2000年シドニー五輪世界最終予選
語りましょう。
1江藤直美186cm
2板橋恵168cm
3津雲博子175cm
6大貫美奈子173cm
7大懸郁久美173cm
8熊前知加子180cm
9森山淳子180cm
11満永ひとみ180cm
15竹下佳江159cm
16高橋みゆき170cm
17鈴木洋美184cm
18杉山祥子184cm まさかこのシドニー五輪の当時よりも暗黒な時代になるとは想像もしていなかった
シドニー五輪予選時は後に全日本の主力となる竹下、高橋、杉山が台頭できたし、
まだエースの大懸は24歳と中堅の年代
年齢だけで全日本から敬遠されていた吉原もいたし
それらの選手とメグカナ、木村など大型な期待の若手が融合したアテネまでの間
は希望がもてる人材がそろっていた それは今の若手がどれくらい予選敗退っていう事実を重く受け止めて成長するかだと思う。
林22黒後22籾井21石川21山田21と若い選手はメンバー入りしてる 東京オリンピックの惨敗は2年前のW杯のときから分かり切っていたが、
シドニー五輪予選は前年W杯が予想を覆す活躍ぶりだったから、本当に悲しかった
怪我人が多く、特にMBは多治見、江藤、森山、鈴木と満身創痍
エースの大懸や熊前、セッター板橋も故障や不調だったのも痛かった
当時、全日本新人だった竹下、高橋、杉山だけが元気だった たら、ればになるが、この大会で日本が出場権とるのがいかに難しいかったか
中国と日本よりも実力が上だった当時の韓国がいる
イタリア、クロアチア、オランダと欧州が3ヵ国もいる
他の五輪世界最終予選とは桁違いにハイレベルだった
強いて言えば、開催国特権で対戦順をもっと考えるべきだった
初戦にクロアチアかイタリアを選んで、ここで勝って勢いをつけたかった
仮にクロアチアを初戦に指名しておけばかなりの確率で勝てたのではないか
と思う。欧州から来日して間もない中で試合するので時差ボケや調整が
あまりできない状況だから。それをうまく利用したアテネと北京の最終予選
はともにイタリア、ポーランドと強い相手に勝って勢いをつけられた
クロアチア→カナダ→オランダ→中国→韓国→アルゼンチン→イタリア
中3つはかなり厳しいが、この対戦順であれば少なくとも4勝はできたのでは
ないだろうか 対戦順も悪いのはその通り。
カナダとアルゼンチンの安牌を2戦目、6戦目あたりにほしかったね。
まあメンバーが全てよ
・五輪経験者が大懸のみ
・スタメンセッターがほぼ初代表の若手竹下
・ミドルが怪我人ゾロゾロで森山と杉山のみしか動けない 怪我人続出で特にMBが森山と杉山しか、まともに試合に出られる状況でなかった
キャプテンだった江藤が直前の合宿で肘の靭帯断裂の大怪我、鈴木も故障中だった
多治見は前年から膝と足首の状態がよくなく、2000年は代表から外れていたし、
吉原に関しては年齢から敬遠されていた 文春オンラインの記事を読んでいると、心が痛くなるね
シドニー予選の4年サイクルを振り返ると、いろいろと方針転換で選手が
固まらなかったね。五輪の経験者が大懸のみ、セッターが大貫⇒板橋⇒竹下と
年度ごとに変わったこと、MBを中心に怪我人続出だった
中国が最終予選に回ると日本は苦しかった 前年のワールドカップ99で中国が不振で5位
最終予選に回ってきてしまったことが日本の命運をわけてしまった
その中国に勝てたワールドカップだけど、あのときは
何もかもうまくいく試合だった シドニー五輪OQTの敗因として、対戦順があったのだと思う
開催国特権で、試合順の指定ができたのなら、一番はじめにクロアチアを指名
してそこで勝って勢いになりたかった
初戦でクロアチアなら時差ボケとかの影響もあって、かなり高い確率で日本が
勝てたのではないかと思う
それと日本の戦術として、やはりバックアタックがないのは痛いんだよな
OH/OPの選手でバックアタックを打てるのがいない。強いていえば、佐々木みき
が打っていたが、99W杯での不調で全日本から落選、熊前知加子や満永ひとみ、
あたりも一応バックアタックを打てなくはないが、試合でみたことなかった 熊前、満永がもっとバックアタック打てるようなら、攻撃の幅が増えて
結果も違っていたかもしれない
98世界選手権までの主力佐々木が99年ころから不調で五輪年で代表落ち
したのも不運だった
大懸を控えに回せるくらいの戦術も必要だったかもね
OHに熊前、佐々木、OPに満永 全員がバックアタックも打って、ローテー
ションごとにサーブレシーブもする 葛和JAPANの印象は怪我人が多かった
特にMB
多治見、江藤、森山、鈴木と五輪予選前年の99W杯はよく
この怪我人だらけで戦った
それでも多治見が手術が必要なくらいの怪我だったこともあり
00年には代表落ち。代わって選出された杉山がこの後、全日本
を引っ張るMBとなれたことが唯一の救い シドニー五輪までの4年と、東京2020までの4年のサイクルが似ている
特にセッターを固定できず、五輪年で代表初選出の選手を抜擢していきなり
レギュラーにするところ
2000竹下、2021籾井と、リーグ優勝の司令塔というだけでかなり期待されて
結果的にはどん底を経験
籾井は境遇が違えど、這い上がれるか? シドニー五輪までの4年と、東京2020までの4年のサイクルが似ている
特にセッターを固定できず、五輪年で代表初選出の選手を抜擢していきなり
レギュラーにするところ
2000竹下、2021籾井と、リーグ優勝の司令塔というだけでかなり期待されて
結果的にはどん底を経験
籾井は境遇が違えど、這い上がれるか 竹下は予選敗退後、一旦バレーを辞めるぐらい精神的に追い詰められた
今のところ、怪我で長期欠場はあったけど籾井がバレー辞めるほど追い詰められていないのは、らてんの血かな 籾井をはじめ、東京五輪に出場したメンバーは開催国枠での出場したから
五輪の予選という緊張する場面を経験していない
その生温さが五輪の惨敗を招いてしまった感じがするんだよね
もしシドニー五輪予選で怪我人いなくて、対戦順番に工夫がみられたら
切符とれていたんじゃないか?って今でも思う
当時の江藤が怪我なかったら、初戦にクロアチアを引っ張ってきていたら・・・
とタラレバいったらだけど 熊前の不調は世界選手権で板橋が高いトスを上げてくれて滞空力を活かしてスパイクを決められたのに、セッターが竹下に変わって低くて速いトスしか来なくなったからだと思う
当時の竹下は安定した高いトスを上げられなかった 竹下が悪いのではなく、代表でNECバレーを中途半端にやっちゃった葛和が無策だったということだ
自分たちのバレーをすれば勝てる、という相手の分析無視の竹槍思想は葛和も中田も共通していた >>282
怪我人は予件として扱わないと駄目
実際に江藤は怪我で出られなくなったんだから、代わりをどうするかという課題への対応が実に曖昧だった 吉原に土下座してでも出てもらえなかったのかね 人選の件に関して吉原を外したのが凶となったのはあるね
ただ、今の代表に比べるとまだMBの人材が豊富で多治見、江藤、森山、鈴木、杉山と
レベルはけっこう高かったと思う
だが、初代表だった杉山以外は故障することが多かった
OHとOPの選手がかなり手薄だった
大懸は前衛、後衛と気の毒なくらい走り回って打って拾って頑張っていたけど
その大懸も故障を抱えながらのプレーだった
熊前は勝負弱いというか、大事な局面で決めきれなかった印象が強い
それにバックアタックが全くといっていいくらいないから相手ブロッカー
から見たら物凄く分かりやすい単調なバレーだった
レフト平行、MBのブロード、満永のライトオープンか中に切り込んで打つ
くらいしか攻撃の選択肢がなかった。これじゃ無理だろう 親切な方があのクロアチア戦アップしてくれてる。
初めて見たけど会場の空気が重すぎるし、選手達の悲壮感が凄い。
https://youtu.be/JfHKBjl-znU シドニー五輪世界最終予選後からバレーボールを観ているので
その当時の試合を見ていないから何とも言えないけど、
個人的には葛和監督が作ったチームは悪くないと思う
当時の97年以降の日本バレーボール協会の年齢制限?による
選手選考だったり、Vリーグの外国人選手の撤廃などいろいろ
迷走していたのが原因だと思う
シドニー五輪予選の敗退を知るメンバーがその後、バレーボール
を辞めずに何らかの形で現役を続けて、最終的にはアテネ以降の
世代につなげてくれたのは救い
それにしても、シドニー五輪予選は欧州勢3ヵ国に、中国と韓国
で争うとかものすごい熾烈すぎる。これまでのOQTで一番厳しいかな? そういえば、今年のカレンダーって、2000年当時と曜日が同じでなんか運命感じる
6月24日土曜日のクロアチア戦、6月25日日曜日の韓国戦、忘れられないな You Tubeにイタリア戦の試合をアップしてくださっている
ありがたいです。この大会で、最もみっともなく不甲斐ない試合といえば
イタリア戦で、たぶん一度もリードする場面なく試合終了
圧倒的な攻撃力とブロックの高さのイタリアと、レセプションが崩れて攻撃が
単調になった日本のレベルの差が浮き彫りになった
解説で「根性」を強調しているけど、工夫された戦術がなく、当時はまだ根性論
でバレーをしていたが、それが通用しなくなってきた
代表実質デビューだった竹下のトスが短く、アタッカーにまともなトスを供給
できていない。全体的に悲壮感というか、余裕のなさが目立つ >>289
当時の竹下はNECで低くても速いトスを上げることしかしておらず、高いトスをうまくあげられなかったからね 大貫も同様
高いトスを上げられる板橋が体調不良で使えなかったのが一番の誤算だよ タラレバを言えば、たくさん問題点はあったと思うけど、セッターを固定できなかったことが
最後の最後で結果に響いた感じがするんだよね
1997〜1998までは大貫の育成するも、1999に板橋に切り替えて、W杯である程度の結果を
出せた。その流れだけ見れば板橋を正セッターにして、大貫を控えなんだけど、2000は板橋
が体調不良?だったのか不調で竹下になったんだっけ?
竹下も実は1997の全日本に選出されて、その年のグラチャンでは大貫よりもいいトスを上げて
いてTVの実況からも大貫→竹下に変わってから「トスがよくなりましたね」なんて言っていた
くらいだった
まあ、当時のNECのセッターだった大貫を差し置いて竹下にする決断がもう少し早くして
いたらよかったかもね。
それと、大会は違うけど、2008北京五輪OQTの控えを板橋ではなく河合にしたのは、けっこう
黒歴史と思うんだが セッターを竹下にして熊前が死んだ
滞空力を生かしたスパイクと速くて低いトスは水と油だわ そう言えば、23年前の今日、2000年6月24日土曜日がクロアチアとの試合だったね
あのときの重苦しい雰囲気の試合、忘れられないな
奇しくも今年は曜日が一緒だから、なんか思い出してしまったよ
シドニー五輪予選のあと、一時期辞めてしまった選手もいたけど
何とかみんな現役を続けてくれたし、大懸と竹下は戻ってきてくれた
のが嬉しかった >>291
板橋が体調不良とかではなくて
葛和監督がもっと上を目指すには竹下が必要だと判断して抜擢したはず
たださすがに五輪予選の年に変えたのはまずかったと思う >>293
現地行ってたけどあの試合のボルテージはやばかった
大懸が試合後に泣き崩れた姿が今でも忘れられない >>294
竹下はまだ正確に高いトスをあげられなかった
速くて低いトスばかりで、しかも追い込まれると同じ選手へオープン一辺倒
今の代表セッターの誰かさんも当時の竹下とそっくりだな >>296
でもシドニーのメンバーだったら
追い込まれたときに大懸に託すのはしょうがなかったと思う
今の代表で一人に託すのはやったらだめだけどね 1999/00シーズンのVリーグで、NECが全勝でリーグ制覇し、NEC中心の選手選考に
異論を出せない雰囲気だったのもあったね
津雲、大懸、大貫、竹下、高橋、杉山と半分がNEC所属の選手
それでも竹下、高橋、杉山がその後の全日本を引っ張る貴重な戦力へ成長を
遂げたことが救いではあったかな?
この大会、竹下がバッシングされるんだけど、レシーブ、特にサーブレシーブが
崩れて、竹下のトスに余裕がなかったのが最大の原因かなと思う
もうちょっとサーブレシーブが竹下に返球できて、熊前がバックアタックを
打てるようなら結果が違っていたかもしれないかな?
それとやはり、試合日程も工夫が必要だったかな?
初日にクロアチアorイタリアを引っ張ってきたら、そこに勝利できた可能性が
高いのでその後の試合が楽になっていたんじゃないか??って思う
クロアチア→カナダ→オランダ→中国→アルゼンチン→韓国→イタリア
これだったら4勝はできていたから、あとは他国の結果次第ということもあった サーブレシーブは津雲が意外に崩されてた気がするね
今と比べると攻撃パターンが少なくて苦しかったな
バックアタックはその時にはいなかった佐々木くらいしか記憶にない バックアタックを戦術的に打てるのが佐々木くらいだったと思う
(その佐々木が1999年W杯で不調、その後のVリーグで絶不調だった?ためか
2000年は代表メンバーから落選)
熊前は打てない訳ではなく、クロアチア戦とかでもいいテンポで打っていたから
もっと使ってもよかったとは思う
あと、ポジション的には満永も打たないといけないが、つなぎ役のライトって
感じでバックアタックを打つことはなかったかな?
MBにはいい人材が豊富だった半面、OHとOPに攻撃的な選手がいなかった
ただ、バックアタックを打つ人材がいなくても同じアジアの韓国なんかは
きっちりとサーブレシーブを返球、スパイクレシーブも上げてうまい感じに
コンビバレーをしていた
日本はそれができなかった 佐々木は確かにそのとき調子よくなかったし
速いバレーを究めるという構想からあわなかったのかもしれない
満永は身長はあったけど攻撃力はそうでもないしバックアタックなんてやってない
じゃあ守備型かっていうとそれはもっとだめで特にレセプションが酷かった
MBは今と比べてそんなよかったと言えるかなあ? >>295
一度バレーを辞めてからリベロとして全日本に戻ってアテネへ行ってくれたのは何よりだった 佐々木、櫻井の落選は今でも解せない
津雲って腰高で、上手いと思ったことは一度もない 外国人の強烈なサーブをよく弾いていた
あと、江藤が怪我した段階で吉原を土下座してでも呼ぶべきだった 江藤が怪我したのって5月だったから
さすがにそこからじゃどうしようもなかったでしょう 結果的には負けて五輪出場できなかった大会で、当時はいろいろバッシングあってつらかった
と思うけど、竹下がセッターになって日本女子は這い上がれた
逆に竹下がいなくなったロンドン五輪以降、セッターが固定できない点ではよろしくないな 試合の結果は残念だったが、会場が一体になって応援していたのが印象的
観客の皆さんが手拍子しながら、選手のコートネーム言って「もう一本!」っていう
スタイル。確か、熊前選手の場合だったら「チカ、チカ、チカ(手拍子)
チカ、チカ、チカ(手拍子)、もう一本!もう一本!もう一本!」だったかな この大会、サーブレシーブの返球率が悪く、バックアタックのない攻撃だった当時の
戦術ではかなり限界があった。セッターの竹下がバッシングされたが、そうじゃなく
レセプション参加する選手と、バックアタックを打てない人選も問題があったと思う
ただ当時、バックアタックを打てる選手が少なく、メンバーに入っている選手だと
熊前くらい。あとは前年まで代表に選ばれていた佐々木や、MB兼任だが大村くらい 2-1で迎えた第4セット
21-17から負けたのが全て >>307
竹下へのパッシングは身長でのイメージで、あんなチビが全日本?というものだな
実際は打ち屋とレシーブも弱かったという総合的視点で見れない素人が多かった
上手なチビのほうがサイズある無能より上だということを竹下はロンドンで証明 バックアタックがなく攻撃の選択肢が限定されていたバレーで、
MBもどこかブロード一辺倒だった
だからこそ、レセプションがすごく重要で、ここが崩れたら厳しい中で
レセプションの返球率がよくなかったのが敗因なんじゃないかな?
確かにプレッシャーがかかる中ではあったと思うけど、今の時代みたいに
不規則な変化してとりにくいジャンプフローターが少なかった当時
日本の選手もほとんどがチャンスボールかって思うくらいのフローターサーブ
で工夫がなかった。 >>294
日本開催とはいえ五輪出場権のかかった大会に全日本デビューの竹下を使うというのも微妙な気が。
一番の理由がNEC所属だったから? 葛和JAPANの時期、当初セッターは大貫で97〜99年の途中までは大貫だったが
99W杯で板橋を抜擢。そこで大貫は控えに回り、所属チームのNECではライト
アタッカーでの起用となった。1999/00シーズンのNECで正セッターになった
竹下が全勝優勝の実績をもって、00年に代表選出されたかな?
ただ、竹下は97年にも控えセッターとしてグラチャンに出場しているが
00シドニー予選が実質の初代表に近かったかな?
竹下のトスワークと守備は定評あったからもっと早くに代表選んでほしかった >>311
294だけど一番の理由はまぎれもなく能力を買ってたから
ただいくら能力高くても五輪予選の年に本格的な抜擢はギャンブルすぎた
NEC所属ということについて合理的な理由があるとすれば
攻撃の中軸と同じチームだからスムーズに入れると思ったのかもしれない そういえば、このときにバックアタックを打てる人っていたの?
シドニー五輪予選の前年までは佐々木みきが一応、全日本に選ばれていたけど
'00の代表からは落選。熊前とか満永はバックアタックを打てなくはないが、
戦術的には全く打っていなかった
上記3名以外で当時、バックアタックを打てた選手っていたのかな? 思い浮かばない