>菊池清太夫の時代の備中は「天領」だ
>4代前の森は「児島郡」5代前の高嶋は「児島郡」へ伝承させている
>宗家の言う「備中竹内流」はどの時代を言っているか明らかだ

小島群は備前だね。備中ではない。そして備中伝はHPで連島の系統も備中伝として出してるが

連島wikiより

>戦国時代は毛利氏の配下となる。中世後期頃になると、『吉備の穴海』の西北部で、連島北部から
>高梁川河口までの間に広がる『阿知の海』が、高梁川の沖積作用により浅くなり干潮時には干潟が広がるようになる。
>天正期に宇喜多秀家が命じて行われた干拓を皮切りに、江戸時代にかけて徐々に干拓による新田開発が進行し、陸地が南下していった。
>高梁川が現在の総社市清音古地で東西に分岐した、八幡山山塊を北端とするデルタも南下していき、17世紀前半、
>寛永6年の西阿知沖新田・連島北面新田の干拓により、ついに連島は陸地化。前述の八幡山を北端とするデルタの南端部となり、
>東西高梁川に囲まれた酒津・水江・中島・西阿知・片島などと同じ川中島地帯の一部となった。
>これにより連島北側は漁業地帯から農村地帯へ変化するが、南側は海に面し、また東西両高梁川河口部という地になったので港町としてはまだ機能していた。
>なお、この頃に備前国児島郡から備中国浅口郡に移管された[2](その他に戦国時代に移管されたという説もある[3])。

連島って少なくとも竹内流流祖三代から備中伝が祖とする菊池の時代には備中ではなく備前だったんだね。
それを現代人が、現代の岡山の地理で、歴史を後付けしたものだから

【備中伝ではない地域の伝系を入れるミス】を犯してしまった。

代々伝承している伝系ならあり得ない、後代に現代人が付け足しからこそ起こりえる痛恨のミス。
備中伝も自身のHPで備中伝とは備中地域の伝系の総称だと書いているのが完全に徒となったな。

小島群も連島も備前国、倉敷は天領。備中伝の伝系のほとんどが備中ではなくなってしまう。

後付で歴史と伝系を創作するからこのような歴史的矛盾が露呈してしまう。
代々伝承している伝系ならこのような矛盾は絶対にあり得ないことだ。