昔の一畑電気鉄道を語る
昔の「バタデン」こと一畑電気鉄道(現・一畑電車)を語ろう。 2006年4月に一畑電気鉄道の鉄道部門は同社全額出資の「一畑電車」として分社化されたため、
現在の「一畑電気鉄道」は持株会社となっています。 高架化前にあった一畑とJRの踏切表示みたく、一畑=電車、JRというか国鉄=汽車、で通じるんじゃない加藤 ここは、山陰唯一の電鉄として長年孤軍奮闘していうよな。
近隣の地方私鉄同士っていうのは、路線バスや観光業とかで競合しているようで結構 国鉄OBの天下りが多くて
人脈的に繋がっていたり、経営努力、工夫ノウハウの情報共有で仲よくそしてお互い影響し合うモノなんだよな。
長野の私鉄三社が揃って東急5000を中古導入したりとか・・・
で、廃業の時も連鎖的に続く。(例えば山口県の 舟木、長門、防石 青森県の下北、同和花岡、南部縦貫、弘南の国鉄引継ぎ区間) >>4
実家が大社だけど当時は大体電車か一畑といってた感じだな 中小私鉄が小売業(百貨店、スーパーマーケット)を兼業することは
珍しいことではないよ。 バス部門が分社化される前は隠岐の島で路線バスを運営していた 島根県を代表する企業といっても、松江、出雲周辺の地域が拠点で、
西部の大田、江津、浜田、益田などでは一畑電鉄はタクシーも
路線バスも運営していないのは島根県西部は人口が少ないことや、
西部では島根日本交通や石見交通といったバス会社やタクシー会社があり、
これらの企業だけでも十分見合うからだろうか 共存住み分け、無意味な競争をしても与られるものは、少ないどころか
共倒れしかねない。・・・コレは結して談合ではない!生き残る為の術。 駅名がやたら長くなったのが良くない
北松江、古江、大和紡跡、でいいんだよ いま駅名を変えるとしたら、の話しか
早合点してしまった
スマンネ>>13 今でも50代以上は汽車と電車という呼び方で区別してるね 西武から451系が来たとき、とてつもなく大きい電車と思った 地元じゃないから想像でしかないが、一畑では初めての全金車で窓も大きくて
明るい雰囲気なので利用者からは歓迎されたのではないかな 滅多に乗らないから、旧型車のドアの開け方がわからなかった。
カギ開けてからノブ回すんだよな。 一畑パークへ行こうかナ
ドライブウエイもすてきだナ >>20 よく大形車(20mで幅も広い?)が入れたよな。
もっとも昔 国鉄3軸ボギー木造客車改造クハも居たが・・・
てか、戦前の創業期に山陰の一地方私鉄がよくこのレベルの線路規格を採用したよな。
もしかして国鉄客車の乗り入れでも想定していたのか? 一畑電鉄の踏切は、独特の物があったという。
山陰本線と並進している箇所は、
汽車・電車の表示、警報器の音色が異なる。 >>25
客車以前にまず貨車の都合があったしね
あと元西武の20m車は特認だった >>22
あれ?
元西武車は幕下ろしてなかったっけ?
記憶が他社とゴッチャになってたらスマン 改軌時の栗原とか此処は、何気に西武所沢とナ二ワ工機(後のアルナ)が、顧客を増やす為セールスで凌ぎを削って居るな。
アルナはモハ31の鋼体化 後のタンコロ各車のワンマン工事。
栗原では、不要になったナロー電車を取引先の一つである下津井に斡旋?M151の新車製造、阪急木造車車体活用のTc車
・・・その後は、同時に西武から中古予備で購入した旧武蔵野の木造M181の後光か 旧阪急車体のM151タイプ車体新造取り換えの仕事も西武所沢に取られたが・・・ 川跡駅で出札口にならんでると、前の若い人が今市迄と言って切符を買ってた。一部の駅は赤線入りの入場券があって額面10円に料金変更の判子が押してあった。手動ドアで小さいながらもクロスシートの電車がかっ飛ばしてたな。 >>31
問題ないけど、ローカル線に大型車は似合わんな
スマン独り言だ忘れてくれ 小境灘、一畑間が廃止になる2年前
20分〜1時間の間隔で運転は、山陰線より本数が多い!
http://i.imgur.com/NxecwxS.jpg >>20
いや実際に地元新聞が記事に取り上げたくらいだし。 モハニに乗りたかったが結局乗れずじまい
悔やまれる そんなに期待するほどのものじゃないよ
あと、車中が少し暗いのも難点 いや、その暗さが堪らないのだよ
近頃の電車はみんな明るいか、明るすぎる。 そこまで覚えてないが側窓のストッパーは真鍮製で
例によって磨耗して鈍く光り、
不届き者が擦り付けたと思わしきガムの剥がした跡が残ってた シャーペンか何がで引っ掻いた落書きみたいなのも
旧形車両の定番だな 小学生時代に池袋線で何度も乗った食パン顔電車に
一畑で再開した時には嬉しくなったな 日比谷イベントで前のダイヤのスタフを入手して眺めた後で
今の時刻表を見て「あれっ?」ってなったんだけど、
歴代「特急列車」の停車駅ってどんな変遷をしてるんだろ…教えて下さいませ
(旧型車が健在だった頃の、正月ダイヤの臨時特急を含めて)
2003年頃に乗ったことのある「スーパーライナー」が
今のダイヤでは実質「急行」化してたことに、相当ショックを受けた クーラー付きがやって来た時の嬉しさといったら・・
元南海だっけ?京王? >>49
遷宮の時に一畑と木次線のスイッチバックに乗りに行った時、
一畑で学生時代に通学で乗った旧京王車両と、
新社会人で通勤で乗った旧南海車両に
再会した時は一遍に時間が遡ったよ。
旧京王車両も40年以上昔は
冷房が無かった。 >>50
一応、一畑に譲渡された元5000系は1両除き新製冷房車
あと京王の非冷房車は平成初期まで残ってた 49だけど電車のクーラーはデパートや喫茶店のそれとは違って
鼻から空気を吸い込むと頭がキーンとする独特の冷気があった
思い出すわあ
当時は実家にクーラーなんてなかったし、学校の寮クーラーも使わせてもらえなかった 一畑は末次地域、山陰線は白潟地域にターミナルがあるね
官公庁は前者にあるけど、繁華街(今衰退してるとしても)はどっち側にあったの? 大社線にいた古強者はドアが手動だった
しかも、激重 >>6
昔は松江城のそばにあって
その時のビルは今は山陰中央新報の社屋になってるらしいね
数年前に家族で松江いったときに
母が山陰中央新報の社屋の作り見て
「このビルって前はお店だったんじゃない?」と言ってたから
調べたら前身は一畑百貨店だった 手動扉、白熱灯、板張りの床、やけに高い位置にある落とし窓
田舎の骨董電車そのものだな
1980年代までは普通にお客を乗せて走ってる車両が全国で見られた >>45
国体開催に因んでくにびきのHMを付けるというニュースが先行して
どんなデザインのものができるかとワクワクして期待したら
味も素っ気もないただの看板
ガッカリ感は半端なかった
しかも手入れしないから汚れもひどくて…やる気ないなら付けない方が良かった >>54
むしろ大社線が自動扉で本線が手動扉だった
本線のデハ20には何回か乗ってるけど、発車するときは車掌さんが閉めて回るからあの手動扉を開閉した記憶がないな >>56
リアルに使っていた世代だけど、懐かしいものがあるね。
確か三越と提携した記憶があるし、あの辺りは事実上一畑バスの
バスターミナルだった。
私たちの世代だと、やはり一畑パークは外せないんね。 >>58
俺は本当に島根で国体を開催するのが信じられなかった 出雲大学駅伝見ているが今年は一畑電鉄が並走する姿を見られなかった。 デパートの他に、
遊園地まで持ってた(今は無くなったが)
やはり地元の誇りと言っていい。
閉園直前に連れていってもらったのはラッキーだった 水を差すようだが中小私鉄が乗客誘致のための副業で遊園地を経営するのは各地に例があり、一畑が特に先進的なわけではない >>64
全都道府県持ち回り制だから、いつかは廻ってくる 80年代まで戦前製が幅を利かせていたが
整備は入念で、古臭さは感じなかった 昔も暑かった
思い出補正かかってると思う
クーラーはおろか扇風機さえ付いてなくても誰も文句無かった 路線バスに冷房が付いたのはいつ頃だったかなあ
電車が見劣りしたのは確か >>63
三越の買い物券が使えたのがすごいステータス
三越と言えば社長が不祥事起こした1980年初頭まではデパート界の盟主たる存在で
店があるだけでその街の格にも影響を与えていた
伊勢丹や大丸よりも高級 早くにCTCをいれ ぼろいなりにちんたらせず すっ飛ばしてた 今は知らない 運転手が 暴れ馬みたいに 車両から振り落とされた事件
車掌が 線路になにか落ちたと 非常を引いて事なきを得た >>86
昭和57年には既に松江市バスにクーラー車はあった >>90 元西武451か。上信や三岐にも譲渡されたが。 >>91
当時はほんの2、3台だけで、
バスの方が冷房サービスがよいと言う定評は無かった >>96 元西武451も冷房改造されなかったが。三岐や上信行ったのと同様。 クーラー後付け工事の可否はどこに基準があるの?
素朴な疑問
ボディは新製でも足回りが旧品はダメなのかな 金いくらかけてもいいならどうとでもなるが後何年使うとか
床置きとか路面電車用なら出来るが 昔はダメだったとかそんなとこじゃないか
じつは自家用車非冷房なんだが 負担をかけないために手をつけないが 同車種で後付けした人もいるし クーラーの重みに台車が耐えられないという話を聞いた