>>382続き

お父さんはもっと狡猾な遊び人と思っていた。
新地あたりでダンディにブランデー傾けてるおっさんやと思ってた、けど違った。
めちゃくちゃ、真面目な人だった。
遊びのない夫婦だった。
古くさい人だった。昭和の人たちだった。
全力で教育のことだけ考えて生きてきた人だった。
その純粋さやまっすぐさが、ゆえ、
過去の差別発言や右翼思想など、
あかんことにもつながったと思うし、全く許せないし、
幼児教育に関わってはならんと思うけど、

とにかく、すごく正直な人だった。裏表ない人、そこに驚いた。
果たしてこんな人が、一人で計画して、国有地の値段交渉をできるか?
と言うとかなり疑問なのだ、その件はまた後で触れる。

一方、お母さんは、なんだろう。
性格としたら、本当に大阪のおばちゃんを煮しめたような人で、
おせっかいだし、せわしないし、よく笑う、感情むき出しな人、
自分の事情聴取の日なのにおれのパンツまで勝手に洗濯してくれたり、
掃除機かけながらノートパソコン踏んだり、
大声と、ささやき声しか、声の種類がなかったり、笑
かなり漫画のような人だが、かわいくもあり。
人間味に溢れた愛すべき部分のある人。

まあ、かつて国粋主義者と結びついていた頃の話を聞くと、
きっと増長していたと思う。保育園の保護者からのクレームとか、最低だし。
差別発言も看過できない。

でも今は、社会的に制裁された、お金も、プライバシーも人権もすべて奪われつつある。
だから、お母さんなりに反省した姿が、僕の目の前にはあった。
生まれて60年信じてきたものが、共依存してきたものが崩壊した。
というか、バレそうになった途端、自分たちを切り捨てた。
その衝撃の中で揺れているお母さんを見つめた。

今、自分たちをギリギリ守ってくれているのは何か、
国体でも教育勅語でもなく、
日本国憲法と民主主義なのだ。
それに気づき始めている、変わり始めている。
「やっぱり民衆の声を聞かん政治はあかんで」とか、
急に、民主主義覚えたての中学生のような素朴なことを言いだしたり。

その一方、日常で無自覚にうっかり差別発言をして、
そこを菅野さんや圭希さんや、マスコミにまで怒られたり、謝ったり。

なんせ生まれて60年、おじいちゃんの代から生長の家(日本会議のルーツ)なのだ。
人生の根幹にまで染み付いた思考のクセは、急に抜けるはずもない。
だけどお母さんは口走る。
「今まではずっと、谷口先生(生長の家)の言うことさえ聞いてればよかった、
でももう違うんやな。人間は何歳からでも変われるんやで太郎くん」
お母さんはいつも自分に言い聞かせるように言う。

そこに僕はささやかな希望を感じる。
もがいている、揺れている姿に、生身の人間を感じる。