昔は死傷者を出したとされる、五月五日の石合戦の風習の真相はこうです。

士農工商の身分制度に組み込まれない、一般社会と敵対関係に置かれた人々は、
自らの身の安全を確保するため、印地用の石が確保できる河原に集まって生活していたようです。
河原乞食と呼ばれた集団は、このようにして形成されたと唱える研究者もいます。

五月五日の石合戦の日は、河原に集まって暮らしている身分制度に組み込まれていない人々を、
石を投げて攻撃しても良い日とされていたようです。
大挙して河原に押し寄せた人々は、何時間も投石を行って、被差別民の人々を殺害していたようです。
そして、河原に住む人々が生活費を稼ごうと、川の中に小石を積んで作った生け簀で飼っている鯉を、
戦利品として強奪して持ち帰って、家々の軒先に掲げたのが、本当の鯉のぼりの由来とされています。
(鯉の滝登りの話の原典は、なぜか中国の文献の中から発見不能。都市伝説の可能性が濃厚です)

古い時代の身分制度による差別が、明治維新以降撤廃されたことによって、
このような暴虐な悪しき風習とともに、印地の技術も一般社会から駆逐されていったようです。
「印地の技は男の子の常識」といった誤った情報を鵜呑みにせずに、
非常識な悪しき風習だったことを胸に刻んで、人権啓発教育(同和教育)に役立てるべきでしょう。