芹沢は無類の酒好きで知られたが、晩年は酒量が増え、対局もままならないことが少なからずあったという。そんな中、将来の名人候補と目された谷川浩司との1981年度のB1順位戦での対局は、酒断ちをして体調を整え谷川と対峙し、完璧な指し回しで谷川を破った(谷川はこの年10勝2敗でA級に昇級)。
また、谷川浩司の棋才と人物を早くから認めて「将来の名人」と断言し「谷川の応援団長」と自称していた。
芹沢の死去の2年前にデビューして活躍していた羽生善治については、その「筋にこだわらない」棋風を嫌い評価しなかった。羽生と同世代の若手棋士で芹沢が評価していたのは「筋に明るい」将棋を指していた阿部隆であった。
若き日には自らを将棋の天才と信じていたが、あるとき才能の限界を自覚し(中原は自分が届かない場所に行き、米長にも抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない」と競馬の勝負に例えて言った)、それ以来酒におぼれるような生き方になった。晩年になると、朝からシャブリを食事なしに飲み続けた。尋常ではない酒量で体調を崩した結果の早逝であり、その死は「時間をかけた、ゆるやかな自殺」とも喩えられた。
有名人の性格を霊視する◆3
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
844本当にあった怖い名無し
2024/03/25(月) 20:40:48.54ID:Hr7dwc0v0■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています