松坂大輔の第1戦は、19年前と同じストレートで始まった。
4月5日の巨人戦(ナゴヤドーム)。1番・立岡宗一郎が見送った外角球は、残念ながら球速が正しく表示されなかった。
全96球で終えた投球では最速が142kmだった。
ちなみに今なお語りぐさとなっている19年前のデビュー戦は4月7日。
本拠地での登板を望む西武本社を、監督の東尾修が説き伏せた。
日本球界の宝。そのフォームや投げっぷりを「東京ドームのマウンドの方が合う」と総合判断したものだった。
片岡篤史に対して155kmを投げ込んで伝説となっているが、1番・井出竜也への初球も149kmを計測していた。
当時の選手名鑑によると身長180cm、体重78kg。今も童顔は変わらないが183cm、93kg。
トレーニングにより体の厚みは増しているが、球速が落ちているのは年齢からくる衰えというより、右肩の故障で苦しんだからに他ならない。
日本球界での公式戦登板は、ソフトバンク時代の2016年10月2日の楽天戦(コボスタ宮城)以来。
先発となると西武時代の'06年9月26日ロッテ戦(インボイスドーム)までさかのぼる。
大いに注目されたマウンドの結果は、すでに広く報道されている。5回を8安打、3失点。5三振を奪い、3四球を与えた。
1回の失点は立岡の内野安打がきっかけだし、3回は野手の間に落ちる不運な安打が続いた。
それでも無死満塁の大ピンチにマギーを遊ゴロ併殺打に打ち取った(この間に2点目は失う)し、
3点目はなおも続いた2死三塁から遊撃手の京田陽太の一塁悪送球によって失った。
「松坂さんというスーパースターと初めて対戦できることはすごく楽しみでした。緩急があり、なかなか自分のスイングをさせてもらえませんでした」
共通の知人を通じて昨オフに初めて松坂と食事する機会に恵まれた坂本勇人は、四球、右前打、投ゴロの3打席をこう振り返った。
一方、適時失策してしまった京田は「松坂さんの久しぶりの登板をぶち壊してしまった」と猛省。
松坂の黒星もそうだが、1点差で敗れた試合だけに責任を強く感じていた。
バッテリーを組んだ大野奨太も「何とか粘っていた。あそこで打たれないのはさすが」と話したように、自責点2での敗戦投手は責められない。
あと1イニングでQSクリアー、不運な打球、味方の失策……。すべて事実だ。
ただ、だからといって「松坂は復活した」という声が挙がるのも安易というか、松坂という投手に対して、いささかハードルを低く設定しすぎてやしないかとも思う。
不運、失策は野球につきものだ。そうした自分にはコントロールできないことも含め、フィールドを支配してきたのが松坂だ。
過去の言動や振る舞いから見ても、松坂が「野球の神様」の存在を信じているのは疑いないが、それはご利益やご加護を望んでいるのではなく、
野球に真摯に向き合っている自分を、そしてここ数年のように試練から逃げずに立ち向かう自分を見守ってほしいと考えているのではなかろうか。
プロにとって一軍のマウンドは、誰かに立たせてもらう場所ではなく自分の力で立つ場所だ。
そういう意味ではキャンプからの投げ込み数、オープン戦での登板機会はともにチームメートと比べてはるかに少なく、そこには「松坂だから」という声もまとわりつく。
決して特別待遇というわけではないのだろうが、チームへの無形の貢献度が必要以上に強調されている感は否めない。
ここから先に求められるのは有形の貢献度、すなわちチームに勝利をもたらす結果を残し「やっぱり松坂」と言わしめることだ。
5イニングのうち3度は先頭打者の出塁を許し、うち2度は失点に直結している。
オープン戦から顔をのぞかせていたクイックモーションのバランスの悪さは、そのまま3盗塁へとつながっている。
つまり、いきなり走者を許すと、容易に得点圏へと進まれてしまうということだ。
松坂が勝つための課題は明白。だからこそ、降板後の松坂は唇をかんだ。
「オープン戦と公式戦は違うけど、それに近い状態で投げられた。特別な感情もなく、フワフワした感じもありませんでしたが、勝ちにつながらなかった。
悔しさしかありません。何とか粘れたとは思うけど、僕みたいなタイプだと(走者を許せば)球数が増える。何とかしたかった」
苦しみを乗り越え、試合で投げられたことで満足してしまうような投手なら、右肩故障以降のイバラの道など歩もうとしなかったはずだ。
勝ちたい。抑えたい。                                       
投手なら誰もがもっているであろう本能と欲求だが、松坂はさらに強い。
体重が93kgになり、球速が142kmとなった今の松坂は、78kgの華奢な体から155kmを投げ込んだ18歳の松坂と本質は変わっていないのだ。
球速が落ちた分だけ、経験を積み、知識が増えた。 #15