さよなら運転,廃止路線(廃線),最終列車の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
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廃線や廃駅の最終日の思い出を語りましょう。
見物客としてお別れセレモニーに参加した人、乗客として普通に利用した人、
さまざまあると思います。 基本的に葬式鉄はしない
するとしてもイベントには参加せず線路際で静かに別れを告げる 小松島線最後の日
小松島港駅で買った、改札挟と検札挟と記念乗車券。
今でも大切にしてます。
ユッコのDVDと合わせて宝物です。 >>5
ユッコ懐かしいな
大好きだった
あんなことになってしまうなんて 碓氷峠最終日、仕事帰りに近くの線路へ“あさま37号”を見送りに行ったよ。
子供連れや年配者も近所からパラパラ集まってきた。
ことさら鉄ファンでなくとも毎日の風景が失われるのが惜しいのだろう。
やがて南から2つのライトが近付き、やや遅めの70キロくらいで走り去っていった。
帰宅して1時間あまり、Nステで横川のお祭り騒ぎ〜ロクサンの長い長い汽笛を眺めた1997/09/30の夜。 目蒲線が目黒線に切り替わる頃に沿線に住んでたが、
いざ変わっても車両と行き先が違うくらいでそんなに衝撃なかったな。
工事自体はぶっ通しだったし。 >>8
東急は何ヵ所かあるけど地下化される際の「地上最終日」とかはどう?
路線そのものは続くけど、その場で二度と見られなくなるのは廃線と同じだからね。
生活圏でないならすんませんが。 >>9
地下初日や切り替わり初日は何度もあるが、最終日は言われたらないな。
路線とは違うが駅構内全面禁煙の前日、今日までかと思って一服した覚えはある。 鹿交のキハ100に乗りに行ったが、枕崎には一人寂しく取り残されたキハ102が…
わかっていたけど、納得する為に行ってみた
夏休み前に豪雨で不通になり、そのまま翌年に廃止になった
豪雨に噴火、九州はつくづく鉄道受難の土地だと思う 葬式鉄も嫌だが廃止セレモニーで地元の芸能太鼓叩いちゃうとか何なのと >>7
写音集であさま37号横川停車の惨状聴いたら、鉄の酷さに泣ける
特に、絶叫で叫ぶとこなんか爆笑もんですよ >>15
それ、CDの「走り去った列車たち」であとから聴いた。
機関車周辺ではケンカ紛いの怒声があって、こんなに利己人間がいるんだと悲しくなったね。
押し合いでかなり危ない状況なのもヒヤヒヤしてくる。
それでも総てを洗い流すようにロクサンが『ピューイーー』と声を上げると、皆さん我に返って別れを叫んでたから尾は引かなかったのかな、と。 >>15
東京西部から退勤後
高崎から長野まであさま37号(在来線)に
乗車した(上野から高崎線中距離電車に
乗ったのは、あさまの自由席は座れない
だろうと考えたからだ)。幸運にも
高崎からでも、指定席に空きがあった
ので座っていけた。
翌日は北陸新幹線の上り1番列車で
東京に向かった。自由席だったが、
1号車の乗車率は30%だった。 たいていのダイヤ改定や開業は土日なのに、上期下期の境なんてつくづく特異だったな。
このあさま37号で上がった2機が単9176列車として真っ暗な山道を下りた訳で、乗り組んだ人々は最後の操作・景色・音・空気の匂いを五感に焼き付けたことだろう。 >>16
あさま37号横川発車後の「さらばオレの青春、碓氷峠‼」、「さようならーロクサーン ありがとうロクサン…」と声裏返ったのを
聴けば聴くほどドン引きしたけどな
碓氷の末期は丸山で三脚乱闘事件あったりと殺伐しまくりだったが、現地行ってみたらこの状況でシチサンカツカツバリ順の編成
を撮りたいと思う方が無理な程、人大杉だったからな >>20
碓氷峠廃止の頃は、人大杉は定番だったんだよ
化石レベルの誤変換も当時に合わせてやってるんだから、重箱の隅ツツク様な事はせんでいい 昭和の終わりは青森市に居たので、青函連絡船の最期を見届けた。
3月の定期便終航と9月のアンコール運航最終便、それから翌日昼に函館へ帰るタグボートと十和田丸を見送った。
営業運行ではなく回送が最終便となったのは、知る限りで青函航路と上のヨコカル、そして新潟交通電車だな。 >>23
島原鉄道の部分廃止のときも回送列車が実質最終だったはず。
鍛冶屋線は終列車が鍛冶屋着、本来なら回送(車両撤収のため)だったが、サプライズで客扱いした。それに乗ってた。 鍛冶屋→西脇まで回送に乗れた。どっかのスレにも書いたことある >>25
それに乗ったけど、その通りだよ
西脇じゃなくて野村(現西脇市駅)まで行って欲しかったと思ったけどね
>>23
伝説となった平成4年3月末廃止の野上電鉄も登山口から下る最終は回送 >>26
珍しいね。実際乗った仲間がリアルで登場したのは初めてだわ。
どっかの一般サイトで言及してた人は見たことあるけど。
ところであなた東京の人?
車内でちょっと話した人がいて別れるとき名前聞いた記憶あるんだが
その人だったら嬉しいなと。 25で述べた件だけど、(実質的な)前スレで書いてた。知らん間にスレ落ちてたんだな。 >>23
片上、鹿島鉄道もだな。
特に鹿島は最後の回送を特別に客扱いするってデマが2ちゃんで流されて、
それを信じた馬鹿が鉾田に取り残されて騒動になったんだよな。 >>27
残念ながらバリバリの関西人です
>>29
片鉄は最後行きたかったけど、期末前で行ける様な状態じゃ無かったな >>30
当時何歳?どうやって帰ったん?
俺も大阪市内の人間だけど知人(年上)に送迎してもらった
だから回送にも乗って西脇から帰れた由 >>32
鍛冶屋の時は15です
西脇から野村までは始発に合わせて歩きで行ったよ
あの当時、18のバラ売りを金券屋で買うと言う知識も無く、学割往復で買いました なるほど、ありがとう。
自分は15歳でした。って同い年か!
1975です >>29
片鉄は最終後の回送列車(保存前提での保管場所への移動を除く)は無かった。
最終の吉ヶ原行きと一本前の客車列車は昼間の列車を入れ換えて吉ヶ原保存予定車両の編成にして吉ヶ原に向かい、二度と片上に戻ってこなかった。 >>1
千葉県営鉄道多古線 → 成田鉄道多古線
成田0.0km - 成田裏1.9 - 法華塚6.4 - 三里塚9.0 - 千代田11.7 - 五辻14.9 - 飯笹16.8 - 染井18.6 - 多古23.5 -
下総吉田24.2 - 豊栄26.7 - 西八日市場28.9 - 八日市場30.2 >>23
長電木島線も最終が木島→信州中野で回送だった。
その日は信州中野に宿取ってたから木島からタクシーに乗ったけど途中で回送列車と並走したときは、あれに乗せてくれたらなと思った 東武熊谷線。
地元では「妻沼線」と言われて「特急カメ号」と揶揄されたキハ2000。
昭和58年5月31日。最終日はずっと満員で、普段は人気が少ない沿線のあちこちでカメラを構えている人が多かった。
初夏の陽気は夜になっても変わらず、妻沼駅ではパジャマ姿の子供もいた。
最終列車が到着すると大きな拍手が沸き起こっていたが、廃止式典が始まる頃には急に人も少なくなっていた。
妻沼駅の中にあった黒電話は、タクシーを呼ぶ専用のものだったと思ったけど、最後までダイヤル式の、それも交換手を呼び出す時に回すハンドルとついたタイプだったと記憶している。
翌日は、昨日の熱気が嘘のように誰もおらず、展示保存のため、仮のレールが敷かれ近くの公民館に移動するキハ2000を見る事ができたのは収穫だった。
今ならもう少し、翌日までも「騒ぎ」になるだろうけど、当時は何処もそんなものだったのかも。 大森のあたりに住んでいたので急行銀河号のくだり最終列車を観に行ったら
報道が多かったからだろうか沿道にもパラパラと同じ目的の人がいて
機関車は踏切付近でライトをチカチカさせて走っていった 金曜の夜、九州から、最後の上り「あかつき」に乗った。(俺、土日休み)
京都に着いて、直ぐに下り「のぞみ」で帰った。
嫁さん、怒って実家に帰ってた。(現在は修復済)
俺、今日、年休。 83年?だったか相模線西寒川支線廃止の時に行ったきりかな。 1985年10月31日、今宮戎駅を通り過ぎる南海本線の四国号最終日を撮影。
同業者が二人いたのを覚えている、 1981年7月末の大糸線「さようならゲタ電」に松本⇔信濃森上往復してきた。
同じ戦前型でもニス塗り茶色車内の飯田線と違い、明るい薄緑系+薄灰色にされてたのが印象に残ってる。
吊り掛けサウンドは忘れてしまったが、仁科三湖の青々とした水面と時折『プワワァ〜〜ン!』と鳴り響く別れの警笛はよくおぼえているなぁ。 ジェフ・ポーカロ最後のTOTO東京公演見た
まあまあだなと思った程度だがその後氏んだと知って ああ追憶の3/13
「富士」「はやぶさ」最終列車
出発日から9周年 三江線最後の日に向けての混雑、トラブル防止のためのJR西日本の対応を見ると、可部線一部廃止前の騒動を再発させたくないと考えているのでは。
廃止の数週間前、文化の日に三段峡まで往復したが、往路は可部から超満員、気分が悪くなって窓開けてくれと悲鳴を上げる乗客も。
車窓風景を楽しむどころではなく、ひたすら定員の200%以上の超満員状態を耐えるしかなかった。
105系で可部駅に入った時、向かい側に停まっている気動車は既に一本前の広島からの乗り換え客で満員。電車の中から一斉に悲鳴が上がる。
乗り込めるのかよ〜!と。 当日いたが、西はまだ三段峡で乗客入れ替えただけマシだと思ったな。
北でも増毛はやってたし、ほぼやらない東よりはいい対応してるとおもうが。
積み残しはしゃあないべ。増毛ん時は、実は万が一の時のために手配の準備はしていると、中の人がポロっと言ってたよ。公にはなっていないけど。
まあ積み残しはなかったけど。
小野田の時は見事に乗車させてもらえず、とりあえすタクシーで少し進んでから途中駅で乗った。 あと、1人分以上の座席を占領するデブヲタはうざいな。可部にもいたけど。 47だけど、11月3日は三段峡が紅葉の真っ盛りで、紅葉狩りのついでに可部線乗っておこうという観光客が殺到したようだ。
その1週間くらい後、広島出身の人から聞いた話では、車内で怒号がするという状況だったとか。
11月末だと紅葉終わってるし、どれ位混んでるか知れ渡ったから、少しは落ち着いたのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています