C57総製造数215両1次型〜4次型を語る
1次形:C57 1〜138昭和12年から昭和15年の間に製造された基本形で
従台車とテンダー台車がともに一体鋳鋼製とされた。
2次形:C57 139 〜 169昭和15年から昭和17年にかけて製造。
第二次世界大戦の開戦により、資材、工程の削減をやむなくされた。組み立て式従台車を使用し、テンダー台車枠が板枠に変更された。
基本的には1次形のままで性能に大きな差はない。この形式の別名でもある「貴婦人」とは1次形と2次形を指している。1次形と2次形の間で炭水車を振り替えたケースもあるC57 120, 121, 135, 145, 148
3次形C57 170〜 189昭和21年製造。戦後の旅客用機関車の不足を補うために製造された。設計期間が無かったことから2次形からの大幅な改設計は見送られた。それでも先輪がD52形用の流用であるディスク形となったり、
コンプレッサーからの空気放熱管がランボード下に収められるなどの相違点が見られる。また、砂箱キセ前面が1次形や2次形と比べ傾斜している。
4次形C57 190〜 201昭和22年製造。3次形が2次形の基本をそのまま踏襲したのに対し、本グループではC59形の設計思想を取り入れた大幅な改良が施されている。キャブ(運転室)が密閉式となり、
デフレクター前部上端は45度に切り取られ、炭水車は船底形となり、ボイラーも板厚を増したものになるなど改良され、C59形によく似た外観となった。また、動力逆転機も装備されたが、燃焼室の採用は見送られている。
外観の変化が比較的大きかったことについては、均整美が失われた、とするものと、近代的で力強い、とする両論がある。
このボックス型動輪では最も形態的に美しいパシフィック機C57について語りませんか。 >>127
C5552は後にも宮崎に来てる。吉松区ではC57と共通運用で客貨両方共
宮崎まで入線してる写真がネット上にもあるよ。 蒸機急行復活の日南3号
前にDF付かなくて良かったですね 日南3号は見ただけで乗れんかったな
急行は魅力だが、まぁ宮崎以南だから75キロ出せるかどうかだろうし
遅れてた時の539レで80キロは出したから良しと思うかな 一年以上も前の投稿に反応するのも気が引けるが
>>135
公売×
勾配○ 「C571の形式入りナンバープレートが本物だった当時」の写真はありますか?
ネット上になくても書籍等にあればそれでいいです
初号機だし、形式としての竣功時の公式写真がありそうなものだと思いますが見たことありません
新津区で高い位置に取り付けられていた形式ナシのお顔も魅力的ですが
オリジナル時代の形式入りプレートを一度みてみたいです ↑
鉄ピク「日本蒸気機関車特集集成」に臼井茂信氏が昭和24年に総武線で撮った写真がありましたよ >>144
「形式」のところが塗りつぶされているやつだっけ 蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1317981766/
こっちのスレもそのようだけど、同じく2017年で止まってるな C57は「貴婦人」というあだ名で知られてるけど、昭和22年製造の最終グループはC59っぽい外見となり「山男」と呼ばれてたとか 「貴婦人」も「山男」も当時、聞いたことなかったなぁ。むろん「高原のポニー」も。 C575の形式入正面プレート、盗難とは知ってたが、まさか身内の犯行だったとは。 >>144
随分亀ですがありがとうございました。きのう偶然ツイートで画像あったから見ました。
やっぱり僅かに印象ちがいますね。
何度見比べてもほんの僅か、気持ちだけアラビア数字のタテ方向が短いように見えます
C57だけでなく戦前の形式入オリジナルプレートが好きなので萌えました C57の一桁ナンバーは当然誕生寺は型式入りナンバープレートだったのでしょうが、5号を除いては早くに型式なしに変えられてしまいましたね。私が趣味誌などで「型式入り」を装備して動いている画像を確認したのは3号機(戦前の東海道線を行く姿)と9号機(戦後ですがまだ門鉄デフを装備する前の姿)の2点だけです。C57の一桁台のプレートは横幅がやや狭いのでキリッと引き締まった感じがしますね。 そうですね。シングルナンバーの形式入りプレートだと、特にC57の場合、
機関車全体に対する見た目のバランスがとてもよく、原形に近いこともあいまって、
C575が梅小路区の大スターだということが肯けますよね。 https://scontent-itm1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.6435-9/fr/cp0/e15/q65/90519932_3275399525805899_1821357916402221056_n.jpg?_nc_cat=108&ccb=1-5&_nc_sid=8024bb&_nc_ohc=_pPq-PF26AIAX-d4CMZ&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AT8U2_j9JUihqkk-XQm3HJpAjq2QTApBe99sSFrQEJdkhw&oe=623BFB7C
C575の内部犯行、この画像で一部だけ読めます。
ただそれは梅小路引退前の後藤入場のときの話で、
浜田へ行ってからのではないみたいですね。
浜田のときは盗難(外部犯行)だと聞きましたけど、そうなんでしょうか。 >>153
鉄ちゃんはニックネーム付けるのが好きだね 播但線4回行ったがもっと行っとけば良かったかな、日帰りできるエリアにC57がいたのは後で考えたら貴重だったな。周りの友人は何故か関西本線の加太超えの方が気に入っていたようだが >>162
生野越えは多くは前にDD54が付いていたけど、ちゃんと撮っておけばよかったな。姫路口のC11の通勤通学列車も多かった。 岩見沢一区に最後まで残った5両のうち何と4両が
今日まで静態保存されているのですね DD54は色々トラブルが多く救援にC57が駆けつける路線もあったという。持ちつ持たれつの関係か。 「国鉄時代」「わが国鉄時代」の写真の日付けを見て「あっ」と思うことがある。それは俺もその日その場所にいたからだ。だから同じ機関車を見ているし撮影者にも会ってるかも知れない。播但線にもそんな写真があった 小生は宮崎が最後でした。その後「ばんえつ物語」で再開を果たさせてもらいましたが。 貴婦人の異名は後世にとられたもので全盛期にそのように呼ぶファンは居なかったと知り意外でした 一番多く見たのは多分C57、山陰本線、播但線、参宮線、日豊本線で見た。覚えているのは5 23 34 65 93 113 154 187 189 190かな。187は何か違和感を覚えたが後に調べたらC59の動輪が使われていたとの事 先日放送されたNHK BSプレミアムの「甦る山口線C57(1979年)」とかいう番組を録画したのを観たが、「目立たないようにシートに包んで神戸の鷹取工場へ運んだ」と言っていたが、やはり数年前の人身事故の影響かな? 昭和51年の人身事故はこれが最後などとマスコミの過剰報道とそれに感化された人々の群衆心理によるものだと思う。見に行きたかったがただでは済まない気がしてやめたよ 平成生まれの人にはSLに対する郷愁とか持ち得ないと思うが
若い層にもSLファンはいるね ファンになるきっかけは人それぞれ
世代で分けられるものではないね >>179
おじいちゃんでも坂道系アイドルに入れ込んでる人いるよね