湖畔でキャストしながらふと感じる気配。その瞬間の光。流れいく雲の影。風の匂い。
記憶に刻まれるのはきっとそんなものたちだ。
捕らえようとしても捕らえられず突然やってきては心のすべてを占有してしまいそうな。
シーンに感応している自分を大切にしたい。そのためにキャストをやめ、ロッドを置いて、水辺から離れても濃密なアトモスフェアをなおその場で共有できるかどうか。
背後に広がる湖にバスフィッシングへの満足と期待を切なくなるほどに感じ続けることができるか。

それは夢を見ながら覚めている。覚めていながら夢を見ている。夢うつつの贅沢極まりない時間の流れだった。
人生もまた一つの旅とは分かりやすい比喩でありながらそれがどこへ向けてなのかを知る人はいない。
結果ではなく、釣りをすることそのものが目的か。
あてのない旅に憧れたりするのは日々スケジュールに拘束されている立派な大人になれたからだ、と
したり顔の人々とはひとまずさよならだ。
ルアーをキャストしながら何も考えようともしなかった。
あの池、あの湖、あの夏の終わりの。あの日に戻れるかもしれない。心がバスフィッシングへと共振していく。
大人になるために失ったものは、大きな弧を描くようにして、不意にその人に帰ってくることがある。
夕方。沈み行く大きな太陽にその日一日の釣りを反芻しながら、道草が童心と切り離せないのなら、その時確かに童心に返っていたのか、
と真顔で大人が考えていたりする。バスフィッシング、私はこう考える。