしたよ。1日の稽古が終わると4キロぐらい痩せていましたから」
激しい争いを経て、中谷さんは五輪開幕1カ月前になってようやく代表に選出された。決め手となったのは2月の国際大会(モスクワ)で、日本勢の最大のライバルだった
ステパノフ(ソ連)に勝ったことだ。
「ステパノフにはそれまで日本の選手は誰も勝てなかった。でも、僕は前年に彼が来日した時の試合を見て研究していたので、得意の足払いで技ありを奪って勝つことが
できました。ラジオの放送で代表に選ばれたことを知った時は、うれしくて涙が出てきたのを今でもよく覚えています」
そして迎えた試合当日、中谷さんは重圧を吹き飛ばすような快進撃で一本勝ちを重ねた。準決勝では強敵ステパノフに合わせ技で再び快勝。決勝ではスイスの25歳、
ヘンニと対戦した。
「顔が緊張で引きつっていたんでしょうね。コーチが気持ちをほぐそうと“おい、中谷、スタンドには美人がいっぱいいるぞ”と声を掛けてくれたらしいんですけど、
耳に入りませんでした」
極度の緊張状態に置かれた中谷さんだったが、主審の「始め!」の声が掛かった瞬間、勝手に体が反応した。得意の足技で攻めまくり、まず小外刈りで技ありを奪う。
さらに大内刈りでヘンニを畳に叩きつけた。だが、主審の手は上がらない。すかさず副審がアピール。審判団の話し合いが延々続いた。だらしなく足を投げ出して座る相手に
対し、中谷さんは静かに正座したまま判定を待ち続けた。
「決勝はきれいに一本勝ちしたかった。でも、待っているうちに、どんな形でも勝てばいいと思うようになりました。勝つことが僕の使命でしたから」
協議が始まってから5分後、ようやく審判団の輪が解けた。主審の手がさっと真横に上がる。技あり。合わせ技で一本勝ち。柔道が五輪で初めて金メダルを獲得した歴史的な
瞬間だった。
東京五輪での活躍が期待される、柔道全日本代表の阿部一二三(日体大)。そして日体大では体育学部の准教授として、柔道全日本男子ではトレーナーとして、
阿部選手をサポートする岡田隆氏。二人に試合で最高のパフォーマンスを発揮するためのコンディショニングの重要性を聞いた。
阿部選手は普段大学で、どのようにトレーニングを行っていますか?
阿部一二三(以下、阿部)「朝練で走りなどの持久系、午後に基礎練習を2時間行います。その後、1時間半程度のウエイトトレーニングをする日もありますが、
僕は週2〜3日しかやらないので少ないほうです」
岡田隆(以下、岡田)「ただ、阿部選手の場合、ウエイトトレーニングといってもすでに体を作るレベルではありません。いかに今持つ技術を高め、鋭い感覚を維持し、
毎日の稽古で力を出し切るかのほうが大切」
阿部「そうですね。僕は強引に技を仕掛けることが多いので、ケガのリスクを減らしたり、もっと動きをよくしたりというのが目的。柔道で強くなるためのウエイト
トレーニングです」
岡田「柔道家は最大筋力、筋持久力、心肺持久力、敏捷性、柔軟性、バランス能力、そして戦術と、求められる能力が非常に多い。すると、練習でやらねばならない
ことも多く、どうしても練習に時間がかかってしまいます。子どもの頃から続けてきたし、生き残ってきた強さがあるので本人は気づきにくいですが、実は体への負担は
すごく大きい」
では、起き上がれないほど疲労がたまることもありますか?
阿部「いえ、起きられない日はないですね。起きたくない日はあるけれど(笑)」
岡田「(笑)まだ、若いからね。ただ、体の内部で何が起こっているかはわからないですし、年齢が上がるにつれて、よりコンディショニングへの意識や知識は大切になります」
今、コンディションを整えるうえで特に意識していることは?
阿部「基本の五大栄養素はしっかり摂るよう、バランスのよい食事を心掛けています。ただ、問題は減量時。量を食べられないと、どうしても栄養が偏ってしまう。
普段以上に、何をどのタイミングで摂るのかを考えます」
岡田「先ほどの筋トレの話でもいいましたが、阿部選手ほど力のあるレベルの選手たちは、ふだんの稽古から常に100%の力で取り組んでいるし、当然、体も
出来ている。あとやるべきことは、日々のコンディションをいかに整えていくか、なんです。だから、体のメンテナンスやリカバリーのための何を食べるかが重要になる」
阿部「確かに…。僕は小さい頃から風邪をほとんどひかないし、練習に出られないほど熱を出したり体調を崩したりすることがないんですね。だから以前は減量中も、
あれこれ気にしていませんでした。でも、代表として合宿に参加する以上、結果を出すためには体調を崩せない。岡田先生に何を食べたらいいのか相談するように
なったのもそれからですね」
岡田「その質問の内容に“一流だな”と感じました。ただ食べる量を減らす選手が多いなか、彼は“米はレトルトでもいいのか、炊いた飯のほうがいいのか”と聞いてきた。
なかなかそこまでは気づけません」
減量時期のコンディションはそれほど繊細なことも影響する?
岡田「そうですね。阿部選手の場合、試合に合わせてかなり体を絞るうえ、期待されている分、かかるプレッシャーも大きい。心身共にかなりの負担がかかっています。
減量期の体は、本人が思う以上に負荷がかかっている状態。正直、この時期は余力なんて残せていないと思います。しかも、体が飢餓状態だからか神経が高ぶって、
夜も眠れない」
阿部「そうなんです。寝つきが悪く、すぐに目が覚めてしまいます。それでも翌日、元気に体を動かさないとダメなので……」
岡田「危険なのは、余力がないことに気づけないぐらい、体が興奮してしまうこと。だから知らず知らずのうちにダメージが溜まる。
しかも柔道は相手ありきの競技。コンディションの指標となりやすい心拍数も、相手の動き次第で変化してしまうので、体調の変化に気づきにくい。本当は体調が悪くても
体は興奮状態なので、元気だと勘違いし、次の日も疲労に気づかず練習してしまう。そしてある日突然、ガクンと崩れてしまう」
阿部「確かに減量中は体調を崩しやすかったので、全日本の合宿中、“ボディメンテゼリー”のことを知って、すぐに試しました。ちょうど世界選手権(バクー)前の
減量期だったので、練習後に毎日、ヨーグルトとボディメンテを摂るようにしたんです。そうしたら、翌日も体が軽く、毎日、しっかりと練習ができた。全然違うと感じたので、
今でも練習後は、ボディメンテを欠かさず摂っています」
1度の開催で45カ国が参加、実に40競技462種目が行われるアジア大会(インドネシアのジャカルタ、パレンバン)の開催がいよいよ8月18日に迫った。
日本のお家芸・柔道は男女7階級と団体戦が実施され、いずれも金メダルが期待される。しかしアジアには柔道強国がそろい、五輪や世界選手権に劣らぬ
激闘が展開される。その独自の雰囲気と実際の戦いについて、そして日本選手団へのエールを、大会の解説を務め、過去にアジア大会にも出場した
平岡拓晃(ロンドン五輪銀メダリスト)、中村美里(北京・リオデジャネイロ五輪銅メダリスト)の両氏に聞いた。
アジア大会が近づいてきました。平岡さんは2010年の広州大会で銀メダル、中村さんは06年のドーハ大会で銅メダル、10年の広州大会と14年の
仁川大会では金メダルを獲得し、アジア大会を実体験し、肌で知る身です。そんなお二人が知る、他の大会との違いやアジア大会独自の特徴を
教えてください。
平岡 僕が出た広州大会は、階段を上がっていってその上に畳がある感じが五輪と似ていて他にあまりないし、選手村に入るのは他では五輪や
ユニバーシアードぐらいだったので特別感がありました。
選手村に入るということで他競技の選手の方と交流することはあったのでしょうか?
平岡 減量があったので練習以外で動くと喉も乾きますし、ずっと部屋にこもっていました(苦笑)。もうひたすら部屋にいたので、選手村のことを
聞かれても部屋のことしか記憶がないんです(笑)。
中村 私も五輪かアジア大会くらいでしか、そのように階段を上がって高いところで試合する機会はないので、印象に残っています。試合場も
2面ほどしかなくて、本当に五輪に雰囲気が似ています。アジア大会は4年に1度で“アジアの五輪”と言われるくらいなので、海外の選手もすごく
力を入れてきます。あと、私は部屋にこもりきりにはならず結構外へ出ていたんですけど(笑)、選手村は五輪と一緒で食堂が24時間開いており、
広州・仁川の時は選手村の外に「ジャパンハウス」という日本選手用の施設があって、そこへ行き交代浴をしたりケアをしてもらって、すごくリラックス
できました。
国によってはアジア大会を、五輪や世界選手権に比する位置づけにしているところもあるようですが、やはり海外勢の意気込みは強いのですか?
中村 他の国際大会だったら諦めるようなところでもアジア大会だと粘ってきたり、執念がすごいんです(※関係者によればエキサイトして噛みつきや
殴ったりといった反則まで見られることがあったという)。なので五輪のアジア版といっても五輪とも違うし、独特の感じがあります。
平岡「男子は豪華なメンバーがそろった」
では、各国がそういった力を入れて臨んでくるアジア大会において、今回の見どころを教えてください。
平岡 男子に関しては73キロ級の大野将平(旭化成)と90キロ級のベイカー茉秋(日本中央競馬会)、2人の五輪チャンピオンの出場で豪華な
メンバーがそろったと思います。この2人は五輪チャンピオンに恥じない試合をしてくれるでしょうし、楽しみです。
まず2階級の五輪王者の名前が挙がりましたが、その他の階級の代表に関しても解説をお願いします。
平岡 今回は全員がすごく楽しみなのですが、中でも飯田健太郎(100キロ級、国士館大)と佐々木健志(81キロ級、筑波大)の大学生コンビ。
この2人は東京五輪にも関わってくるであろう、この階級の若手の1番手です。ここで勢いよくいい結果を出してもらいたいですし、王子谷剛志
(100キロ超級、旭化成)の復活にも期待しています。
王子谷選手は4月の全日本選手権で原沢久喜選手(フリー)に敗れ準優勝、3連覇とはなりませんでした。
平岡 60キロの志々目徹(了?寺学園職)に関しては、前回が銅メダルでその悔しさがあると思いますが、この階級は高藤直寿
(昨年の世界選手権王者、パーク24)が1番手なので、その差を縮めるためにも最低条件として金メダルを取らなければ彼の今後が暗く
なってしまうでしょう。66キロ級の丸山城志郎(ミキハウス)はサラッと優勝を飾ってしまうんじゃないかと思います。この階級は絶対エースの
阿部一二三(昨年の世界選手権王者、日体大)がいますので、丸山は世界の舞台で阿部に直接対決で勝たないと五輪に出る術がないんです。
それは丸山本人も分かっているでしょうから、その上で落ち着いた試合運びをして、得意とする内股、袖釣りを出してファンを魅了してほしいです。
今回はどの階級を見ても金メダルを取れるメンバーが集まったと僕は思います。
私が柔道を始めたのは、5歳のときです。二人の兄が先に広畑柔道教室に通っていて、私も友達や妹と遊び場感覚でずっと通っていました。
初めに教わったのは、受身や礼儀作法などの基本的なこと。18時から19時半までは遊びながら練習するような感じで、そこから21時までは
強化コースで練習をしていました。強化コースは試合に向けた練習をするコースで、小学3年生頃からはそちらの強化コースに入りました。
道場以外での練習というのは、苦手でしたが、足首を動かして足さばきを鍛えるようなトレーニングだけは、しっかりとやっていました。
中学校は、家から離れて柔道に専念したいという思いから愛知県一宮市にある中高一貫校の私立大成中学校に入学し、大石道場で練習していました。
中学時代はとにかく柔道漬けで、たくさん練習もしましたが、柔道部の仲間達と一緒に過ごせてすごく楽しかったです。寮生活で苦労したのは、
洗濯ですね。洗濯機の数が少なかったり、冬は干しているときや洗濯機の中でも道着が凍ってしまったりして大変でした。
中学で印象に残っている試合は、中学2年生のときの全国中学校柔道大会です。池絵梨菜(現:国士舘大学4年)選手との試合だったのですが、
始まってすぐ私が技をかけに行ったところを返されてしまいました。自分ではうっかりミスをやってしまったと思ったのですが、先生に
「それはミスじゃない。普段の生活や練習に原因がある。」と言われてから、勝負に対してしっかりと向き合うようになったと思います。
もうひとつは、中学3年生のときに出場した全日本カデ柔道体重別選手権大会(以下、全日本カデ)ですね。練習試合でライバルだった
嶺井美穂(現:桐蔭横浜大学3年)選手と、初めて「試合」という形式で戦ったのですが、結果負けてしまいました。自分が初めて敗北感を味わった
瞬間でもあり、とても悔しかったのですが、それが自分を変える良いキッカケにもなりました。
一番の思い出はインターハイ団体での優勝
高校はそのまま大成高校に進学し、大石公平先生には6年間柔道を教えてもらいました。やはり本格的な柔道というのは高校生からだと思っていたので、
自分の力でどこまで行けるのだろう、という期待が大きかったですね。高校生からは目標がしっかり見えていたため、そこが中学生のときとの違いだと
思います。
一年生のときに出場した全日本カデ、全国高等学校柔道選手権大会では優勝することができました。そのあとも平成27年度の全国高等学校総合
体育大会(柔道)(以下、インターハイ)個人・団体で優勝、2014年のロシアジュニア国際大会や2015年の世界ジュニア柔道選手権大会で優勝することが
できたのですが、なかでも一番嬉しかったのはインターハイの団体戦で優勝したときです。高校最後のインターハイで優勝することができて本当に
嬉しかったのを覚えています。優勝したときは一緒に頑張ってきた仲間、先生、両親、チームの家族などみんなで喜び合いました。また団体戦では、
体の大きさの違う相手とも戦うので、団体戦を通じて個人的にも成長することができたと思います。
高校卒業後は、三井住友海上に入社。三井住友海上には、五輪(柔道)や世界選手権に出場経験のある強い選手や先生、監督がたくさんいて、
私も五輪(柔道)や世界選手権を考えたときに、ここでなら夢を実現できるのではないかと思い入社を決めました。絶対に「柔道でやっていく」という
覚悟を決めた瞬間でもありますね。
しかし、社会人一年目は新しい環境に慣れなくて、とても苦しかったです。慣れない満員電車に毎日疲れていましたし、練習ではボロボロに負けて
いました。また、精神的にもあまり安定しておらず、自分の状況がよく分からない時期でしたね。柔道グランプリ・ブダペストでは、世界チャンピオンの
ティナ・トルステニャク選手(ブラジル)に勝って、IJFワールド柔道ツアーで初優勝ができたと思ったら、今までずっと勝っていた人に負けてしまったことも
あり、自分の実力が分からず苦労しました。