国鉄時代の貨物列車を語る
国鉄でなくても国鉄機関車や国鉄貨車の乗り入れや私鉄の機関車や貨車の乗り入れの話題も可能‼
地域間急行とかあったよな。 久留里線の貨物
偶数日のみ1往復運行
DE10+ワフ1両のことが多かった 東武に姿を現したLPガス用のタサ、上信に姿を現したコキはホント巨大に見えた! 茶色いダブルルーフの配給車、ピカピカになって回送される私鉄のECやDC、
だいたい最後尾の車掌車の手前が定位置で、無機質な貨物列車に色を添えていた。
それと、編成の中に社紋が入った様々な私鉄貨車を探すのも楽しみだったな。 今は廃線になったローカル線の小駅の側線にも有蓋貨車のワムや無蓋貨車トラなどが留置されていた。 >>3
小海線の岩村田で見たワキ5000も妙に違和感があった
普段はDD16が二軸貨車を数両牽いて走るだけなのにw 無数の貨車の管理(特定の車番の車はどこに行ってる)ってどうしていたんだろう
操車場などでほしい種類の貨車が何両あるなんてことは行き当たりばったりだったのかなあ
今となってはだけれど、貨車の運用って興味がわくなあ
かつては、貨車は趣味的にはかなりマイナーだったからなあ
ロートル鉄ちゃんの子供の頃、機関車に引かれた雑多な貨車の数を数えるのはみんなやったもんああ 滋賀に貨物鉄道博物館ってあるんだな。行ったことある人いる? 機関車がワフ一両のみ牽引のローカル線貨物列車も懐かしい。 >>9
日本は欧米みたいに貨車が潤沢に無かったから、
少ない手持ち車両で全国やりくりする高度な配車システムが発達していた。
最近出た鉄道ピクトリアルアーカイブの貨物輸送1950〜60に詳しく書いてあるよ。
動画だったら
「昭和16年 貨物列車記録映像」
http://www.youtube.com/watch?v=6f4X9X6YCMM
http://www.youtube.com/watch?v=G2yEJWqNN8M
が参考になる。 京王線の電車内で起きた事件のスクープ映像
こちらがその瞬間です
http://www.youtube.com/watch?v=7QyHmAe2c-0
男性のお客様に対して接客精神に欠けた無礼な車掌と
下品な女の暴言をご覧ください 基本積みで駅に到着して荷下ろし後は最寄りの操車場に戻すのが基本だった
しかし、※操車場容量がいっぱいの場合はそのまま留置する事もあった。
※操車場に限らず小ヤードのある駅にも留置 期間は数ヶ月に及ぶ事もあり
全検まで留置
一休留置
色々なケースがあったけどね。 >>14
>>16
9です
まじでありがとう 感謝です
資料手に入れてみます
鮎川哲也の鉄道物のアンソロジーだったかな(なんという小説だったかは失念)
操車場の助役が特定の番号の有蓋車が戻ってきた云々のシチュエーションが
あったので気になっていた 駅の隅っこに留置してあったトラの荷台に乗って遊んだ記憶 >>19
超ローカル線では切り離されたワムをキハ20が牽いてたり >>20
今は廃線になった鹿児島県の宮之城線や山野線でキハ52がワムを牽引していた。 >>20-21
>>19が言っているのは貨物列車の種別名のことだぞ。 >>23
まあ「大小操車場で貨車を、1両単位で組成を繰り返しては各駅に送り届ける」というシステムが
崩壊してからもう30年近くなるんだから、しょうがないっちゃしょうがない。
しかし解結貨物、のんびり走っていたな。
列車番号から最高速度65km/hだったが、西浜松から稲沢操車場まで7〜8時間掛かってたんじゃないか。
浜松のEF60が牽いていた。 横からで申し訳ないが、貨物列車の種別名称は結構多いが、全部挙げるとどんなものがあるんだ?
教えて君で申し訳のない限りだが。 子供の頃、線路脇でやってくる貨物列車の両数をよく数えてました。
もちろんコンテナ列車ではありません。 武蔵野線沿線住まい。
開業後しばらくは貨物列車の方が機関車含めてバラエティ豊かだったね。
ワキ1000やトキ15000も辛うじて残ってたが、一度だけ最後尾に一般色キハがぶら下がってたのは未だに記憶に鮮やか。 おっさん超えた爺さんくらいまで行くと
各駅に貨物・荷物用ホームなんかあって
駅構内も引込み線が多くてワムやタキなんか数両あったりして
取り扱い多いとそこそこ配線も多いから広いイメージだな >>29
例えば昔は吉祥寺や荻窪でも貨物取り扱いしていたけど、タンク車はないな。
ワム・ワラ・トラ辺りがメイン。 貨物列車もやはり、旅客列車みたいにダイヤに沿って正確に運転されていたのかな? >>34
っつたりめえだよ。
その代わり、操車が遅れると貨物も翌日扱いになる。 >>35
なるほど、翌日の列車に繰り越されるんだ。
レスサンクス! 今でも雪に閉じ込められたりして、24時間手配とかあるが、翌日の同じダイヤで継走する。
と…操車場が溢れる。
翌日ダイヤ通り来ても編成が超過してるから、また溜まる。
慢性的に遅れるから単発で走れるトラック便に荷主を取られる。 今だと24時間延で来た後続行で今日の列車がきたりするから貨物列車はいつくるか分からないのは
線路工事の常識だそうです。 やはり、1分でも到着が遅れると大問題になるのかな? >>38
旅客会社の線路を借りているだけに、抑止がかかるといつ線路を開けてもらえるかわからないそうです。乗務員もたいへん。 貨物列車の列車掛とか気楽そうでいいな
俺も国鉄時代に生まれてそういう仕事したかった 本当に国鉄の列車掛の仕事は本当に楽なの?
外仕事だからのんきにやっていたら事故を起こすからな?
俺も某社で長年フォークマンやっているけれど 作業中に人身物損事故の原因になるようだったら
社長だろうと専務だろうとでかい声で怒鳴るけど・・・・ 列車掛は車掌より職群が上だったからな。
解結がなければ楽だったろうな。
国鉄末期に貨物列車削減で車掌に転換した列車掛が結構いたが、垢抜けずうす汚い連中が多かったな。 >>42
夜通し板バネの2軸車に乗せられるんだ。解結駅ごとに、雨の日も雪の日も昼夜を問わずバラス上を走って貨車組成するんだ。
いったん出区したらマル夜や宿でいつ家に帰られるか判らないんだ。
それでもいいのか? >>46
現場の人じゃないから分からないんだけど、
勤務時間とかから「楽」を選択するなら、
「あじさい」とかのフードサービス店の方が楽かもね?WW >>45
好きなら苦にならないわ。
コキフ10000やレムフ10000なら空気ばね仕様で乗り心地よさそう。 ちょっと話が外れるけど、最近京都の嵐山のトロッコ列車に乗ったときを思い出した。
あれって確か種車がトキだったと聞いたけど、乗り心地はかなりハードだった。
あの板バネサスはもうガッチガチでレールのジョイントを通過するたびに全身に響いてきた感じだったかな。
でも、好きだったから俺は全然気にならなかったよw 阪和・紀勢線の貨物列車
阪和線内の和歌山操・長滝・東岸和田発などの貨物列車は、月日によって編成が長かったり、
短かかったりで、主にED60が牽引していた。そして、積み荷はみかん、米、泉州たまねぎなどが
多かったようだ。
下津発などの紀勢本線からの貨物列車はタンク車ばかりや、タンク車を連結した列車が多く見られ、
牽引機は主にEF15、またはEF15とEF58の重連牽引も見られた。 >>50
雄の山越えを電車に追われるからね。阪和線内は全体に速度が速いし。
58が貨物引くのも珍しかったです。 阪和・紀勢線の貨物列車は晩年は多くがコンテナ列車化され、
牽引機も沼津や高崎区などから竜華機関区に転入したEF60と竜華区に3両のみ残った
EF15となり、昭和61年11月1日改正で全廃された。 >>50
そう言えば、雑誌でシールドビームのゴハチ重連が貨物を牽引する写真を見てかつて驚いたことがある 竜華機関区から東岸和田までのED60の単機回送もあったな。 >>54
クイル駆動の保守が面倒なのと粘着力(当然EF15のほうが上)が理由じゃないか(適当) >55
阪和線内の踏切事故で、床下機器を全部損傷して走行不能になった381系が
EF15に牽引されて鳳か日根野まで回送されたこともあった。 新宮電化でもED60.61は和歌山(操)までの運用でした。 デッキ付きEF15、構内係にはEDより好まれていたよ。 >>60
1960年代初頭って電気機関士も菜っ葉服だったっけ?
東京機関区は背広型だったけど。 山陰本線の貨物列車は倉吉などの規模の大きい駅では停車して、後続の特急や快速、
普通列車を先行させるものもあった。そして、ときおり鳥取・米子への送り込み回送や
後藤車両所入出場のキハ58やキハ47などが連結された貨物列車もあった。 >>62
一番新しい記憶は26年前だなぁ…、高槻あたりで並走バトルした団臨の機関士がナッパ服だったなぁ。
この時のEF58-150がまさか後年生き残るとは想像していなかったぜ。 国鉄の列車掛や貨物関係で働いていた人について記載された本が無いけれど
仕事内容的には激務ではなくて結構気楽だっだったの?
貨車の解結作業は小学校低学年で出来るくらい簡単で体力も必要ないお仕事なんですか教えて下さい
お願いします。
俺は自動車の製造のお仕事に従事しているけれど 本当に列車掛を含めた国鉄職員は仕事が楽そうでいいです。
自動車のラインは仕事がきつくてたまりません。 >>65
FAQでしょ?
どっかのスレで読んだような気が。
夏暑く、冬寒い。
二軸車の乗り心地がよいはずもなく
列車の起動時などには椅子から転げ落ちるような衝撃があったとか。
事実かどうかは知りませんけど… 雨の日の夜の突放は命懸け。
仲間でステップから滑って転落して右腕を付け根から失った奴がいた。
連結手(操車掛と言ったかな)の世界は上下関係が厳しく新米は飯作りに明け暮れる。 >>65
探せばあるぞ
かの坂本衛さんも列車掛経験者だから、当時のことを著作にきちんと書いてるし >>67
殉職した職員の婦人たちで始めたのがキオスクだっけ? 夜に列車で操車場の横を抜けると、
操車掛の方々が作業しているんだけど、
スリリング過ぎる
何より暗過ぎると思った 操車場、機関区・支区のある所に鉄道診療所がおかれていたのは、職員の受傷事故対策。家族の風邪引き、旅客の乗り物酔いも診てたけどな。
キオスク・鉄道弘済会はそのとおり、業務障害者・殉職者の家族への福祉事業が始まり。
こんな施設まであるぞ。
http://www.kousaikai.or.jp/support/ 列車掛の仕事は上下関係厳しいと言ったけど 和食の世界と同じで新人は先輩の言う事を聞かずに
仕事中にふざけていると 先輩にビンタされたり怒鳴られたりするのですか?
それに操車場の連結手の仕事は危険を伴う仕事だから漁師や料理人と同じで気性が荒いのですか教えて下さい
俺も調理関係で働いていた時は良く先輩に仕事上で怒鳴られたり ひっぱたかれたりして良く
泣いたもんだった。その厳しさに耐えて今日の自分の立場があるけど
今じゃパワーハラスメントで訴えられるけど 国鉄の新人もそうだったの不祥事が多い国鉄では考えられないけど・・・? >>71
国鉄職員は至れり尽くせりだったんだな
そんな時代に生まれたかったわ >>74
主要駅や大型官舎には物資部があって生活必需品が安価に揃うんだ。散髪屋もあった。
生鮮食品は出入りの八百屋が持ち込みで出店を開くよ。
旧国鉄は「自己完結」という軍隊と同じシステム。
でもね、「◯◯鉄道病院に入院すると帰ってこない」なんて言われてた。 >>74いまのゆとり世代は、かつては企業の福利厚生が充実していたのを知らないんだな >>74
国鉄に限らず、親方日の丸の仕事は、昔も今も至れり尽くせりの所が多いだろ。 >>77 民主党になって全部無くしちまっただろうが。いつの時代に生きてんだ、お前は? 公務員共済組合はいまだに残っているよ。
健保+年金+福祉etc. 公費補填で丸抱え。 南海電鉄の貨物列車には天下茶屋から天王寺線経由で国鉄に直通する列車もあった。
そして貨車も南海が所有していたのではなく、国鉄貨車が南海に直通していたようだ。 武蔵野操車場作ってもすぐ廃棄
コンピューター配車なんてすごく先進的やったのに・・・ 竜華操車場は廃止後、広大な更地になっていたが、現在は再開発で
宅地化されて住宅、マンション、道路などが建設されたり、八尾市の市立病院などが移転し、
かつての操車場があったころの面影はまったくない。 国鉄大宮操車場の動画見たけれど操車場の列車掛のお仕事ってなんだか楽そう
今 俺が働いているのはトヨタの自動車の組み立てラインですけれど仕事がハードおまけに夜勤もある
給料は高いけれど時間が異常に長く感じるし 夏は暑くて熱中症寸前
もう10年早く生まれていたら貨車が好きだから 国鉄に就職して操車場の列車掛の仕事を希望するけど?
又自動車関係の仕事より動画を見る限り10倍 楽と思うけれど・・・?
国鉄・民鉄の操車場の列車掛の仕事自体の内容については情報がないから結構気楽で趣味と兼ね合いで仕事ができるかも
それに貨車に飛び乗って足でブレーキをかけたり DL・貨車のデッキに登って旗を振ったりなんだか小学生でもできる簡単で楽しい仕事みたい
見た感じ体力や気力を必要とせず 人間関係が気楽そう 貨車マニアの俺には持ってこいの仕事かも えっ、マジ本当?チェカーズの藤井フミヤが国鉄の列車掛をやっていたの・・・信じられ無い >>84
マルチ承知でレスするならば、まず職場には屋根ありき。 >>87
マジだ。鳥栖駅勤務だったと聞いたことがある。 >>92
返送なのにレムフの向きが正向き。レアですな。 昭和40年代の貨物時刻表に斗賀野―多ノ郷の石灰石列車が載っていないのですが何故なんでしょうか。
ヤード経由しないし荷主も単独の短距離輸送なので、掲載しなくても不都合はなさそうですが、
掲載されない列車に明確な基準があったのかとか、他にも同じようなケースはたくさんあったのかとかが気になります。 >>87
俳優の田中要二も国鉄長野管理局の保線区に居たんだぜ。
若手俳優で元JR貨物の機関士も居る。
なんで芸能界なんかに転職したんかねぇ。勿体ない・・・ 鉄ヲタでなけりゃそんなに仕事に執着する必要が無いしな
世間一般の企業と同じように国鉄にも
中途入社、退社はそれなりの数がいた 退社はけっこういたけど中途入社はほとんど見なかったけど…
そもそも中途採用は公にはなかったと思ったが。
中途で入ってきたのは助役や駅長の息子で最初は臨雇で潜り込んできたよ。 1966年 発着トン数ベストテン
苫小牧
浜川崎
苅田港
宇部港
室蘭
氷川
梅田
美祢
汐留
黒崎