0001名無しさん@おだいじに2008/06/14(土) 01:53:51ID:IV5pr1Of
歯科医がむちゃくちゃ儲かった時代が嘗てあったと聞きましたが
いつごろのお話ですか?どれくらい羽振りがよかったのでしょうか?
0851名無しさん@おだいじに2016/07/12(火) 10:21:13.68ID:rcXkV2/Z
w
0852名無しさん@おだいじに2016/10/12(水) 23:01:33.14ID:K8rj4y9A
語れ
0853名無しさん@おだいじに2016/10/14(金) 21:01:49.50ID:ZezZsB2A
バブル時代は年収2000万?
税金がすべて合わせると 国に700万納めていたよ
1991年から2003年まで
0855名無しさん@おだいじに2016/10/14(金) 21:16:32.54ID:oyc3sGL7
年収2000万超え?
0857名無しさん@おだいじに2016/10/19(水) 20:21:57.96ID:j3skuftg
年収4000万?
0859名無しさん@おだいじに2016/10/25(火) 06:55:28.50ID:t0jZ6S8V
マジ⁈
0860名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:00:04.51ID:nAUJKolA
0861名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:02:10.53ID:nAUJKolA
http://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?procType=CATEGORY&catID=12
【ラリー】大陸を一周する1万6,000kmのコース
大陸を一周する1万6,000kmのコース

日産自動車が初めて参加した国際ラリーは、1958年8月20日〜9月7日に開かれた第6回豪州ラリー(正式名称:1958 Mobilgas Trial)。
当時、世界最長を誇ったこの競技は、オーストラリア大陸を右まわりに一周する1万6,000kmの耐久トライアルで、余りにも過酷であるとのことからこの年を最後に中止になりました。

1958年は、世界各国から67台が参加。
日本からはダットサン(210型)2台と
トヨペット3台が出場、
ダットサンがAクラス(1,000cc以下)優勝と4位に輝きました。
ラリーの前年に発売されたダットサン210型は、日産初のOHVエンジン(C型)を搭載した意欲的なモデルで、1958年3月のロサンゼルス輸入車ショーに出品された後、9月から米国輸出が開始されました。
当時の米国市場は、フルサイズカーが主流でしたが、豪州ラリーでの活躍が功を奏して翌年4月のニューヨーク自動車ショーでは大変な注目をあび、
その後の対米輸出の基礎を築きました。 0862名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:04:40.58ID:nAUJKolA
0863名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:06:00.34ID:nAUJKolA
【ラリー】'70年に日本車初のサファリ総合優勝
’70年に日本車初のサファリ総合優勝


日産のサファリラリー挑戦は、1963年の第11回大会から始まりました。
この時は、ブルーバード(P312)とセドリック(G31)でした。
そして、挑戦4年目の1966年(第14回大会)に、日本車として初めてサファリラリーでクラス優勝を果たしました。
この年はひどいウエットコンディションで、完走したのはわずか9台でしたが、ブルーバード(411)が2台完走、クラス優勝した6号車は急きょ空輸で日本に運ばれ銀座に展示されました。

この時の日産チームの活躍を本にしたのが、笠原剛三(当時の実験部長)著「栄光への5000キロ」。
後に石原裕次郎主演で映画化されました。

その後、1969年にブルーバード(510)でクラス優勝とチーム優勝、
翌年の第18回大会で総合優勝・クラス優勝・チーム優勝の完全制覇を成し遂げました。
なお、映画「栄光への5000キロ」には、69年サファリの実写シーンがふんだんに使われています。
0864名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:07:12.38ID:nAUJKolA
0865名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:07:59.11ID:nAUJKolA
GT-Rは、そもそもレースで勝つことを念頭に生み出されたもので、日産にとっては格別なクルマである。
だからこそ、それに相応しいベースモデルを見出すまでに、6から7の2世代を通り越し、
8世代目のスカイライン(R32)に3代目のGT-Rが登場するまでに16年もの歳月が必要だった。
レース登場前夜に、R32GT-Rのレース仕様車開発に携わっていた現ニスモ車両開発部の亀井泰治シニアマネージャーは、
当時を振りかえって「GT-Rの意義というのはレースで勝つ、ということ。
ですからR32も勝つための開発をスタートさせたわけです」と、
明確にGT-R復活をゆだねられたR32の大きな使命を語る。
「GT-Rということから、エンジンは直列6気筒にこだわって、2.6リッターのRB26DETTを開発したわけですが、
グループAのレギュレーションを詳細に調べてエンジンのスペックを決定したことを覚えています」と亀井。
生産車のスペックがその素性を大きく左右するグループAカーはすべてが公認に縛られるため、
基本となるスペックの煮詰めは重要であった。
2.6リッターと一見すると中途半端な排気量だが、過給器(ターボチャージャー)の換算係数や、
その係数を乗じたクラスの最低重量を考慮したものだったのだ。
こうしてR32の仕様が決定していったが、重要なのは3代目のGT-Rが単なる復活モデルでなかったこと。
0866名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:09:01.28ID:nAUJKolA
フォード・シエラなどのライバル勢に立ち向かうためのエンジン高出力化という時代の要請に応え、
満を持して電子制御のトルクスプリット4WD「アテーサE-TS」を搭載し、
サスペンションは前後ともマルチリンクを採用するなど斬新な機構が盛り込まれていた。
これらの装備が29連勝という記録更新の礎となり、
R32が3代目GT-Rとして、その評価を大いに高めることにもなった。
生産車の発表に合わせて、レース仕様車の開発も急ピッチで進められることになったが、
車体や駆動系は追浜、エンジンなどの開発を日産工機が担当。
そしてサスペンション、ブレーキ、アクスル、ペダル関係などを亀井らのニスモが担当しマシン開発は鋭意進められた。
4年間で29レースを完全制覇
生産車の基本スペックの煮詰めが功を奏し、比較的短期間にまとめられてレース仕様車は、
1990年開幕戦前のシェイクダウンで目標タイムを出して第1段階をクリア。
こうして3月18日に西日本サーキット(現MINEサーキット)で幕を開ける全日本ツーリングカー選手権(JTC)に、
鈴木利男/星野一義組のカルソニックスカイラインと長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組のリーボックスカイラインという2台のGT-Rが、
4万1000人の大観衆の前で鮮烈なデビューを飾った。
0867名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:09:57.69ID:nAUJKolA
レースでは星野組がマシントラブルで2位となった長谷見組を1ラップ遅れ、3位を2ラップ遅れに下して圧勝。
GT-Rが1-2フィニッシュを飾り、輝かしい連勝記録の第1歩がスタートしたのだった。
90年は6戦中、星野組が5勝、長谷見組が1勝を挙げてフォード・シエラ勢を撃破し、2501cc以上のディビジョン1/JTC1で星野がドライバーズチャンピオンを獲得。
あわせて日産も製造者部門のタイトルを獲得した。
91年はカルソニックとリーボックに、高橋健二/土屋圭市組のタイサンKLEPPER GTRと清水和夫/影山正彦組のAXIA SKYLINE、
山田英二/沖友龍晴組のザウルスチャンプGT-Rニスモが加わった。
さらに最終戦のインターTECではシエラからスカイラインに乗り換えた
見崎清志/長坂尚樹組のFET SPORT GT-Rが参加して、ディビジョン1のバトルはさらに激化した。
この中で、長谷見が3勝をあげ、僅差で星野を2位に下してチャンピオンを獲得した。
長谷見は92年にも6戦中2勝を挙げて、2年連続チャンピオンとなっている。
そしてJTC最後の93年。星野/影山組のカルソニックが開幕戦で優勝し、
幸先の良いスタートを切って全9戦中4勝を挙げ、影山がドライバーズチャンピオンを獲得。
ホシノレーシングがチーム部門を制し、日産が製造者部門で4年連続タイトルを実現した。
0868名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:10:29.45ID:nAUJKolA
大観衆を虜にしたJTCは、こうして幕を閉じることになった。GT-Rが登場した最盛期には、
カルソニックスカイラインをドライブした星野のダイナミックな“縁石走り”などが毎回注目を集め、
これに続く多くのスカイラインによるバトルが大観衆を魅了した。
GT-Rが一役買ってJTCの人気を盛り上げたといっても過言ではなかった。
一方、こうした国内戦とともに、海外でもGT-Rが多くのレースで見せ場を作ってきたが、
その白眉はベルギーの公道も使用するサーキット、スパ-フランコルシャンを舞台にした91年の24時間レースだろう。
A.オロフソン/服部尚貴/デイビッド・ブラバム組の駆るゼクセル・スカイラインが善戦し、2位を20周引き離して独走。総合優勝を実現している。
「当時、24時間を念頭にすえて、専用のブレーキやサスペンションを開発しましたが、最初は絶対に勝てない、
絶対に最後までもたいない(笑)って言われていたので、優勝できてすごく嬉しかったですね」と振りかえる亀井。
最後に、「GT-Rの復活を目指して開発したR32ですが、輝かしい結果を多く残すこともできて、GT-Rの名にふさわしい本当に良いクルマでしたね」と、付け加えた。
0869名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:12:43.67ID:nAUJKolA
0870名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:13:53.65ID:nAUJKolA
0871名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:19:36.54ID:nAUJKolA
0872名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:23:52.42ID:nAUJKolA
新日鉱ホールディングスの沿革 | 会社情報 | JXホールディングスhttp://www.hd.jx-group.co.jp/company/history/nmh_history.html
創業〜日本鉱業株式会社
1905年(明治38年)12月 久原房之助、赤沢銅山(後の日立鉱山、茨城県)を買収、操業開始
1912年(大正元年) 9月 久原鉱業株式会社設立
1916年(大正5年) 9月 佐賀関製錬所(現 日鉱製錬株式会社佐賀関製錬所、大分県)操業開始
1928年(昭和3年)12月 日本産業株式会社に改称
1929年(昭和4年) 4月 日本産業株式会社の鉱山・製錬部門を分離・独立、日本鉱業株式会社設立
1933年(昭和8年) 9月 秋田県雄物川油田で出油に成功(同油田は昭和17年に帝国石油株式会社(当時)へ譲渡)
1959年(昭和34年)11月 中条油業所(現 ジャパンエナジー石油開発株式会社中条油業所、新潟県)天然ガス供給開始
1965年(昭和40年) 8月 共同石油株式会社を共同設立(昭和41年7月、石油販売部門を同社へ集約)
12月 株式会社日鉱共石:日本鉱業株式会社と共同石油株式会社の合併により発足
1993年(平成5年)12月 株式会社日鉱共石:株式会社ジャパンエナジーに改称。新社章及び石油事業分野における新ブランドネーム「JOMO」を使用開始 0873名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:28:34.93ID:nAUJKolA
(日産)春光懇話会 企業一覧http://www.shunko.jp/kaiin/kaiinkaisha/kaiin.html
会社概要 沿革 | 日油株式会社https://www.nof.co.jp/company/history.html
私たち日油の創立は1937年ですが、基幹事業にはそれぞれ長い歴史があり、そのルーツは明治まで遡ります。
日油は1937年6月、
日本産業の傘下にあった日本食糧工業、国産工業不二塗料製造所、ベルベット石鹸および合同油脂が合併して、第1次日本油脂として誕生しました。
その後、異業種の帝国火薬工業などの優良企業と合併しながら多角化をすすめ、幅広い化学工業メーカーとして成長してきました。
昭和53年 ロケット推進薬製造設備完成(武豊工場) 写真1945年、
日本鉱業化学部門の営業譲渡を受け、社名を日産化学工業と改称しました。1949年企業再建整備法により、
日産化学工業の事業部門の中から油脂、塗料、火薬、溶接部門を継承し、
社名は日本油脂として新たに第2次日本油脂をスタートさせました。
その間、石油化学分野にも進出し、1961年に千鳥工場を、1969年には大分工場を新設しました。
1983年には、企業としてはいち早く、現在のつくば市に筑波研究所を開設し、その成果を医薬分野で活かしています。 0874名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:30:32.10ID:nAUJKolA
日産化学/会社沿革 - 日産化学工業
http://www.nissanchem.co.jp/profile/history.html
日産化学のあゆみ
当社は、1887年(明治20年)、高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業いたしました。
その後、関東酸曹株式会社、日本化学肥料株式会社等を合併していくなかで大日本人造肥料株式会社に商号変更、
昭和12年に日本産業株式会社傘下の日本化学工業株式会社に資産等を包括譲渡したのちに、
現在の社名である日産化学工業株式会社に改称いたしました。
最初の工場は、現在の江東区大島1丁目に建造され、いまも跡地の公園には当時を偲ぶ記念碑が残っています。 0875名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:31:50.40ID:nAUJKolA
0876名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:39:11.67ID:nAUJKolA
鮎川義介 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226.html?cat=29
鮎川義介 あいかわ よしすけ
(1880〜1967)
職業・身分
実業家、政治家
出身地(現在)
山口県
生没年月日
明治13年11月6日〜昭和42年2月13日
(1880年11月6日〜1967年2月13日)
号・別称等
鮎川義介(あゆかわ ぎすけ)
鮎川義介(あゆかわ よしすけ)
解説
明治36年(1903)東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所の職工となり、渡米し可鍛錬鋳造技術を研究。
帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設。
昭和3年(1928)久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業と改称。
以後多数の企業の吸収を繰り返し、
日産コンツェルンを確立した。
12年満洲に進出し、日産本社を満洲重工業開発と改称。
帰国後は東条内閣顧問となる。戦後A級戦犯容疑により拘置。釈放後、28年から34年まで参議院議員となる。 0877名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:40:43.83ID:nAUJKolA
0878名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:42:52.68ID:nAUJKolA
0879名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 17:48:08.88ID:nAUJKolA
0880名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 18:24:21.81ID:nAUJKolA
0881名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 18:36:33.38ID:nAUJKolA
0882名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:23:33.57ID:nAUJKolA
会員会社一覧(本部)・・・どんな会社が加入しているのかな 会員会社数 139社 ・ 従業員数 約26万人(2016年10月1日現在)
http://www.shunko.jp/kaiin/kaiinkaisha/kaiin.html
日立製作所
日精
日立ビルシステム
日立システムズ
日立ドキュメントソリューションズ
東京証券代行
日立建設設計
日立アーバンインベストメント
日立保険サービス
日立アプライアンス
日立ライフ
日立工機
日立産機システム
新明和工業
日立オートパーツ&サービス
日立ソリューションズ
日立ソリューションズ・クリエイト
日立アーバンサポート
日立コンシューマ・マーケティング
日立マクセル
日立国際電気
日立セキュリティサービス
日立国際ビジネス
日立パワーソリューションズ
日京クリエイト
日立産業制御ソリューションズ
日立SC 0883名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:25:08.12ID:nAUJKolA
(日産)春光懇話会http://www.shunko.jp/kaiin/kaiinkaisha/kaiin.html
日立マネジメントパートナー
日立オートモティブシステムズ
ニッセイコム
日立産機ドライブ・ソリューションズ
日立プラントサービス
日立フーズ&ロジスティクスシステムズ
クラリオン
共和真空技術
日立プラントコンストラクション
菅原
c(あきら)
ヤシマキザイ
ルネサスイーストン
瑞穂
高文
日立システムズネットワークス
神田通信機
関東日立
日産化学工業
日星産業
日産緑化
日産エンジニアリング
日産物流 0884名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:27:10.06ID:nAUJKolA
(日産)春光懇話会http://www.shunko.jp/kaiin/kaiinkaisha/kaiin.html
SOMPOホールディングス
損害保険ジャパン日本興亜
SOMPOビルマネジメント
損保ジャパン日本興亜DC証券
SOMPOリスケアマネジメント
損保ジャパン日本興亜アセットマネジメント
損保ジャパン日本興亜クレジット
SOMPOシステムズ
SOMPOケアネクスト
日産自動車
東京日産自動車販売
日産フィナンシャルサービス
日産ネットワークホールディングス
カルソニックカンセイ
日産クリエイティブサービス
鬼怒川ゴム工業
日産自動車販売
日産プリンス東京販売
日産カーレンタルソリューション
ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 0885名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:28:56.53ID:nAUJKolA
JXホールディングス
丸運
タツタ電線
東邦チタニウム
JXエンジニアリング
NTTデータCCS
JX不動産
JXキャリアサポート
ENEOSサンエナジー
JXエネルギー
JXオーシャン
昭和日タン
JX石油開発
JX金属
JX金属商事
日本マリン
JX金属探開
日本水産
ホウスイ
日水製薬
日水物流
ニッスイ・エンジニアリング
日油
日油商事
油化産業
0886名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:29:50.46ID:nAUJKolA
ニチレイ
ニチレイフーズ
ニチレイフレッシュ
ニチレイロジグループ本社
ニチレイバイオサイエンス
ニューハウジング
日立造船
オーナミ
内海造船
日立金属
日立金属商事
セイタン
日立金属ソリューションズ
日立電線ネットワークス
日立化成
日立化成エレクトロニクス
日立化成商事
日本ブレーキ工業
日立バッテリー販売サービス
日立化成テクノサービス
三国商事
0887名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:31:00.81ID:nAUJKolA
UDトラックス
日立建機
日立建機日本
日立建機ロジテック
日立キャピタル
日立キャピタルサービス
日立キャピタルオートリース
日立トリプルウィン
日立キャピタル損害保険
日立キャピタルNBL
日立ハイテクノロジーズ
日立ハイテクソリューションズ
日立ハイテクフィールディング
日立ハイテクマテリアルズ
日産車体
プロスタッフ
日立物流
日立トラベルビューロー
損保ジャパン日本興亜ひまわり生命保険
NIPPO
りんかい日産建設
ユニキャリア
ビルネット
0888名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 20:32:20.61ID:nAUJKolA
0889名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 21:25:10.98ID:nAUJKolA
十五大財閥
編集
四大財閥に、GHQによる財閥解体指令を受けた11財閥を加えたものを、特に十五大財閥と呼ぶ。その多くは解散し、6大銀行グループに取り込まれていった。
* 三菱財閥(創業者: 岩崎弥太郎)
* 住友財閥(創業者: 住友政友)
* 三井財閥(創業者: 三井高利)
* 鮎川財閥(創業者: 鮎川義介)
* 浅野財閥(創業者: 浅野総一郎)
* 古河財閥(創業者: 古河市兵衛)
* 安田財閥(創業者: 安田善次郎)
* 大倉財閥(創業者: 大倉喜八郎)
* 中島財閥(創業者: 中島知久平)
* 野村財閥(創業者: 野村徳七)
GHQは以上を10大財閥と指定した。
* 渋沢財閥(創業者: 渋沢栄一)
* 神戸川崎財閥(創業者: 川崎正蔵)
* 理研コンツェルン(創業者: 大河内正敏)
* 日窒コンツェルン(創業者: 野口遵)
* 日曹コンツェルン(創業者: 中野友禮)
GHQは以上を15大財閥と指定した。
0890名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 21:26:01.75ID:nAUJKolA
第5次指定
編集
1947年9月26日指定。いわゆる地方財閥・小規模財閥を対象とした。16社。
* 大原合資会社(倉敷紡績の持株会社)
* 株式会社林兼商店(大洋漁業の持株会社)→ 商社部門等は大東通商へ引き継がれた。なお、グループ傘下にあった北日本石油は現在、コスモ石油系列の石油商社となる。
* 石原合名会社(石原産業の持株会社)
* 豊田産業株式会社(豊田自動織機・トヨタ自動車の持株会社)
* 寺田合名会社(寺田財閥)
* 合資会社辰馬本家商店(日本酒「白鹿」の製造元・辰馬財閥)
* 山下株式会社(山下財閥)
* 大和殖産合資会社(武田薬品工業の持株会社)
* 関東興業株式会社(日本石油創業者一族の持株会社)
* 株式会社岡崎本店(岡崎財閥)
* 株式会社定徳会(東京川崎財閥、後の川崎定徳株式会社)
* 鈴木三栄株式会社(味の素・三楽酒造の持株会社)
* 服部合資会社(服部時計店の持株会社)→ 後に第二精工舎やセイコー電子工業を分社化。
* 若狭興業株式会社(昭和電工の持株会社)
* 共同興業株式会社(浅野系)
* 合名会社牛倉組
* 関東興業株式会社(日本石油創業者一族の持株会社)
* 株式会社岡崎本店(岡崎財閥)
* 株式会社定徳会(東京川崎財閥、後の川崎定徳株式会社)
* 鈴木三栄株式会社(味の素・三楽酒造の持株会社)
* 服部合資会社(服部時計店の持株会社)→ 後に第二精工舎やセイコー電子工業を分社化。
* 若狭興業株式会社(昭和電工の持株会社)
* 共同興業株式会社(浅野系)
* 合名会社牛倉組
0891名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 21:38:43.98ID:nAUJKolA
0892名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 22:33:51.08ID:nAUJKolA
複列星型エンジン 栄・誉
複列星型エンジン
http://www.saitama-subaru.co.jp/plane/11_sakae.html
栄エンジンは、富士重工業の前身である中島飛行機が開発・製造した1,000馬力級の航空機用エンジンです。
小谷武夫技師が設計主任を任され、出力の増大と前面面積を小さくするために星型7気筒を複列化した遠心式スーパーチャージャー付星型14気筒エンジンです。
その後、改良された高出力型「栄21型」は、1,130馬力となりました。
ゼロ戦や隼など多くの航空機に搭載され、その活躍に大きく寄与しました。
合計で、33,233基製造された日本最多生産の航空機エンジンです。
誉エンジンは、中川良一技師が設計主任となり、栄エンジンをベースに2気筒増やして、9気筒とした複列星型18気筒エンジンです。
小型・軽量と2,000馬力の高出力を目指して開発されました。
しかし、戦時中の生産環境と粗悪な燃料により本来の性能を十分に発揮することは出来ませんでした。紫電改や疾風などに搭載され、約1万基近く製造されました。
戦後、誉エンジンを調査したアメリカ軍は、「遅すぎた名
めい
エンジン」との評価を与えています。
小谷武夫 技師
小谷武夫は、1931年に北海道大学を卒業し中島飛行機に入社しました。
学生時代はラガーマンとして鳴らし、スキーもジャンプや水上スキーなど、当時は危険で誰もやらなかったことを平気で行う豪快なスポーツマンでした。
また度胸もよく、外国人とも物怖じせずに話して周囲を驚かせました。
富士重工設立時から役員としてエンジン技術や航空機部門を統括し、その後は専務として富士重工の発展に多大な貢献しました。
中川良一 技師
中川良一は、1936年に東京大学を卒業し中島飛行機に入社しました。
戦後は富士精密、
プリンス自動車、
そして日産自動車への変遷の中で常に技術トップとして活躍しました。
後に日産自動車の専務となり、
日本自動車技術会会長などを通じて自動車技術の発展に多大な貢献をしました。 0893名無しさん@おだいじに2016/12/09(金) 22:35:41.61ID:nAUJKolA
http://会社概要|株式会社IHIエアロスペースhttps://www.ihi.co.jp/ia/company/about.html
沿革
1924年(大正13)
中島飛行機(株)の発動機工場(東京・荻窪)
1945年(昭和20)
富士産業(株)(社名変更)
1950年(昭和25)
富士精密工業(株)発足
1954年(昭和29)
プリンス自動車工業(株)を吸収合併
1961年(昭和36)
プリンス自動車工業(株)(社名変更)
1966年(昭和41)
日産自動車(株)と合併、同社宇宙航空部(のち宇宙航空事業部)
1998年(平成10)
富岡事業所竣工
2000年(平成12)
石川島播磨重工業(株)に事業譲渡、(株)アイ・エイチ・アイ・エアロスペース発足
2003年(平成15)
石川島播磨重工業(株)宇宙開発事業部の一部を統合
2007年(平成19)
川越事業所富岡移転完了
2008年(平成20)
(株)IHIエアロスペース(社名変更)
2012年(平成24)
IHIロケット試験センターを統合、相生試験場発足
2014年(平成26)
富岡事業所第3工場竣工
子会社
株式会社IHIエアロスペース・エンジニアリング 0894名無しさん@おだいじに2016/12/10(土) 11:45:46.90ID:X3xEKMz3
BS朝日 - カーグラフィックTV
http://www.bs-asahi.co.jp/cgtv/prg_20150218.html
【2015年2月18日放送】 #1469
日本車の元祖ダットサン
"昭和モダニズム"そのもの 〜メモワール〜
今をときめく日本の自動車産業だが、
そのスタート時点においては"後発"にすぎなかった。
しかし日産自動車だけは例外と言っていい。
もちろん紆余曲折はあったが、
当初は大阪で細々と生産されていた「ダットサン」は、昭和10年(1935年)に新設された横浜の大工場で本格的な量産に移された。
いきなり国民的アイドルになったその小さなクルマは、
当時流行の"三種の神器"、
すなわちライカ(高級カメラ)/手風琴(テフーキン:アコーディオンのこと)/ダットサンとして、
憧れの対象となったのだ。

因みに、当時「ダットサン」は英国の偉大なる傑作「オースチン・セブン」のコピーであると噂されたが、それは事実ではない。
登場車種:ダットサン 11型フェートン 0895名無しさん@おだいじに2016/12/10(土) 11:48:33.38ID:X3xEKMz3
有名な医者のダットサン
山田風太郎の生家で使用のダットサン見つかる…兵庫・豊岡市内で関係者保存http://www.sankei.com/smp/west/news/150204/wst1502040028-s.html
2015.2.4 10:53




 



兵庫県養父市関宮出身の小説家、山田風太郎(1922〜01年)の生家で使用されていた
戦前の乗用車「ダットサン(DATSUN)」(日産自動車)が、
同県豊岡市内で保存されていることが3日、わかった。
製造後70年以上経過しているが、車体はしっかりした状態で、「現存するのは全国的にも珍しい」という。
乗用車(全長約3メートル、幅約1・2メートル)は黒色で、2ドアのセダン。
前部は運転席だけで、後部シートは2人乗り。
昭和14(1939)年ごろの製造とみられ、
車体前部には「DATSUN」のエンブレムが残っている。
風太郎の生家は代々続く医者の家系だが、医者だった父親は風太郎が5歳のときに急逝。その後、医者の叔父と再婚した母親も、風太郎が14歳のときに亡くなった。
叔父は昭和30年代まで、地元で「山田医院」を開業。関係者によると、この車は往診用に使われ、戦前はお抱えの運転手が運転、車の整備を担当していたという。
風太郎は20歳だった昭和17年8月、家出同然で上京。
戦後は小説家としてデビューし、31歳で結婚した28年、新妻を連れて関宮に帰省したときにこの車に乗っている。
車は医院廃業後も駐車場に置かれていたが、約20年前に遺族が現在の豊岡市内の所有者に処分を依頼。
所有者は、そのまま敷地の一角に保存していた。
保管場所は屋外のため、車体は全体にさび付いている。それでも外観の保存状態は良好で、「エンジンの整備などに500万円以上かければ走行も可能」という。
「戦前のダットサン」とあって、クラシックカーマニアが売却を持ちかけてくることもあるが、所有者は「今のところ、売ることは考えていない」と話している。 0896名無しさん@おだいじに2016/12/10(土) 11:51:42.53ID:X3xEKMz3
0897名無しさん@おだいじに2016/12/13(火) 14:01:19.75ID:SGJ0VAXp
…
0898名無しさん@おだいじに2016/12/17(土) 00:21:44.72ID:UdmRf/ow
金谷くん
君は歯医者の癖にガンガン煙草吸ってる時点で歯医者失格だよ!
偉そうにするんじゃない
即刻やめろ!!!!
0899名無しさん@おだいじに2017/04/18(火) 12:13:31.96ID:ArC1HejS
沿革 - JAMA - 一般社団法人日本自動車工業会http://www.jama.or.jp/intro/history.html
自工会は1967年、自動車工業会と日本小型自動車工業会との合併により、自動車製造メーカーの団体として設立されました。
2002年には、1958年に発足した自動車工業振興会、1947年に発足した自動車産業経営者連盟と統合、
2010年には社団法人から一般社団法人へ移行し、現在に至っています。
【歴代会長】
1967-1972 川又 克二 日産自動車株式会社社長
1972-1980 豊田 英二 トヨタ自動車工業株式会社社長
1980-1986 石原 俊 日産自動車株式会社社長
1986-1990 豊田章一郎 トヨタ自動車株式会社社長
1990-1994 久米 豊 日産自動車株式会社社長
1994-1995 豊田 達郎 トヨタ自動車株式会社社長
1995-1996 岩崎 正視 トヨタ自動車株式会社副会長
1996-2000 辻 義文 日産自動車株式会社社長
2000-2002 奥田 碩 トヨタ自動車株式会社会長
2002-2004 宗国 旨英 本田技研工業株式会社会長
2004-2006 小枝 至 日産自動車株式会社共同会長
2006-2008 張 富士夫 トヨタ自動車株式会社副会長
2008-2010 青木 哲 本田技研工業株式会社会長
2010-2012 志賀 俊之 日産自動車株式会社最高執行責任者
2012-2014 豊田 章男 トヨタ自動車株式会社社長
2014-2016 池 史彦 本田技研工業株式会社会長
2016- 西川 廣人 日産自動車株式会社CCO 兼 副会長
(会社名・役職名は就任当時のもの) 0900名無しさん@おだいじに2017/04/18(火) 13:41:40.75ID:/BXZ1r9S
0901名無しさん@おだいじに2017/06/01(木) 20:53:22.40ID:CuHFZyow
・