懐かしの西武線 第3編成 [無断転載禁止]©2ch.net
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吾野発着のハイキング急行
伊豆ヶ岳、正丸、天覧山、武甲、奥武蔵と言う愛称があったな。
他にもあったのか!? >>5
そんな愛称のハイキング急行あったんだね…。初耳っす!!
てか西武秩父線開業と相前後して奥武蔵に統一したと思うが合ってる? 東上線の方は、みつみね、かまきた、ながとろ、くろやま、といった平仮名愛称の急行を走らせていた時代だな。後に遜色特急の愛称になったが >>9 メトロ10000系使って 直通「スカトロ」うんこーしないかね? >>9 メトロ10000系使って 直通「スカトロ」うんこーしないかね? 堤体制だった頃、高田馬場や所沢を出た加速中の車内放送で「新宿線をご利用戴き、ありがとうございます。この電車は〜」と話し始めていた記憶がある。池袋線でもそんな感じだったような。合併してもお互いに意識している感じが、子供心に何だか格好良かった。
今は「西武線」で統一しているね。 101系や3000系が単色にされてしまった時、窓回りのベージュとの塗り分け線を鑢か何かで平滑にしていたのか、検査2回目くらいまでは塗り分け線を消した跡が光の加減で見えていたね。
切なかったけど、それでも国鉄車両よりは良かった。165系改造のクハ455やJRカラーのキハ58系なんて、元の湘南色や急行色の段差が丸分かりだったから。 >>15 西武は外装はおカネ掛けているよね。
末期の国鉄とかブルートレインですら パテ盛り処理の跡(ヒケや面の荒れ)でバレバレだったし >>15 国鉄がひどかっただけなんでは? 他の私鉄、例えば東武8000は2回も塗色変更したのがあるわけだが、塗装仕上げ悪かったかな? 昔の案内板が「西武電車のりば」だったのは、関東では珍しかったのでは?
関東は「〇〇線のりば」が定番だったから マツコの番組でもやってたけど、BIGBOX高田馬場の足る男、なくなったんだな。 >>10
https://i.imgur.com/4wvNqku.jpg
ハイキング急行 峠号
ピク2013年12月号190ページから盗用。 東久留米のと武蔵境に、昔の西武線の写真が掲示してある。 9000系は機器流用車だからやむを得ないとはいえ、まさか廃車になるとは‥ 今夜東京MXの映画で、「なにはなくとも全員集合!」という67年の映画がやっていた。
三木のり平とドリフが、草津を舞台に電鉄会社(40系辺りの旧国)と西武バス(実名で登場)の対立からどたばた劇〜和解という結末の物語だった。
冒頭に架空の物語という断りが出ていたが、草軽を挟んだ西武と東急の対立を、当時の空気そのままに作品にした感じが伝わって来たわ。表向きはコメディ風に仕上げた感じだけど、後発の西武バスは、結構えげつないやり方で進出して既存の電鉄を食う描かれ方だった。
笹色の西武バスが名前もそのままに出ていながら、協力の欄には社名が出ないあたり、意味深。
堤が椅子にふんぞり返っている姿が重なる作品だったけど、東急と争ったり、合併の頃も所沢でお客を取り合ったりしたみたいだから、当時の空気を極力柔らか目に仕上げた形で知るにはなかなか貴重な映画。 >>23 それ観たかったな 残念! しかし 自社バスをマイナス要素の撮影に起用OKするとは、
堤の器デカイよな。 まだDVD化されてないんだね
VHSはTSUTAYA渋谷店にあるみたい 反面、草津町は協力に表記があるのにね。
地元の芸者さんが「(元県会議員が)選挙が近いので駅長さんと酌み交わしたがっている」や、「バス会社の親玉が調子良く食い込んでいるのよ、ぬけぬけと」と駅長の三木に吹き込む場面が妙にリアルだった。
当時、現実にはかなり揉めたんだろうこれは。
軽い感じで観ても、草津高原鉄道という名の旧国の釣り掛け音や、駅停車中にAK-3がどこどこしていたり、笹色の日野バスが効果的に出て来て盛り上がります。 >>7
山鳩号じゃなかった?
他に、山岳号、高原号
>>15
静岡地区で見たオンボロ111・113の先頭車だけ、旧塗り分け線の跡が見え、後で調べたら元はスカ色の車両だったことが判明。
スカ色湘南色の塗り分け線の違いを同一の実車で確認することが出来、なかなか面白い体験だった。 新101の4コテは、デビュー間もない頃は、新101同士8両編成を組んでいたが、
その後(性能が安定?)すると 殆ど 新101+旧101でしか編成していなかった
(池袋線では…新宿線の事情は知らない) ナニか訳があったの? >>28
単純に数が激減。
旧2000製造終了〜新2000登場の間、新宿線の車両増備は、
池袋線に301・3000投入→池袋線の新101を新宿線に転属という形で行っていたから、
池線の新101系4連は最小2本程度にまで減少した。
徐々に進行していったが、この結果滅多に新101系4+4は見られなくなった。
秩父鉄道乗り入れ開始前に、新宿線の新101系4連が出戻って、新101 4+4がメジャーになった。
この時は新宿線に旧2000最終増備車&新2000投入→新宿線の新101を池袋線に転属→池袋線の旧101を4000種車として廃車。
新宿線では、まだこの頃は急行以外は6両が中心だったから、そもそも4+4自体昼間は見る機会が多くはなかった。 >>29 補足
2行目の「旧2000製造終了」は、昭和58年までの増備車の事ね。
言葉足らずで済まぬ。 >>29 >>30
まだ言葉足らずだ。
旧2000系昭和54年までの増備終了からだ。
この後、新101系を池袋線に投入→池袋線の赤電&黄色701系列を新宿線に転属。
池袋線の黄色701系列が消滅・赤電が少数になった頃、池袋線に301投入→池袋線の新101系4両を新宿線に転属。
この間一時的に黄色701が池袋線に復帰。
次に、池袋線に301系最終増備車&3000系投入→池袋線の赤電&黄色701一掃→旧型車は直接廃車または新宿線、701系列は新宿線へ。
同じ頃新宿線には旧2000系2連増備及び一部8連化。
その後、新2000系登場まで、池袋線に3000系増備→池袋線の新101系4両を新宿線に転属、を繰り返す。
こんな感じです。 >>29
旧2000系最終増備を2031F(II)以降のことを言っているのなら、ちょっと違うと思う。
あれは田無事故被災分の補充新製で、田無事故によって慢性化した新宿線の車両不足を解消する
ために作った経緯だったはず。
現に当時は、平常時でも新宿線で2000系8連が検査入場すると池袋線から車両を借りていたけど、
田無事故で稼働可能な2000系が16両も減ってしまい、池袋線からの車両貸し出しが恒常化するよう
になってしまった。
この新宿線の車両不足を解消するために、急遽増備されたのが2031F(II)以降で、この登場により
1987年夏以降は池袋線からの車両借り入れは恒常的でなくなり、翌年には完全に解消される。
この頃の池袋線から借り入れていたのは、主に旧101系非冷房車だったけど、さすがに夏場は
冷房車が来てたと記憶している。
池袋線では少なかった新101系4連×2も来たことがあったし、301系(1311F)が来たこともある。 >>32
ありがと
旧2000の最終増備と新2000登場は時期的に近いから、全体の流れとしてひとまとめに書いたんだけど、勘弁な。
池袋線からの貸し出しの101・301系は未改造(701と併結しない)が基本だったと思うけど、そこら辺詳しかったら頼む。
新101系4固定以外にどの編成が貸し出されていたか、覚えているだけ挙げてくれ。 お前等スゴイ! ところで西武は 東急みたいに車両配置表とかその都度作成、記録して
いないのかね?記録が残っていたら特集本の機会にでもマトメて公表して欲しいな。
その時期の路線、ダイヤの変化とか年月表にしたら面白いと思うのだが・・・。 >>33
当時の池袋線から新宿線への貸し出しは、あくまでも一時的な貸し出しであって転属ではなく、
2〜3日で他の車両と交代して池袋線に戻っていた。
だから701系列との併結改造はしていないし、車内広告や路線案内図も池袋線仕様のままで
新宿線を走っていた。
それで新宿線に貸し出された101系の編成番号なんて、4連については記憶してない。
だって、数日ごとに編成が変わるんだから…。 6000系も、1998年に有楽町線乗り入れが本格化するまでは、新宿線と池袋線で、車両の転属が頻繁にあった。
それでも初期型(6107Fまで)は、長いこと新宿線にいたが、2008年の副都心線開業で、試作車を除き、全編成が池袋線に転属。 そう云えば、池袋線通勤車が一時 新旧101、401系と701、801、系冷改車で完全黄
色化した後昭和54、55年? 池袋線に分散クーラー車も含めた全101系が集結し不足
分だけごく一部551、451、571系等赤電が配置されていた時代があったが、そのとき
一度 ヘルプ?で久々に701冷改車が走っているのを見た事があった
その後 池袋線(所沢以東で)701系冷改車は走るのを見たのは、6,7年以上経ってから
正面ガラスを外し運転シュミレーター画像撮影の為?試運転しているのを平日の昼間一度
見たのが、最後だった 82年頃にあったね701のイケ線代走
夕方の秩父発上り快急に使われたこともあった >>38
その書き出しは「池袋線」でなく「新宿線」ではなくて?
81〜82年頃、確かに701系黄色が池袋線にいたね。
4+4で8連で走っているのを何度か見てる。
新宿線に新101系が何本か行った頃なので、こっちで4連が余っていたのかな?
同時期、休日の西武遊園地行き快急には池袋線の車両が入ることがあったよ。
101系の6連とか、新101系2連+4連とか、色んなパターンで休日だけ新宿線に来てた。
この辺りの代走がなくなったのは、83年の新宿線普通8連化のダイヤ改正だったと思う。
ただこの改正後、>>32にあるように2000系8連入場時の池袋線車両代走が行われるようになった。 >>38
その昭和55年3月改正の大移動で、101系全車と共に601系も生き残っていた分は全車池袋線に帰って来たのね。
その後1年ちょいで消滅するが。
黄色一色は全車新宿線に行ったが、701系の赤は池袋線に残っていた。
5000系と旧101系全車、新101系と共に、451、551、571、601、701(赤)系が池袋線に揃い、池袋線が一番面白かった時代のように感じる。
一瞬そこに501も加わっていたのですね。
その後301系が登場して、かたや601系が消えたと思ったら、黄色一色の701系4連5本が一時的に池袋線に転属。(貸し出しではない)
301系増備3000系登場で、池袋線から赤電由来の電車が消滅。 >>41・・・ で、まさかのクハ1411が2両池袋線に返り咲き。
1両は先頭に立っていた。半室運転台とポール仕切りに感動!
501は、新101の4コテ(額縁がチョイ顔グロになった)新製と入れ替りで引退 最後の花道 西武球場前で両者の並びを写真に撮った
やがて池袋線で赤電は仕事を干され 折角改造した571も小手指で支線転属まで軟禁状態。 >>40
82年の改造車721Fや715Fは池袋線を走ってたね。
その後に725F〜729Fが、池袋線に残っていた551系・571系と交換で新宿線へ。
83年の終わりくらいに、3001F〜3005Fが運用入り出したら、701も帰ってきて、
新宿線から赤電が消えたのと、駅構内踏切をことごとく潰して8両化して、急行系の
スピードアップも果たされた。と記憶している。
ガラス外したシミュレーター用の撮影列車は、新宿線でも見たよ。88年くらいかな?
新宿線は739Fだった。 レスアンカー間違えた。
>>43 は >>41 宛ね。 1985年頃まで新宿線に551系いなかったっけ?
といっても定期運用は拝島線だけ、昼間は「玉川上水の3番線でお昼寝」が定位だったけど。 >>45
1984年か85年かそこらまでいたと思う。
池袋線で見なくなった後、田無で551の4+4編成見て、まだこんな本線運用やってるのかとびっくりした。 >>43
新宿線の725F〜729Fと池袋線の551・571系を交換したと言う事でOK?
確かにその頃551は池袋線に集中的に配置されていた気がするけど、わざわざ赤いのが新宿線に行ったと言う事は、
時期的に、新宿線の451系6連辺りがお亡くなりになったと言う事ですかね。 551系4連が新宿線に来て、玉川上水でお昼寝していたのは末期の末期。
83年12月改正(新宿線各停8連化)のダイヤ改正以降の話。
この時に新設された玉川上水始発の普通小平行きの、専用車的な扱いだった。
551系4連は玉川上水の3番線に常駐していて、朝ラッシュ時に小平まで2往復するだけだった。
あとは検査があるときに南入曽まで昼間に往復、休日の西武遊園地快急にも使われた。
この運用に末期の551編成がよく入ってた。553編成も入ってたのかな? 101系登場前塗装試験車として黄色+窓周りベージュに塗り替えらた701系747Fが
一番最後に冷改 再度黄色塗装されたのは、単なる偶然?ある種の拘り?若しくは縛り?
701系全車の冷房化を達成していないのに冷改黄色塗装化で801系の青田刈り?が
始まった(然も 短期間で完遂出来る筈なのに途中中断)のは何故故?
車両の機器流用、転用計画が緻密に思えた当時の西武にしては不可解なのだが・・・ >>49
玉川上水の旧3番線
ちょっと離れたところに廃線跡みたいなホームがあって、、、でも乗車位置の線が引いてある。
今も使ってるのかなぁと思ったら本当に現役だったのに驚いたものだ(笑) >>47
そう言う事かと。
479Fの6連が主に走っていたけど、いきなり551系+571系、日によって551系が801系の6連に変わってた。
当時は情報が少なかったから、571系が新宿線に来たのが珍しく感じてた。
上の方が書かれていたように、小手指で寝ている571系を上手く使うために、持ってきたのかも。
時期的に多摩川線でも使うために。 その改正まで551は4連6本ともイケ線の配置だったので
シク線で走る姿を見て、貴重なツリカケを奪われたと悔しい思いをした(笑) 80年改正の直後・・・
イケ線へやってきた205Fの側面の番号
[モ]ハ
101-205
と、モの部分だけ上から板を貼って修正したようになってたの覚えてますか? これまで3ドア車は地方譲渡が多かったけど、4ドアは廃車になったら即解体だろうね
小田急・京王も3ドア廃車の時代は地方譲渡があったけど4ドアは譲渡した実績がないし >>55
秩父鉄道にあったけど
締め切って2扉にしてたって話も聞いたけど、それは冬季の話?
詳しくは知らん >>55 >>56 秩父鉄道は20メートル4ドアは、小田急1800→800の時代から中古購入してます
よっ! 只秩父は、もう西武の中古は買わないかも知れない、MGの調子の悪いクルマを掴
ませれた(代えの予備が無い?)で懲りているハナシを訊いた。 そもそも西武はステンレス車の廃車は何十年後にもなると思うから選択外だわな >>58 2000や9000の箱のハナシ。
じゃ6000は、乗り入れ隠居後は、自社の支線で消化するのか? 秩父鉄道は優等以外で鋼鉄車は今更買わんだろ
西武も6000は鋼鉄車の2000が大量に残ってるからそれらが置き換わらないと廃車に出来ないと思うよ 近江鉄道なら、車体をぶった斬って、4扉を3扉にしそう 秩鉄は4000を次期急行用に狙っているんじゃないの?
CPも補助電源も変わってるのがいるはず。 >>63
幾ら速達料金とはいえ隣の路線で普通に使っている4000系を
有料列車専用に導入するというというのは余りにもお粗末だろ
もう少し奮発してNRAの導入を検討すべき >>65
秩父鉄道って、経営状態はどうなの?
貨物がダメになって、観光に活路を見いだしたの?
三峰山のケーブルカーは金が無くて、廃止だか休止になってるって聞いたけど?
そんな鉄道会社なら、恥も外聞も無く、急行料金を取ると思うけど >>65
その秩父鉄道は新101系を改造したのを急行に使っているよね。 秩父鉄道の急行料金は快適料ではなく、速達料で金を取ってるから着席も保証されていない >>65
当の西武だって4000を有料列車に使ってるじゃないか。52席の何とか。 今更の疑問だけど、西武が601系等のカルダン車導入にあたりM台車やモーターで国鉄形
の設計を流用するにあたり、ST式戸締装置との技術交換取引を申し出たそうだけど、
国鉄形の模倣自体は、それこそ自社に独自の設計能力のない中小私鉄において
は貨車は勿論、気動車や一部国鉄と乗り入れを考慮した地方私鉄では電車でも
戦後は、かなり行われた事例があるのにナニ故? 西武自体もクハ1411やE851も然り
だし・・・西武の場合 度が過ぎる模倣だから?最新技術だから? 大量導入するから?
地方私鉄とE851の場合は、製造メーカー自体が国鉄とハナシを付けていた?
(許諾権や特許料みたいなモノを負担?)とか 国鉄乗り入れ目的車の場合は国鉄側
の意向なので当然不問とか? 追伸 T台車においては、601、701系は国鉄形中古で当初賄っていたけど、
101系で新調した際は新規設計で全く別物のFS−と云うのも疑問?
意外と国鉄形が芳しくなかった?(問題発生?)、単に製造コストやメンテの問題? 台車は住金のプッシュに乗せられただけ。
2000系の時はS型ミンデンを猛プッシュしてきたがこの時は乗らなかった。 >>54
そんな事があった事すら知らなかった。その編成、乗務員扉が何時までも古かったのは覚えているが。
>>55
2600〜2000 小田急の4ドアでか過ぎ
京王の4ドア 1372の私鉄でない限り、台車交換するくらいなら、他当たらないか?
>>57
MGって日常的に吊り替え行っているじゃない。調子悪けりゃ交換。
MG117は互換性のある余剰品が大量に発生しているはずだが・・・
>>70
全部じゃない?
国鉄との直通目的でもないし(直通目的なら国鉄にも車種統一という利点が有る)、数が多すぎるし、全て金銭で処理すると金額が膨大になるし。
>>72
そりゃ台車だもん、何か乗せなきゃな >>73 西武に具申したらしいのよ。(西武って所沢が盛業中は、アフターも良かったみたい
だし)・・・西武から交換、予備品も安価に確保出来ると踏んだのでは?
で「予備品確保の面で難のある?MGの調子悪いから譲渡対象になったと・・・」西武側の見解 >>70
国鉄形(制式)のすべてが国鉄側の自力開発ではなく
企画に参画するメーカーの提案した技術があること
特徴は、その技術を国鉄とメーカー各社が共有することにある
こと、新形国電の動力系統は、東洋と東芝の技術が要となっている
東洋の駆動装置:中空軸平行たわみ継手(カルダン)
東芝の制御装置:電動カム軸式制御器
https://www.toyodenki.co.jp/technical-report/pdf/giho109/s10922.pdf >>71
101系のアルストム台車自体、新規設計では無く
小田急2600形で使ってたのをブランシュアップ(細部変更)しただけ
だから>>72の言うように
住金が薦めたプランに西武が乗っかっただけのこと
他社が先に採用して実績のある技術を、実用期になってから
西武が満を持して導入した(保守的で新し物に無暗に飛びつかない) 以前どなたかのホームページにて、FS342は「いずれ国鉄のDT21装着車が廃車になった際に台車を引き取る計画があった為と西武関係者から聞いた」というような文面を読んだ事があります。
真偽不明ですがTR11等の国電品払い下げや、秩父線用にEF15だったかを狙っていた話同様に、その位は計画があっても不思議ではない一文でした。 台車についてだけど、FS40やFS067も住友からの押し売り?なの? >>76
101系は軸バネ式(ペデスタル式)だろ? 多摩川線で、新101系の赤電カラーが走るそうだけど、この組み合わせは初めてなんだよね(赤電時代は、まだ新101系はなかった)。 今、9000系の京急カラーが走っているけど、京急カラーは、9000系より101系のほうが合う(窓回りを白くすると、本当に京急2000系や600系のように見える)。 >>81 京急1500の鋼製車(戸袋窓つき)も西武色やったら激似だと思う。
次は赤電もいいかも・・・ >>60
6000は搭載機器の関係上、10両でないと走れない。
だから、10両で走れる路線がなければ(他社譲渡にしても)、廃車になる可能性が高い。
相鉄8000も、まだ古くないのに、事故車両が廃車になったのはこれが理由だった。 >>84
初代レッドアロー号みたく、車体だけなら譲渡の可能性はあるかもね
でも今の西武は、積極的に地方私鉄に売り込もうとはしないだろうけど
レッドアローは、富山地鉄が欲しいと言ってきたから、話がまとまったらしいし >>84 機器の釣り替えくらいナンとかならないの?
将来 伊豆っ箱は、多分導入する思う。 富山地鉄は自分のトコで何とかすること前提で車体やら台車やらかき集めるからね
改造するところがあって採算があうなら何でもありだろう
これからは改造無しでの譲渡は難しくなるだろうし 近江鉄道が6000を譲り受けるかだな。車体の裾を切り欠かなくてはならないし。
その前に2000を譲り受けるか? 3ドアの出物なくなるから近江も3000系買ったんだろうしなぁ
4ドア20mになると他社でもっと状態の良いステンレス車の出物多いから、西武系以外には譲渡されなそうだね 過去板を逸脱させてスマナイが、近江の裾チョップなんとかして解消できないの?
電機なんか電車より横幅ありそうなの走っていたじゃん。 >>91
新101系2連は裾削ってないよ。
ホーム削って対応したとか。
401が大量に行った頃は、500型とかわんさかと走ってたから、
ホーム削ったら不都合があったんじゃない? >>84
6000系はデビューの頃、短編成に縮めての試運転をやってるよ。
もちろん、イコールで無改造で旅客営業が出来る訳ではないが。 >>90
3ドアなら、京急や京成があるし、どちらも、18メートルだから、地方私鉄には都合いいけど、1435ミリがネック。
1067ミリの台車があればいいが。 18mまで広げるなら他にも絶賛解体が進むメトロ03、東急2000、東武20000とか色々あるでしょ チョッパとかVVVFどうすんのよってのはこれから先つきまとうよね >>95
東急2000は20メートル車
18メートルは1000系
>>96
チョッパは時代遅れだが、VVVFは、これから廃車が大量発生して、上物が手頃な価格で入手できそう。
むしろ、買う方の保守部門の教育が必要だな(これまで、VVVFは未経験に近いから)。 >>94 個人的には京急車が好いな。 昔 西武が買い込んだ(売れ残り) 更新前400の
車体使ったんだし1500の玩鉄車なんか最高。 これから廃車が出そうで、地方私鉄に使ってほしいのが、都営5300系(浅草線)。
18メートル3ドアで、両端クモハで、2両編成が組める。
アルミ車体で、25年物にしては、車両もきれい。
ただ、京成、京急乗り入れ車で、1435ミリの台車がネック。
1067ミリで、合う台車はないか。 地方私鉄だと2両を1M1Tでくめる編成のほうが有り難そうな
101系の2Mも変電所問題で運用苦労してる会社もあるし… >>99
っていうか都営は基本25〜30年で廃車だから5300は廃車時期なんだけど ガチャガチャのピンバッヂ、懐かしい車両で作ってくれんかな
山口線のSL、蓄電池機関車、赤電、101系、5000系レッドアローなど
もし出したらコンプリートするよ
電気機関車は要らんけど >>102 レア物で糞尿輸送車のピンバッジ出たら買うか? >>103
糞尿列車なんか見たことないし、そもそもピンバッチの絵は車体正面だから
もし作ったら、無蓋車の上にトグロを巻いたウンコw さいきんのようちえんじはパソコンをじゆうにあつかえけいじばんにかきこみするんだからたいしたものだ 昔の西武所沢工場なら強引に車体切って長さを合わせたものだ 所沢工場、引き込み線も含めほとんど解体されたな。引き込み線の位置を示すモニュメントはあるが。
東村山にあったハンセン病患者輸送のための専用ホーム、所沢駅での武蔵野VS旧西武社員の客の取合い喧嘩、それに青梅・奥多摩方面への乗入れの野望、
これらも西武の黒歴史か・・? 東村山の件は俺 初耳 でも 何処から来るたのかね?
此処の人々は別々の家庭に居た筈なのに・・・
最大の黒歴史は、 堤康二朗の下半身人格(ちん格)・・・品行包茎?とは言い難い
と 堤清二の 行幸列車、沢口靖子との秘め事疑惑では? >>108 何処から来たって・・、ハンセン病患者の強制隔離、収容が行われてたこと、ご存じない? ファミリーマートは、元は西友のコンビニ部門だった(当時の新業態の実験的な店舗だった)。
それが今、「TOMONY」という名前で、西武と組んで駅売店(最近多い、駅売店のコンビニ化)を運営しているというのは、何とも因縁の組み合わせだ。 >>109
降りるホームだけ隔離しても意味ないだろって話だろうな >>111 ハンセン病患者を隔離した専用車両で送られてきたそうだから、他の駅で乗車させる際も他の乗客から離すような措置を行っていたんだろうな。そもそも隔離する必要が無かったわけだが。 >>112
>そもそも隔離する必要が無かったわけだが
そうだよなあ
それにそれって国とかの指導通りだろうから西武がどうのって話でもないと思う >>112 >>113 もしかして深夜とか?自社線内完結だけではなく国鉄線から乗り入れとか?
ハンセン病患者に対する不当な扱いの是非は、ともかく 糞尿輸送と、ともに他の事業者も
嫌がる仕事を引き受けやストなし運営に 国鉄以上に公共性を重視した素晴らしい
企業姿勢は、賞賛に値する。 東村山から西武園に向かうカーブにホーム跡と思われる石積みがあるけど、あそこそんな目的のホームだったのか。 >>115
折れもあれ不思議に思ってたけど、色々記事を読んだ結果、どうやら東村山の糞尿積み下ろし場ではないかと思っている。
何かで読んだ内容とあの場所が、確か位置的に一致していた気がする。
ついでに聞きたいのだが、東村山駅北側の踏切の、上り線側に有った「供養塔」って何?
事故ってあちこちであると思うけど、ああいうのを立てるほど大きな事故でもあったの? >>115
ハンセン病患者ホームは東口側だと思っていたもので・・・混乱しててすみません 東村山市の隣の市に住んでるから、市立図書館へ行って、東村山市の歴史の本でも見てこようか
ハンセン病資料館のある全生園へ行ってもいいし 東村山音頭は、地元に古くからある郷土音楽だということ。
志村けんがつくったのは、「狭山茶どころ情けが厚い〜」からあとの部分。
ちなみに、東村山市には、「東村山〇丁目」という町名はない。 >>117 自分も東村山の隣の市に住んでいるが、東村山の郷土資料館で行われた鉄道関係展示での説明によると、ハンセン病患者ホームは東口側にあったようだが。貨物用ホームを使ってたんでは? >>119
ドリフの東村山音頭の2番は、いかりや長介が作ったと聞いたが… >>116-117 です
>>120
東村山の東口側に貨物ホームがあったのは知りませんでした。
西口側の橋上駅舎下にそれらしいものがあったのは知っていますが。
何れにしても、西武園線と新宿線が分れる所の三角地帯(西武の社有地がある辺り)の、西武園線側にあるホーム跡の様な物(多分>>115が指摘している物)は、謎ですね。
自分で糞尿ホーム跡か?とは書いているのですが、でも、糞尿は手で荷物を積み下ろしするわけではないので、ホームの様な物は必要無いんですよね・・・
貨車から排出用の設備と貯留槽さえあれば。 >>23
実際は、軽井沢地区は西武(というか堤)が先発で昭和初期に自力で開業、
後から東急が戦時中に既存の草軽電気鉄道を買収して乗り込んだのだが。 >>123
でもそれ鉄道は草軽じゃないよね
廃止後の作品だし 小江戸号の中だけど、ココア飲みながらじゃがりこ食ってるリーマンがウザい。 >>112
それを揶揄して「御召し列車」って言ってたそうだね。
「東村山ふるさと歴史館」などにけっこうそのあたりの資料があった。 横瀬にビニールに覆われたSLがあるが、あれって何線走ってたんだろう?
国鉄からの移籍車なんだっけ? 4号機関車かな?
総武鉄道かなんかからの移籍車で生え抜きじゃないから扱いも雑なんかね… 東武みたいにSL運転してほしいけど、沿線は住宅が密集してて無理か
もし運転できるなら、新所沢より北か、小手指より西か
しかし、それ以前にSLが動かないかw
ならば、煙突の中に発煙筒をぶっ込み、スピーカーからシュポシュポ音を出し、後ろからELで押してくれww
SLの雰囲気だけでいいわ 東品川の公園に保存されてるSLが元西武なんだっけ? K100懐かしいなw
>>133
ググってみ。未だに密かなファンが居るよ。
もちろん本物の蒸機じゃなくて水陸両用車か何かを改造したものだけどね。
確か実際の線路を走る話もあったね。 大野茂久は、K100のオーナだけじゃくて オリエンタルカレー提供
新幹線クイズの司会者もしていたよ。 K100のカマで作るヤキイモが食いたかった餓鬼の頃
静態保存されてるSLでいいから、カマでヤキイモを作ってほしい 他にも煙突からとうもろこし放り込んだらポップコーンができたりとか面白かったね K100は、鉄道関係番組らしく、スポンサーは日立グループ。
主題歌を歌っていたのは、スターにしきの。 >>70
>>75
ST式戸閉装置の技術を西武が提供し
国鉄からは台車の図面を提供してもらった。
この件に関しては物々交換だったんじゃないの?
E851の方は、EF81車体にEF65の電機品を積んだ形だから、問題ないのでは? >>73
小田急の4ドアはJR乗り入れ実績のある所なら使えたかもしれないが
113・115・415等と幅が同じだったし 今、赤電が走ってるみたいだけど、見に行った人いる?
西武のかわら版の写真を見ると、塗装に違和感が
あんなに灰色だったかな? >>135
大野しげひさといえばおれはがんばれロボコンでロボコンが居候する大山家のパパ役だな。 今、ASカーと言って、ピンと来なくても何のことか判る人どれくらい居るんだろう? ASカーなんて名称は登場した当時でもほとんど使われてなかったからなぁw 青梅街道駅って東側に広いスペースがありますけど、あんなところで貨物輸送でもしていたのですか?
久しぶりに多摩川線多摩湖線を梯子したら、知ってはいたけど、競艇場前駅構内、旧・本町信号場が棒線化されてて、なんだか寂しくなったなあと 旧多摩湖鉄道区間では、貨物輸送はしていなかったよ。
多摩湖線は元々、小平の学園都市(一橋学園駅駅周辺)のアクセス鉄道として建設された
路線だから、貨物輸送を前提にしていない路線だった。 >>145 湘南型電車(国鉄80系)の命名もオマージュしたユネスコ型電車(501二代目?もしかして初代?)も忘れないでください! 青梅街道駅東側の広いスペースは何なんだろう
>>149 !! そんな愛称あったの? 初耳 国鉄80系のパクリデザインの顔の車両にオリジナルの愛称なんてつけたって広まらないって 似非湘南顔の愛称は大抵、非公式な名称(あだ名)に過ぎない
「グリーン車」、「栗饅頭」、「リンゴ」、「青がえる」、「いもむし」、「ペコちゃん」、「掃き溜めに鶴」・・・
所沢製にあだ名付けたところで大したのは付かんだろう
「所沢」、「武蔵野」、「似非(ニセ)湘南」、「ニセスカ」、「キーマカレー」、「焼豚」、「魚肉ソーセージ」・・・ >>150
Web上の地図で見る限りそんなスペースはないような
どのあたり? 正丸駅の古い写真にホーム上に駅員室がある写真あったんだけど、開通したときって駅舎無かったのかな? どの辺りも何もホーム部分の向かい側ずっとだよ
現地行った事無い?
行けばまずあの不自然な敷地が目に入るじゃない?
ずっと前から気になっていたよ。
線路の東側の南北道路までの間は全て鉄道用地だよ >>155
微妙に会話が繋がってない感じがする
正丸駅の話? コメ番が連続してないならアンカーぐらい付けてほしいw >>156
正丸駅の話して欲しいわけね。
昔家族で正丸峠のハイキングに行ったとき、峠に着いたら偶々すぐバスがあって、そこから正丸駅までつづら折りの道をバスに揺られて帰って来たよ。
まだ国道には正丸トンネルがなかったから、それなりに鉄道開通前の雰囲気を残していて良かったよ。
国道にも正丸トンネルが出来たら、あっという間にぬけちゃうもんだから、鉄道も国道も廃れてしまったな。
峠越えは精神的負担だから、観光は鉄道利用が多かったし、車で行くにしてもやはり大変だから、ほっと一息休憩目的で駅前売店、正丸峠ガーデンハウスの利用があり、繁盛していた。
関越は、はじめは東京川越道路だったし。
正丸峠、今は何も無くなってしまったな。
秩父線が開業してから暫くの間、正丸峠を鉄道と路線バスと自分の足とで楽しめた時代は、今思うと贅沢だったな。
路線バスでは二度と楽しめないのかも知れないしな。 あ、サーベラスの言った事忘れてた。
最後の1行は訂正な。 正丸峠の書いたのは俺じゃないしw
155が微妙に会話に繋がってなかったから
何の書き込みに対するレスなのか知りたかっただけ
すまんな >>152
井の頭線3000系(ステンプラ)は、「覆面レスラー」。 1994年と1995年のセーラームーンエクスプレスは京王線で8000系や今はもう全廃となっている6000系を、
2005年のプリキュア急行は東急田園都市線で8500系か8590系を使って走らせれば良かったな
京王がセーラームーンエクスプレス、田園都市線がプリキュア急行を走らせていたら、初日は貸切運行、その翌日以降は運行終了日まで一般客利用可能だったかもしれないな
(京王がセーラームーンエクスプレスを走らせていた初日の切符はそのまま京王プラザホテルの食事券となっていて、
1995年には京王プラザホテル多摩・京王プラザホテルで「なりきりコンテスト」が行われていた)
京王がセーラームーンエクスプレスを走らせた場合、1994年は6000系は非乗入車の6713・6717・6718・6719と乗入車の6734・6736・6737・6738、8000系の8701・8702・8703・8704、
1995年は6000系が乗入車の6739・6741・6742・6743、8000系が10両編成の8708・8711・8712・8713と8両編成の8721・8722・8723・8724だったはずだな
その彩、京王の場合は相鉄のほほえみ号みたいに始発駅で出発式があったかもしれないな >>45-51
去年の書き込みに対してて申し訳ないけど
玉川上水の始発ホーム、当時、4番ホームって書かれていたような。
3番はどこにも表示なくて、上りホームと朝始発ホームの間にあるホーム無しの線かと勝手に納得してた
>>115-117>>122
鉄ピク西武鉄道2013/12の臨時増刊P110の2枚目の写真説明に
分岐点付近に設けられていたかつてのし尿輸送の貯留場への側線跡…と記載あるよ 本川越、wikiだとバブル前は3面5線もあったらしいが客増えてるのにわざわざホーム減らしたのか? アキバblogのtweetに安比奈線?の同人誌の宣伝がある。 >>166
バブル前って旧駅舎時代か?
いつ建て替えられたかいまいち覚えてないw
旧駅時代は、島式ホーム以外に西側ちょっと離れた所にもう1面あったよな
西側のは使ってるの見たことなかったけど
その頃の新宿線は本川越行き特急もなかったし、本川越は毎時3本しかなかったから十分だったんだろうな 川越プリンスホテルは91年秋開業
4000系の特急小江戸号が走ったの覚えてる >>170
5000系の小江戸号もイラスト入りヘッドマークで
走っていたような >>169
実は3線しか使ってなかったとか?
あと2線は留置線? >>169
駅舎側のホームは8輌までしか入らなかった。
西側はラッシュ時用で10輌対応。 >>173
そうなのか。
空中写真見てると2面か3面で4線くらい入れられるスペースあるのにもったいないな 当時の新宿線は6両が多くて、たまに8両、10両はラッシュ時にごくたまにくるレアだったから
末端の駅で10両のために改良工事するほどのものではなかったんだろうね
それに10連運行開始した頃は既に本川越駅の建て替えも社内で決まっていただろうし 10両がラッシュ限定で折返し下りに幕表示されてた
「この車両は上石神井どまり」
というのががすでに懐かし板なのね >>175
新宿線は線路少なすぎるし減らしすぎな気がする。 >>176
あれ使っていたの?
「この車両は小手指とまり」は上下とも見た覚えがない
「この車両は保谷とまり」は結局使われなかったし
池袋線では2000系運用が一般化する前に、営業線上での解放運用は、秩父臨電などの例外的なものを除き無くなったような 「この車両は上石神井とまり」の幕、使ってるの見たよ。
1990年代初頭の多摩湖線。
夕方ラッシュ時の分割急行の折り返しは、西武遊園地を出るとき側面行き先が
「普通西武新宿 この車両は上石神井とまり」で出発。
萩山で拝島から来た6両と連結した後、上石神井で切り離される運用だった。
あの頃の夜の6連普通、見てて悲惨だったなぁ。 川越飯能の単線放置と新宿乗り入れ問題見てると西武はケチくさいなとかんじる >>180
堤時代の西武の社員は、トップから言われたことを実行するだけ。
下から意見を言うことは無いし、たとえあっても上が聞き入れることはない。
それが長らく続いたため、西武再建を託され、外部から来た社長は、上からの指示をひたすら待つだけの社員たちがもどかしかったという。
つまり、堤がケチだったんだと思う。(笑) まぁ、他から見て変わった所は多いですよね。
上石神井とか田無とか、島式2面3線の駅を初めて見たときは衝撃的でしたもの(都営新宿線の場合はその後にできたので驚かなかった)。 >>182
何故衝撃的なの?
ドア扱いだけで折り返せる機能的な配線だぜ
東十条、蒲田、桜木町なんか目に付きそうだがなぁ 新宿線には乗れんな
色々な2面3線の宝庫じゃないか
中井でブチ切れ、工事中の沼袋でブチ切れ、鷺ノ宮でブチ切れ、井荻でブチ切れ、上石神井でブチ切れ、田無でブチ切れ、工事中の東村山でブチ切れ、玉川上水でブチ切れ
あと西武新宿と本川越と、久米川の新青梅街道付近も入れておくかw >>185
線路引いたのが政府に買ってもらえなかった川越鉄道のバカ経営陣なんだ、察しろ 全国各地のプリンスホテル、スキーにスケート、イケイケだったね 飯能みたいな所によくプリンスホテル作ったなって思う
客室の数がすごい少なくて、元々客数が少ないのは見込み済みだったんだろうけど チェーンのホテルだと目立つけど規模を適切にすれば行けると思うよ。
古い街でもともと駅前旅館的なものはあったし。
西武沿線だとと久米川と狭山市には街の規模の割にホテル目立つ感じ >>190
狭山市はホンダとか、工場が多数存在するからじゃないの?
久米川はなんでかわからないけど 飯能のプリンスホテルは赤字で結局外注になっちゃったよね >>191 久米川、新青梅街道に面していて車の利用に便利なのと、70〜80年代当時、駅前にホテル建てる土地が確保しやすかったからでは。
東村山、小平、所沢の駅前は手頃な用地を確保しづらかった。 所沢はずっと西武と市が対立していて開発が進まなかった >>189
堤さんがイケイケの頃は税金対策でホテル建ててるなんて言われてたね >>194
ちょっと調べたら、江戸時代に久米川宿というのがあったので、その名残かと思ったんですが、久米川駅周辺は栄町で、東村山駅周辺が久米川町なので、久米川宿は府中街道沿いにあったのかもしれません。
なので仰るとおり、新青梅街道が開通して、ホテルが建ちはじめたんでしょうね。 >>193
そういえばゴルフ急行なんてのがあったね。
451+1411のオンボロ2連だったりした 冬は隙間風ビュービューでプレイ前から寒さに慣れさせる、ってヤツか 初代モハ351乗った人いる?
どんなクロスシートだったのか知りたいのだけど 物流も堤義明が持ってたら秩父に西武百貨店と西友できたのに惜しい >>201
ドンキが西友を狙ってるけど、西武沿線に多数の店舗がある西友は、西武鉄道グループが買収するのがふさわしい
でも、人の少ない秩父に出店は微妙 >>203
矢尾百貨店買収すればど真ん中に西武百貨店or西友ができるぞ >>205
首都圏に展開する、現コモディイイダは、中小スーパーの規模だったが、飯田百貨店と名乗っていたが、今も存続している
地方でもイオンや、ららぽーとなどのショッピングモールがなければ、古めかしい名称の百貨店でも、十分やっていける
ただ、秩父では駄目だと思う
平日の朝夕のラッシュの道路混雑を都会人から見ると、別に大したことではない
とにかく人が少ない >>206
秩父にあるヤオコーのショッピングセンターは大勢の人でごった返してる 秩父というとあの花やってた頃、めんまって幽霊のコスプレイヤーが秩父に集結したことがあってゾンビ映画みたいに見えたよw コモディイイダは昔飯田百貨店と名乗ってたけど、いわゆるデパートとは違って昔からスーパーだぞw >>211
イイダは加盟しているのか?
日本スーパーマーケット協会に加盟してるのは知ってるが >>208
オバQもトキワ荘生まれ。
西武は幽霊引き寄せる要素あるんだな。 堤すら買おうとしない矢尾百貨店
どれだけダメ百貨店なんだよw >>217
オバQは藤子不二雄が生田に住んでいて新宿のスタジオに勤めていた頃の作品だから違う。 >>208
秩父の街自体オワコン化したゾンビタウンだよ
昔は貨物列車が正丸トンネルを走り抜けていたのに 70年代後半、武甲山の石灰石採掘で森林が大量にはぎ取られ、夏になると石灰石の地肌が日光を反射して秩父の街を灼熱地獄と化す、って新聞に書かれてたな。
今では石灰石採掘が無くなり、武甲山の自然がかなり回復してきたようだけど。
鉱業主体じゃ経済状況変わってきたら、先行き危ういってことだな。 >石灰石採掘が無くなり
三菱待て何やってるの?
閉じた訳でもなかろう? >>222 細々とやってるけど、武甲山の山頂削り取るほどの大規模なものはやらなくなったわけだろ 石灰石採掘ってなくなったの?
R299でいっぱい走ってるあの石灰石運んでるダンプカーはどこからきてるんだろう >>224 武甲山での大規模採掘が廃れたと書いているんだが。読解能力ないね。 武甲山の石灰採掘で、遠くから見ると犬の形をしているのは、狼の呪いだの祟りだのと言われていたけど、数年前に秩父へ行ったら、草だか木だか生えてて、普通の山になってた。
秩父セメントも合併か、吸収だかで会社名が変わったし、どこも大変なんだろうね。 >>226
読解力がないのは本人なのは内緒なw
高圧的なのはこのスレの名物みたいな人だから え?
今でも武甲山で大々的に石灰石掘ってるよ。
鉄道で運ばなくなっただけで「細々とやってる」とか「無くなり」とか、鉄ヲタって視野が狭いな。
三菱はトラックだけど、太平洋セメントは武甲山から地下のベルトコンベアで日高市方面へ
搬出してる。 昔は日高のセメント工場から東武線西大家へ貨物線があったね >>229
三菱マテリアルも工場まではベルトコンベアだな
横瀬だから近いけど
秩父太平洋セメント(旧秩父セメント秩父第二工場)もベルトコンベアだね
小鹿野町の先峠を越えた群馬県からもやってくる >>231
叶山か、変わり果てた姿になっちまった、、、 青梅線と八高線信越本線買い取っていれば最強だったな
堤が失脚しなければ >>233
そりゃあサーベラスの苛立ちが何倍にもなっていたただろうな
廃止しろ〜
って
青梅線は兎も角、八高線、信越本線が移管されていたら、軽井沢特急が設定されていたかもな。
堤の失脚が誰を指すのか厳密には分らないけど、オヤジが無くなるのがもう少し遅かったら、西武グループ自体のその後の展開が違っていたかも。 >>234
堤清二が革命闘争で早死して流通も義明がついでいればもっと鉄道に金突っ込めた >>235
え?
西友が出来るところにボーリング場ばかり出来ていたんじゃね? 信越買収しても経路が中途半端じゃね
秩父から最短で開削しないと新幹線に持ってかれる
列車のセメント輸送は残ったの秩父鉄道だけだったけ? セメントを運んでる私鉄は三岐鉄道
秩父鉄道が運んでるのは石灰石 結果論言うのもなんだが3000や9000が旧2000より先に廃車になるくらいなら当初から3000・9000を作らず、その分旧2000・6000を多く作るべきだったと思う
3000は将来のホームドアの事も考えたらやむを得ない面もあるが、9000はVVVF化したからむしろ類似の4000・10000より後だと思った そう、そして在来車との連結を考えないなら101系で4ドア化しておけばよかったと言う
果ては、どうせ国電101パクるなら、いっそ451で4ドア化しておけば良かったじゃんと
これで3000や9000が旧2000より先に廃車問題、解決 西武がそんな昔に4ドア化していたら、そもそも2000系が誕生しない。
そして当時の西武に、4ドア車を走らせる理由がない。
他社が昭和30〜40年代にかけて20メートル4ドア化したのは、終戦直後の63形電車
の割り当てに起因している。
63形電車があったからこそ、昭和30年代に混雑が急激に激しくなったとき、各社とも
63形電車準拠の大型車体(当時の私鉄にとっては)で対処した結果。
その上、短期間で輸送力を伸ばすのに各社とも新車導入にこだわった。だからホームを
伸ばす予算的余裕がなく、短編成のまま輸送力を伸ばすために20メートル4ドア化を
推進することになった。
西武の場合、戦災車の部品などを使って車両を安価に大量導入。
結果、ホームを伸ばして編成を伸ばすという対応を早期に取ることが出来た。
だから4ドア化で座席を減らしてサービスダウンさせてまで対応する時代が、後送りになった。
西武が4ドア車導入を強いられたのは、昭和50年代になって新宿線の混雑が激しくなった時。
当時は新宿線の準急通過駅が6連分しかホームがなく、この延長に時間が掛かる(沼袋や
下落合では区画整理や河川改修の絡みがあった)からであった。このために新宿線普通電車
に特化した車両として誕生したのが2000系であり、西武が早期に4ドア化していたら誕生
しなかった。 30年前に池袋線を通勤で使ってた者にとっては、新宿線の4ドア車は羨ましかった。
乗車率220%以上のすし詰め状態の急行に、早く4ドア車をまわせと思ってた。
途中から乗る座れない者にとっては、座席は少なければ少ないほどいい。 何でおマエはそう熱くなるんだよ
ただ単純に「もしも・・・していたら」の妄想話だよ
でもやっぱり旧2000は現実に近い時点で誕生していたんじゃない?
あそこらで、地下鉄乗り入れ用車にも転用できる設計の車両を登場させてみようと、なっていた気がするし。
いつまでも単純な抵抗制御って訳にも行かないし、451〜101系が4ドアだったとしてもチョッパ車は誕生していた様な気がする。
新101、301は微妙だが3000は無かっただろう、「引き続き2000」になっただけ。
マイナーチェンジの新2000はあったかも。
そして当然9000何て代物は無くて101系の更新を徹底的に行う。
9000のVVVFの代わりに新2000のVVVFをしていたかもな。
うわあ、後半の動きは小田急そっくりだ。
451,551,571,411=4000
601,701,801=2600
101=5000
旧2000=9000
新101,301=5200
新2000=8000
6000=1000,2000
立ち位置的にはこんな感じか
一つ不確定なのはセミクロス4000が登場したかだな >>243 は >>241 ね
って俺も結構な長文だった >>241
沼袋って区画整理または河川改修がかかわっていたの?
知らなんだ そもそも9000なんて、少しでも4ドア車を増やすために爆誕したものだから… ホームドアをロープ式にして3ドア車両残すべきだった。
国交省は通勤電車=4ドアと思ってるバカばかりなので無視してもいいだろう >>241 74年頃の西武新宿線は、日中の各停の相当数が4両編成だった。
数は少なくなったが、85年頃も4両の各停が走ってたな。
東上線のように全部10両としないで客が少ない時間帯は編成を短くできるのは、労組に対し経営の力が強い西武ならではと思った。 80年代前半、8連化してからもしばらくは上石止まりは必ず4両だった >>243
> でもやっぱり旧2000は現実に近い時点で誕生していたんじゃない?
西武の4ドア化が早かったらというシミュレーションの上でなら、少なくとも2000系が
現実の形で出ることは無かったと思う。
だって、その旧形式4ドア車を新宿線に投入すれば解決しちゃうのだから。
4ドアで製造された101系が長期製造され、新101系や301系に当たる車両も4ドアになっただけ。
そして、1980年代中頃に時代の要請でチョッパ車を出したってところと思う。
もちろん、そけは今現実にある2000系とは似て非なるものになったと思う。
性能的に普通電車に特化させる必要も無いから。
地下鉄乗り入れは、現実と同じくそれら既存車とは無関係と思う。
結局、設計されるのは乗り入れ時期が明確になる1990年代初頭になるのは動かないと思う。
9000系が登場しなかったというシミュレーションには同意。
>>242
その頃は、新宿線だって普通電車以外はほとんど3ドア車だったよ。
ラッシュ時の優等まで4ドアになるのは、平成に入ってからの話。 >>229
>三菱はトラックだけど、太平洋セメントは武甲山から地下のベルトコンベアで日高市方面へ
>搬出してる。
高麗駅のWiki見たら96年まで貨物営業やってた記録になってるがここからも積込やってた?
あるいはもっと別の物資なのか…
東横瀬からのセメント着駅では?
まだセメントサイロが残ってる >>253
池線の101では見た事があったが
6000が増備中だった平成8年頃に見たのが最後 >>255
ありがと
高麗でもトラック積み換え輸送やってたのか 101が4ドアだったら、小田急5000をストレートにしたような側面デザインになってただろうな
強いて言えば103の張り上げ屋根版的な モハ90試作車みたいのか
新2000中期形が通風器やドア窓含めかなり似た印象
2段窓ならより似た印象醸すな >>23
10月3日19時00分から、BS11で「なにはなくとも全員集合!!」を放送するよ
松竹のドリフ映画を毎週放映するそう
そして毎週火曜日は「駅前シリーズ」をやるそう
まったく観たことがないので、駅前だからといって、鉄道が出るかもわかりませんが 801系って昭和48〜9年頃に扉の交換したらしいが、取り外したアルミドアはどこに行ったのだろうか?
まだ数年しか使っていないのに廃棄処分?
551,701,411の部品取り?
551(571除く)にHゴムガラス支持の鋼板ドアがあったって本当? >>262
5編成しかないから、先行的な実験ということでは?
実際、それからそんなに間をおかずに(1975年から)701系も赤電のまま扉交換開始したし(ただしこちらは冷房改造とセットだが)。 >>263
実験なら1編成で良くないですか?
それに製造後数年しか経っていない車両でするより、むしろ701の初期車辺りでした方が、部品の更新にもなっていいと思うのですが。
551はそれほど長く使うつもりが無いと会社は考えていた、と考えれば、納得できますが。
いずれにしても外したドアはどこへ行ったのですかね? 新2000のVVVF車は新501同様にギクシャクが酷すぎて早期廃車になったが
ギクシャクが酷かったなら編成全車をVVVFに改造とか
9000はVVVFの完全新造車として導入し新2000のVVVFユニットも9000に編入とかはだめだったのか? 9000は
・少しでも4ドアを増やしたい
・でも101系はまだ使おうと思えば使える
という前提があって、ならばいっそ少しでも安くとなって、
当時同じ手法をと取っていた10000系に合わせて、所工で可能な方策と言う事で誕生したのだろう。
9000の完全新製車となれば結局6000系を作るのと変わらないが、所工でステンレス車体は作れない。
なら最低限の条件を満たしている↑上の車両でいいやってなったんじゃない?
2097Fについては、見方を変えれば、2097Fの結果、新2000の更新時、VVVF化(チョッパ車とVVVF車の併結発生)を見送ったと言う事なのだろう。
そして2097Fはそもそもが試験車だから、調子が悪くなれば用済みと。 ふと思ったが、2097Fも、もはや懐かし板の範疇なんだな。 一般的に、主要機器を流用すると完全新車の8割の製作費と読んだのだが・・・ 何にでも使えるというAScarの名を付けられながら、101系列の全盛期は短かったですね。上の方が仰るような理由で9000系に生まれ変わったり、行楽用の4000系になったり、結果的には用途別に分かれた印象です。走行性能は特急用を含め、高い信頼がおかれていたのだと思いますが。
9000系はそういった状況下で、高コストと分かっていながら工場や職人さんの為に生まれた車と考えると、哀愁というかそんな気持ちになります。ヘアライン(?)だかの白っぽく輝くドアがオシャレでした。まだ綺麗なのに引退残念です。
2000系が当初は新宿線各駅停車用と謳われながらも、101系の理念を実現出来たのは2000系だったのかなと。 >>271
そこら辺にある鉄道雑誌だよ。
専門誌ではないから、世間話程度に。
P、F、Jのどれかだと思うけど、もっと安くなるものだと思っていたから、意外と安くないじゃん!て事で、8割という数字が印象に残っている。 何故はっきり書けないんだろう
検証できないように? >>272
俺の事?
書名なんて覚えてないもん
20年くらい前だぞ?
丁度9000系が製造されていたころだと思うよ
人とそんな話をしたから覚えている
もしかしたらなんかの単行本だったかもしれないぞ?
当時ネットは見ていなかったから、本であることは確か 自分の要求が叶わなかったからって
すぐさま嫌味皮肉罵詈雑言に走るのはぞっとしない
苦言を呈しておく 新2000のVVVF車自体、旧101で試験していた2種類のVVVFのうち6000に採用されなかった方のVVVFを有効活用するためだったんじゃなくて? ねえねえ世間の噂では 君の頭の中でー
天地創造ビッグバン 始まってるそうねえー 80年代が一応全盛期
旧と新で10年差あるが…
1編成先行の実験は分散冷房車だった 昔、駅にレッドアローとかの
小冊子置いてあったね
座席配置が載ってたような
なぜか分散式の冷房車登場時も
置いてあった。 分散式冷房車は171〜181Fの6本だけど、>>280の言う1編成先行の実験って何のことだろう? 1980年代に西武園手前辺りで乗った短い車両に赤えんぴつと新聞を持った何人もの労務者風の人達の記憶が残ってる 東村山駅ホームではスタンド拵えて新聞売りのおばさんがいたもんな
>競輪開催日 他線沿線民だけど、沼袋が島式ホームだった頃をかすかに覚えている。 新井薬師方の上り線はカントが取れないため両側とも30km/h制限。
下りは本線50、側線30km/h制限。
野方側はYポイント(わずかに振り分け)で上下線とも本線50km/h、側線55km/h制限だった。 椎名町駅の島式ホーム時代の痕跡は北西側に残ってるんだねぇ。 中吊りや掲示板に貼られてたライオンズニュースが懐かしいな
コストのせいだったのか知らないないけど、いつもモノクロ写真だった ライオンズといえば、レオライナーになる前、
豆タンクの引っ張る汽車列車に乗ったなぁ。
ユネスコ村なんてのがあった頃だった。 西武新宿駅では毎日煩いくらい松崎しげるのライオンズ応援歌みたいなのか流れてたな
もしかして今もなのかな?! >>296 バッテリーカーが牽引していた頃に乗った記憶がある。ユネスコ村の一角に、西武のミニ鉄道博物館があった。 >>295
あれは先にカラーで枠だけ刷っておいて後から1色で写真を刷り込むから >>298
ユネスコ村のSL展示コーナーか。
懐かしいな。
最終日に行ったけど、鉄ヲタも含めて人が殆どいなかったの覚えてる。 >>295 所沢周辺が「西武植民地」と言われていた頃か。
新宿線で通勤してたが、車内にはまるで大本営発表のようなライオンズ・ニュース。試合負けたはずなのに、西武の選手大活躍と・・
子どもたちはライオンズ・ファンとして洗脳され、家族連れのお出かけは池袋の西武デパートかパルコで、都心まで行く必要が無い。
パパは西武系列のゴルフ場、普段の買い物は駅前の西友、そして国土計画に住宅ローンを支払う。老後まで西武から抜け出せない・・ 西武新宿駅の1Fにライオンズのショップみたいなのがあった
もうないかな? >>261
アルミハニカムドアは傷みやすかったそうで、予備品確保のために801系のをSUSに交換した話を伺ったことがあります。
一番新しいのが状態も良いでしょうから、801系から持ってくるのは納得です。
551の扉は701以降のものと異なる仕様でしたが、混用されていたようですね。両者が一つの乗降口に向い合せで使われていたのを見たことがあります。
Hゴムドアの551はサハ1557か1558です。451の廃車発生品と伺っています。82年頃でしたので、予備品も底をついたのかもしれません。
外されたアルミハニカムドアは即売会で売られていたことがあります。妻面の梯子も売ってました。持ってる方も多いのでは? >>261
アルミハニカムドアは傷みやすかったそうで、予備品確保のために801系のをSUSに交換した話を伺ったことがあります。
一番新しいのが状態も良いでしょうから、801系から持ってくるのは納得です。
551の扉は701以降のものと異なる仕様でしたが、混用されていたようですね。両者が一つの乗降口に向い合せで使われていたのを見たことがあります。
Hゴムドアの551はサハ1557か1558です。451の廃車発生品と伺っています。82年頃でしたので、予備品も底をついたのかもしれません。
外されたアルミハニカムドアは即売会で売られていたことがあります。妻面の梯子も売ってました。持ってる方も多いのでは? >>261
アルミハニカムドアは傷みやすかったそうで、予備品確保のために801系のをSUSに交換した話を伺ったことがあります。
一番新しいのが状態も良いでしょうから、801系から持ってくるのは納得です。
551の扉は701以降のものと異なる仕様でしたが、混用されていたようですね。両者が一つの乗降口に向い合せで使われていたのを見たことがあります。
Hゴムドアの551はサハ1557か1558です。451の廃車発生品と伺っています。82年頃でしたので、予備品も底をついたのかもしれません。
外されたアルミハニカムドアは即売会で売られていたことがあります。妻面の梯子も売ってました。持ってる方も多いのでは? >>293
架け替え前の環状六号線山手通りの橋台橋脚も、よく見るとハの字型になっていた。
上り線側の橋脚が、線路に対して斜めになっている感じ。
駅側に向かって少し開いていると言ったらわかり易いか。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/28/d894a930951ca6ec7629cc9418bc6ec6.png >>302
ライオンズコーナーですね
池袋にもありました >>303-307
ご丁寧に有難うございます。
どうしても伝えたい!熱意は十分に感じました。
551系の鋼板ドアは交換したものなのですね
納得しました。
とすると晩年と言う事なのですね。
551と701以降のものの違いって、客室側が塗装かデコラ張りかって事でしたっけ?
はっきり覚えていません・・・。 >>297
西友も酷いもんだった
保谷や上石神井なんて駅と西友が直結しているから、一日中鳴りっ放し >>308
旧駅舎の脇に構内踏切があって、
4両分の島式ホームがあるのがわかるね。
駅から池袋方面はだいぶ振られているから、
今も島式だったら、池袋行きの優等列車は相当スピードを落とす必要がありそう。
♪おうおうおう らーいおーんず
優勝セールの時の西武百貨店で延々とかかっていた記憶が… あのリピート度はビックカメラの「東が西武で西東武」といい勝負だったな。 >>314 変な曲というわけではないんだが、プロ野球に関心のない者や、西武以外の球団のファンが頻繁に聞かされていたら耳障りになるという感じだな。
そのうち慣れて何とも思わなくなるが。
阪神電鉄の駅、沿線で阪神優勝のときは別として、「六甲おろし」があんなに頻繁にかかってるか? 球団40周年(シーズンは翌年からだっけ?)、新型特急に合わせ、日本シリーズ優勝したかったんだろうけど、残念だったね。
せめて進出しろよ。回収できねぇじゃねーか。
と経営陣は思ったか? 窓から見えた通称西武柳沢球場は何だったんだろ?整備された窪地みたいな所。水でも溜める施設だったのかな? >>319 調整池のことか、都市河川である石神井川の洪水防止対策。 あそこ野球場があったの?
昔の記憶はないが、気付いた時には調整池兼運動場が出来ていた。 田無駅から東に一つ目のガード、一部の西武バスが通っている所も、踏切時代の記憶は無い。
線路がほぼ水平になっているけど、あそこが踏切で、青梅街道が高さは違えど昔から立体交差だったとなると、
どんな地形だったのか現地を見ても想像がつかない。 >>308 の写真、駅の南側ってもしかして空襲の跡? >>323
そだよ。
椎名町駅の北〜西側は罹災しなかった。
山手通り(環状6号線)は工事中だった。
椎名町〜池袋間の広域版、上り屋敷駅のホームも見える
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.728024&lng=139.700582&zoom=16&age=0&screen=1&scr1tile=k_ort_USA10&mapOpacity=0 でも乗降の質が違うからな
昔は練馬から乗って池袋へ向かう人 池袋から乗って来て練馬で降りる人
今は奥から乗って来て練馬で降りる人 練馬で乗って奥へ向かう人 ああ、大江戸線
お前は練馬へ人を運んできた線 いつから客を奪う線になったのだ
やってきた12号 懐かしや宿62 ぴっぴろぴっぴろぴっぴろぴっぴっぴい
はばりほはばりほはばりほはっぱっぱー
たたたたーたたー ないないねぇないないねぇないないねぇ
たっ たっ たっ どんでぃんだんどんでぃんだんでぃん 獅子よー よっしゃー 駆けろよー よっしゃー 果ーてーしなーーくよっしゃーーーー >>261
所沢工場で整備した関鉄の気動車に乗った時、如何にも中古っぽいHゴム支持の無塗装両開きドアだったよ。
もう35年以上前の話だけど。 所沢車両工場の車は、他社譲渡多かったけど、出来が悪かったのか早々同じ西武の後継車に置き換えられたのが多かった気がす。 イェイイェイ イェイイェイ ワワワワ
イェイイェイ イェイイェイ ワワワワ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>336
ちなみにアルミハニカムドアはHゴムガラス押さえではない メンテ不要を唄ってネジ止めアルミ枠が開発されたのはJR201系からだろ えっ、知らない?
西武のアルミハニカムドアは金枠だよ?今のねじ止めのとは違うけど。
国鉄だって、101系の試作車は初めは金枠じゃなかったっけ?
0系新幹線だってHゴムはないし、営団の銀座線〜日比谷線だって、昔のドアはHゴムじゃなかったよ。 営団の銀座線〜日比谷線ってのは0シリーズの前の車両の「昔のドア」のことね ううんこれじゃさびしいね なんだかすこしものたりない 6000の初期2本も当初は有楽町線に入る予定だったんだよね
それが事情により地上専用に変更と
でも結果的に地上専用になるくらいなら新2000の10両固定でもよかったんじゃね?
当時9000という発想はなかったろうし >>346
1990年代初頭の段階では、地下鉄乗り入れ車が必要になるのは1995年頃
と考えられていた。
これまでにない機能によってこれまでにない使い方をする電車だから実用
試験をする必要があって、2〜3年前から導入って話だったんだよ。
9000系の話は1990年代初頭には「4000系の4扉版」として構想があったと
聞いたことがある。
当時は池袋線への2000系投入は考えてなくて、4000系と同じ手法で101系
の車体を4扉のものに交換するという考え方は早い段階で生まれていた。 2000系もぼちぼちヘリが早くなるのかな。2001とか2003の編成を最近よく見るけどグロベンのまま頑張ってる。 >>347
90年代初頭にはすでに池袋線に2000系は進出していたのだが。 90年春2065Fが4両で狭山線で使用
秋に8連化され池袋口に現れる
2061と63Fもすぐにシク線から駆け付けた
この頃、側面の普通幕が快速みたいに青かったっけ >>241
モハ63の2両が入線する予定だったが在来車の地方私鉄への供出を嫌ったため辞退したらしい
仮に入線していたら戦後の西武は早くに4ドアを標準としていて、初代501辺りから4ドアになっていたと予想 >>353 初代401が新宿線で走っていたこと知らないのかなあ。
63型、西武でググれば出てくるんだが。異端車的存在ではあったが。 【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青砥6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青砥6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
D清水(東京都葛飾区青砥6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青砥6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青砥6−23−20) 私鉄入りしたロクサンで希少価値があるのはここと名鉄くらいですかね >>356
規格外の少数派車両はすぐ放出する(初代クハ1401形とか)癖のあった西武が、
たった3両のロクサンを放出せず、それどころかたった1両のデッドコピー(モハ401)を
わざわざ作ったんだから、そりゃ希少だな。 幻の車両と言えば7000や8000もそうだよな
レオライナーが8500ではなく別の形式称号を使っていたらこの2つが空いて実際の20000や30000辺りはこの辺の番号を使っていたかもねw >>357 停車駅の多い新宿線用だし、その当時から社内で20m4ドア車を新宿線にだけでも導入すべきではないかという議論があったのかも。 >>358
幻の7000系は、
・レオライナー車両の仮称
・90年度に予定されていたハイデッカー新特急車(9両新造予定)
の2種類があった模様だが… 9000系は所沢工場が維持されていたらVVVF化ではなく廃車になった3000系の機器を用いて界磁チョッパ化されてたと思うが… 私鉄じゃ界磁添加励磁って少ないんだよな。
国鉄の特許料が高かったのかな 路車板で西武譲渡が本当に噂になった車両まとめ(妄想ネタを除く)
@埼京線205系(3ドア車等置き換え用)
A115系(実際に譲渡の貼り紙が1度貼られる、観光用?)
B都営5300形(廃車回送が久里浜ではなく総車に送られたことから当初は「どこかに譲渡では?」と話題に)
C京成3600形(鉄オタのLINEグループから流出)
Dメトロ6102F(動態保存目的)
EE653系(レッドアローっぽい色になったから、しかし後に国鉄特急色ということが判明)
Fメトロ03系(現在譲渡の貼り紙が貼られて留置中)
G189系N102編成(S鉄道が動態保存を検討という文章から)←NEW
@〜C、Eに関しては実現せず
D、F、Gに関しては現在不明
Fに関しては一部が熊本電気鉄道へと譲渡
妄想ネタも含めるとキリがないのでここでは除く '80年代の時点で既に池袋線は有楽町線との直通が決まっていたために3ドア増備とはせず、
'87年まで2000系を池袋線・新宿線兼用車として増備し、
その後'88年からステンレスVVVF車(前面以外は史実6000系的)を標準通勤車として導入でも良かったんでは?
(ただ、池袋線のラッシュは平成初期までは3ドアで対応できていた模様だが)
新2000系は'88年導入ながら鋼製・界磁チョッパという過渡的な仕様で、
同時期の小田急1000形がステンレス・VVVFというのを見ると新2000系は時代遅れに見えるという説も。 >>364 車内保温や冷房効果のことは考えないわけ?
4ドアで停車時間が長いときは中間2ドアを締め切る仕様にする方法もあるが、途中駅での乗降時間短縮が強く求められないのであれば、3ドアのままの方がコスト節約できるのでは?
東武8000とは対照的だが、こちらは伊勢崎線北千住での乗換客を迅速にさばかなくてはならず、4ドアにする必要があったからだろう。共通仕様で大量導入されたってわけで。 >>365
東武は昔から4ドアが主流で、日比谷線直通が例外なだけだったから関係無いと思う。 >>366 だから、元々3ドアで統一されていた西武が、地下鉄乗り入れが目前となる平成初期の時点まで池袋線に4ドア車を導入する必要性は高くなかったということの理由の一つ。
73、78が主力の時代、東武は冬季の車内保温は多少犠牲にしても、北関東にまで4ドア車を入れた。 西武は質より量、東武はミニ国鉄で、80年代まで規格化された車両を量産し続けたからな。路線別の事情配慮より製造コスト削減優先。当時の国鉄と似たようなもの。 70年代の池袋線沿線は、新旧入り乱れていて、
ガキの頃、一日中線路脇で見ていたなぁ。
101系と5000系が登場したころで、701(801)系はまだ赤電だった。
吊掛車はたくさん残っていて、リベット打ちの旧国鉄車両も朝夕の増結編成として走っていた。
とにかくバラエティに富んでいて、形式なんてわからないから愛称を勝手につけてたっけ。
貨物の受け渡しは池袋駅だったので、セメント列車を引いたE851を見かけた記憶もある。 世の人は糞尿は臭い、汚いと言うが、しかし美人の腹の中にも糞尿はある。
外へ出せば汚いが、腹の中に密閉しておくからなんともない。
糞尿を密閉した貨車で送って、外気に触れないで処理すれば何でもない筈だ。
所沢の農場で、尿と糞とを仕分けして、尿はパイプで畑の中へ送る。これで野菜を作ってまた腹の中へ還元する。
これを繰り返すことが天地の理法に適ったやり方だと思った。
伊勢の大神宮では落葉が何尺と溜まっている。
肥料をやらないけれども、みずからの落葉で樹木自身が成長していく。
この天地の理法から見れば、海に糞尿を捨てることは間違いである。
それで、人間の手を用いずして、糞尿を電車に積み込み、人間の手を用いずしてこれを降ろす。
つまり、人間の手の代りに地球の引力でやることを考えた。
始発駅に糞尿のタンクを拵らえ、石油タンクのような糞尿車を作って輸送し、終着駅に大きなタンクを作り、糞尿車のバルブを開ければ、モノはタンクに落ちる。これを農村に渡す。
そのころ農村は食糧増産に懸命な努力を続けながら、肥料不足に困っていた。
増産は戦時的要請だが、戦争は今迄使っていた化学肥料を取り上げてしまった。
昔の農業に返って下肥を使えばいいわけだが、そうするには人手もなければ車もない。
お百姓は遠い所を都内まで取りに出かけてくる暇がなかった。
もし、都内に有り余って困っている糞尿を、肥料不足の農村まで運び出せたら、それこそ一挙両得と言う訳である。
糞尿貯留槽は西武鉄道、武蔵野鉄道両沿線数10ヵ所に全容積27万1,000石を設置し、肥溜の上ヘレールを敷き、その上にクンク車を引き込んで落す。
つまり、『電車から溜槽へ、またさらに自動車に、自然落下の法則で地球の引力を利用するもので、将来は一日2万石程度の糞尿を処理し、野菜増産に貢献する。』
と言う狙いであった。
運転は人間の輸送を終ったあとの深夜を利用し、帰路はタンク車の上に特別の台をつけて、農村から都内向けの野菜輸送が出来るようにした。
一日2万石の輸送能力は、大八車でやるとなれば、延々16kmも続くという大変な量であった。 黄金=西武というイメージが強いけど、
東武東上線も当然同じだったんだよ。
ちなみに、西武池袋線に並行した目白通り〜千川通りあたりは清戸道(きよとみち)といって、
練馬や清瀬といった農村から大八車で、行きは農産物を、帰りは「黄金」を運ぶ道だったので、
黄金列車はまさにその再現だったわけだ。 黄金列車に関しては東上線系の同人誌サークルが本を作っている最中。
頁数が増えすぎたせいで西武分のカット予定が一転して掲載予定に。 多摩川線の清浄野菜列車が忘れられているなあ
今、東京外国語大学になっている所にGHQの農場があり、寄生虫の恐れがない清浄野菜を引き込み線経由で運び出していた >>371
そんなのどこでもそう
宮益坂なんか坂がきつくて荷車の肥桶からここで肥をこぼすもんだから、いつもウン○が落っこっていたってよ >>370
堤康次郎は糞尿の海洋投棄に反対だったていうもんな
日本は糞尿を海洋投棄して、近海の魚介を食べるものだから、赤痢や腸チフスが多いと。
『ユートピア』では、「屠畜と糞尿の始末は奴隷の仕事」と逃げていると言っていたんだっけ。 >>373
グラントハイツでメイドとして働いていたっていう(よその)おばさんが、日本のお百姓の持つ肥桶を見て米兵が
funny bucket
funny bucket
って笑ってたって言ってたってさ。
日本の野菜は汚くて食べられないって、化学肥料を使って自給してたって。
親からのまた聞き。
ファニーバケツはなかなかいい名称だと思う。 >>369
70年代一日中線路脇でニヤニヤしながら挙動不審に電車を眺めていた有名な鼻垂れ小僧がいたらしいな(笑) でも>>376は
honey bucket
って言うんだよな
オバチャンの聞き間違いかな >>368
3000も計画時は電機子チョッパ・ボルスタレス台車・アルミ車体という実際の半蔵門線8000みたいな仕様を考えていたらしいが、結局2000の3ドア版になったし
つまり、あまり金をかけた車両を作らないというのが昔の西武の方針だったんだな セ・リーグにおける巨人V9時代よりも凄かったな、西武黄金時代。
でもこのスレだと別の意味になるw
みんな運行されるのが好きだなww よく勘違いされるが西武池袋線は「西武鉄道本線」ではないんだよな。
と、いうか西武鉄道に本線はない。
あるとしたらどこだ?
路線としての歴史なら国分寺線になる。
さらにそこから別れた新宿線も本線の支線といえる。
あのいつまで経っても地下鉄乗り入れしない、新宿駅にも乗り入れしない、埼京線大江戸線と新しい路線が出来る度に客を奪われる線が。
会社としては多摩湖線になるが。
東急も「東横線」はあってもやっぱ「東京急行本線」は存在しない。
東武も伊勢崎線日光線、どれも本線ではない。
強いて言えば亀戸線が「元本線」
線路は繋がっているが、野田線は東葛北葛の東上線って感じ。
東上線なら越生線と比較して「東上本線」と便宜上よばれることはあるが。
石橋貴明もネタにしてたな、東上線は越生線って子分がいると。
何か関東の大手私鉄で「本線」が明確に存在するのって、京急とか相鉄とか系統も入り込んでない、合併の歴史も激しくない、路線延長も中小規模のところだね。
京王は京王で軌間の違う、小田急系列からの編入路線も抱えているが。
ここもあんなに渋谷駅が改良工事行われているのに地下鉄とは無縁だな。 >>381
堤康次郎が買収した武蔵野鉄道が合併存続会社ということを考えた場合は、
一般的な見方と同じで、西武池袋線が本線、ということになるんだろうけどね。 >>381
東上線は正式名称が東上本線で、越生線と総称して東上線と呼ぶわけで、その書きぶりだと逆ですね。 >>383
東上鉄道 本線 と呼んでいたって事かな そういえばプリンス・スカイラインはあってもダットサン・スカイラインはないんだな。
もうサニーもブルーバードもダットサンからの伝統のセダンはない。
フェアレディZはかろうじてあるけど。
ダットサンではなく日産としてオースチンと提携していた頃の流れのセドリックもない。
日産で昔から今も名前残っているのってスカイラインぐらい。 >>358 何か新2000系の増備も89年度で終了し、以降は新形式に移行する噂があったらしい。
実現していたらそれが8000系を名乗っていたかもね。
(7000系は>>360にあるハイデッカー車の仮称) 路車板によると9000系がVVVFになった時点では、同じく機器流用車の4000系や10000系もVVVFに改造する構想があったそうな。
10000系は10112FがVVVFで登場したことと、10000系の通勤車版的な9000系がVVVF化されたことを考えると、
10101〜10111FのVVVF化は可能だったかもしれないが、西武車両の解散が影響しているんだろうか… VVVFを採用した10112Fの台車がFS542/042でなく、FS372/072に格落ちさせた西武に
当時はとても落胆し、ものすごく呆れたのを思い出す。 >>389
9000がVVVF化されても電磁直通ブレーキのままだったことも FS-542/042 は、軸箱支持がゴムになって、揺れを吸収するという事で採用してみたけど、
実際は FS-372/072 よりも乗り心地の向上が芳しくなかったから改造しかなったと聞いた事がある。 9000は所沢工場が2000年代でも残っていたら、VVVF化ではなく廃車になった3000の機器を流用して界磁チョッパ化だったかもね >>181
西武は冷房化率100%は早かったけど、真夏でも朝ラッシュ時しか使わなかったらしい。 >>393
昼も使ってたけどなぁ…冷房
子供の頃、1970年代後半の夏休み期間中に昼間の拝島線や多摩湖線に時々乗ったが、
客少ないのに冷房強烈にかけてて、すごく寒かった思い出がある。
で、電車を降りると真夏の湿った熱気が暑すぎてこたえた… >>392
新2000のVVVF車も所沢工場が存続していたらもう少し処遇について考えたかもしれないが・・
例えば3000の廃車発生品で界磁チョッパ化とか
3000が9本で、新2000VVVF車と9000が合わせて9本だったし 80年代に学生だったけど、夏休み中の部活の練習の帰りの電車はキンキンに冷えてた憶えがあるよ。
駅に着いて降りようとすると、外の暑さはもちろんドア下の抵抗器から上がってくる熱気にやられる。 こっちも80年代の記憶だが、池袋行きに乗っていると、
国鉄のガードのに差しかかったら、すかさず冷房を切っていたな 池袋線・新宿線とも石神井を起点に冷房の入切してたな。 >>399
その前は練馬だった。涼しい風が出始めた頃に池袋に着く。
その頃は朝の下りでは冷房は使っていなかった。 >>401
変電所の容量の関係ですかね?
2000が省エネ電車ったって、劇的に電力消費が減ったとも思えないし、当時の冷房の消費カロリーも半端無かったんじゃないかと 80年代半ば、新宿線花小金井から通勤していたが、花小金井で普通に冷房効かせてたぞ。 >>394
そもそも年間通じて冷房を使うようになったのってまだまだ最近の事じゃん。
JRも20年くらい前まで「この車両は通年冷房が使えます」なんつうステッカーが乗務員室内に貼られていたじゃない。 >>398
そして発車間際に投入。
昔の冷房機って起動するときにボイン!って大きな音がしたからスイッチ入れたのがよく分った。
そして、ああ、そろそろ発車だな、と。 https://www.youtube.com/watch?v=NKbsBh4xfcs
7:09
江古田-桜台の環七通り道路橋付近てこんなだったんだな。
それにしてもモラル低すぎ。
こんな大人たちが「今の若いもんは・・・」って言っていたのか?! >>399
いつの時代よ?
東村山や田無に住んでいたけど冷房はいつでもどこでもかかっていたけど
ただ遠足で飯能に行ったときの帰りが101分散式冷房+扇風機で効きが悪くて
ワガママを言って
クラス毎併結されていた集中式冷房+ラインデリア車に移動したら涼しかった
事はあった(問題児行動だけどオタ的読みが当たり周囲から感謝された) >>407 401や601は、101に比べると冷房の効きがよくなかった感じがする。車体が古いからか。80年代後半の話 801以前の元赤電って冷房化された後も、101に比べると内装で劣っている、安っぽい感じがしたな。
前者が国鉄の101系、後者が103系に相当するようなものか。 101も車内更新でシートが新2000と同じ明るい色のものに換えられたり、網棚の端の天井に伸びる支えの部分が白く塗られたり、
車端部だけ化粧板がピンクっぽい色だったりしたのは汚らしく見えたな。 冷改701はピンクの化粧板とエンジのシートで元赤電だなと分かった 701冷改って臙脂の赤電シートってのあったの?
101と同じ茶色しか知らない 小平駅の先の突っ込み線みたいなところに移動変電車サヤが留置してあったのを
かすかに覚えてる。下落合駅の横が定位置だったらしいけどすでにご用済みだったんだろうなあ‥‥。(1970年代) >>415
エンジのモケットは昭和52年冷改車まで。
昭和53年冷改車から茶色に変更されたと記憶。
エンジのモケットのままの車両は、昭和57年頃からの検査入場で順次茶色に取り替えられた。
と同時に、プラスチック成形物入りのものに交換されたのもいた。
そう言えば昭和57年頃の765Fは、1765-765が茶色、766-1766がエンジの時期もあった。
逆だったかも、ちょっとうろ覚え。 >>419
おおーすご〜い
他の旧性能車って最後の頃どうなっていましたっけ?
遅くまで残っていた351 451 551 571 1651
記憶にないや >>419
ありがとう、それで思い出したが運転席扉窓も客席と水平面が平行なまま
だったな、ゴルフ急行で乗った想い出がある
ステンレス製クーラーカバー、プラ型入り座席と同時に一段高いのに交換された へっぺろぺっぺろべろべろべーろ へっぺろぺっぺっぺ
ほしゅ >>420
NRAは6000ベースのVVVFを採用した完全新造車として登場していたらよかったと思ったが、完全新造車が高価な時代だったから… 山岳線向きのVVVF車を開発したくなかったって事らしいからね
当時金が掛かりすぎると
6000まんまじゃ不安だったって事なのかな 今年で西武秩父線開業50周年ですか。当時の売り出しは5000系レッドアロー・101系ASカー・E851電気機関車の3本立てだったね。
謳い文句が「西武で秩父へ特急83分」 今でも覚えてる。 そして
呪い文句が「五月蠅い特急83分」 今でも言われてる。 6000系はJR901系と同期だし新造車が高価だったというよりは、当時の秩父線は回生車が定期運用ができなかったから
足回り流用に関しては特に何も思わなかったな。
企画倒れになった観光特急7000系も足回り流用の計画だったからね。
ただいざ10000系の実車を見たら、華があった5000系と比べフラッグシップを担うには地味な外観だとは思った。 6000の試運転は空制だけで走ったのかね?
6101Fは今の所西武秩父線を走った唯一の6000系かな >>428
6000は有楽町線直通用だからやむなく完全新造となっただけと思われる
当時の西武は部品使い回しが得意であり、あくまで6000は東武9000/20000的なものだったんじゃないの? >>430
配備当初から新宿線にも入ってなかったか? 池袋線が先行するものの、6000は94年から新宿線に入っている。池袋線とのバランスを取ったのではのだろうけど 6007Fが新宿線では初の配置だったけど、池袋線に新製配置されて1ヶ月弱走って、新宿線へ来た。
新宿線での走行では乗客に強いインパクトを与えてた。何これ?みたいな反応してた学生もいた。
その後に6012Fと6015Fは新製配置された。 6107Fについてなんかの記事で1か月となっていたが、もう少し走っていた。
1994年2月竣工、正式な転属は6月
正式な移籍前に貸出扱いで移動する事もあるけど、自分もその頃まで走っていたのを見ているから、正式な転属日と実際の移動は同じとみて間違いない。
よって1か月と言うのは誤り。 >>428
NRAの10101Fと10202-10302は幻の7000に使う予定だった機器を使用したと聞いているが してるぜ
オーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 501系の台車は、FS-542Bと刻印されてるものが該当するんじゃないか、と。
401F,405F,407F,409Fも、10000系の台車に流用されてる。
10000系の種車は制御器を基準にしていると思うけど、台車はぐちゃぐちゃかもね。
701が履いてたクハの台車もN2000や10000に流用されてるけど。
台車の履歴は、武蔵丘に残っているんだろうか? 3件隣のお向さんのそのまたお向かいの3件隣に決まっているじゃん >>438
701系っていろんな意味で部品取りの見本市みたいだな。
・冷房改造時に不要になった低出力MG→赤電のMG交流化に転用(これは101系や801系についても共通だが)
・廃車による転用→クハの台車だけではなく、客用扉やMG等も転用 今日も暑かったな
みんな元気か?
頑張って乗り切るぞ >>441
701の冷房化って手が入れられていない車両から優先的に行ったらしいから、転用したいような交流MGになっていた車両は冷房化後回しで、
結果的にその辺の車両が冷房化されたときにはMGを転用する先の旧性能車も無くなってたんじゃないの?
赤い電車のMG交流化に用いられたのは101非冷房のが主体じゃなくて? >>443
101系の冷房改造って70年代初期にちょこっとやった後、70年代中期からは701系・801系・411系(→401系)の冷房改造を優先させるために
長いこと(701系・801系・411系の冷房改造が完了するまで)中断していたんだよな。
だから、赤電の交流MG化は101系からの発生品だけでは(主体と言い切るには)不足していて、701系や801系からの発生品も使われていた。 そういえば、101系の10両(6両)編成って、冷房化するまでなかったよね。
池袋線の10両編成は赤電グループの独擅場だったと記憶してる。 赤電の交流MGって、初めから交流の801と冷房化前の一部の701を除くと
451の6コテと551 571 と411?程度でそんなに数要らなくないですか? >>446
必要なMG数を考えてみた。
351系
3連×3本:3台(1台/編成)
451系
6連×4本:8台(2台/編成)
2連(Mc451-Tc1471)×7本:7台(1台/編成)
2連(Mc451-Tc1651)×6本:6台(1台/編成)
※2連(Mc451-Tc1411)はMG交流化対象外。
551系(571系分離前)
6連×5本:10台(2台/編成)
4連×1本:1台(1台/編成)
411系(401系改造前)
2連×16本:16台(1台/編成)
※冷房改造まで直流MGのままの編成を除く
旧性能赤電で最大51台だな。
新性能4連換算で51編成分…結構あるなぁ… 411の冷改前に交流MGになっていた編成と冷改同時に交流MGになった編成の正確な数が分ると言う事は、具体的な編成も覚えているのですか。
すごおーーーい
101系前期冷改車
121~129(4コテ) 5
141~147 4
163~169 4
183~189 4
17台 全然足りないな
非冷房701の交流MG化がどれほど進んでいたか、旧性能車の交流MG化がいつごろまでに行われたかにもよるが、旧性能車への直接新品取り付けも否定できない? >>445 赤電、415や411の2連ユニットが相当数あって、ラッシュ時に2連を増結して10両にするなど、編成両数を変動させやすかったからでは?
だから、701に1411にとチンドン行列式10両編成というのが出てくる。 それと、加減速性能に優れた101をなるべくラッシュ時の各停運用に回し、赤電を優等列車に回したのか。そのため、赤電新性能車の冷房化を優先させたのでは >>448
> すごおーーーい
鉄道ファンってのはこんなのばっかりだな >>449 >>450
>>445は単に、101系は冷房車が登場するまでは6両固定が無かった=4両固定しかなかったから、10両は必ず赤だったな、と言ってるだけだろう お盆なのに、赤や黄色の3ドア車は戻って来ない。
向こうの運用で忙しいのかな。 3000/9000作らずその分旧2000/6000増備すればよかったと思ったことがあったが今思えばむしろ旧2000/6000が当時は特殊用途だったと思えてきた… 9000だがVVVF化後に何かしらの不都合があったかもね
小田急2666/東急7915も電装化(VVVF化)したが結局共に長持ちしなかったし 多分、中の人かそれに近い人だと思うけど、前に書いている人いたよ。
VVVF+全電気ブレーキ+HSC
の組み合わせが悪く、独特の衝動があって停めにくいと。
これはホントの気がする。 わざわざ東急車両まで持ってったんだからブレーキも電気指令に改造すればよかったのにね >>462
近江鉄道ですら、西武の中古抵抗車をHRD化して使ってるのに。 ぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけ 今日は雨だね
こんな日101は空転しまくってた
でもそのまま加速していた
へ―きへーき ってな 雨降るとマスコンを小刻みに動かして手動進段で加速度落としていた むかしの池袋線は準急が石神井までノンストップ、急行は石神井、大泉、ひばり、所沢だったって、隣のお婆ちゃんのネコが教えてくれた。 >>469
冬の時期で積雪が深くなると、電制切り替えSWをOFF、さらにブレーキレバーを緩めても
残圧する(完全緩解しない)様にゲタを装着して、圧着運転をしてた101系と5000系。 西武鉄道は悪天候に強いイメージが有るな。
東横線事故のとき、結構話題になった。 >>472
昭和の時代の雪の日の田無で追突事故を起こしてからは弱気になって
大雪の日は徐行する様になったけど、それ以前は最強だったらしい。
>>470
昔は、今の通急と通準の種別がなくて、朝は今の急行と通急、準急と今の通準が
混在してたみたいだよ。
通急は急行の種別で、通準は準急の種別で走ってたみたい。 新宿線も同じ急行でも鷺ノ宮通過と上石神井通過があった。 >>470
時代とともに変わっている。
それによって同じ停車パターンが時代によって違う名称だったりもしている。
だが>>470の停車パターンは資料で確認できていない。 >>461
小田急8000はブレーキまでECBに改造したのに西武9000はそれをやらなかったということは、やはり急を要す改造だったんだろう
本来はNRA等と同様に抵抗制御のまま使い倒すつもりだったろうけど >>471
俺が覚えてるのは、乗務員室内助手席側の前面カバーに「降雪電制解放SW」と記載されたプレートが貼ってあって、ONににすると
運転席前のパネルも該当するランプが点灯する、というのだったなあ。
で、どうなるかっていうと空制のみになって、なおかつブレーキシューが常に車輪踏面に押し付けられていて、それで雪の噛み込みを
防ぐ、というのだったと。それらがスイッチ一つで行われる。なんで、その時はノッチオフするとみるみる速度が落ちていく。
でも、俺が西武線に乗るようになったのは昭和48年からだから、それ以前はゲタをかましていたのかしら? >>471
俺が覚えてるのは、乗務員室内助手席側の前面カバーに「降雪電制解放SW」と記載されたプレートが貼ってあって、ONににすると
運転席前のパネルも該当するランプが点灯する、というのだったなあ。
で、どうなるかっていうと空制のみになって、なおかつブレーキシューが常に車輪踏面に押し付けられていて、それで雪の噛み込みを
防ぐ、というのだったと。それらがスイッチ一つで行われる。なんで、その時はノッチオフするとみるみる速度が落ちていく。
でも、俺が西武線に乗るようになったのは昭和48年からだから、それ以前はゲタをかましていたのかしら? あ、ごめんなさい、二回書き込んじゃった。すみません。 圧着ブレーキってタナシゴッツンコ以後に付けたっしょ?
改造過渡期には「圧着ブレーキ装備車」ってシール貼ってあったとよ
「圧着電制」「圧着空制」ってあるだよ
「降雪電制開放」って「圧着運転Sw」に変わったけんね 新宿線の急行は、高田馬場−鷺ノ宮−(この間各停)−上石神井−田無だったと聞いたことがある >>477
後に、ゲタを装着しなくてもSW操作だけで電制解放と残圧をしてくれる様に工事されていったよ。
それが「圧着運転」SWというもので、田無事故以降、2000系など全車にも工事されていった。
他社では「耐雪ブレーキ」ONっていうやつね。 >>470
いつ頃かは分からないけど、大昔は練馬に準急が止まっていたとか。
あと、所沢の西武グリークヒルを売り出すにあたり、清瀬に一部の急行を
止めていたとか。 >>483 準急豊島園行きあったの知らない?
途中停車駅は練馬だけ つうか戦後の準急は「池袋・練馬以遠各駅」から始まったんだよ
戦前はまた違った 「池袋・練馬・石神井公園以遠各駅」を急行と呼んでいる時代もあった 乗る時間はバラバラなのに、江古田でいつも準急に抜かれていた思い出w >>473
>通急は急行の種別で、通準(練馬通過)は準急の種別で走ってた
割と最近ね❤昭和55年3月改正までよ💛
時刻表創刊号はその世界だわ♢
因みに今の通勤急行の祖先の急行が誕生したときは「所沢・東久留米・保谷・大泉学園・池袋」
このときは優等が15分サイクルに3本で
もうひとつの急行「所沢・ひばりヶ丘・石神井公園」
準急「所沢〜石神井公園・池袋」(朝も練馬通過)
で、東久留米〜石神井公園間各優等2本停車でバランスが取れていたのよ♥
そのあと各停を1本格上げして後の通勤準急の祖先の準急が誕生したときに、
通勤急行の祖先は「「所沢・東久留米・保谷・大泉学園・石神井公園・池袋」になったのよ♡
ピクには急行が
「所沢・東久留米・保谷・石神井公園・池袋」と
「所沢・ひばりヶ丘・大泉学園・池袋」
だったみたいな記述もあったわね♡ >>489
BBS_UNICODE=changeの板で絵文字使うなよ 話蒸し返してごめんなさい。
降雪電制解放SWは、田無事故よりも前からあったやつで、>>482さんが書いたようにそれ自体が圧着運転ですけど、なぜか「圧着運転SW」と書かれなかったんですよね。
で、それが田無事故以降に>>480さんが書いた「圧着電制」「圧着空制」「通常」切り替えに変わったんですよ。
それからのプレートは切り替え位置を示すような書き方になっていますが、降雪電制解放の時はただそう書いてあるプレートがカバーの中央にポツンと貼ってあっただけ。
電制解放なんで、当然当時備えていたのは101系のみで(5000系にもあったと思うけど未確認)、赤電にはなくてそっちは軽く制動をかけた状態で運転していました。 >>493
なによ!ちっちゃなことでネチネチと。男らしくないわね。
イジワル!
あんたなんか大っ嫌い。このスケベ! しょうしょうゆっくりでもあんぜんうんてんがいいですね 時速120qで信号連動自動ブレーキを搭載していない、どこぞの私鉄もあるからなあ。
その私鉄の塗装を真似た電車走らせるのも、早くやめてほしいね。 トラックがミスったんで、鉄道は全然悪く無い。
クハの無い会社で転覆にならなかった、って隣の奥さんのネコが言ってた。 転覆に近い
対向列車がなかっただけで、あれば転覆した場合と被害はほぼ変わらないから、実質同じ
6152のときは自動車が小さかったら良かったのかな
あそこまで酷い脱線ではなかった
あと塀が一部壊れていたな 戦前に秩父まで伸ばしていたらくねくね路線になって苦労しただろうな NRAは機器流用車だから地方には行かないだろうな
せっかく抵抗制御なのに… >>503
西武車の譲渡先はほとんど20m車入線可能な所だから、その心配はまずない。 >>504 現時点でNRA必要とするような地方私鉄ある?
長野電鉄、富山地鉄、富士急、一畑・・観光路線の性格があるところで、全部、今の車両で間に合っているのでは。 旧レッドアロー塗装車を西鉄に譲渡すりゃいいじゃんか〜! これから曼珠沙華咲くなら、来週末、再来週末に、行楽ダイヤ延長かね? 以前は、列車選別装置で列車の種別毎に踏切が閉まるタイミングを
調節していたけど、今でも列車選別って使っている?
停車場駅の出発信号の下に、種別毎に違う数字が出る様になってたけど
それもいつの間にか、なくなったんだよね。
各停が15、準急が8、急行が4、特急が1だったかな? 今は新しい「列車情報装置」というのに変わっている
どこがどう進化したのかは詳しい人よろしく あめ あめ あめはなんの あめ あめ あめあめあめあめ
早朝5時台の401系2連準急西武新宿行きを見て笑ったのをふと思い出した
今日のイベントは忘れてた
昨日録画したスマイルチャージを見て「やっちまったー!」
かわら版も見てたのに「アホー」だ 赤電のシートはずっと座っていると低温火傷しそうなくらい熱かった
たぶんサーモスタット機能のようなもんは付いてなかったんだろうな
まあ小学生で半ズボンだったせいもあるけど 6000試作で側面の表示器がLEDになってた時期があるらしいが
同時期の京王8000/東急2000/福岡市営2000が途中の増備車から行先がLEDになったので、当初は西武6000についても増備車でLED行先に変更を検討しそのための試験をしたんだろう
結局、LED行先は6000増備車には採用されず、本採用は20000までお預けになったけど 確か6004辺りまで出た頃だったな
6201と6401
池袋停車中は2段表示になって、下段に停車駅が流れる モハ146(三菱VVVF試験車)の走行音音声が発掘された模様… モハ146(三菱試験車)は1C6Mだった模様
(VVVF:MAP-186-15V21)
でも、装置形状は見るからに新京成8800のVVVFとそっくりだったため、誤値とも考えられる
(新京成8800は1C4M)
これで2197-2198の機器が146からの転用というのは誤りであったことを確認
(2197-2198はMAP-168-15V36で、1C8Mだった) >>526
聴いてみたどあれ狭山線?
出発時超低速で分岐器通過して、急曲線区間、塗油器の音。
モーター音の割に客室内の音が小さく録音されているから、妻の窓を開けて外の音を録ったのかな。
しかし、次駅が下山口だとすると分岐器の音が聞こえないのが矛盾。
車内での音は初めて聴いたので小感動。
停車中に目撃したのと、踏切で出くわしたのが僅か乍らの体験、
101/301の爆音と対照的な凄く静かなモーター音で通り過ぎて行ったのが印象的だった。
>>527
>2197-2198の機器が146からの転用というのは誤り
初めからわかっているんだよ
あれ新品だもん
>モハ146(三菱試験車)は1C6Mだった模様
(VVVF:MAP-186-15V21)
145(日立) 146(三菱) それぞれ1C4Mでしょう? だが、当時の電気車の科学では1C6Mと記されていた
ただ、2M分カットして使用してた可能性も否定できない
ちなみに145は1C8Mで4M分カットして使用してた可能性
というのも、同時期に改造された東急8799のVVVFと装置形状がほぼ同じだったため
(東急は8799-0802で1C8M)
1C4Mなら東急9000タイプの装置形状になる筈 >>526
どこで聴けますでしょうか。お願いします。 >>528
出発後分岐器を2箇所通っているような気がするので、西所沢からの下りだとするとやはりおかしいんだよな。
他に8両が走れる区間で超低速急曲線の後80km/hくらいになる所ってあるっけ? ちなみに145-146の試験主電動機は170kW
2197-2198は155kW(こちらはメーカーこそ違ったが、6000と同じ出力) 幻の車両にハイデッカー車だけでなく制御付自然振り子式特急車の構想まであったらしい
ちなみにハイデッカー車は冷房装置が搬入された段階で計画が中止になったとか 亀レスだが
>>265
新501がギクシャク酷かったというのは詳細不明だけど 池袋1番か
駅構内や山手跨線橋改修前はあんなゆっくり走っていたんだな
忘れていた 2番線への分岐は8番ポイントで25km/h制限だったな
今も残る8番って清瀬下り出発くらいか >>538
旧池袋1番は、分岐側が制限25km/hのやつだった。
大昔の石神井公園、大泉寄りの中線への分岐器なども。 145-146は89年3月改造、同年3〜11月にかけて試験、90年4月廃車とある そんな長い期間走ってたんだっけあれ
その割に乗ることなかったな
新宿線を主に利用していた頃か? 145-146はしょっちゅう運用外れたりしてたよ。
末期は籍だけ残ってて使われてなかった。 >>543
やはりM車が偏った構成が災いしたのか? ちなみに2097Fは当初VVVF車のみの4両で落成したが、そのままの状態で使われることはなく別編成(編成不明)と組み替えてまで暫定編成にしてたらしい >>544
V試験中は、6M2Tになる事を避けるために、307*308か301-7*301-8のどちらか(多分ハイフンの方だったと思う)を
付随車扱いで使っていた。全Mとして使った事もあるかもしれないけど。
>>545
2071Fね。
暫定4両で落成して、ほどなく2071-2171-2172-2098で狭山線、残りは池袋線で普通に使われてたけど、
残りの97Fが完成して編成替えを解消。 2098の電流計が直流用だったので2097-2197-2198-2098では編成を組めなかった 惜しいのは2097Fの追加4両をVVVFで作らなかったこと そこは将来の2000の更新を見据えての試験だったのではと
結局あのガックンガックンに懲りて2000はチョッパのまま更新
701族のように更新/未更新で運用を分けるのも嫌がったんだな 6101Fが4連で試験してた時期があったらしいから、当初は比較試験するつもりだったんでは?
(>>545でも書いたが当初は2097FもVVVF車のみの4両だった) >そのままの状態で使われることはなく別編成(編成不明)と組み替えてまで暫定編成にしてたらしい
自分で書いてるが・・❔・¿・・・? >>553
ここBBS_UNICODE=changeだから >>551
似たような東急8799-0802-0718-0818は同8000系列のVVVF化(結局中止)を見据えての試験を兼ねていたが jtrainの新刊
西武鉄道OB座談会 貨物列車運行の実際
という記事が掲載されてる で結局 2097 2197 2198 2098 で走った事あるの?
シウテも含めて 大晦日元日の終夜運転をやらなくなってたのを知らなかった
本数が少なくてホームで待っているのが寒かった思い出しかないけど 9000は新101本線撤退から約5年後に廃車開始してることを考えると、
NRA同様に抵抗のまま使い倒して廃車の方が無駄にはならなかったと思ったことがあるが、6M4Tが電力食い過ぎと判断されたのか?
(10000は4M3T、4000が最大4M4T) 6M2Tを当たり前のように走らせてたんだからそんなことないでしょ 新101本線撤退から約5年後に廃車開始になるまで実質101 10両8本が減ることもなく1日中池袋線を蔓延って走り回っていたことを考えると
阿鼻叫喚の地獄だな >>459
でも、6000/9000の時はまだVVVFが高価だったから仕方ないか… もしかすると9000のVVVF化は3000が先に廃車になるためというのが半分だった可能性?
つまり本線系通勤型の抵抗制御消滅より先に界磁チョッパ廃車を回避するため 9000はVVVFの価格が下がるまでの繋ぎで導入したのかと思っていたが、単に所沢の余剰人員の仕事確保の為だったのか 281 282 1201 201 202 101-201 101-202 1202
401 402 1701 701 702 701-1 701-2 1702
1709 709 710 701-9 701-10 1710 423 424
425 426 1801 801 802 1802 429 430
1227 227 228 1228 283 284 285 286
433 434 431 432 1805 805 806 1806 501 502 403 404 1255 255 256 1256 287 288 1203 203 204 101-203 101-204 1204
1121 121 122 101-21 101-22 1122 289 290
1125 125 126 101-25 101-26 1126 291 292
1129 129 130 101-29 101-30 1130 271 272
269 270 1205 205 206 101-205 101-206 1206
293 294 275 276 1141 141 142 1142
1123 123 124 101-23 101-24 1124 295 296
273 274 1171 171 172 1172 279 280
1127 127 128 101-27 101-28 1128 277 278 435 436 1213 213 214 101-213 101-214 1214
1215 215 216 101-215 101-216 1216 437 438
1715 715 716 1716 503 504 405 406 407 408 1785 785 786 701-85 701-86 1786
427 428 1803 803 804 1804 407 408
409 410 505 506 1717 717 718 1718
どこが界磁チョッパなんだよ
電制すら 411 412 1703 703 704 701-3 701-4 1704 1705 705 706 701-5 701-6 1706 413 414 581 1581 1582 591 1591 592 1592 582
つくればおもしろかったのにな 2097はまさに匙を投げるかのように潰されたよね
余程評判が悪かったのか? 2097 2197 2198 2271 2272 2371 2372 2072
2071 2171 2172 2098 583 1583 1584 593 1593 583
571系6両固定 先日の9108F4両の武蔵丘行き回送。見ようによっては、新101系による初期型101系の牽引回送。
279F 255F
117F 131F 133F 139F 207Fの何れか4両
種車当時の台車等ではないであろうけれども。 279 280 と 1255 255 256 1256
組み換えまで恐らく繋げたことないな 255Fと
117F 131F 133F 139F 207Fも
果たして繋がった事があったか
無いのもあっただろうな
255Fは登場後直ぐシク線に行ったから >>583
583 1583 1584 593 1593 584 589 1589 1590 599 1599 590
571系6両固定 大昔、701が4両編成だったころ、モハ786だったかのパンタがPS13で、大雪の時にも他の701系に比べて大雪でもパンタ降りなくて平気で運用してた記憶あり。国鉄特急こだま151系もPS13だった時期があったが、西武701はそれよりもずっと後に一時PS13だった。 9000は小田急だったら車体新製から10年未満でも躊躇なく廃車にしてたかもしれないが…
(小田急は90年代は抵抗制御車を更新していたが、00年代以降に3000の大量導入で抵抗制御車を更新から10年未満だったものを含め全淘汰された) 京王3000もかなり遅い時期までPS13使ってたよね。
ステンレスの近代的な車体に戦時設計似合わねーと思ったもんだ 京王は旧5000系のクハにスポーク車輪を使用している車両があった。台車はイコライザー式ではなかったが、何となく西武と一脈通じる感もある。 クハ701って登場時はブレーキシリンダーが台車ではなく床下に直接付いていたって、本当ですか? >>597
国鉄から譲渡されたイコライザー台車を改造したTR11Aを使っていたからな。 なんか昔の西武の車両って書類上は新造車でも機器は流用が多いな
むしろ所工が閉鎖される前は6000系が特殊なだけだったのか >>599
多いというより、ほとんどそうだった。
初代レッドアローも二代目に機器が引き継がれたので、
富山に行った車体は国鉄485系の機器を使ったそうだ。 田無事故で廃車になった旧2000でも再利用可能部品は新2000増備車に流用されてそうだな >>600
つまり有楽町線乗り入れが無かったら、所工がある内は直流モーター車オンリーで、VVVF導入が阪神/西鉄よりも更に遅くなっていた可能性があったということか >>586
117と207は55改正後の一旦池袋線定住が崩れた際に
新宿線には配置された事あるから255とはあるんじゃないかな NRAは池袋線の置き換えが1年遅ければ車体のみ譲渡(足回りはSVOのものに交換)もできたと思ったが今はそんな改造技術がないだろうから… >>594
まさか、税制上の耐用年数(減価償却期間)を知らないのかね?
これを無視した放漫経営では、会社が成り立たないよ
財務的には、減価償却が終わる13年以上に設定しないと問題あり!
13年未満で電車を廃棄処分すると、特別損失として計上しなければならない
上場企業で下手にそんなことしたら、経営問題になりかねないし
<税制上の鉄道車両減価償却期間>
・11年:DL、気動車
・13年:電車
・18年:蒸機、電機
ttps://news.mynavi.jp/article/trivia-140/ >>608 車両更新と旧型車の機器を流用した車両新製とを594が混同しているから、話にならないんだろう。GHQ統治下の頃、許認可を得るために実質は後者なのに、前者の名目で通した例はあるが。 >>608 税制上と会計上の耐用年数が異なる場合は税効果会計で対応することがあるから、税制上の耐用年数未満で車両廃棄しても経営に対する影響は緩和されるのでは?
国鉄は初期の新幹線0系を10年位で廃車していたし。
で、西武もやっていた木造車台枠流用で鋼体化改造と称して造られた西武311系の一部、車両更新扱いだから税制上の耐用年数の始点は木造車で新製された時点としていたのだろうか?
この20m版1411形同様、「質より量」ボロ電西武を代表する車両だった。 当時唯一の貫通路付きだったから、こいつが見れた日はラッキーだった。 リベット打ちされた車両もあったよな。
赤電10両編成の付属編成で先頭を走ってた。
そういえば、この頃の付属編成は、
今とは反対の上り方向(池袋寄り)だった記憶があるけど、
どうだった? 351と組むのは上り向きが1411
451と組んでるのは下り向きが1411が多かったような気がす こんなリベットだらけのゴツゴツしたのが先頭に一両だけくっついていて、事故か故障で予備車を引っ張り出してきたと思っていたガキの頃 でも、結構な頻度で走ってたな
子供ながらも、ASカーより好きだった 古いバスの運転席の様に、ポールで仕切ってるだけだった乗務員室(←正確には室になってないw) >>616
クハ1411だっけ?
運転士は運転室に居るから良いけど、車掌はどこに立っていたの? >>617 車掌が運転室に立っていて不味いことでもあるのか? 流石にあの空間にポツネンってことはなかったろうけど、
通勤ラッシュ時、乗客をかきわけないと進行方向左手のドア操作ができないな 半室運転台だが、先頭又は最後部になる場合は、運転台のある方から逆の方まで紐で仕切り立ち入り禁止にする方式になってなかったか?
運転士又は車掌がいないときは、運転台だけ仕切るんでは。 半室運転台だけど、残りの部分は腰の高さくらいの横棒で仕切られてたから、満員でも車掌さんもドア操作できたよ。 半室運転台だが、進行方向最前部右側にも非常ブレーキなどの機器類がなかったっけ。運転士や車掌いないときは、鍵かけておくけど あの構造だと朝ラッシュの満員時は車掌さんも余り居心地よろしくなかったろうね 80年代半ばまで半鋼製の73系、78系を池袋、浅草で使っていた東武はイメージダウン甚だしかったが
西武の方も80年代まで1411を新宿線で使っていたんだよな
1411の方が東武73、78系列よりも古めかしかったが、一編成のうちの1両だから悪評も伝わらなかったのかな 平成に入ってからも吊掛車走らせてた東武も大概だけどな >>621
仕切りが棒しか無いから、最後部の場合で痴漢をされても車掌が目の前だから助けを求めやすかったんでは!?
>>622
丸ハンドルの手動ブレーキがあったと思う
多摩湖線用351の中間車も多分1411で、運転席を取っ払って運転室ドアも開かなかったが窓はそのままで開けられた
末期は車体更新で窓を埋められてたと思う >>627
西武は本線の池袋線・新宿線では走ってなかったのでは?
東武は本線の東上線・伊勢崎線で走ってたし。 一般の利用者は性能のことなんて分からないのだから
早い時期から、足回りには金を掛けず車体だけは新しくしていた西武の方が賢かった でも、西武は601系で一応カルダン駆動だぞ
東武はその24年後にもまだ吊掛車の車体更新(5000系グループ)をしてたわけだし >>631
東武は2000系がその前年に登場しているからなあ >>633
カルダン駆動採用自体は、東武のほうが早いのはそのとおりだけど、
西武は、カルダン車(601系)の登場後は、吊掛車のまま(車体)更新したものはないはずだよ。 >>635
おじゃまします
411系→401系の改造は、吊掛式からカルダン式への更新ですよ。 西武は、本線に関しては、冷房化のついでに
吊掛→カルダンへの機器更新が結構早かった
701系、801系だけではなく、401系、新501系みたいな改造車もあったし おっと、701系と801系は冷房化の話で一緒にしちゃったので、
忘れて頂戴
カルダンのパイオニア601系電動車は系列分断されて、
6連(4M2T)化される701系に組み込まれたんだっけ? >>636
>>635は411系そのものの話、つまりは登場時の話をしているのでは? 411など西武の吊り掛け車、脚回りは古い部品の寄せ集めで東武7800よりも旧式だから、更新の際にカルダン駆動化して台車含め取り替えたんでは?
東武も7300の再更新はしなかったし >>616
今でも、路面電車や新交通はバス同様に半室構造
>>620-622
時代の流れか、半室や片隅式とかを知らない人が増えたのだろね >>626
それは、サハ1311(1313、1314、1336)の3両
先行してサハ化した13と14は、当初の相手はクモハ371(371、374-376)の4両
多摩湖線(南線:国分寺〜萩山)は、国分寺駅の有効長が
再開発による移設以前は、17m級3両が限界(でもはみ出し状態)で、20m級は2両まで >>641
最近の地方向け車両はみんな半室開放運転台だな。 >>636
401系改造時の話でなく、411系登場時の話。
すでにカルダンの701系や801系の製造しているのに、平行して機器流用(一部は車籍も更新車扱いあり)の吊り掛け車作ってたんだよ。 >>645
この驚愕の「見た目に騙された!」と言う体験は、1980年代当時の京王でも健在でしたね。
晩年は動物園線で増結の運用をしていたので、たまに乗りましたよ。
加速中も車内アナウンスが聞き取れる様、放送音量が大きくされていて全てが煩かったw
そうそう、国鉄には103系の見た目をした吊り掛けと言うのもあったな。 >>646
72系か。
後でカルダン化されて103系に組み入れられたのも、411系と似たような歩みだな。 >>646
> 103系の見た目をした吊り掛け
あれは最後には本物の103系になったけど、
運転席後ろ側とか、台車の位置とか、微妙な違和感を醸し出してた。
111/113系の見た目をした吊り掛けもあったっけ。
都電の車体更新車も今やカルダンVVVFに機器更新されて、
吊掛音が聴けなくなったなぁ。 古谷村の埼京線車庫を通りかかった時、
高運で非冷房の103なんてあったっけ・・・? と小一時間
旧国からの改造だとは思わんかったよ。 田んぼが広がってて古谷村と呼びたくなるよね
いい意味で >>649
車で夜、車庫周辺を走った時、車庫だけが明るくて見入ってしまい、丁字路が見えにくくて田んぼに落ちそうになったことがある >>648
あれは本物に化ける際
制御・動力系のみ103系余剰予備部品を活用
それ以外の機器は、主に101系等の廃車発生品・・・
なので、一応形式上103系のつもりだが?
完全には成りきれてはいない
(所詮103系モノマネをアップデートしただけ) >>651
だったら南古谷村と呼ばないと
古谷村はもっと北の方だ >>653
101系からの編入車だっているんだから気にしない 車輌の端っこの貫通扉の無い方の窓が開けられたが、あの仕様は黄色い車輌まで?? 西武411→401
国鉄79600,72970→103-3000
小田急4000
三兄弟 >>657
サンクス!
コロナウイルス騒ぎで電車には乗らないけど、西武電車を毎日見ていると、側窓をちょこっと開けて換気しているから、連結部もガバッと開けられたらなと思ったんで フードコートと言えば西武池袋駅の地下改札のイメージ 今年の夏は冷房無しの窓全開で通勤電車が走るか?
千鳥停車の通勤急行、通勤準急みたいのはやめて、飛び石停車で乗客を分散させ扉の開閉を増やす
それか混雑の少ない埼玉郊外は急行並みに停車駅を減らし、池袋線は所沢から、新宿線は田無から共に各停で東上
東京メトロの東西線快速のようにしないかね〜
スレ違いかスマソ すなっくらんど懐かしいな!
高校の時、部活終わった帰りに腹が減りすぎて、うち帰ればメシあるのに
寄り道して二食丼食ってたわ。 地下通路が出来る前の西武池袋、2階の連絡通路にあったイカ焼きそばが激ウマだったって。
バラック時代の西武新宿、改札近くの立ち食いラーメンも激ウマだったって。 >>665
俺はサービス丼という名のモツ煮込み丼をよく食ってた
西武池袋改札内のスナックインではコロッケライスかとん汁ライスだな >>647
仙石線から来たんだっけ?仙石線では半自動扉だったから、ドアに取っ手が付いたままだった様な。
>>636
台車は新しいものにしたけど、コンプレッサーが古いままだったんだよね。 >>671
川越線でも必要だったから
キハ35系の押し釦式から退化しちゃったけどな 制動時にクハから長くヒーンって感じの音、不快でなくずっと聞いていたい感じ
701系赤電が多かったが覚えとる?黄色い電車はこの音は無かった
今思えばイコライザー履いたクハだったのかな
とはいえ1411では聞いたことない
1411はポールダンスゾーンがあってよかったわな >>673
赤電ということから、一瞬AEブレーキの電磁弁からの排気かと思ったが、
1411で聞いたことがない、というからちがうかも。 >>674
空気系でなく摩擦系の音で、あえて近いのは曲線通過時
極稀に出る、とんでもなく高音域のものが似てる感じ
音源もさがせず文字だと表現難しいものだけど
その音は高速ー中速域が多く停止間際には消えていたので
AEなので路面スリップってあり得ますかね?
TR系は間違いで、逆にFS履いたのだけ圧が効き過ぎたとか? 昔は急カーブの手前に塗油器があってチチッチチッと独特の音を立てていたものだ
今もところどころにあるけど音がしないね としまえんも廃園か。時代も変わるのぉ
模型列車に踏切があった頃を覚えてる世代 >>683
昔は立派な駅舎があった記憶もあるのだが。
それとも当時の俺が小さかったから、何もかも
大きく立派に見えただけだったのか… 駅舎あったよ
サイクロン乗り場の北側、今のコークスクリューの辺りかな としまえんと言えば、何と言っても「アフリカ館」だよな…
あれがなくなってからは行く気も起きないし、園そのものがなくなる
と言われても改めて行こうって気も起きない。 『史上最悪の遊園地』
のポスターを見た時はぶっ飛んだ
「父さん早く帰ろうよ」と子供が言ってるフレーズを今も覚えてる 練馬〜豊島園折り返し時代にヘッドマークも付いてたね。とし博。 日中の小川駅は国分寺線と拝島線の接続が悪くて20ー30分待った記憶がある
今もそうなんだろうか
自社線同士なのに乗り換えが不便だったのは、萩山駅か小平駅まで行って乗り換えろということだったんだろうか >>692
今もそうだけど、拝島線も国分寺線も多摩湖線も線路が複雑に絡んでいる故に
ダイヤの自由度がとても低いんだよ。 東久留米駅の東側、落合川を渡る鉄橋の横に西武鉄道の用地があって、橋脚の名残みたいのもあり、民家を挟んだその先には高圧電線の鉄柱が建つ遊歩道もある
最近は電線を地下に埋めたのか何かわからないが、鉄柱を撤去しだしている
あんなところに引き込み線があったのは聞いたことがないが、ひばりヶ丘団地方面に遊歩道が向かっているから、昔なにかがと勘繰ってしまう >>695
なるほど!
図書館は今は予約貸出のみで閲覧が出来ないんで、自分で調べようがなかったから、どうもありがとうございました。 ひばりヶ丘団地の西側に向かう高圧鉄塔の遊歩道て、まさに引込線の跡ぢゃね? >>692
その代わりと言っちゃなんだが、昔はバス路線が充実していた
所沢駅ー国分寺は4系統有ったハズ
本数は >>693 萩山で拝島方面と西武遊園地方面の分割併合が無くなったことが、少しはダイヤ自由度の改善に寄与してるんではないか?
かつては拝島行き4両+西武遊園地(旧・多摩湖)行き2両の赤電が走っていたものだが。 >>701
俺の小さい頃は、昼間だと拝島行き2連+多摩湖行き2連が普通で、拝島行きが4連になるのはレアだった。
その頃国分寺線は一日中4連で混んでいて、拝島線は2連でも空席が余裕であった。
最寄り駅が小川だったので、両線を比べてなんでこんなに落差があるんだろうかと思っていた。 80年代初頭になると拝島行きは単独4両だったな
あの時代の拝島国分寺線と言ったら、何と言っても車内改札(笑) 沿線に住んでた85年頃は6両が多かったような?
Wikipedia見ると88年8両、97年10両と凄い成長だな >>687
その頃、CD出したよね?
私はB型の女よ
こうと決めたらテコでも動かない
タブーもブタもあるもんか
ゴーイング マイウェイ
わかる!?
みたいな歌詞 >>703
車内改札は80年代の池袋線池袋口でも昼間やってたよ。
>>704
新宿線に10両固定編成(6000系9000系)が入ったのに関係してますね。
10両が入る蔵が上水にしかなく、初めは回送で出入庫してたけど、編成本数が増えるとそれもやがて限界になりますから。
どうしても営業列車での出入庫が必要になります。 ハイキング快急に所沢から乗ってきたのはよく見た。車内改札。 効果あったんですか?
自分は遭遇した経験がないっす あの時代東飯能も拝島もノーラッチで通り放題だったからね 池袋線のは2人組くらいで来ていたね。
定期券の区間外「から」乗車するときは有効区間まで買わずに乗車するのが半ば公然化していたから、
通勤時間帯以外に車内改札をするのはそれだけでも効果があっただろろう。
無人駅/券売機非設置駅以外の乗車は車内発券料を徴収すれば効果倍増。 >>710
もう時効だけど、ハイキングの帰り、初乗り運賃で乗り、定期でおりてたな。 >>241
西武って車両には極力金を掛けない代わりに、長編成化など駅設備の充実は早かったけど、一番金が掛かったのは複線化だそうですね。 池袋線の複線化って新宿線や東武東上線に比べて進展が遅かったような。
71年頃西武秩父秩父まで乗ったとき入間市から単線になったのを見て、東上線は東松山まで複線化されているから東上線の勝ち!と思った。
東上線沿線に住んでたが、池袋線沿線にある親戚の家に行くときによく利用してたので、どっちがボロいか、どこまで複線か、電車の本数どっちが多いかなど比較していた小学生の頃。 飯能〜吾野は実質秩父線。
まあ速攻で複線にしても増発するほど輸送量上がってないと意味ないが 飯能まで全線複線化されたのが2001年。短絡線造る予定だったから、八高線の下くぐって飯能駅までの区間は単線のままでよいと考えてたのか? >>722
もううろ覚えになって来たのだが、それは名目上飯能迄全線複線化の年?、それとも実質飯能迄全線複線化の年?
2001年だと確か名目上だよな >>725 2001年のが名目上というのなら、池袋・飯能間で実質単線だったのはどこの区間? 笠縫がどんどん西に移動して行って、最後は飯能駅の場内で単線になる形になっていた。
つまり笠縫信号場の下り出発信号機が最後は飯能駅の場内信号機になった。
この時点で笠縫信号場は廃止されたので池袋ー飯能間全線複線化と言う事になるけど・・・名目上、
実際には飯能駅の停車場内に単線区間が残っていた。
これが解消された時が実質の池袋ー飯能全線複線化。
変電所の辺りで単複接続になっていたのは最後の笠縫?それとも飯能場内?
単複接続の場所とか年代とかもう忘れちゃった。2001年は実質複線化だっけ?
東北本線の青森駅が似たかんじですね。 >>728
>わからない
>無意味
かわいそうに・・・ 上手く表示されるかわからないが
笠縫信号場(所)現役時代・・・笠縫―飯能間単線時代
――駅間―→←―笠縫信号場(所)-→←――――――駅間―――――→←――飯能駅――
笠縫 下り場内信号機か
信号場区域標 笠縫 下り出発信号機 飯能 下り場内信号機
↓ ↓ _
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ↓ / ̄ ̄線路沢山
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
↑ ↑
| 笠縫 上り場内信号機か信号場区域標
|
笠縫 上り出発信号機か信号場区域標があった?
◎信号機は説明に必要なもの以外省略 池袋―飯能 一部単線最終形・・・笠縫信号場(所)廃止 名目上は池袋−飯能間が全線複線化されたことになる。
―――――――――――――駅間――――――――――-→←―――飯能駅――――
飯能 下り場内信号機
| 飯能 下り場内信号機
↓ _ |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ↓ / ̄ ̄線路沢山
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後飯能駅の用地を拡張して構内改良工事を行って本当の池袋−飯能間全線複線化 今の姿になる >>729 だからさ、2002年1月1日の時点で池袋、飯能間で飯能駅構内の一部でもいいから、単線区間が残存していたことを証明する資料出せよ。それが2001年迄に完全複線化されていなかった事実を証明するわけだろ >>732
>資料出せよ
なぜ?
>>725のはじめの1行読めないの?
>2002年1月1日の時点で池袋、飯能間で飯能駅構内の一部でもいいから、単線区間が残存していた
>2001年迄に完全複線化されていなかった
誰もそんなこと言っていないが?
いっだったかと聞いているのだが?
仮に自分で調べたとしてお前に命令されて教えてやる謂れも無いが? 会社要覧'98~'99(1998年9月)を見ると
「元加治〜飯能間の複線区間を延伸し、同区間の単線部分は飯能駅構内の一部を残すのみとなりました」とあり、
路線図からも笠縫が消えているな。
NEKO MOOK 1876 の年表だと
「*印のある項目は編集部調べ」
「1998年3月26日 笠縫信号場廃止*」
「2001年12月6日 笠縫~飯能間複線運転開始*」
と不可解な表記になっているが、
これから察するに
1998年3月26日に笠縫信号場が廃止されて >>731 の形になり、
2001年12月6日に飯能駅構内の改良工事が完了したと言う事だな。「笠縫~飯能間複線運転開始」は編集部の表現がおかしいな。
ピク716 の 2001.12.15の配線図も飯能構内が複線化されている。 駅以外の信号場で単線になる部分には速度制限の緩い#16ポイントが使われてるのが西武線の特徴 wikiの笠縫信号場の廃止年月日が間違えているから直しておけよ >>739
灰色ゴムは締まりがなく感じたな
最後の頃は正面窓、貫通扉窓、行先種別表示窓
側面サッシ窓、扉窓、扉の戸当たり
で黒と灰色が混在しててみっともない感じがした あめ あめ あめは あぶの あめ あめ あめあめあめあめ 木下恵介アワーの思い橋
TBSの昭和48年のドラマで秩父を舞台にしてるが、
西武秩父駅とレッドアローが度々でる。
松坂慶子と藤岡弘が若い 西武鉄道かわら版11月号の多磨駅リニューアル工事中の記事を見た。
なんと構内踏切がいまだに残ってたのかよ!
多磨墓地駅の時代以来、多摩川線に乗っていないので、東京でこの時代まで残っていたことに驚いた。
ということは、他の駅にも構内踏切が残っているんだろうか?
今も『リアル懐かしの西武線』が味わえる? 構内踏切でもいい
寧ろ相対式ホームに橋上駅舎は邪魔
柵1枚壁1枚向こうへ行くのに高く階段を昇り降りする必要性は全く以って無ッthiング
相対式ホーム駅は地上駅舎+跨線橋がベスト
次点が構内踏切 >>744
> 東京でこの時代まで残っていたことに驚いた
隣の白糸台駅にまだあるけど
23区内の柴又駅、亀戸天神駅、東あずま駅にも残ってるんだから別に驚くことじゃない >>745 練馬高野台や中村橋が構内踏切だったら…?恐怖だけど。
まあ、本数多くないし通過列車ないから構内踏切のままでも安全保たれるんだよな。 井荻も近年まで残ってたよね
みんな改札通らずに環8の踏切から直接ホームへ入ってたっけ(笑) >>746
西武沿線に住んでいても多摩川線は西武の鉄路と繋がってなくて中央線の支線みたいだから35年以上乗ってないもん
鉄ヲタじゃない人間にとっては驚きだよ
京成線も寅さん好きなら柴又辺りは行くだろうけど、ここも36年前に行ったきりだわ >>745
東急は相対式ホームでも上下線それぞれ改札口を作って構内踏切廃止したな >>750
それに跨線橋か地下道を併設する近年までの形がべスト。
椎名町、東久留米、中井、下井草、多磨は改悪。
元々島式+跨線橋だった江古田は仕方ないが 武蔵藤沢は能がなさすぎ。
新宿線は元々構内が狭いから、上下両方に駅舎設置が難しい駅もあるのだろうけど。
武蔵関、西武柳沢も島式から相対式にするときに橋上駅舎化だし。
池袋線は椎名町、桜台、中村橋、富士見台、秋津、稲荷山公園、仏子が相対式で両側に駅舎か。
東久留米、西所沢は島式から相対式にしても下り線側には駅舎 改札が設置されなかったな。
西所も改悪はご免。 >>751 橋上駅舎にすることによって橋の部分を自由通路にできるという大きなメリットがあるよね。入場券買わずに駅の向こう側まで移動できる。 >>752
橋上駅の自由通路ができても、
ついでに10両対応のために踏切が元あった場所からなくなってしまえば、
地元の人間からすると何なんだろうと思う。
おかげで椎名町は車での南北間の移動が全くできなくなった。 >>753 開かずの踏切を残したいのかね?
安全上も踏切減らしたいし、車は迂回して立体交差の所を通ってもらうべきなんでは?
そりゃ鉄道路線の連続高架化ないし地下化が理想的だけど。 >>754
椎名町の(旧)池袋9号踏切に関しては、デメリットが思いつかないんだよ。
それほど開かずの踏切じゃなかったからな。
事故はほとんど隣の池袋8号踏切と2つ先の椎名町2号踏切で起きる。
立体交差は山手通りがあるけれど、首都高ランプのために交差点は作れないので、
思ったような場所に出るルートがない。
歩く人も減ったという印象もある。
構内の自由通路を使う人もあまり見かけないねぇ。
まぁ、踏切自体は残ったけど、場所が離れて使いづらいんだよ。
各駅停車しか止まらない駅にいまさら10両対応は必要なんだろうか。
そりゃ必要なんだろうけど、全列車が前2両分手前で停まってるのを見てるとねぇ。
スレチな話ですまんね。 >>755 ホーム両端が踏切だったら、どちらかの踏切を解消ないし移動させて、先頭車の前頭部が踏切にかからないようにする改良を施すのが普通だよなあ。
踏切内に電車が入り長時間踏切が開かないと渋滞原因になるわけだし。
まあ、鉄オタの個人的趣味の話は別の所でやってくれ >>755
どうせ過疎だからいいんだよ
池袋9号踏切の(旧)なら懐かし板の範疇じゃないか 橋上駅舎化される前の椎名町駅とその周辺の踏切の話は構わんけどね。
こっちも71年の橋上駅舎化以前の清瀬駅のホーム及び配線の情報を探してるんだが。
今、清瀬市50周年で70年頃の写真が駅掲示されてるんだが、その写真によると北側の駅舎と上り線の間にもう一本線路があったらしい。
この頃はホームは島式一つだけだったのか?駅舎とホームの間は構内踏切で結ばれていた。 >>758
1961(昭和36)年の空中写真を立体視してみると、
確かに北側の駅舎と島式ホーム上り線の間に線路があるのが確認できる。
しかも、構内踏切を見ると、もう一本側線があるようにも見えるけど、どうだろうね。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=421694
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=421132
椎名町も昭和20年代までは島式ホーム+構内踏切で、今でも線路敷に名残があるよ。 >>759
このサイトは自分も好き。いい時代になったなとネットの良さを痛感したサイト。
それまでは航空写真を探すのは大変だった。自分はこっちを使う。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
清瀬も椎名町と同じく敷地の形が不自然だから調べた事あるけど、島ホームの位置は現在のホームの池袋寄りから更に池袋方の上下線間にかけて、
丁度中2線になっている辺りなんだよな。
今ホームのない所にまでホームがあった。
ホームが移動している駅は他に(1面2線時代の)保谷、狭山ヶ丘。どちらも島式だが開業時のホームではない。
昭和36年清瀬は確かに上り本線の北側に2本線路が見えるな。
清瀬で不思議なのは、1号踏切西方の上り本線の北側に不自然に空いている線路用地。 >>760
そもそも多磨墓地が多磨霊園になった時改称しろよ >>762
あの頃の都民はみんな多磨墓地
多磨霊園なんて通じない
近くを通るは30m道路
東八道路なんて通じない あのころの区民はみんな十三間道路
目白通りなんて通じない
あの頃の区民はみんな水道道路
新青梅街道なんて通じない
あの頃の区民はみんな成増街道 土支田街道
環八通り 笹目通り? 新青梅街道の下にも東村山浄水場からの水道本管が通ってる
現代の玉川上水 1411形って20m501形501~519や451形より製造が前だけど、それらの車両が完成するまではどうやって使っていたのですか?
1M2Tの3両とか?
それとも1411が登場するまでの西武って電動車が多かったのでしょうか?
311系だってそんなに電動車ばかりが多かったわけでもないし、逆にクハ代用のモハがあったっていうくらいですし。 クハ代用のモハか
燃費悪かったろうな
伊達に重いだけでー クハだけ作ったってどうしようも無いじゃん
並行して作ってたサハ1501形は前期形も20mウィンドシル・ヘッダー無しなのに1411はどうしてシル・ヘッダーつきなんだろうね
ある方が作るの簡単だったのかな >>772 20mの501が本命だが、17mの351(411初代)電動車とトレーラーの2両ユニットをサブとして導入し、ラッシュ時と昼間閑散時の編成車両数増減に対応しやすくする。
サブのトレーラーはなるべく安く済ませたい。長期間使うことは考えない。そんな発想、条件で1411が造られたのでは。
他の私鉄もそうだが、当時はラッシュ時と昼間の乗客数の差が大きかった。大学の郊外移転や新設で沿線に大学が増えるのはまだ先の話。 サハ1501も初期のものは木製屋根、板張り床で古臭かったな 車両足りない、だが資金不足という時代の産物だろ。
性能十分ではないがロクサンを入れるか、ロクサンが扱いづらかったら安上がりの新車を造るか、更には旧型車のトレーラーと新型の電動車を組み合わせた編成にするか
最後のは京王が2000系で行った方式。 だったら>>770にあるように元々電動車が多かったの?
1411と平行して同数のモハ(クモハ)を導入しなければ1M2Tになるな。
>>773 >>775
1411は20mの2代目501~520が製造される前に登場している。
最終増備車は時期が重なっているかもしれないが。
つまり1411が落成した時点では編成を組む411初代(後の351)はない。
501~520初代→411~430初代→351~370はサハ1501~1520とMcTTMc編成を組んだままの時期。
少し遅れて17mモハ玉突き用の2代目501~520が落成する。
まして451と編成を組んだ1411なんてどうやって使っていたのやら。 >>775
ウィンドウシル ウィンドウヘッダー付きって安上がりだったの?
並行して作るなら同じ工作をした方が簡単そうに思えるのだが そうではないのか 溶接機械や資材が十分足りてたかという問題もあるのでは? 外見を気にして裏から補強か表からの違いで
知るヘッダーは必要だろう 昭和30年代のいわゆる軽量車体の車両では内部も含めてシル・ヘッダーは無くなったと言われているけどね
ではなぜ501系では内側なのに1411では外側だったの? >>779
で結局電動車はどうしてたの? ああ、501が内側にシル・ヘッダーが入っているタイプだったかどうかは知らないけど 779だがクハ55のコピーでちゃちゃっとつくったんじゃないの
と思ったが国鉄クハ55に帯のないのも居るし自信ありません 451は、当初1411型と組むためクモハばかり30両作られたと何かで読んだ覚えがある >>784
クハ1411型と組むために作られたのは最初の20両。
その後は451系だけでMc-T-T-Mcとして作られたり、あるいは311系の両端Mに挟まれる形のサハ2両×数組が作られた。
ちなみに、クハ1451型(後のクハ1471型)が作られたのは、551系後期〜601系と製造時期が重なる1962-63年。 >>785
>311系の両端Mに挟まれる形のサハ2両×数組
それ旧武蔵野の301形でしょ? >>785
あれは371が導入されて整理の後あぶれたクモハ371とクハ1411を組ませるために451と組んでた編成から捻出したんだよな
その代替として不足するクハ1451(後の1471)を新製した
一部は改造で対応だっけか >>787
西武3扉車で、落成から廃車まで編成替えも改番も一切関係無かったのって、
801系位だろ。 301系は?
あ、でも4両先行落成→後日8連化があるか。 >>791
元来101系301番台だったんじゃね? >>791
301系の場合
最初は言うとおり101系として4連で製造
→改番しないまま形式・系列だけ301系に
→その後8連化
という流れ。 301系も4連だった頃、形式クハ1101と書かれていた編成もあった >>796
あの当時の西武で30年走ってたんだから、十分すぎるほど恵まれてるだろ。
あと、以下のようにいろいろと恵まれてもいたし。
・赤電最初の(改造ではない新製での)空気バネ台車(クハ)
・赤電最初の交流MG
・赤電で真っ先に客用扉のステンレス化
・全社冷房改造実施 インダイレクトマウント台車は継ぎ目の音がよく響いたな 乗り心地の善し悪しが分からないまま個のと史になった FS067の頃は、まだ車輪が波打車輪じゃなかったから、なおさら金属音が響いたよな。 カキン☆ 同級生で昇格(冷房化)と降格(釣り掛けとペア)と早死に(後期のクハ)と運命が分かれた601系。
西武初の新性能車だが… 新性能って言ったって、クハのみで見たら551系以前とそんなに変わらなかったからな。 601系がああいう運命を辿ったのは、新性能で少数派だったからでしょう。
もっと数があれば、中間車を召し上げられることはなかったと思うよ。 >>797
>赤電で真っ先に客用扉のステンレス化
は恵まれているように感じない
Hゴムガラス支持は却って格好悪く感じたし、ステンレス地より色を塗ってある方がいい。
鋼製車体にドアだけステンレス無塗装って西武独特で異様。(相鉄にもあったが)
ステンレスドアでなぜHゴムガラス支持に戻ったのかも疑問だし、551で一旦アルミハニカムドアになったのに、なぜ601や1563~1572で鋼板ドアに戻ったのかも疑問。 アルミハニカムドアは、軽量だったから故に風によるバタつきの音が、鋼製やステンレスに比べてうるさかったから、というのをどこかで読んだ記憶がある。 西武鉄道は大手鉄道会社で、戸閉時のガタ抑えの装着は遅く、なんと平成以降! 旧501のプレスドアじゃない片開きドアと、その隣にあった2段の車側灯が思い出に残る
⊂⊃
○
みたいなやつ 2段窓全開で池袋に着くと、5回に1回はその窓から乗り込む乗り込むオサーンがいてw
確か701とか101の非冷房とかだったと 赤い電車の開扉表示の車側灯 楕円と円 何の違い?
451 楕円
551 円
571 楕円
601 円
701 円
411前期 楕円
411後期 円
801 円
円になったり楕円に戻ったり
扉と同じだな
鋼板(~451)から アルミになったり(551) 鋼板に戻ったり(1471増備車 571 601) またアルミになったり(701 411 801)
Hゴム(鋼板)から 押さえ金になったり(アルミ) Hゴムに戻ったり(ステンレス初期) また押さえ金になったり(ステンレス後期) 関東鉄道のディーゼルカーに中古っぽい両開きステンレスドアが付いてた
そして車内には西武所沢工場の板が
関鉄は金が無くて赤電の中古ステンレスドアを転用したんだなと思ってた
当時は無塗装ドアはステンレスしかないと思ってたけどアルミもあったのね
アルミだったらスマソ >>806
自分も子供の頃から「ステンレスでHゴムは野暮ったくてダサく、塗装でも金属押さえのドアの方がスマート」と思ってる。
ステンレスドアでHゴムに“戻った”ように見えるけど、単にアルミハニカムドアの構造都合で?金属押さえになってただけとか?
んでその後のステンレスでは安価なHゴムから採用、なのかな…
側灯にしてもドアにしても試行錯誤してたのかね。 地味だけど技術の結晶といえる
こういうところに光が当たってほしい 椎名町駅が島式ホームだった頃の写真あり
泉麻人 絶対責任編集 東京深聞 《東京近郊 気まぐれ電鉄》
昭和おもいで電車(その4)『ローズピンクの西武池袋線』:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/94727 >>815
なんでこんな写真は残ってるのに隣の上り屋敷駅の写真は一枚も無いんだろう
どんな駅だったんだろうな >>815
本文中で言われている車両は571系じゃなくて451系だよな
>>816
確かにホームに停車中の車両を撮った写真しか見たことないな 上り屋敷 「西武農業鉄道」で検索してみな
(^〜^)ああ^〜 うんこ漢字ドリルに
うんこを[てつどう]で運んだ
西武[てつどう]はうんこを運んでいた
ってないのかね? >>608
亀レスだけど
それだとE231の6ドアやE331、都営10-300R先頭などはどうなるんだ? >>529
1年以上前の書き込みに追記するのもあれだが
日立/三菱共に1C8M用の試作品を搭載していて両方を1C4Mで同時に使用する試験と
どちらか一方を1C8Mで使用する試験の2通りを行っていた可能性があったとも思えてきたが… 違うメーカーの主電動機と組み合わせて試験になるの? >>823
多分そう
というより他社では制御装置と主電動機のメーカーが一致しない例が少なくない
(例として都営5300はVVVFは三菱設計だけど、主電動機は東洋設計だった) >>241
ああ、だから小田急や東武は早期に20m4ドア新性能車を導入できたのか
西武も63割り当て車があったら状況は違っていた? >>826
あまり状況は違わなかったと思う。
1960年代〜70年代前半で言えば、東武の北千住、小田急の登戸や下北沢に相当する、
・終点より手前で大量に降車があり、かつ
・その駅より更に終点方面へ乗り通す客がまだ大量にある
という条件を満たす駅、つまり乗降時間をできるだけ短く抑える必要のある途中駅が西武には無かったから。
西武はとにかく池袋や高田馬場まではほぼ乗車の一方で、
・池袋線は大量に降りる池袋が終点だし、
・新宿線は高田馬場で両側ホームで速やかに大量に降車させることができ、かつ、降りた後は西武新宿まで乗り通す客が少なかった。
だから、その面でもむりくり4扉車を導入する必然性が少なかった。 >>826 西武には事故や火災で破損し払い下げを受けた63形を復旧させた車両、401系(初代)が入ってますが。私鉄向け割り当てではないが。 東武や小田急も車両不足だから、やむを得ず10年程度しか持たない粗製乱造の63形割り当てを受け入れたわけで。
入れてみると使い勝手が悪いから手放した名鉄のケースもある。 標準軌の山陽仕様もあった?
よく入線できたと感心した。 >>241を書いたのは俺だけど、西武に63形の「割り当て」があったとしても
やっぱり結果は大して変わらなかったと思う。
63形をもらってもその後の車両の作り方が同じなら、史実同様に20メートル
3扉車が主流になったと考えられるから。
そこに63形準拠にする理由はなかったと考えられる。 でも初代401のうち、モハ1両はわざわざ所沢で63準拠で新製したんだよな・・・ >>831
割り当てを辞退した理由として、当時走っていた17m車を地方へ譲渡しなければならず、車両を増やしたい西武にとっては不要だった、と文献で読んだことがある。 701・801・旧101系は、方向幕が1つの枠内で種別用と方向用とで分かれていたらなぁ…。 >>835
幕が手動だから、クルクル回す腕の筋肉が・・・ >>835
701系が誕生した時代だと、関東私鉄・地下鉄で方向幕と独立した種別幕を持つ車両を作っている所は
まだ殆どなかったはず。
(都営と東武と京急くらい、後2者はやっとそれぞれ8000系と初代1000形で導入したばかり)
方向幕の導入が早かった京王や小田急でさえ、種別表示は幕ではなく板だったし。 東武8000のは本来運行番号表示
多分6号線直通用 うわ、10両なのに冷房付きは後ろの2両だけかよ
…ってのがあったかな? >>839
それでサボ受けデフォルトで装備してたのか >>839
東武8000系は地下鉄乗り入れを全く考慮していないが…。
でもあの車両の種別幕が元々は運番表示だったのは事実。
運番表示と言えば、2000系の運番表示はなんで付けたんだろう?
あれこそ地下鉄乗り入れは不可能だし。
やっぱりデザイン上の処理(左右対称にした)だったのかなぁ? >>842
そうか?
西武2000と同じで公式には何ら発表されていないが、小改良で直通車に流用できる設計にしてあるようにしか見えんがねえ。
実車も改造すれば対応できるようにしてあったとかでないの?
51008Fだっけか?本来地上用の。あんな感じで。
都営6000のデザインが東武8000にそっくりなのが気になるんよ。
営団7000と東武9000に通じるんだよな。 >>841
前面ドアのサボ受けは東上線用だけじゃね?
>>843
8000系登場時点で地下鉄乗り入れ構想なんて無いからねえ スレチだが
東武の幻の三田線直通車は8000の車体に2000の機器を組み合わせたものになる予定だったとか >>843 西武2000登場時の鉄ピクの記事にあったけど、将来の地下鉄乗り入れ用車両はまた別に造るとあったよ。 2000系をそのまま地下に入れたら、国鉄103系並の熱垂れ流し迷惑列車になってたろうな >>847
東急8500系と似たりよったりな性能だから精々爆音汚物言われるくらいかと >>843
まさか、前面に貫通路があれば地下鉄に乗り入れられると勘違いしてない?
地下鉄乗り入れには機器配置や車両性能、それに車両のサイズに防火規定
といった細かい規定があるってことを、鉄ヲタなのに知らないの?
だから東武8000系を地下鉄に乗り入れさせようとしたら、機器類全部作り替えに
なるし、場合によっては車体も全部載せ替えになっちゃうよ。
つまり、地下鉄乗り入れを全く考慮していない線内設計ってこと。
西武2000系も同じ、こちらの場合は車体幅が引っかかって物理的に地下鉄に
乗り入れできないですよ。もちろん性能面や機器配置面もアウト。
西武2000系が前面貫通路付なのは、旧2000系を設計した時代はまだ新宿駅
地下乗り入れ構想が生きていたから、新2000系の時代は新宿線地下急行線
計画があったからと考えられていますよ。 >>850
いちいちマウント取らないと生きていけませんか? >>850
だからわざわざ転用の可能性を残してあった東武51008Fの例を引っ張り出したんだけど。
東急5000系列も東武50000系列も車体の基本設計は同じで、寸法違いだろ?
西武が2000登場当時どういう直通車を想定していたか知らないけど、2000の基本設計は、それを流用できるようにしてあったかもって「可能性」を言っただけだが。
ついでに言えば
>車両性能、それに車両のサイズ
こんなものは地下鉄に限らず、どこでもその路線に要求される条件を満たすことが必要とされるけどな。
トンネルの寸法を大きめにして通路を確保してあれば地下鉄でも正面貫通路が必要ない事だって知っているよ。 突っ込まれそうだから書いておくわ
東武50000 0代は途中から寸法が地下鉄対応に変わってるんだよな 旧2000系登場時の鉄道ファン新車ガイドには
将来地下鉄乗入れを意識した云々って書き方なんで
現実的な実現性でなく単に将来を感じさせるデザインにしたかっただけでは?
ガラパゴス化してる在来車にそれっぽいのが全く無い状況だったので・・・
登場経緯はホームが6両しかない各停の乗降時間短縮なのだから。 >>854
地下鉄対応じゃなくて田園都市線地下区間対応だな >>850
西武の2000系は営団乗り入れ協定・車輌仕様に沿って製造されていますよ。
後年、ネット上に当時の資料文書が暴露されてました。 じゃ有線直通もこいつにすればバカ殿作らずに済んだのに 1980年代直通開始予定だったが、プロ沿線民対策と工事遅延で直通開始があまりに遅すぎた。
地下直車両の方式は電機子チョッパや更にVVVFが当たり前になりはじめた時代に入ってしまい、
営団からは「界磁チョッパはTQ8500で最後にしたい・・・」的なプレッシャーもあったのだろう。
真新しく新規設計で6000系を新造するしかなかった。 >>857
なってないって。
なってりゃあの車体寸法はありえない。
その「ネット上に当時の資料文書が暴露」が怪しい。 >>848
東急8500ばかり槍玉に挙げられるけれど西武2000も外観はともかくアコモデーションも車内騒音も大差ないじゃんと初めて乗ったとき思ったものだ >>861
実際の音量は変わらないかもしれないね。
東急8500は共演の営団8000との差が激しすぎた
加えて二子玉、三茶、渋谷、表参道を通る車両としての品格が…
東横の東急8000系と違って田都8500は走りがじゃじゃ馬なんでね。
西武2000は701系列に囲まれてた分まだ高級車扱い
高速時煩い位で加減速はソフト且つFS372はTSより上等
通るエリアも馬場と新宿の端っこなんでもとより期待値が違うかと。
2000系が仮にY線乗り入れ車なら同じ扱いにされてたかも。 >>861-862
地下区間は音が響くし乗る人が多い事もあって、さらにうるさく感じられる事が多いのかも。 デントは最高90km/hだからメトロの75km/hとは騒音の次元が違う 二子玉 氾濫原砂利採取場、
三茶 スラム、
渋谷 花街、
表参道 貧民窟の入口
如何様にでも騙せる >>862
あの頃の営団8000は爆弾ドア、閉鎖的なイメージの小窓のドア、痛そうなネコのドアステッカー、あの頃あまり見なかった派手な真っ赤なシートモケット等どことなく怖いイメージがあった 当時子供だった頃の感覚では、営団6000系、7000系、8000系は、前面展望もできない上に
ドア窓が上の方に小さくあるだけで外の景色もよく見えないから、ビジネスマンしかターゲットに
していない、自分の様な子供が乗るべきではない路線の車両なんだなという印象が強かった。 赤電〜旧101系の前面展望は最高だったな
仕切り窓、前面窓、どちらも低いので、子供にも優しかった 駅のホームに発車案内表示器が無くて、勿論車両側面にも行先表示器が無かった時代って、
通過運転する列車がある区間の優等停車駅って恐怖ですね。
途中駅に行く人って、ホームに下りたときに列車が停まっていても、乗っていいかどうかわからない。賭けだな。
西武の場合、当時は殆どがターミナルまで行くってのがあったんだろうけど、昼間準急しかなかった時代にしても、
石神井公園なんか日常的に「ホームに下りたら電車が停まっていたけど、乗っていいかどうかわからない」が発生してたんですね。
大泉学園より西では「取り敢えず乗ってみて、車内の放送を聞いて途中で降りる」が出来るけど、次駅から先が通過運転区間でそこに目的地がある時はそれが出来ないもんね。
江古田・練馬・保谷・清瀬・所沢の下りホームには「こんどの電車は」って書かれた幕式表示器があったけど、その他は昭和50年代後半に所謂パタパタが付くまで一切ホームの表示器が無かったですからね。
寧ろ石神井公園ーひばりヶ丘・鷺ノ宮・上石神井の上下ホームとか、大泉学園・保谷・所沢・田無の上りホームとかの方が必要とされていたように思う。
やっぱり誤乗頻発だったのかな。電動幕にした2000でさえ側面幕付けないんだもんな。 その昔、ホームには一日中立ち番の駅員がいて(もちろん交代制)、時にはうるさいくらい頻繁に放送していた(今度の電車は〜、◯番線の電車は〜、など)。
夕方ラッシュの池袋が典型で、5・6番ホームの突き当たりにあったブースから、目の前のスイッチで流すホームを選択しながらずーっと案内していた。
それと、お客さん自体も放送をよく聞いている人が多かった。便利な物が無きゃ無いでなんとかなってた。
あと、種別が今ほど多種じゃなかったってのもある。1970年代までは、専用車の特急を除き普通・準急・急行しかなかった。
1980年に入ってから、快速急行・通勤準急・通勤急行・快速ができたが、朝夕のラッシュ時限定や行楽向けだったし、通過駅のある列車では車内放送でこれまたしつこいくらい案内してた。
なので、今考えるほど大変ではなかった。 池袋5番線後ろの放送所もうないの?
西武線池袋20年くらい行ってないや >>872
全駅に終日いたのですか?
気の利かない駅員だったら駄目だな。あと自分が知りたいタイミングで種別を言ってくれなかった場合も駄目だ。
快速急行・通勤準急・通勤急行に相当する列車自体は1980年代以前からありましたね。
名前が無いだけで。
そういう点では余計に質が悪い。
例えば朝の、急行とのちの通勤急行、準急とのちの通勤準急、放送ではどう区別していたのか。
口でただ種別を言うだけではそれぞれ「急行」「準急」で区別が付かない。
「ひばりヶ丘石神井公園停車の急行」「東久留米保谷大泉学園石神井公園停車の急行」では長過ぎでしょ。 >>874
80年代後半は池袋線は様々な種別名があった割に、新宿線は朝ラッシュ時に上石神井通過やら鷺ノ宮通過やらといった急行も存在しました。前者が拝・遊始発、後者が本川越始発だったかな。
ほとんどの人が高田馬場か西武新宿が目的地だったので、単に急行としか呼ばれてなかったケースが大半だったかと。
田無や上石神井では、「次は〇〇に停まります」ぐらいなら言ってたかも。それでトラブル防げるでしょ。 >>875
そうですね。そこは単純だから分り易いですね。
池袋線の準急も、朝間上り練馬停車/その他練馬通過だった時代、
朝は「練馬停車の準急池袋行き」練馬通過に切り替わった直後の時間帯は「練馬通過の準急池袋行き」と強調していましたね。
「通勤準急」が「準急」と呼ばれていた時代、朝間練馬停車の準急は無かったのでここも「石神井公園停車/通過」で区別できたでしょう。
ただ急行は複雑だなと。 ほおんいや〜
ほおんいや〜 です
・・・ってアナウンスの駅員さん有名だったよな その時代その時代で変わっていくものよ。今から見れば不便に思えるものも、当時はそれが当たり前だったから不便と思わない。
変わっていく中で不便と思われたら便利になるし、わかりにくいと思われたらわかるようになる。ただそれだけのこと。
今便利と思われているものも、将来から見たら「不便だなあ、よくこれでやってたなあ」と言われるかもしれないし。
現在の物差しは、今の時代でしか使えないのよね。過去のものをその物差しで測ろうとしたって測れないし、未来も同じ。
そして、過去を不便と思うか思わないかはその人の感覚だからね。 同じような音でも東急のは8Ⅿ2Tで運転も荒々しいから
体感的なかんじがかなり違う 東急8500は田都で昔6M2Tもあり快速運用もあったと記憶してるが
同じく後に東横の8000系も6M2Tになりスペックは同じだが
8500の走りに暴力性があるのは減流値の違いかな?
それでも東横8000系は軽快で西武2000系なんて話にならん 32tほどのオースステン車体と40tのでっぷり肥満体スチール車体じゃ違うんだよ >>876
昔は練馬には
準急は停まらなかったと
爺が言う。 練馬の準急終日停車なんて90年代に入ってからだから最近に感じてしまう >>884
爺様の時代にあった準急豊島園だけは停まったんじゃないか 最盛期の渡辺美里コンサートや全国高校生クイズ選手権の開催日とか、日中時間帯に
臨時増発された急行西武球場前行きも練馬停車してたな。 >>884 戦後一時準急が練馬に停まっていたと別の爺が答える。
昭和33年頃
準急 池袋・練馬・以遠各駅
急行 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(通勤時間帯のみ)
昭和34年9月改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(昼間も運転 名称変更)
昭和38年頃
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅
昭和38年12月
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅←準急練馬通過の時代に
昭和40年代後半
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
準急 池袋・大泉学園・以遠各駅(平日朝間上り一部)←通勤準急の祖先誕生、今の通勤準急が準急と呼ばれていた時代
昭和55年改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(平日朝間上りのみ)←練馬停車の準急復活
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
通勤準急 池袋・大泉学園・以遠各駅
でもね、武蔵野鉄道時代の準急はやっぱり練馬は通過、あそこも通過、あの有名な駅は停車、と仏さんが言ってる。 >>887
でも西武球場前発の準急池袋行きは練馬通過したり、
西武球場前発の普通上石神井行きは下山口通過したり、
でも西武球場前発の下山口通過の所沢行きは準急所沢行きだったり、
まるで難解な時代。 東上線だって準急は池袋・成増間無停車が基本だし(ラッシュ時上りのときわ台停車が1975年頃まであったが)、距離的に石神井公園まで基本的に通過とするのは合理的だと思うが。地下鉄乗り入れで練馬乗換客が増えるまでは。 普通は地下直乗り換え駅は急行停車に格上げだよね
和光市や代々木上原みたいに 練馬始発も練馬止まりもなく
直入れは近くとも石神井迄は強制的に行き来するし
直入れにも優等もあるのだから練馬準急すら停まらんで良いよ 東横特急も最初は中目黒通過だったなぁ(遠い目)
自由が丘の緩急接続時にしつこく構内アナウンスしてた 西武鉄道の政治的戦略により、自社線として奪い取って工事した区間の末端、小竹向原が乗換駅です。
分岐駅でありながら練馬は途中駅というポジション。 >>891 和光市や代々木上原と違って、地下鉄直通の練馬折り返しが練馬駅の構造が原因で無理ということを考えないとなあ。
練馬に池袋行き急行止まらせて地下鉄乗換え客を集中させる意味ないだろ。石神井公園と練馬に分散させればよし。 千鳥停車といい西武は客を分散させることに快楽を見出す体質 >>896 地平駅だった頃の東武伊勢崎線北千住のように、地下鉄直通への乗り換え客が集中しホームが危険なほど混雑するのが望ましいんですか? ジジイな俺が子供だった頃(昭和40年代後半)、土曜日の午後に「急行 狭山湖」ってのがあってな、練馬停まってたんだよ。クモハ351+クハ1411がよく来てたんだよ。 東長崎は側線を通過したなんて話も聞いたことがある。狭山湖急行。 ベタな話だがあの側線は黄色+赤の701昼寝場所の印象が一番鮮烈 夕方に起きだして池袋向かったね
カーブの中にある無茶な渡り線がまた凄まじかった 159F赤電イヴェントも黄を繋げて東長崎展示会もして欲しかった レッドアロー貸切8連最寄駅乗車で遠足行ってた世代で
見れたはずのレッドアロー10両は見たことがない。
狭い期間だったろうけど定期運行あったのかな? 50年近く前の東長崎って、ホーム途中に分岐器があって、かなり抉られてたよね。
JR三島駅の伊豆箱根への連絡線みたいに。 東長崎と言えば池袋寄りの曲線部渡り線。
制限50とかだったと思う。 >>911
下り70上り65分岐25だったかと
ツリカケがいた頃は確か50だった 制限といえば、停車駅直前の閉塞もしくは場内信号、昔は必ず黄信号で制限55だったな。そして出発信号は必ず赤信号。 そういえば制動は二段階だったね
それでか駅間短い富士見台ー中村橋は55kしか出さなかったような
昔から西武は信号機の数がやたら多かった
その頃はアナウンス各駅停車でも掲示は普通だったっけ? 今の小田急みたいなのを停留所でもやってた感じですか 保谷の下り、今は閉塞減速、場内注意、出発停止、と3段階で停まるけど、
昔はいきなり場内注意、出発停止の2段階停車だったな。
場内信号手前まで通過列車と同じく飛ばして走ってた。
注意現示の1つ手前の閉塞信号機は減速でなかったの? 下り保谷駅の手前って、G YG YG Y R(出) のようにYGが連続してなかったか?
あと別な分岐器の手前の閉塞区間なんだけど、先行列車が遅延しているとタイミングによっては、
G YG YY R で急減速する場所もあるね。 黄が連続してる箇所もあった。江古田上り待避線とか。
あと青の次がいきなり黄黄のところもあった。豊島園発上りとか。 昔の西武線の線路、カーブ区間は定尺を交互にしていたなあ(カーブ手前まで左右共同じ、カーブ開始地点から右もしくは左に12.5m入れて反対は定尺、終了地点で反対に12.5m入れて直線で同じに戻る)。
あれ、どういう意図があったんだろ?他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない。 タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン
タタ タタッタタン >>921
> 他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない
こんなことが言えるほど曲線観察してたんだな ロングレールが普及する前は結構な音出しながら走ってたから、曲線区間で音が変わるのは誰でも気付いた。
保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。 マジレスすれば、線路の左右のジョイントを分散させて屈曲ズレ防止かと。 ここの音でも確認できるね
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5h-cd/sound2.htm
余談だがこのページにある名鉄HL車モ3716の力走はぜひ聞いておくべき >>924
>保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。
俺は椎名町〜東長崎かな。途中に渡り線があるから余計に印象に残ってる。
椎名町出発→加速→ノッチオフで速度制限の減速→緩解で曲線進入→>>922のリズム→途中でポイント通過→直線に戻って左分岐ポイント通過→ホーム進入で減速→停車 実現しなかったが
レッドアローは仮に失敗したら通勤電車に実質改造(車体載せ替え)するつもりだったって本当? 何で知った?
元記事は元職員の人なのだから本当なんだろう >>929 その通り。
東武1800も足回りは8000とほぼ共通だし、製造費用節約するには大量生産されている通勤型からの
足回り流用を図った方がよい。
国鉄103に比べれば西武101や東武8000の方が足回り、特に台車に金をかけているから特急車への流用が可能だったわけだが。 だって、車体が通勤型か特急型かの違いだけで、台枠より下はMG除いて全く同じだもの。 MGは別モノだったのか。当時の101は非冷房だったから? レッドアロー走らせたのは一つの賭けだったんだろうな。
日光や箱根に比べて秩父は観光開発が進んでなかったし、有名な温泉地や歴史的建造物もない。
ハイキング急行なら乗るが特別料金払っ飯能や秩父まで特急に乗るか、精々60〜80分程度の移動に
と疑問視する声も多かったのでは? 101系のMGは、非冷房車は12kVA、4連冷房車は150kVA(ブラシレスは140kVA)、6連は120kVA。それに対して5000系は110kVA。
冷房装置の能力が違うからねえ。101系は1両1基あたり42,000kcal(分散式は8,500kcal×5基)だけど、5000系は28,000kcal。 そういえば、10000系もなんだかんだで、101系の系統だな
101系や5000系の機器が流用されてるし
台車は改造されてるけど基本的には同じもの
そんな事情もあって、富山地方鉄道に譲渡された5000系は箱だけで
国鉄485系の解体部品で賄った
西武に国電払い下げの歴史がなかったら、もっと大変だったろうな
101系流用で当初4両4編成くらいなら賭けというほどでもないだろう…
〜〜
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1614170906/
152 名無し野電車区 (ワッチョイ 5f98-yAnI) sage 2021/09/06(月) 07:41:10.65 ID:QTae2TfL0
青梅線に有料の行楽輸送が定着しなければ
東がブチ切れて全廃するかね
そうなったら日向和田・沢井・御嶽・古里あたり
「行楽シーズンの帰りは積み残される」が当たり前になるだけだろうに
174 名無し野電車区 (ラクッペペ MM3e-4Y1C) sage 2021/09/11(土) 16:15:14.83 ID:3ds23dXGM
>>152
定着見込めるなら西武が早くに乗り入れ参入してたろう、5000系時代に…
西武新宿〜高田馬場〜上石神井〜小平〜萩山〜小川〜拝島〜青梅〜御嶽〜奥多摩
185 名無し野電車区 sage 2021/09/14(火) 05:39:35.27 ID:bj6F8yD2
>> 184
萩山は遊園地、球場への客が新宿方面から乗る事も考えられるが、小川の国分寺線は必要無い
所沢方面からの客には小平に来てもらえばいいし、国分寺側からの客などほぼいない
有料特急なのだから極力連続停車は避けるべきであり、玉川上水通過なら小川も当然不要
有料特急を走らせるなら間に各停を増やさなければいけないのは仕方ない事なのだが?
>>937
失礼、違ってたんだ
そう言えば京王5000にも、レッドアローと全く同じクーラー載せた編成あったね
(初期型、後期型ともに) 西武5000系の冷房装置は初期型がFTUR-375-203A、後期型がFTUR-375-203C。
京王5000系の冷房装置のうち、203Aの外観に似ているのがFTUR-375-202、203Cの外観に似ているのがFTUR-375-206。
いずれも日立製の冷房装置。 >>529
また2年前の書き込みに追記だが
1C6M設計ということは、VVVF試験の検討段階では色々な案があったが、
最終的にあくまで試験のため故障時対応を考えて101の4000化に伴う余剰車を改造して、301のサハを差し替える形での試験に決定したという可能性はあるのではないだろうか
1C6M設計なら、当初は4連で試験(3M1T相当で両先頭は連結面側のみM台車、中間2両にVVVFを搭載と妄想)する計画があったとも考えられる
同時期に新2000で新型台車の試験も実施してたし、当初は東武10080みたいな試作車でも作る案もあったのかね?
(2000系列以前のことをよく知らないのでどういう経緯でああなったかは不明だが新2000の4連が3M1Tの例もあり) 2197‐2198に関しては、恐らく初代VVVF試験車の台車を活用するためにVVVFになった可能性は?
(主電動機を取り付ける部分とかが交流モーター用に改造されていたために元の仕様に戻すことができず、かと言って捨てるのは勿体ないから仕方なく2両だけVVVFになったという感じ)
当時は所工が現役だったからあり得そうな話 幻の7000だが帯色は4000と同じで前面は名鉄1000に類似(恐らく通常の低運転台車両に運転台の高さを合わせる予定だった?) 2097はギクシャクが酷かったという話も
新501も同様(501のどこがいけなかったのは知らないが) 新501系はメカは新101系なのに連結相手が701系列というのがな
新101系も4連は701系列と連結していたが、4連と2連ではやはり勝手が違うものなのか うまく言えないけど、4連はTc2輌がある分編成重量当たりの出力が低く、501系よりマイルドなショックだったのではないか、と。 新501系は新101系と違って、限流値をデチューンしないで701系と連結してたんじゃなかった? 詳しくは知らないけど新501は401ベースにはできない事情があったのかな… 俺もN501だけ701系列と合わなかったのが不思議でならない
N101の2連と701は然程ギクシャクしない
N501とN101の2連は抵抗器箱数も4連と違って一緒なんだよね
>>946
西武の勿体無い精神でありそうだけど
N2000が当時、将来あるであろう更新時にV化画策し
過渡期の併結を実験ってことはない? 501+401+701の8m2t組み合わせに問題がある? >>954後半
昔からその説出てるけど、結果からすると、それが最も合理的な理由でしょ?
>>551にも書いてある。
もしかしたら旧2000の更新時も視野に入れていたかもしれない。
時期的に数年後から始まっているからね。
で結局やめたんでしょ。
チョッパとVVVFの併結はよろしくないと言う事で。
運用分けるのもメンドクセ―と。 >>945
VVVFが1.5M設計ということは
クモハ(0.5M)-モハ-モハ-クモハ(0.5M)? >>555
仮に東急8000系列がVVVF化されていたとしてもメトロ7000/8000みたいにどこかのタイミングで置き換えになってたかもしれないが 307Fの145V試験組込みって501+701や2097Fのような
大きなギクシャク無かったような気がする >>960
それは性能の異なる車両を丁度中間に組み込んでいたからと推測
2097FのVVVF搭載も飯能方ユニットではなく中間ユニットだったら違った可能性も ふと思った
西武が京王7000・8000/小田急8000・1000のような足回り換装を含めた更新をやらないのは2197‐2198で懲りたからか?
(9000/6000地下鉄対応車の足回り換装は特殊事情として) >>960
中間サハを置き換えたVVVF=2Mが両サイドの抵抗制御=2Mに挟まれた6M2Tだったからじゃない? 直巻150kw系の進段とV試験仕様の加速が偶々合致に一票 V化試験やった307Fって、301-7と301-8は単に仮T化しただけで、主電動機やらなんやらのM車機器は積んだままだったんだっけ?
それとも、主電動機だけ下ろしてあとはそのままだったんだっけ? >>969
VVVF車にトラブルがあった時には直ぐに使用出来る様になっていた旨を、何かの本で読んだ事がある。 307Fはどちらかと言うと阪急2250Fに近い
阪急2250FもT車を置き換える形でVVVF車を挿入してたからね 警笛
なう
らる
すさ
ない
って看板なら東長崎〜椎名町にあった 電子笛はあの看板掲げた人が設計したようなのかも
いま掲げていないのは電子笛で満足したかご高齢で亡くなられたか 昭和病院そばの青梅街道踏切の少し東側、線路両側が農地で、いつも人一人分柵が外されて勝手踏切作られていたな。
あそこももうそんなことなくなったので、農家のおじいさん引退されたかお亡くなりになったのだろうな。
ああいうのは代が変わらないと無くならないと言ってた。
昔は自分の家の庭先で自由に通ってたものが、線路を通してやった為に自分たちが通れなくなったということだと、中々納得してもらえないって。
生まれた時から線路があったんだとしないものだとか。 >>978
他の出入り経路があるんだから致し方ない
補償もあったろうし
他に出入り経路がないならちゃんと正式な踏切設置になるだろ
名鉄や京成にある4種のように 東長崎〜椎名町には線路敷地内に植木鉢とか置いている家もあったね 秋津駅が清瀬駅になるかもしれなかった。清瀬と秋津の中間付近に清瀬駅ができていた可能性も。清瀬市郷土博物館の展示見てきた。 清瀬駅の秋津方、丁度引き揚げ線横、上り線の北に不自然に空いている用地何なのか教えて。 次スレのテンプレ
タイトル:懐かしの西武線 第4編成
内容:
懐かしの西武鉄道の話題を引き続きよろしくお願いします。
前スレ
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なくてもいい
このスレで終わりにしよう
過去を振り返るのはもうやめよう
未来を向いて生きていこう 四十数年前、西武では大変珍しい車両であった2000系第1編成も、横瀬回送になってしまったそうですね。
やっぱり2000系も登場時は秩父まで試運転したのでしょうか。
だとすると最初と最後の秩父線。 四十年も経つと、珍しいものも珍しくなくなるものですね。
特殊な車両だった2000系も、西武では当たり前の車両になっていた。
後から製造された車両が続々廃車されていく中、まるで不死身かのように走り思われていた2001~2002の編成も、遂に廃車となってしまいましたね。
いくときは突然やってくる。 でも特別旧2000系に思い入れはありません。
鉄資源として有効に再利用されんことを期待致します。 このスレッドは1000を超えました。
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